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社会主義の新しいビジョン  いわゆる江田ビジョン
江田三郎
一九六二年一○月九日
*江田三郎が『エコノミスト』一九六二年一〇月九日号に発表した論文。当時江田三郎は日本社会党書記長であった。ここでの出典は『資料日本社会党四十年史』(日本社会党中央本部 1986)長文のためニページに分けて掲載。  次のページへ   全文(zip)
 
   はじめに
 七月末わが党の活動者会議で、私は、社会主義の新しいビジョンをもたねばならないと発言した。これは社会主義の平和的な実現に向かって進むにさいして、国民の大多数が心から共鳴を感ずるような社会主義のビジョンが、いまどうしても必要ではないかという問題提起である。
 ところが、この発言に対して党の内外からいろいろな反響が寄せられた。「大いに結構だ。ひとつみんなで社会主義の新しいビジョンを考えようではないか。」との賛成の言葉も沢山頂戴した。「いまさらわかりきったことについて何をいう。社会主義の概念を混乱させるだけだ」というお叱りも受けた。
 こうした意見に対して直接の答えとはならないかもしれないが、ここであらためて、私の意図した問題提起についてのべてみたい。
 この機会に読者の方々のお考えも、ぜひきかせてほしいとおもう。
 
  一 なぜ新しいビジョンは必要か
  心をゆさぶる社会主義を
 私たちの考えている社会主義について、長洲一二教授はきわめて適切に、つぎのように要約されている。少し長くなるがはじめに引用したい。
 「社会主義とは人間の可能性を未来に向かって開花させることだ。人間は歴史のなかで偉大な可能性をきずき上げてきた。山をきり開き、水の流れも変えてきた。神様もつくらなかった物質を創造してきた。地上に富と文化をきずいてきた。そして人間同士のあいだでも、時にはつまずいたり逆行したりしながらも、人間らしさや自由をしだいにひろげてきた。こうした人類史の成果はいま私たちの目の前に巨大な生産力として、浸透する民主主義として、物的に、制度的に客観化されて存在する。こんにちの生産力は、もし本当に人間のために運営されるならば、やがて貧困を地上から追放する可能性がある。こんにちの民主主義は、すでに多かれ少なかれ大衆が政治の地平線上に登場するまでになっている。将軍や死の番人たちの手をしばる力も、しだいに強くなっている。飢えや抑圧や戦争を追っぱらう可能性が、ようやく人間の未来に見えはじめた。社会主義はこの可能性を実現しようとするものだ。大衆の力に信頼して、この歴史的な成果を未来に向けておしひろげようとするものだ。
 社会主義が資本主義を批判するのは、資本主義がこの可能性の開花をじゃまするからである。人間はここまできた。もっと進む力がある。だが、それを妨げているものはなにか。だれか。―−こう社会主義は問うのである。社会主義は不満分子の陰謀ではない。絶望者の反抗ではない。それは希望ゆえの革新であり、人間の可能性を信ずるゆえの創造である。その顔は未来に向かっている。社会主義を、追いつめられた者の破壊活動と見るくらい誤った考えはない」
 
 長洲教授の指摘はあまりにも当然のことかもしれない。しかし日本の社会主義者の間では、実はこの当りまえのことが、あまりにもわすれられている。
 「革新政党」とは、ほんらいこうした人類の偉大な可能性を切り開いてゆくために、人間の、とくに労働者階級の考えだした手段であり道具だといっていいと思う。
 ところが、現実にはいつのまにか手段であり道具であるはずのものが自己目的に転化してしまっている。共産党の諸君のさいきんの大衆団体のなかでの活動などその典型的な例だけれどもご自分たちの党派の勢力拡大が何よりも優先する自己目的になっている。民社党の諸君も選挙のあるごとにやせ紬ってゆく組織をまもることにだけしか頭がいっていない。組織の拡大・強化、自分たちの党派的利益だけに熱中しているから、しぜん、その大前提であるはずの社会主義のビジョンは、タナの上にほうり上げられ、ほこりをかぶった骨だけのひからびた公式になってしまう。
 
 私にいわせれば、これはまったくの逆立ちである。党員をふるい立たせ、全国民の心をゆりうごかすような社会主義のビジョンがなければ、いくら組織の拡大・強化を唱えてみても、それだけではみのり少ないものになるだろう。私があえて社会主義のビジョンの必要を強調した第一の理由は、この点にあった。
 
