スキーのあとは温泉などいかがですか

 
 
 
 

スキーを楽しんだ後は温泉に浸かってビールを一杯。
バブルがはじけようが槍が降ろうがスキーヤーはこの楽しみのためになけなしの金をはたいて雪山に通いつめるのです。

スキー、温泉、ビール。この要素のうち一つでも欠けると、里へ帰ってきてからもなんかもの足りない気になって仕方がないものです。

そんな多くのスキーヤーのための耳寄りな情報。
スキー場に行ってもスキーをする暇も惜しんでかき集めた温泉の情報を公開します。
府中市スキー連盟の会員が検定や講習会の合間を見つけて自らの手で体験し、評価をしました。
皆さんも実際に行ってみて確かめてみてください。
 
 

  

1.菅平、峰の原エリア
 
 

1)大明神の湯
2)あずまや温泉
3)渋沢温泉
4)角間温泉
5)真田温泉
6)千古温泉
7)東部温泉湯楽里館
8)仙仁温泉
2.白馬エリア [地図]
1)白馬八方温泉
2)白馬塩の道温泉
3)岳の湯
4)ぽかぽかランド美麻
5)ゆーぷる木崎湖
6)大町温泉(薬師の湯)
7)葛温泉
8)(今は亡き)蒲原温泉
3.白樺湖、車山エリア
1)片倉館


菅平、峰の原エリア

 
 
指導者を目指す人、競技会で腕を磨こうと考えている人。
スキーの奥深さに捉えられてしまった人はかならず一度は菅平でスキーをすることになる。
そのため、ここへ来る人はたいがいスキーだけに夢中になってしまい、なかなかそれ以外のことに目が向かない。

しかし、何もスキーだけが人生ではない。
たまには温泉に入って荷重やら外向傾やら難しいことを忘れることも大切である。
そんなことを言って温泉巡りばかりしていたせいか、いまだにぼくは指導者予備軍である。
 
 

1)大明神の湯
  おい。これって本当に温泉なのかよ。ただのホテルの大浴場じゃないか。湯に浸かりながら叫びのようなものが頭の中をよぎった。
一方の側を大きなガラス窓にしてたっぷりと陽光を取り入れるような造りになっているところは露天風呂の雰囲気でも意識したのだろうか。浴室の空間はやけに広々としていてどこやら薄ら寒いような気もする。
客がほとんどいないせいかもしれない。温泉に漂う人間臭さや風情といったものがまったく感じられない。何か違和感のようなものが湯気の間を見え隠れしながら立ち上っている。

  何の変哲もないホテルの大浴場だと信じ込んでしまえば何ということもないのかもしれない。しかし泊まっている宿の風呂にも入らず、わざわざ車に乗ってやってきたのだ。もう少し温泉らしいところを見せてくれ。そんな愚痴が胸の奥でざわめき出す。

  硝子窓越しにみえるのもたいした景色ではない。ホテルの裏に広がる敷地がうっすらと雪をかぶってふてくされたように横たわっているだけである。こんな風景はここ菅平ならどこの道端にもどんな宿屋の裏庭にもごく当たり前に転がっている。そのためにわざわざ大きなガラス窓を取り付けるほどの値打ちがあるとはとても思えない。

  何か気分が沈んできて、湯船に入っていると身体まで沈んでしまいそうである。あわてて湯の中から這い上がって洗い場に向かった。

  さて、体でも洗おうかとおもってお湯と水の蛇口の上にある石鹸水というレバーを押した。出ない。..冗談かとおもってもう一度押してみた。やはり出ない。..軽く舌打ちをしながら隣の蛇口のところに席を移した。今度は大丈夫だろうとおもってそこについているレバーを押した。出ない。..その隣も、そのまたとなりもやはり出ない。..大きなハンマーで思い切り頭をたたかれたような衝撃が体の中を走った。すべての力がいっぺんに身体から逃げていった。

  おい、石鹸があるというから持ってこなかったんだぞ。胸の中から苦渋に歪んだ叫び声がする。...

  こうして菅平高原観光ホテルの大浴場は、ぼくから100円玉4個を奪い取って逃げていった。宿に帰ってから風呂に入り直し、あらためて体を洗ったのは言うまでもない。
 
 
 

2)あずまや温泉
  ホテルの玄関に入ろうとしたときにいきなり野鳥の声が聞こえてきたのには驚かされた。
不思議に思ってあたりをよく観察してみると玄関の手前にセンサーが設けてあって、そこを人が通ると傍らにある小鳥が止った樹木の模型から、いかにもその小鳥が鳴いているといったようなさえずりが聞こえてくるしくみになっている。
自然に野鳥が鳴いているような高原でわざわざこんなことをしなくてもいいのにと思うと同時に、ひょっとしてこれはホテル側が客を驚かせてやれと仕組んだちょっとした洒落のなのではないかと勘ぐってしまう。

  菅平から車でおよそ15分ほど山腹を縫うような小道を右に左に身体を揺られながら走ってやっと辿り着いたところは四阿山の山腹に突然開けた閑散として人気のない別荘地だった。
別荘地の一番奥まったところに一軒の高級リゾートホテルが鎮座している。これが四阿高原ホテルだ。こんなところに温泉が、と疑いたくなるようないかにもリゾート然とした近代的な新しい建築である。
町中にあったら近代美術館といわれてもそのまま信じてしまいそうな威容だ。

