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投稿評論作品 9・23

 「成長物語」という概念の終焉
                                          佐藤重男
  *
『シキュロスの剣』(泉啓子 童心社 02.3)、『十二歳』(椰月美智子 講談社 02.4)の二つを読んで、ちょっと考えさせられた。「成長物語」という概念で作品を論ずるのはもう無理ではないのか、と。

創作児童文学と名のつく作品なら、何をどう書いてあっても、作品のラストで主人公が人間的に成長すること、あるいはしたことが示唆されようものなら、『なにこれ、「成長物語」しちゃって』と嘲られてしまう。口の悪い評論家なら『まあ、「児童文学」してるざます』と鼻を鳴らすことだろう。

もちろん、主人公(子どもたち)が人間として成長すること、それ自体を批判し非難しようというわけではない。問題は、作品の中の主人公たちが人間的に成長することがあらかじめ想定され、そのことが示唆されて幕を閉じる、いわゆる「予定調和の世界」であることにある。

『シキュロスの剣』のラストはこうだ。

『 啓太、いったよね? ぼくたちが出会ったのは運命だって。あれ、もしかした

 ら、ほんとうかもしれないよ。だから、今はまだなにもできない弱虫のぼくだけど、

 せっかくこうして出会えたんだから、もしいつかまた、きみがぼくの手助けを必要と

 したら、そのときは今よりもすこしはましなことができるように、ぼくはせいいっぱ

 いぼくの人生を生きていくよ。

「じゃ、またね啓太」

 啓太のきえた改札口にそっとつぶやくと、クルッと背をむけて、ぼくはいそぎ足で

 塾にむかってあるきだした。』(『シキュロスの剣』)

  

これでは、『「成長物語」してる』といわれてもしかたがない。でも、このラスト、これまでの「成長物語」と少しニアンスが違うことに気がついただろうか。そう、『今はまだなにもできない』のだという。こんなに成長したよ、とは言わない。なんか違う。

『十二歳』のラストを見てみよう。

  

『 私はメロンパンを食べながら窓際に立ち、空を見上げる。こっちの空はまだ雲で覆わ

 れているけど、山のほうにはきれいな水色の空が見えている。

  今日、私は卒業する。』(『十二歳』)

  

おお、これなんか、典型だね「成長物語」の、といいたくならないか。

だけど、この作品も少しおかしい。なぜなら、ラストの部分など、典型的な「成長物語」の顔をしているのに、中身が変なのだ。先ほど、主人公が人間的に成長することがあらかじめ約束されている、それが「成長物語」だ、と決めつけた。しかし、おどろくべきことに、『十二歳』の主人公は成長しない。物語のはじめとおわり、どう引き比べてみても、われわれの尺度から言う成長がまったく見られない。まるで「いまは、このままでいいの。そのうち成長するから」といっているかのようですらある(このものいいは、「今はまだなにもできない」という、『シキュロスの剣』にもあてはまる)。

『シキュロスの剣』の周一は、「自分探し」のために格闘をつづけ、その果てに、「出口」を見つけることなく、日常へともどった。そういう意味では旧来のパターンに沿ってはいる。『十二歳』のさえは、はなっから格闘も葛藤も、そんな「自分探し」などという重荷を背負うことも、なにもかも放棄したところから日常の中の非日常に紛れ、子ども時代をやりすごしてしまおうとしている。中学に入ったさえは、やはり落ち着かない気分に陥ることだろう。しかし、中学を卒業するとき、青空を目にし、そのことに安堵するにちがいない。それができるのも、すべてのことを先送りしよう、いやそうできるはずだと、思いこんでいるからなのだが。

いずれにしろ、この二つの作品は、「成長物語」の顔をしていながら、なにか別のもの、そんな気がしてならない。

  

すこしばかり前、いわゆる「成長物語」をめぐって論議が交わされたことがあった。創作児童文学のほとんどが「成長物語」であるとされ、概ね否定的であった。というのも、先ほど触れたように、物語の主人公が成長することがあらかじめ想定され、そして、かならず成長したことが示されてのち、幕が閉じられる。そんな「予定調和の世界」が読者を遠ざけたというのである。