   後進国型のソ連社会主義        
 第二に、日本で社会主義といえば人々はすぐに今までのソ連や中国型の社会を連想する。たしかにソ連や中国の革命は、人類の歴史に大きな転機を画する立派な事業であった。少なくともそこでは、資本主義にもとづく人間による人間の搾取は一掃されている。だからといって、ソ連や中国の社会主義の建設方式がそのまま私たちのお手本になるわけではない。何といっても革命前のロシアや中国は後進国であり、革命の方式も、社会主義の建設のやり方も、後進国としての独特の性格をもたざるをえなかった。帝国主義の包囲のもとで、後進性から一刻も早くぬけだす必要にせまられ、非常なムリを重ねたために、スターリンの独裁体制と政治的テロルの支配という、ほんらい社会主義にあってはならないものまで生みだされたのである。
 反動勢力は、こうした社会主義のひずみを社会主義そのものの本質であるかのように、繰り返し宣伝したため、国民のなかには社会主義が何かおそろしいものであるかのように考える気分かつくられている。しかし、決してそれだけではない。後進国に生まれた社会主義は、やはりそれだけでは、先進国の勤労者を無条件にひきつける魅力ある存在とはいえない。
 
 ソ連、中国型の社会主義建設方式でも、革命前のロシアや中国と似たような社会構造をもつ世界の後進地域の諸民族にとっては大きな魅力をもちうるだろう。しかし現代の日本のように、すでに高い生産力をもち、社会構造もどうにか近代化され、民主主義がまがりなりにも存在している国では、ソ連、中国がかつてたどった型はそのままでは受け入れられない。かえって国民に警戒される傾向さえある。
 そこで、私たちとしては、どうしても、ソ連、中国型とはことなった近代社会における社会主義のイメージを明確にすることが必要になってくる。もちろんこれは、ソ連や中国のやることは何でも正しいとする共産党には期待できない。ヨーロッパの「民主社会主義」を直輸入して翻訳するだけでことおわれりとしている民社党にも無理な注文といえる。わが党こそ社会主義のビジョンをあきらかにする責任をおわねばならない。これが私の問題提起の第二の理由であった。
 
   戦略・戦術論争では不十分
 第三に、これまで革新勢力のあいだの社会主義をめぐる論争といえば、その多くは、日本の革命の型をどのように規定するかという問題をめぐっての論争であった。いわゆる「綱領論議」「戦略・戦術論争」というもので、たとえばやれ一段階革命だとか二段階革命だとか、あるいは国民政党か階級政党かという論議である。それはそれとして必要なことには違いないが、それだけでは国民とはなれすぎており、国民の大きな共感を呼び、そのエネルギーを動員するにはことたりない。幾つかの革命の型を図式的に分類し、日本の革命はそのどれにあてはまるかといった発想に立って、いわゆる「左翼」の人たちにだけ通用する特殊な用語で展開された観念的な論争は、おそらく国民の大多数には何のことだかさっぱりわからなかったと思う。
 そこには、国民大衆が自分たちの切実な要求をみたすための大衆的なたたかいをつうじて日本の国土の上に社会主義への途をきりひらいてゆくのではなく、革新政党が“正しい綱領”を国民に宣伝してゆけば革命ができるという逆立ちした考え方がひそんでいたと思う。このような天下りの革命論では、外国から輸入した綱領でもさしつかえないことになり、日本社会の体質にマッチし、国民大衆に心から支持される社会主義のビジョンをもつ必要が自覚されないのは当然であろう。
 
 われわれが構造改革の方針を打ち出し、社会主義にちかづいてゆく具体的な政策、具体的な行動の形態を問題にするようになってから、こうした弱点はだいぶとりのぞかれてきた。
 こうして社会主義を実現してゆく方法をめぐっての論議をいっそう地についたものにしてゆくとともに、当然、それでは行きつくさきの社会主義とはどういうものか、をあらためて切実な問題として問わなければならない。革新政党とは、要するに保守党のやることに片端から反対し、資本主義の矛盾のバクロだけをやって、やがて国民が貧窮のどん底におちいって立ち上がる革命的危機にそなえていればいい、それまでは党の綱領を宣伝していればいいのだといった古いタイプの無産政党であれば、あるいは私のいう社会主義のビジョンなどととりたてて問題にしないでもすむ。しかしわが党は、もちろん、こうした古いタイプの党であってはならない。
 