  玄関で驚かされて館内に入ったのはいいが、僕たちの知っているリゾートホテルとはいささか勝手が違う。
フロントで入浴料を払おうとすると、フロントマンが帝国ホテルや万平ホテルにも負けないような慇懃丁寧な態度で僕らを迎えてくれた。
真新しいタオルまでどうぞ持っていってくださいと渡してくれる。
おいおい。おれたちはただの日帰りの入浴客なんだぜ。
そう念をおしたくなるほどの丁寧なサービスにこそばゆい気持ちもするが、気分の悪いわけがない。

  さらに、こちらがお風呂でございます、そういってフロントマンが指さす方向を見ると玄関から地下へ続くエレベーターの前までの床にずっと赤い絨毯が敷き詰めてある。
ひゃあ。こりゃおったまげた。ごくごく平凡な庶民の心が驚きの声をあげる。

  温泉はゆったりとしてとても気持ちのいい風呂だった。中でも露天風呂からの眺めが気に入った。
その日は天気がよかったせいもあるが、遠く望むことのできる浅間山や湯の丸山は霞のように浮かんでまさに絵の様な風景だった。
あたりには一面雪が積もっていたが、それが高原の静けさとあいまっていつのまにか気持ちが安らいでくるような落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
こういうところだったら長く逗留してみてもいいなあ。思わずそんな感慨が湯の温もりを通じて身体に染み渡ってきた
 
 
 

備考 かみそり、櫛はおろかタオルさえも持っていく必要はありません。すべて無料で使用できます。 注意 12/1から3/31までは鳥居峠に抜ける裏道が一方通行になるため帰りは鳥居峠へ向かい、峠の近くで国道に出て少し下った後菅平口から菅平へ向かって登り返す必要があります。(行程およそ30分)   3)渋沢温泉
  べつに最初は温泉のはしごなどするつもりはなかった。
ただ四阿温泉からの帰り道、国道を菅平口へ下っていたところ、左側に渋沢温泉と大書した大きな木の看板が出ていたのが気になっただけである。
いったんは通り過ぎてみたが、看板の字が頭の中からこびりついてはなれない。
温泉中毒の宿命か、とうとうUターンをして看板のところまで戻り、脇に蹲っている小さな木造の建物のたもとに車を止めてしまった。

  建物に入ってまず襲ってきたのは何ともいえない場違いな気持ちだった。
地元の人たちが山仕事の疲れを癒すために建てられたという感じがしつこいほどにぷんぷんと匂ってくる。
待合の小部屋で煙草を吹かせながら笑いさざめいているのは年の頃60くらいの真っ黒に日焼けしたしわだらけの顔の田舎のおっさんたちである。上半身は筋肉が盛り上がり、肉体労働のたくましさを誇示している。
都会から遊びに来ただけのスキーヤーがこんなところにいていいのだろうかと、少し居たたまれない気分になる。そんな気持ちから逃げ出すため、そうそうに脱衣所へ向かった。

  小さな浴槽が一つだけの浴室は湯に含まれる鉄分のせいか、いたるところに赤い染みがついていて、どこか陰惨な気分がする。その壁際に小さな浴槽が一つへばりついている。
規模といい、感じといいこれだったら宿の風呂の方がまだ広いくらいの代物である。
湯に入ると固くぴりっとした感触が体中の皮膚を襲ってきた。長く入っていると身体が固まって動かなくなりそうな気がする。

  これはまずい、長居は無用とばかりに風呂から飛び出ると、そうそうに服を着て退散した。
 
 

データ 備考 タオルからなにからすべて持参すること。  
4)角間温泉
  菅平有料道路の途中に目に付かないほどの小さな道標がある。
角間温泉と書いてあるその道標のことは以前から気になっていた。
そこを曲がって農道のような細い道をずっと登っていくと何かとてつもなくいいものがあるような気がしたのだ。

  あるとき、ふとそのことを思い出して温泉ガイドをめくってみた。
角間温泉、一件宿、外来入浴可、あたりの渓谷は紅葉の名所として有名、とある。
早速、電話番号を見つけてかけてみた。

  外来入浴ですが何時から何時まで入れますか。
  気のない声がぶっきらぼうに答えた。
  昼の12時から3時までだよ。

これで十分だった。
ここははじめから外来の客など相手にしていないのだ。少なくともスキーをするような客は。.....
 
 

データ  
5)真田温泉
  試験に落ちたときの帰り道には丸薬をかみつぶしたときのようなほろ苦さがある。
そんな苦みを胸の中で噛み締めながら菅平から下る道を急ぐ。
今回はそういった気持ちを抱えた仲間がたくさんいた。

  準指検定の最終日、仲間が一人も受かっていないことを確認すると、もうここには何の用事もないとばかりにとるものも取り敢えず菅平を出た。
とにかくどこか温泉につかって一刻も早く胸の中のほろ苦いものを洗い落としてしまいたい。
そう思ってを真田町の真ん中にあるという温泉ランドに向かったのだ。

  町役場の裏手にかねて聞いていたとおりの巨大な和風屋根の建物があった。
玄関を入って右側に風呂、左手に温泉プールがあるという。
プールもいいが今はそんな気分ではない。何しろ胸の奥にとげのように刺さった苦い思いを流すためにここに来たのだ。

  身体を温泉のお湯で流してきれいにはしてみたが、どうもまだ苦いものがしこりのようになってからだの奥底に残っている。ふと露天風呂にでも入って空を眺めたら、少しはしこりも消えるかと考えた。