そもそも、昔の、お伽噺やほら噺、あるいは各地に伝わる伝説などを元にした絵草紙を土台にして童話へ、そして、戦後の創作児童文学へ、という歴史がある。「桃太郎」「一寸法師」などを見るまでもなく、お伽噺などは典型的な成長物語である。それはそれで目くじらを立てるほどのこともないが、それが、明治時代の「富國強兵」を要とした国策のなかで、道徳的な規範が刷り込まれ、大正・昭和を経て、敗戦後54年たったいまもなお、「道徳的規範」の残滓がこびりついている、それが問題だというのである。

実は、日本の創作児童文学は、60年代から70年代にかけて、その残滓をこすり落とそうと試みたことがあった。しかし、そのあまりイデオロギーに傾斜しすぎ、「何を書くか」といったテーマ主義に陥り、結果、集団(社会)を描くことに熱心で、個人を描くことをおろそかにし、作品の中の主人公である子どもは、そのテーマの代弁者でしかなかった。作品の中で、子どもたちは、よくも悪くも感化しあい、ぶつかりあいながら心身ともに成長していく、その姿が描かれていった。ひとりひとりの内面の深化より、どう影響しあったかを描くこと、それが児童文学の「王道」と信じられ、のちに「群像物語」とよばれることになった。弱気を助け強気をくじく、そんな、浪花節的心情と、「みんなで力をあわせればなんでも成し遂げられる」といった、共産主義的思考のアマルガムという、なんとも奇妙な作品世界が次から次へと子どもたちの前に投げ出された、…云々。

したがって、ここでの「成長」とは、子どもは未来の希望の星、世の中をよりよくする使命を担う存在として当然にも、やがて、社会の悪を憎み、仲間と手をとりあってまつすぐにつき進む、そのようなまっとうな人間に育っていくことをいう。このとき、「成長物語」は、「群像物語」でなければならなかった。

しかし、現実の子どもたちは、やがてどういう大人になるべきか、そのために子どもという時間を生きているわけではない。これは、子どもたちとって、過大な期待であるばかりでなく、装いを新たにした規範の押しつけでしかない(「いい子」が期待され、一方で「悪い子」がつくり出される。「落ちこぼれ」などという、あってはならないもの言いが定着した70年代半ば、世が、「いい子」「悪い子」をつくりあげているときに、日本の創作児童文学はなにを書いていたのか、改めて検証する必要がある)。

 70年代もおわりに入るころ、その反動がやつてきた。岩瀬成子、森忠明らの、新潮流といわれる作品の登場である(もっとも、岩瀬と森の作風はまったく違っているが)。

彼らの作品の特徴をひとことでいうなら、《「ともかく、がんばれ」というスローガンの否定》である。

「年齢に相応しい成長=発達論」の否定、ということもできる(ということは、一人前の大人、経済活動を担う人へと育つことの否定にほかならない。岩瀬らの自覚を別にして、このスタンスは、科学技術への絶対的信仰と効率優先の社会システムに対するいわば文明批判だといえる)。したがってというべきか、どの作品にも、行間には、「未来志向(右肩上がり)」を典型とした「成長物語」のノー天気ぶりへの批判が込められている(藤田のぼるが、<皿海〜次郎丸系列の「心理うっくつ物語」>と評していたのを聞いたことがあったが、岩瀬系列というものがあるならば、さしずめ、「内面掘削的・内省の物語」ということになろうか。森忠明の作品は、「内省」というよりも、耽美的ナルシズムに属するのでは、と最近強く感じている)。

  

岩瀬らは、とにかく、掘りに掘って、掘りまくった。そのあまり、現実の子どもとの乖離を深めていくことになる。現実は無慈悲である。岩瀬らの作品は、評論家たちが評価するほどには子どもたちに読まれず、バブルと共に第一線から姿を消していった(もっとも、良識者のなかには「文学的にすぐれた作品ほど子どもたちに見向きもされない」と弁護する人たちもいる。子どもに人気のあるマンガや俗悪なTV番組ほど良心的な大人たちから顔をしかめられる、ということもある。いずれにしろ、子どもと読書の関係は一筋縄ではいかない問題を抱えている)。

那須正幹の『ぼくらの海へ』も時代を画する(というか、時代の申し子といったほうがぴったりかもしれない)作品だ。岩瀬らの「内面掘削的・内省」に対して、那須は、ニヒリズム的ピカレスクロマンを標榜した。那須というと、子どもたちから圧倒的人気を博し、いまも続いてる『ズッコケ三人組シリーズ』や、日本児童文学者協会賞を受賞した『お江戸の百太郎捕り物帳シリーズ』がすぐに思い浮かぶが、那須にとってこの作品たちは余技である。