 私たちは、社会主義をうちたてるのは国民大衆自身であるという観点に立ち、大衆の自主的な運動を発展させつつ、それを社会主義の水路に導く責任を負っている。そのためには、今日の条件のもとで、実現可能な建設的な政策をかかげて国民大衆が具体的な成果をかちとるのを助けるとともに明確な社会主義のビジョンによってたえず運動を前進させてゆくことが必要である。私たちの提起する政策が現実的なものであればあるほど、私たちは一方において理想を、社会主義のビジョンを高くかかげなければならない。そのことによって、はじめてこの政策の実現が社会主義への前進にとってどういう意味をもっているのか、さらに前進するためには何をしなければならないかがあきらかにされる。構造改革の党はどうしても生々とした社会主義のビジョンをもっていなければならない。これが問題提起の第三の理由であった。 
              
   ビジョンの貧しい保守党
 さいごに、一言つけくわえると、わが国の保守党政治家の思想的、哲学的ビジョンは、世界に例をみないくらい貧困である。かれらは一体、日本の将来をどう考え、国民をどのような方向にすすませようとしているのか、あまりにも無定見というほかない。
 このことは、たとえば、ケネディ大統領の議会演説や、ネール首相の数多くの演説、それと日本の保守党の歴代首相の施政方針演説とを読みくらべただけでも歴然としている。これは内容の良し悪し以前の問題である。かれらは、ただその時その時の支配層の利害関係だけで動いているとしか思えない。戦前、日本の保守党政治家の多くがもっていた八絃一宇や皇威発揚といったビジョン(?)は、もちろんいまでは通用しないし、かといってそれに代わるべき何ものをももちあわせていない。
 こうした状況においてもし私たちが、国民の大部分をひきつける深い思想性をもったビジョン、明快で心をふるいたたせずにはおかないビジョンを提起できたとすれば、私たち革新勢力の道義的な優越性は不動のものとなるにちがいない。それはまたわが国の政治生活における革新政党のヘゲモニーの確立を、側面から大いに促進することになる。しいていえば、これが問題提起の第四の理由であった。
 
   二 未来をきり開く社会主義
      −−人類の到達点と四つの成果
   人類の闘いの歴史から
 私たちは、社会主義のイメージを型にはまった公式の組み合わせでつくるのではない。社会主義のビジョンは生きた世界の歴史、人類の歴史のなかからつくりあげなければならない。長洲教授の指摘にもあるように、人類は、何千年の歴史のなかで数多くの血を流し、汗を流して、貴重な成果をきずきあげてきた。この成果をひきつぎ、その基礎の上に入閣のもつ可能性を最大限に開花させてゆくこと、これが社会主義である。
 そのためには、当然、可能性の開花をさまたげている社会のしくみに対して、徹底的にたたかい、それをはねのけてゆかねばならない。これは、労働者階級を中心に国民のすべてが力をあわせてとりくまねばならない事業である。構造改革とは、いわばこのような障害物をとりのぞいてゆくたたかいの方法であり、姿勢である。
 
 私たちが空想的な社会主義者ではなく、現実的な、科学的な社会主義者とよばれるとすれば、それは無から有を生みだすのではなく、現実にあたえられた成果の上に立ち、現実によってあたえられている可能性ととりくむからだと思う。
 世界のすべての民族は、それぞれの国のおかれた条件のもとで、それぞれのやり方にしたがって、白分たちの生活水準を引き上げ、豊かな人間らしい生活をもとめてたたかっている。あるものは社会主義をはっきりと意識し、あるものは社会主義を意識することなくたたかっている。先進地域においても、後進地域においても、イデオロギーはちがい、やり方やさしあたっての目標はちがっているとしても、人間が人間らしく生きられ、人間として尊重される社会をもとめての行動であることにはかわりはない。社会主義への基盤となるべき人類の偉大な成果、それはまさにこうしたたかいのなかから生みだされたものである。社会主義への原動力も、またそのなかにある。私が、いわゆる日光談話で強調したかったのは、このことであった。
 