  露天風呂の湯加減はかなりぬるめだった。しかし温泉だから体の芯からあたたまってくる。少々ぬるくても冷えるようなことはない。
そんなことをぼおっと感じながらに湯につかっていると仲間たちが一人二人と集まってくる。
そのうちだれがいうともなしに話題は検定のことに集中する。来年はどうする?今回はこれがだめだったな。などなど、気がつくと随分長湯をしている。

  周りを見るとわれわれのほかは中年の男性がふたり露天風呂にいるだけだ。
二人とも顔だけは小麦色に焼けているが首から下は不健康なほどに白い。
明らかにスキーヤーである。
年格好と顔の焼け具合から推測すると、どうやら検定受験の帰りのようだ。しかもこんな早い時間にここにいるということは、われわれと同じような結末だったに違いない。

  敗残者たちの癒しの湯。ふとそんな言葉が浮かんでくる。
みんなここで胸の中にへばりついた苦みの固まりを洗い流そうとしているのだ。
そんなことを思うと急に温泉のぬるさが身に染みてきた。
 
 

データ 備考 タオル以外のものは備えてあります。
 6)千古温泉
「温泉の正しい入りかたを知っている?」

湯船の縁に腰掛けながらS氏が話し掛けてきた。

「温泉から上がったら体を拭いてはいけないんだ。そのまま自然に体が乾くのを待つ。すると温泉の成分が落ちないので効果が持続する。」

  確かにここの湯はいかにも温泉らしいまろやかな肌触りだ。入っていると身体の奥の方からぽかぽかと暖まってくるような気がする。
湯上がりで体を拭いて、この気持ちよさも一緒に拭き取ってしまうのはいかにももったいない。
考えるまでもなくS氏のアドバイスに従うことにした。もしかしたら心の奥底でそうしたいと思っていたのが、以心伝心で彼に伝わったのかもしれない。

  湯から上がると湯船の淵に腰を下ろして、体が乾いてくるのを待つ。
タオルを使わなくてもいいくらいに乾いてきたところで、脱衣場に出て服を着る。
そうして待ち合いの長椅子に身体を落とす。

  背もたれに体を預けて目を閉じると、からだのかなり深いところからじわじわと温泉の温もりが広がってくる。春の暖かさのようなふわふわとした幸福感が体を包んで、空中に浮かびあがらせくれるような気持ちだ。
なんて幸せないい気分だろう。
このままじっと休んでいたい。そんなことを思いながらまどろんでいく自分を感じた。

  谷間の川辺にたたずむ民家のような目立たない建物を背に、帰途についたのはそれからずいぶん時間がたってからだった。
車のシートに体を倒しても、まだ体の中から温もりが少しづつ滲み出ているような気がしていた。
 
 

データ 備考
  もちろんタオル等の道具はすべて持参する必要があります。 注意 アプローチが急坂になっているため、雪が降った直後など帰りに車がなかなか登れなくなることがあります。
 
7)東部温泉湯楽里館
  思わず見とれてしまうような夜景だった。
右手の奥まったところには上田から塩田平あたりとおもわれる光が砂利を敷き詰めたように広がり、ほぼ正面には光の粒が二本の数珠のようにつながって奥の方へと延びている。
これは依田川、鹿曲川によって火山灰台地に刻まれた谷と谷間の低地に点在する丸子、御牧あたりの明かりだろうか。
その手前には右から左へと国道沿いの家々と見られる明かりが細く長く横たわっている。
奥の方のひときわ高いところにはぽつんとおき去られたビーズのように小さな光の点が瞬いている。
この瞬きは蓼科山の中腹にある牧場かもしれない。

  いくら見ても飽きが来ない。
それどころかこのままずっとここにいて光のオブジェを眺めていたい。そんなささやかな望みを胸にぼくは露天風呂につかっていた。

  冬の日の入りは早い。
菅平から下ってきてちょうど東部のあたりにさしかかる午後5時ごろには黄昏の淡い光がすべてのものを覆い尽くしている。
そんな黄昏の色が蜜柑色から紫に変わり、やがて黒い夜の色に飲み込まれてしまうまでのあいだ、その変化に合わせるように光のオブジェは徐々に姿を現してくる。
そしてそれがもっとも輝くのが黄昏の色が消え失せるまさにその時なのだ。
たまたまその時間に湯楽里館の露天風呂に居合わせることのできる幸せをぼくはじっくりと噛み締めていた。

  気がつくとずいぶん長い時間体も洗わずに露天風呂につかっている。
なんとなく身体がふやけて柔らかくなったような気がしてあわてて洗い場に向かった。

  湯楽里館の建物を出たときには、すでに夜の7時をまわろうとしていた。
ふと、地ビールという看板が目にはいったのでちょっと覗いてみると、まるで缶詰のような缶に「O-LA-HO」と印刷された地ビールがきれいに列をなして並んでいる。

車の運転さえしていなければなあ。と残念なに思いながら一つ手に取ってみた。
とても缶ビールとは思えないようなずっしりとした手触りである。
缶に印刷されたシルクの色はどこか黄昏の色を思わせるような蜜柑色だ。

ふと先ほどの光景を思い出してその場を立ち去りがたくなった。
 
 
 