 那須の目指すところは、日本では育ってこなかったピカレスクロマンを、児童文学の一翼としてしっかり据え置くことにある。どこか世をすねた悪党ぶっているくせに、世間をあっといわせようという矜持を隠し持つ、そんな人間像の兆しを、『ぼくらは海へ』から読みとれる。そういう意味では、どう書くかは違っていても、なにを書くかでは、岩瀬らと通底する。

  

岩瀬らの「誤算」についてもう少し。

先ほど、「現実は無慈悲だ」と書いたが、このもの言いでは、岩瀬らの仕事を過小評価することになるだろう。個人の内面を掘り下げていくこと、それはやはり画期的なことであったのだ。だが、戦後民主主義すら十分に育っていなかった(いまでもそうだが)日本では、「個」という概念がきわめて希薄で、したがつて、社会(家庭)でも、とりわけ子どもたちにとって大切な学びの場である学校でも、「個」が尊重されて当然という合意ができていなかった。子どもは成長する、という生物学的な事実の前に圧倒されて、「日々変化する」「どの子も変化しうる」という可塑性・柔軟性が、プラス思考として作用するというよりは、「ほっといたって育つ」んだから、なにもうじうじと内省に励むことを奨励する必要などない、という方向へねじ曲げられてしまった。そして、この二つのことを補強したのが、「効率優先」に代表される資本主義システムであった。戦後、高度成長の中で、われわれは、「世に出て社会活動に貢献する」それが一人前になることであり、子ども時代とは、その準備期間(モラトリアム)だと示唆され内面化してきた。「高学歴」は世に出るためのパスポートであり、それは豊かな生活を保障するものと信じられた。

 また、「がんばれ。やればできる」と叱咤激励され続け、なんとかそれができたとき、大人たちから褒められれば、子どもだってうれしい。

なのに、岩瀬らは、その両方に待ったをかけたのである。子どもは世に出ないといけないのか。がんばったね、よくやったね、と褒められることがそんなによいことなのか、と。いってみれば、大人と子どもの感情を逆撫でしたのである。岩瀬らの仕事とは、そういうことだったのか、という観点で再評価する必要がある(岩瀬は、成長しなくてもいい、といっているのではなく、生物学的成長に押されて、精神面の成長を置き去りにはしていませんか。自分をもっと見つめ、考えるための時間をください、そういっているのだと思う。そういう意味では、岩瀬のスタンスは哲学的でもある。岩瀬の作品が子どもたちの共感を呼ばなかったのは、時代のせいも多分にあるが、日本の家庭の中、学校教育の場ではほとんど学ぶことのできない部分を提示したからということもできる。現実の子どもたちと乖離してもなお、その子どもたちに向かってひたすら書き続けた、その姿勢やよし、としなければならない)。

ところが時代は変わった。「高学歴→一流企業→出世」というライフステージはすっかり色褪せてしまった。大学を出ても職に就かずフリーターになる若者が溢れる世の中。子どもたちは、社会が押しつけてくる既成の価値観に押しつぶされあえいでいる(不登校の小中学生(公立・01年度)約13万8千人。高校の中途退学は10万4千人余。この数字、プラス思考で受け止めたい。どっこい、こんな生き抜きかたもあるぞ、と)。

いままさに、岩瀬の出番ではないか。だが、岩瀬は沈黙。「団塊の世代」の旗手として登場したその自負、責任感からか、泉啓子(1948年生)、さとうまきこ(1947年生)らが、この窮地を打開しようと果敢に戦いに挑んでいる。それでも、岩瀬(1950年生)は書かない(森絵都(1968年生)は、「スポコンもの」で遊んでいるし)。

 

われわれ「団塊の世代」は、いまや、日本の創作児童文学にとって、改革の足をひっぱる「守旧派」でしかないのかもしれない。

日本の児童文学者たち(とりわけ評論家たち)は、永いこと、「成長物語」(予定調和の世界)に対して厳しい態度をとつてきた。嫌悪すら露にしてきたとさえいえる。結果、「成長物語」のレッテルを貼って切り捨ててきたものがたくさんあったはずで、果たしてそれでよかったのか。それは時代のせいだといってしまえばかんたんだが、われわれは、どこかで「色メガネ」をかけてしまい、やがて、かけていることすら忘れてしまっていたのではないだろうか。