 もちろん、それぞれの民族は、その国の現実的条件や歴史的伝統にしたがってたたかい前進しているのであるから、国によって到達した水準は一様ではない。一つの国のなかでもその民族の中核である労働者階級が、得意とするたたかいの分野では大きく前進しているが、他の分野では逆にいちじるしくたちおくれるということもおこりうる。
 しかし、ここで大切なことは、人類の偉大な到達点というものが、決して外から偶然的にあたえられたものでなく、ほかならぬ人間じしんがつくりあげ、たたかいとったものだということだと思う。
 私が、人類がこれまで到達した主な成果として、米国の平均した生活水準の高さ、ソ連の徹底した社会保障、英国の議会制民主主義、日本の平和憲法の四つをあげてみたのも、以上のような考えにもとづいてであった。もちろん、人類の偉大な成果はこの四つにかぎられるものではない。ただ、それをわかりやすく説明するために、この四つをとりあげたまでである。以下、それぞれについて、私の考えを述べてみよう。
 
   高いアメリカの生活水準
 第一に、アメリカの現在の生活水準、これは、何といっても、こんにちこの地上において人間の経験しているもっとも高い生活水準である。乗用車の普及率が二・五人に一台でほとんどの勤労者が自家用車をもっているという社会は、まだアメリカ以外にはない。これは、一つにはアメリカの高い生産力の水準にもとづくものであって、こんにちまでに人類が発明した技術や生産力だけをもってしても、すでにこの程度の生活水準は享受できるのだという動かしがたい証拠である。
 しかし、私が強調したかったのは、こうした生活水準は決してひとりでにあたえられたものではない、アメリカの労働者階級が十九世紀いらいの文字通りの血みどろのたたかいのなかで一歩々々たたかいとってきた生活水準だという事実である。アメリカの労働運動史が教えているが、アメリカでさえ十九世紀から二十世紀のはじめにかけて労働者がストライキやデモをやれば、警官隊はもちろん軍隊も出動し、労働者の側に死傷者を続出させた。ギャング団がスト破りに縦横に活躍した。資本家の労働者に対する攻撃と弾圧は、戦前の日本を上まわるものでさえあった。アメリカの労働者は、ながい苦しみのなかから、AFLやCIOを結成し、弾圧をはねかえし、一九三〇年代には労働者の団結権を法律によって保障させ、不当労働行為を法的にも禁止させるところまで前進したのである。アメリカの高い生活水準は、このような労働者のたたかいをぬきにしては考えられないであろう。
 
 アメリカの勤労者は、経済闘争にかけてはおそらく世界でもっとも強力なたたかう組織をもっている。数年前の鉄鋼ストもそうだが、経済要求をかかげて百数十日も一糸みだれずたたかえるという組合は、世界でもそうざらにはない。
 しかし、かれらの組織は社会保障やもっとひろく社会問題、政治問題をとりあげてたたかう点できわめて不得手であり、ときには無関心でさえある。また軍備拡張に賛成したり平和のための行動では、だれがみてもその地位にふさわしい貢献をしているとはいえない。大部分の勤労者がまだ社会主義の思想にめざめていない。
 そのことも手伝って、アメリカの社会では、その到達した生産力水準にそぐわない社会的不均衡がめだっている。失業したり病気したときの不安、社会保障のいちじるしい立ちおくれ、膨大な富が国防に浪費されるために生ずる学校や病院のいちじるしい不足と都市環境の悪化、教育の機会不均等、スラム街、黒人に対する人種差別、数えあげればさらに多くの欠陥を指摘できる。私がいうまでもなく、民主党左派の人たちや、ハンセン、ガルブレイスなどの学者たちもこれらの問題の解決がいまアメリカ社会の緊急課題だと強調している。
 
 しかしそれにしても、アメリカの勤労者の賃金水準の高さが、こんにち人類の到達した偉大な成果であることに変わりはない。今日、世界各国の国民がアメリカの生活水準を、さしあたって到達すべき目標と感じていることも聞違いないところである。
 ついでに付言するが、私がこのことを述べたとき、ある人からは、アメリカの労働者階級は貧困化し、労働貴族だけが帝国主義のおこぼれで高い生活水準をえている。それを目標にするとはもってのほかだとの非難をうけた。この人たちはほかならぬソ連共産党が生産力においても消費の面でも、アメリカに追いつき追いこすことをすでにかなり以前から基本的なスローガンにしていることを忘れているらしい。
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