データ 備考 タオル以外のものは備えてあります。
8)仙仁温泉
  菅平から大笹街道を須坂の方に下っていって坂が尽きたあたりを通るたびに、気になって仕方がない場所があった。
生け垣に囲まれた広い敷地。
その奥に高級料亭のような雰囲気をもった大きな和風の建物がある。
暗くなってから通ると生け垣を通して白い蛍光燈の光がぼおっと漏れ出しているだけでわかりにくいが、それがかえって妙に気を引いた。

  あるときよく気をつけて見てみると「岩の湯」と書いた木の看板が出ている。
ああ、これが洞窟風呂として有名な仙仁温泉か。
一度入りたいとは思っていたが、こんなところにあるとは。

  早速、家に帰ってから温泉ガイドをひも解くと宿泊客以外は入れないとある。
残念だがぼくのようなスキーヤーとは縁のないところのようだ。
そう思ってこの温泉のことは忘れることにした。

  後日、知り合いが仙仁温泉に行ったというのでどんな様子だったか尋ねてみた。
いわく、宿、食事、温泉とどれをとっても非のうちどころがない。
特に宿の雰囲気が忘れられない。
何度でも行きたいが..という感想である。

  これを聞いてまた仙仁温泉に行ってみたいという気持ちがぶりかえしてきた。
 
 

 データ

 



 

白馬エリア


 
 
 
  ここ数年の白馬周辺の変わりようには目を見はるものがある。
バブルとスキーブームとの相乗効果、オリンピックによる建築ラッシュなどいろいろな要因があるのだろうが、そんな中でそれまで小谷か木崎湖までいかなければなかった温泉がここのところ10年ほどで雨後の竹の子のように出現したのは私たち温泉ファンにとってはうれしいニュースだった。

  このあたりの温泉にはよく行くところもあれば、まだ行ったことがないところもある。取り敢えず今回はよく行くところだけをピックアップしたが、また新しい発見があればどんどん書き足していきたいとおもっている。従ってこの温泉案内はまだ未完成である。

  なお、これは5月から11月にかけて白馬方面に行ったときの体験に基づくものなので、冬の間これらの温泉がどうなっているかについては皆さん自身で行ってみて体験してきてほしい。
 
 


1) 白馬八方温泉
 

   始めて八方に天然の温泉が引かれたと聞いたのは今から12、3年ほど前のことになる。
是非行ってみたいとおもって懇意にしている地元の民宿で場所を聞いたところ八方バス停のまん前にあるという。温泉の七つ道具は持ってきていなかったが、行けばどうにかなるとおもってそのままいわれた場所に向かった。そこで木の香も新しい浴槽に満々と湛えてられているお湯をみたときは、やっと八方にも温泉がきたかと感慨もひとしおだった。ああ、いい湯だ。いい湯だ。思わず口に出てしまいそうな浸かり心地であった。

   ここ、第一郷の湯は八方バス停から道路を隔てた向かい側の駐車場の奥に建つ思わず木の香が漂ってきそうな瀟洒な木造の建物である。木の板に白馬八方温泉とおおきく字を彫り込んだ看板が入口の脇に掛かっている。
入口を入るとすぐ真っ正面に受付があってその左側に男湯、右側に女湯と書いたのれんがある。
温泉というよりは銭湯を思わせるような庶民的なたたずまいである。

作りは待ち合いの部屋が一つ増えたくらいで、建てられた当初からほとんど変わっていない。
のれんをくぐって男湯へ入っていくと、八畳ほどの広さの脱衣場の先にすりガラスの戸をへだてて風呂がある。10人も入れば一杯になってしまうようなそれほど大きくない作りの湯槽。以前は開け放たれた窓から稲の緑も鮮やかな田んぼが遠く国道の方まで広がっているのが望まれた。田舎の銭湯。ここの印象を一言で言い表すとそんな言葉になるかもしれない。派手なところが何もなく小じんまりとして好感の持てる温泉である。

  おびなたの湯と呼ばれている露天風呂も風情のあるいい温泉である。二股の松川にかかる橋のたもとにある、板で簡単に囲っただけの温泉である。看板が出ていなければ誰もそこに温泉かあるとは気づかないだろう。
表側の道路に面した猫の額のようなスペースにベンチのようなものがおいてあってその向こう側に木造の屋根付きのボックスがある。そこで料金を払って板囲いの中に入ると左に男湯がある。

中に入ると大きな石を組み合わせてモルタルで固めた浴槽に温泉が湯量も豊富にながれ込んでいる。浴槽自体はバス停前の温泉よりも広いが、主に浸かることを目的として作ってあるため、洗い場として使えるような空間は非常に狭い。脱衣場も二畳ほどの広さしかない屋根付きの舞台のような代物で、3人も並ぶと着替える場所がなくなってしまうようなものが湯船の横に設けてあるだけである。
しかし、そのぶん温泉の上の空や近くの山々は広く見渡せ、まるで自然の中に湧き出した本物の露天風呂のような気分で湯に浸かることができる。白馬八方温泉の中では一番気に入っている湯だが、周りに何もないオープンスペースにあるため冬の間は営業していないのが残念である。

   白馬八方温泉にはこのほかにもジャンプ台に続く道の方にある第二郷の湯、駅の近くにあるみみずくの湯と二つの温泉施設があるが、ぼくがいくところはたいてい第一郷の湯かおびなたの湯である。みみずくの湯は朝からあいているので他の温泉があいていないときなどに利用することはあるがそれ以外にはめったにいかない。