時代はたしかに変わった。東西ドイツの統合、ソ連邦の崩壊、EU誕生によって、世界の「二極化」の時代は過去のものとなり、「強い一国」と「民族間対立」が露になった。また、IT革命などにより地球のグローバル化がいっそう進んでいる。国内では、「失われた10年」を取り戻すどころか、政治と経済の混迷は一層深まるばかり。価値観の多様化がいわれるわりには、若者たちは類型化していく。学校が「学びの舎」でなくなって久しい。事件はますます凶悪化し、犯罪の低年齢化は著しい…。

「成長物語」などと呑気なことをいっている場合ではない。が、しかし、日本の創作児童文学は「成長物語」を紡ぎ続けるだろう。なにしろ、いまの書き手の多くは、人間として成長することが想定されているかどうか、そんなこと考えてもいないに違いない。自分の子ども時代を、そしてわが子の成長を「ほめてあげたい」そこにとどまっている。世の中のできごとなんて知ったことか、という顔をしながら、その作品は、しっかり「成長物語」している。それは、おそらく「一人前の人間になる」という社会の規範を内面化しているからにほかならない。「成長物語」という概念を捨てよう、そういいながら、同時に「成長物語」の顔をしている作品を批判しなければならないのは、まさにこの一点にかかっている。

「自分をほめてあげたい」それはいい。ではいつたい、それは自分のなにを指しているのですか。そのことを曖昧にしたまま、「自分の領域」「居場所」だけを追求しようとするとき、「かくあるべし」という社会的規範に足下をすくわれ、あるいは押しつぶされてしまうだろう。そうなれば、せつかく見つけた「自分の領域」が、ちっとも、安全・安心できる処ではなく、「こんな自分でどうする」とますます自分を追いつめていくことになる。

カルチャー教室で創作を学んでいた母親たち、各種の創作コンクールで入選を果たして書き手になった中・高年の女性たちなどによって書かれた作品の多くは、そのような視点をまったく持たない。やれ内面だ、やれ個性だ、といいながら、その実、彼らの作品が「成長物語」の顔をしているのは、そんなノー天気さからきているのかもしれない。マラソンの有森選手の放ったひとこと「自分をほめてあげたい」、みんななにか勘違いしてうけとっていないか。

  

われわれ「団塊の世代」の人間にとつて、なかなかむずかしいことだけれど、「成長物語」という概念で作品をふるいにかけることをやめるのはもちろんのこと、概念そのものの見直しをしないと、子どもたちが内面に抱える希望や夢、あるいは不安や苛立ち、焦りといった心的なもの、そして同時にその子どもの持つ向日性、可塑性といった普遍性を形にし、名付けをして、子ども読者に提示するという役割を全うできないところに来ている。

いずれにしろ、われわれは、「成長物語」という悪夢からいっぺん目覚め、ごった煮状態を整理し、仕切直しをする必要があるだろう。このままでいい、という子どもがいる半面、なんとしても背伸びしたい子どももいる。どちらがいい悪いではなく、ひとりひとりの子どもたちが自分を見つけていくのにどの道筋がいいのか、それを決めるのは子ども自身であること。われわれ大人はサポーターに徹するしかない。

子どもたちをとりまく閉塞状況をどう突破していくか。そのために文学はなにができるか。子どもたちが今の閉塞状況の中でいかにもがきあえいでいるか、その現実をレポートすることではないし、神戸の児童殺傷事件、黒磯の女性教師刺殺事件、そして、バスハイジャック事件の少年らを「よくやった。時代の魁だ」などと賞賛することでもないだろう。いま、日本の創作児童文学に課せられているのは、やっと児童文学の中で市民権を得た、「自己の領域」(あるいは、「自分の居場所」)を、ゆるぎないものとして位置づけ、さらには、それがどう発展していって、子どもという存在がどのように再発見されていくのか、それを示すことだと思う。

その担い手として、わたしは、幾人かの名前をあげることができる。また、この先、無名の新人によって新しい領域が切り開かれていくかもしれない。楽観はしないが、絶望もしていない。

                                         おしまい

 

  

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