   4つの温泉は同じ源泉から湯をひいているのでどれも浸かると肌がつるつるとしてくる美人の湯系である。源泉の温度が60度近くもあるので水をどれだけ混ぜるかで熱くもぬるくもなるはずだが、ぼくの感じでは第二郷の湯が一番熱く、第一郷の湯、みみずくの湯がほぼ同じくらいで一番ぬるいのがおびなたの湯である。
第二郷の湯には二度挑戦してみたがあまりの熱さに湯船にはほとんど入っていられなかった。一番ぬるいおびなたの湯でやっと家で沸かす風呂と同じくらいの温度といったところであろうか。

   最近は八方の村にあるホテルや旅館で白馬八方温泉の源泉から湯を引き込むところが多くなってきたので天然温泉と看板が出ている宿に泊まれば温泉に浸かることはできるようになったが、やはり温泉のたたずまいを楽しむということであれば共同浴場に行くのが一番である。
夏の夕方、温泉上がりに第一郷の湯の待ち合いの部屋で涼しい風を受けながら冷たいビールをあおる。
または蝉時雨の中、さんさんと降り注ぐ日差しを浴びてゆっくりと浸かるおびなたの湯。
どちらもこたえられない楽しみである。
 
 

2)白馬塩の道温泉
  松川を八方から岩岳に続く道路が渡る橋のたもとに新しい温泉があるのを発見したのは5年ほど前のことになる。
栂池の自然植物園に子どもといった帰り、たまたまそこを通りかかったら橋の手前に新しくできたばかり建物があった。
敷地の入口に倉下の湯とある。ほう、こんなところにも温泉ができたかと思って思わず道から外れ、建物の敷地にある駐車場に車を止めてしまった。

  風呂の中では子供たちが大喜び。
湯がかなりぬるめなので熱い湯が苦手のうちの子どもらにはちょうどいい湯加減だったようだ。
お湯の掛け合いをしたり泳いだりしているので、静かにするように注意をするとこんどは湯船の奥にある日本庭園のような庭に裸のまま入り込んで遊んでいる。

  ぼくは湯がぬるすぎて温まらないような気がしたのと、湯の色が赤く濁っていて体を洗うのに若干そぐわないような気がしたので、それほどいい印象を受けなかったが子供たちに言わせるといつも入る温泉(白馬八方温泉)よりこちらの方がいいということだった。

  その後同じ源泉から湯を引いた温泉として、国道沿いのガーデンの湯、岩岳西山ゲレンデ下の岩岳の湯、エコーランドにあるエコーランドの湯と3つの温泉施設ができたがどれも(岩岳の湯には行っていないが)山にはあまりそぐわないような雰囲気の建物であまりいい感じを受けなかった。

このうちエコーランドの湯は非常に遅い時間まで営業しているので他の温泉に入りそびれたようなときには便利だがそれ以外では利用したいとは思わない。

  源泉は地下数千メートルというから今はやりのボーリングで無理矢理湧き出させた温泉のたぐいであろう。塩の道温泉というネーミングは今脚光を浴びている姫川街道の別名から取ったものでトレンディーではあるが、そんなことも含めてなにか流行を追いかけただけの浅薄な感じがする温泉である。
 
 

3)岳の湯
  八方温泉ができるまでは白馬の公衆浴場というと白馬駅の駅舎の上にあるホテルの風呂と、平川のかわべりにあるこの村営休暇村の施設くらいしかなかった。
平川近くの唐松林の中にあるこの風呂は天然の温泉ではないがジャグジー、サウナ、水風呂など露天風呂を除くすべてが完備している、15年前の当時としては非常に充実した施設であった。後に白馬八方温泉ができてからも友人にどこの風呂へ行きたいかと尋ねると岳の湯という返事が返ってきたものである。
脱衣場と洗い場、湯船だけの風呂と違っていろいろな入りかたを楽しめるところが一般受けしたものであろう。
思えば今の温泉ランド隆盛の要因となるニーズはこの頃からすでに兆していたのである。

  最近はそれほど遠くないところに「ぽかぽかランド美麻」、「サンテオーレ小谷」など天然温泉による総合入浴施設が次々に建設されたが、岳の湯から客足が遠のいたということは全くきかない。
村営で地元の住民は料金的に優遇されているため気軽に入れる風呂として重宝がられているのかもしれない。
 
 

4) ぽかぽかランド美麻
  八方から東京方面に向かうとき、道の混み具合によっては長野から上信越道に出ることがある。
以前は白馬のある北城の盆地から長野に出るには蕎麦粒山近くの峠を越え、鬼無里を抜けて善光寺平へ出るものと、美麻、小川、中条を通って国道19号に出る道の二通りの方法があった。どちらも谷沿いを蛇のようにうねりながら縫っていく道で時間が掛かる難儀なルートであった。

  オリンピック道路と名づけられた新しい道路ができたのは昨年の夏のことである。
計画時につけられた別称を弾丸道路というように、車がスピードを落とさずに走れるようトンネルや盛り土によってカーブを極力なくしたこの道によって白馬から長野への到達時間は画期的に短くなった。
いままで2時間くらいを考えていた行程が一挙に40分くらいで行けるようになってしまったのである。

  この道路を白馬から15分ばかり入ったところにある総合温泉保養施設がぽかぽかランド美麻である。
始めてここの温泉に入ったのは一昨年、まだオリンピック道路ができる前の5月の連休であった。
SAFのめんめんとの春スキーの帰り、今まで行ったことのない温泉をちょっと覗いてみようといった程度の気持ちで立ち寄ったのである。
実際に行って見て驚いたのはとにかく混んでいること。連休とはいっても、できたばかりの山中の温泉である。
これだけ人口密度が高いところはあまりみたことがない。

  温泉そのものは悪くはなかった。
露天風呂からは山肌に咲く山桜が望まれたりしてそこそこの風情もある。ジャグジーやサウナなども一通りそろっていていろいろな楽しみかたもできる。しかし客の人数の割にはすべてがあまりに小作りである。
混んでいるように感じたのは実はこのせいだったのである。女風呂の面々が出てきたときに感想を聞いたらもうここへは来たくないという。女風呂はあまりの混みかたで温泉に浸かるどころではなかったようだ。

  その後もオリンピック道路からこの温泉を見るが、いつも駐車場は満杯のようである。つい立ち寄る気をなくしてそのまま通り過ぎてしまう。

  一度だけ五竜遠見の宿に泊まっているときにふとした気まぐれから車を飛ばして行ったことがあるが、そのときは比較的空いていた。
ただし夜の閉館間際の時間だったため心置きなくゆっくりと温泉に浸かることはできなかったが。
 
 

5) ゆーぷる木崎湖
  うちの子どもにとっていい温泉の条件とは露天風呂があることと遊びを発見できるこの二つである。
そういった意味でここゆーぷる木崎湖はとても評判がいい。

  ここの露天風呂の横は日本庭園風の植え込みと玉砂利の庭になっている。子供たちはちょっと露天風呂に浸かるとそのまま庭の方に入ってしまって遊びはじめてしまう。特に玉砂利で遊ぶのがお気に入りのようで一つ二つ運んできては露天風呂の縁にならべたり、お湯をかけて流してみたりしている。さすがに砂利を露天風呂の湯船に落としたときには注意をしたが、他に入っている人もいなかったのでゆったりとした気分で子供たちがすることをながめていた。

  湯上がりに休憩用の和室で爽やかに吹き込んでくる風の心地よさについうとうととまどろんでいるとパパ、パパとよぶ子供たちの声がする。何事かと眠い目をこすりながら声のする方に立ち上がると、部屋の縁の外にある植え込みの前で子供たちがしゃがんで何かを見ている。二人とも和室からそのままでたらしく裸足である。見ると彼らの視線の先には一匹の殿様蛙がいる。これ、捕まえて連れてかえってもいい?上の子が上目遣いにたずねる。ママが出てくるまで蛙と遊んでていいけれど、連れてかえるのはだめだよ。そういって子供たちを見ると二人ともいつになく生き生きとした眼をしている。

  まもなく家内が出てきてしまったので子供たちの楽しみはすぐに終わってしまったが、そのとき以来ここが子供たちの一番のお気に入りになってしまった。

  ぼくにとってもゆ?ぷる木崎湖はついつい立ち寄りたくなる温泉である。立地条件が良いにもかかわらずそれほど混んでいないのでゆったりと温泉を楽しむことができるということ。風呂の種類があっていろいろな楽しみかたができるということ。そして何よりも休憩用の和室に吹き込む風の柔らかさが心地良い。いつ行っても和室は空いていて風がそよとながれ込んでいる。そこで休んでいるとつくづく温泉に来てよかったなあと感じるのである。
 
 

6) 大町温泉(薬師の湯)
  雨こそ降っていなかったがその日は朝から雲行きが怪しかった。
カーラジオからは台風情報が聞こえてくる。大型の雨台風が中部、関東を直撃するらしい。
急いでかえらないとまずいんじゃないの?ドライバーのSに促すが、彼は絶対に大町温泉に寄るのだと言って聞かない。温泉に行くことは台風襲来による被害の恐れにもまして重要なことらしい。こちらは助手席である。ドライバーが決めたことに強く抵抗することはできない。そのまま車は大町温泉を目指して走っていった。

  温泉を発ってから3時間ほど。中央道の小淵沢あたりから雨が降り出し、甲府昭和をすぎた頃にはほとんど前が見えないくらいのどしゃ降りになった。先を急ごうと気ははやるがこれではスピードが出せない。時間がたつにつれて雨はますます大降りになってくる。

  恐れていた通り、大月から先は通行止めである。下りるときに料金所でたずねると、国道、県道すべてが通れなくなっているという。袋のねずみとはこの事である。車ではもう大月から一歩も出られない。高速が通行止めになったのはたったの15分前である。大町温泉での1時間がこれほど大きく効いてこようとは。あの時Sにもっと強く言えばよかったのではとも考えたが、彼は人の言うことを聞くような男ではない。結局、なるようにしかならないということである。

  この日は鉄道も運休となったため。ビジネスホテルに泊まり、翌日、奇跡的に一本だけ動いていた電車に飛び乗ってなんとか東京にたどり着いた。もちろん車は大月に乗り捨てである。Sの車だからぼくにとってはどうでもよかったが。

  いまだにこの時のことを思い出すと大町温泉というところは危険を冒してでも行くべきところだったのだろうかと考えてしまう。しかし、その頃(15年前)よりずっと温泉の毒にむしばまれ、中毒症状がでている今のぼくであればやはりSと同じ行動を取るかもしれない。

  この大町温泉(薬師の湯)は魅力のある温泉というよりは面白い温泉といった方がよいだろう。メインになる浴室のほかに渡り廊下を通って行くと体験風呂というものがあって、そこには4種類の違った泉質の温泉と露天風呂がある。それぞれの温泉を浸かり歩くと温泉の効能表に書いてある単純泉とか弱塩泉とかの意味を身体でもって知ることができる。ぼくはそちらの離れの方が面白くなってしまったため、最近はとんとメインの浴室に入ったことがない。

  もっと面白いことにこの温泉にはアルプス温泉博物館なるものが併設されていて温泉にまつわる蘊蓄をいろいろな形で仕入れることができる。もし温泉のオーソリティーをめざす温泉マニアがいたら是非ここへ立ち寄ることをお勧めする。

  温泉が済んだら酒である。湯上がりの一杯をくいっと。ああ、たまらない。そんな極楽がここでは博物館レベルで実現する。なんと、薬師の湯から道を隔てた向かい側に「酒の博物館」が待ち受けているのである。ここでは酒どころ大町の六つの地酒がすべて試飲できるのが良い。ぼくも何回か飲み比べてみたが味を比べるというよりは風呂上がりの日本酒というだけで五臓六腑に染み渡り良い気分になってしまう。実際どの酒が良いかは人の好みもあるのでそれぞれ一人一人が実際に試飲してみて自分の酒を見つけるのがよかろう。
 
 

7) 葛温泉
  大町の町から高瀬川沿いの道路をしばらく登っていくと二つほど大きなダムを越えたその先の七倉というところで自動車道は終わりになっている。徒歩で行くとこの先さらに半日ほどの行程で、湯俣温泉という河原に湯が湧き出している場所につく。ここまで来ると本格的な登山の領域で、迫りくる山々の間にある深い谷間でゆったりと温泉に浸かることができるのは山屋さんだけである。

  実際はここまで行かなくても七倉の少し手前にいい温泉がある。それが葛温泉である。高瀬館、仙人閣の二軒の宿があり、それぞれに魅力的な温泉があって日帰りの温泉客も受け入れている。ぼくが行ったのは高瀬館だけだが、白馬への国道や黒部ルートから外れているため入浴客も少なく、そのぶん山中の静寂にじっくりと浸ることができた。あふれるような緑の中で蝉時雨に耳を傾けながらのんびりとひなびた感じの露天風呂に浸かる。そんな風情のある温泉の楽しみかたができる湯である。家内がいうには女湯の露天風呂は屋根がついていて、風呂そのものも非常に広くとても良かったとのことである。一度覗いてみたいものだがこんなところまで来て事件をおこしてもつまらない。あきらめることにしよう。

  付け加えると、木崎湖温泉や大町温泉も実はここから湯を引いているらしい。そういえば泉質はどこも似たり寄ったりである。
 
 

8) (今は亡き)蒲原温泉
  山屋だけが行けるようなところを除いて、白馬周辺で一番記憶に残っている温泉は蒲原温泉である。長野、新潟の県境近くの姫川に湧き出していた温泉である。大きな川の河原にあるのでいつ行っても入浴できるわけではなく、姫川の水量が多いときなどはその場所まで行って引き返すようなこともあった。ところが一昨年の姫川の大水害で致命的な大打撃を受けて、さらに昨年多くの犠牲者が出てニュースにもなった蒲原沢の土石流によって止めを刺されてしまった。いま、その場所に行ってもあの頃の面影は跡形もない。ただ、むかしあんな温泉かあったんだなあという思い出があるだけである。

  姫川街道を白馬から糸魚川に向かって下る途中、長野県と新潟県の県境に国界橋という橋がある。そこを渡ると国道と分かれて急な斜面を姫川の方に降りていく細い道があった。道の突き当たりに小さな民家のような建物がある。ここは蒲原温泉の一軒宿で建物の左手にもう一軒離れのようなものがあり、その中に温泉の浴槽があった。

  しかし本当の温泉はここではなく、この建物の横から河原に向かってつづら折りに下る山道を行く。ちょうど姫川に降り立ったところが少し広い河原になっていて、所々に青苔がついた石に囲まれた大きな水溜まりが散在する。実はこの水溜まりが温泉なのであった。温泉そのものはとても熱くそのままではなかなか入れるようなものではない。川の水流の一部が流れ混んでいるようなところでうまくお湯が混じりあって良い湯加減になっているところがあるので、その中に浸かるのである。

  対岸にも温泉のわいているところがあってこちらの方はそれほど熱くなかったので、ぼくはよくこちらの方で河原の石を掘って自分だけの浴槽を作ったものである。まず河原に転がる石をならべたり積んだりして湯を塞き止め、その下を身体が入るくらいの深さまで掘る。掘ったばかりだとお湯が濁っているので、濁りが沈殿したり流れ出したりして湯がきれいになるのを待つ。しばらくして湯が透明に澄んできたら出来上がりである。この作業は子どもの頃、よく河原でやった遊びと同じである。一生懸命石を運んだりならべたりしているとおもわず童心に返ったような気がする。

  自分の作った湯船から眺めるまわりの景色もなかなかのものだった。両岸からは急峻な山肌が河原に向かって落ち込んでいる。川の下流を向けば、山崩れをおこしてまだそれほど間がないと思われる赤いがけが正面に立ちふさがり、川の流れはその手前で水飛沫を立てながら右側にカーブして視界から消えていく。そして高く山々に切り取られたような青空。見ていて飽きの来ない光景であった。

  行く時期によっては虻が湯の上をぶんぶん飛び回っていてゆっくり温泉に浸かっているどころではないというようなこともあった。しかし今から思うとこれも楽しい思い出の一つである。

  他には白馬の近くで河原に湯が湧き出しているようなところは知らない。高瀬川の湯俣温泉、黒部川の鐘釣温泉などはあるが白馬からだと行くのが大変である。結局失われたものは大きかったといわざるをえない。つくづく水害がうらめしい。

  この水害で姫川流域の温泉は軒並み大きな打撃を受けたということだが、うまく復興することを切に願って止まない。
 
 
 


白樺湖、車山エリア

  忙しい人にとって日帰りスキーはなくてはならないアイテムである。府中からの日帰りスキーといえば中央道をおいてほかにない。中央道に沿った山や高原には日帰りスキーに適したゲレンデが星のようにちりばめられていて、まさに宝庫である。日帰りだとついつい家路を急いでしまうためそういったスキー場への行き帰りの道中にはなかなか目が向かないが、じつはそこには魅力を秘めたすばらしい温泉がたくさんあるのだ。
 
 

1) 片倉館
  無性にどこかで温まりたいと思った。
  雪からみぞれ、みぞれから氷雨へと気まぐれに変化する天候にもてあそばれて、身体はおろか心まですっかり冷え切っている。冷たい雨が降りしきる中、逃げるように車山を発って、家路を急ごうとするが、雨粒をはじきながらフロントウィンドウの上を右に左に滑っていくワイパーの動きさえもがなぜか気になって仕方がない。

  蝋人形のような生気のない顔色をして助手席に冷えきったからだを倒し込んでいるY氏とはスキー場の駐車場を出てからほとんど一言も口をきいていない。気まずい空気がときどき彼が思い出したように口から吐き出す煙草の煙に乗って、冷えて死に掛けているぼくの肺の中へすうっと染み込んでくる。二人の間にいさかいに似た感情のもつれがあるわけではない。ただ生気を失わせるような身体の底から押し上げてくる寒さに、お互いに口の筋肉が凍り付いたままなかなか開かないだけなのだ。

  とにかく温泉に行くしかない。体が暖まればなんとかなる。という呟きが声にならずに喉の奥へ落ちていった。行き先は諏訪インターの先、諏訪湖岸に面した道路沿いにある公衆浴場、片倉館である。いつもなら道中で湖面に映える夕映えを見ながら、スキー漬けになって蛸足配線のように絡みもつれた頭の中をときほぐすところだが、今日は生憎の雨模様だ。恐らく諏訪湖は雨に煙って鉛のように陰鬱に沈み込み、見ているとさらに気分が落ち込んでしまうような姿をさらしているに違いない。とても気分転換などできるような様子ではないだろう。

  車の流れの喧しいインターチェンジを通り過ぎ、両側にファミリーレストランや大きな駐車場を持った郊外仕様のスーパーがみえる広い直線道路をぬけるとやがて道路は湖に突き当たり、花梨の並木がならんでいる湖岸に沿って下諏訪へ向う。思ったとおり左手の視野いっぱいに広がる湖は雨粒を受けて陰気に黒く静まり返っている。右手には道路一杯までせり出した温泉ホテルの建物が視界を遮るように高く建ち並んでいるが、いつもの観光地特有のはなやいだ匂いはなく、篠つく雨にぬれて何も言わずにじっと蹲っているだけである。

  しばらく走っていくとその中にひときわ高い屋根を持った古風な石造りの洋館が姿を現した。工業都市諏訪の歴史を感じさせるような、どっしりとした石造りの重厚な建物である。これが僕らの目指していた片倉館である。黙り込んでいた二人の間に目的地に着いたという安堵感がどっと押し寄せてきて、車内に閉じ込められていた空気が少しだけやわらかくなったような気がする。

  冷えきって固まってしまった体を無理矢理動かしてなんとか玄関に向かう。ここの入口には、「入口」といってしまうよりは「玄関」といった方がぴったり来るような重厚なたたずまいがある。ぼく達は受け付けのおじさんに入浴料を払うのもそこそこに、洗面器に風呂道具一式を持った市井の人々が世話話に花を咲かせたり、ゆっくりくつろいだりしているのを横目にしながら走るように風呂場へ向かった。

  最初の湯の一浴びが身体に掛かると、湯の温もりが肌を通じて徐々に体の中に広がってきた。それが体内の凍った筋肉を溶かしていくようで、耳を澄ますとオンザロックの氷をグラスに落としたときのぴきっというはじけるような金属音が聞こえてくるような気がする。その音とともに身体が少しづつ温もりを取り戻し柔らかくなってくるのがわかる。

  ローマ風呂のようにな石造りの内装の豪華な浴室には、ちょっとした温水プールぐらいの広さがあって、泳いでいる人がいてもおかしくないような大きな深い浴槽がある。その浴槽の中に下りると、底に敷き詰められた細かな砂利が、つい先ほどまで寒さに凍り付いて固くなっていた足の裏にくすぐったいような微妙な刺激を伝えてくる。そのこそばゆい刺激が足の裏から神経の中を伝わってじわじわと身体全体に登ってくる。するとまだ体の芯に残っていた最後の氷のかけらが粉々になって消えていくようである。気持ちがいい。温泉はこれでなくちゃ。

  寒さに震える時間が長かっただけに温泉の有り難味がつくづくみにしみた。ふと気がつくと浴槽の湯から立ち上る湯気を通して気持ちのよさそうなY氏の鼻歌が聞こえてくる。
 

データ


Copyright 1998 mkondo@astrodesign.co.jp All rights reserved.