一、平和と安全保障に対する基本的な考え
二、非武装中立の基本的な考え方とその実現性
三、非武装中立の現実的根拠
四、日本の平和保障への道
五、非武装中立の国内的措置
 
一、平和と安全保障に対する基本的な考え
   (一)絶対平和の追求
 一切の武力から完全に遮断された恒久平和の維持は、人類の長い歴史とともに追求されてきた悲願であり、われわれの到達目標である。
 とくに、大量殺戮の究極兵器の出現とその発達にともなって、現在、最も熾烈な現実的要求となっていることは疑う余地のないところである。
 
 核時代と呼ばれる新しい世界史の中で、この「完全平和」の実現こそが人類に課せられた最大の任務であり、われわれは、この歴史的任務を達成するために、日本自らの歴史的過誤に対する深い反省の上に立って平和憲法を制定し、その決意を世界に表明したのである。
 国の安全保障即軍備という固定観念のもとに今日まで戦争と殺戮の悲劇をくりかえしながら、しかも殆ど根本問題を解決し得ないで軍備競争が続けられている。
 
 本来、平和そのものは最高度に発達した民主主義と一体のものであり、武力や軍備とは相入れない本質をもつものであるが、この基本的に矛盾するものを関係づけて安全を保障し、平和を求めようとしてきたところに矛盾の再生産−戦争のくりかえしが行われてきたのである。
 とくに現代における平和の危機は、この基本的な矛盾をそのままとし、究極兵器の無限の発達と拡大を統御できないでいる現実にその根源があるといわなければならない。
 
 日本国憲法は、このような現実の基本的な矛盾を克服するため人類の理想とする平和追求をその手段においても本来的な原理に則して具体化する国際的国内的努力を誓約したものである。
 日本国憲法第九条は国家として国際法上認められている自衛権を否定しないが、その権利行使の方法として一切の武力的手段を排して、いかなる国際紛争もあらゆる平和的手段をもって解決するという積極的な戦争否定の行動を背景にもつ絶対平和主義の精神に貫かれている。
 
 しかも、「恒久の平和を念願し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」憲法前文の表明のように、それは自国民の安全と平和のためばかりでなく、それを国家間の境界を越えて積極的に他民族に、ひいては全人類に敷衍しようとする新たな世界史の創造を志向したものである。
 この意味で日本国憲法の精神は国際的な優越性をもつものであり、われわれはこの憲法制定以来党の基本方針として非武装の絶対平和主義を完全に貫徹する方針を堅持してきたが、その正しさと重要性は現在少しも変っていないことを改めて確認する。
 
   (二)平和主義の普遍性
 非武装、絶対平和主義の条項をもつ日本国憲法は、世界唯一のものであり、先駆的な意義をもっているが、しかし、その基本精神は今日の国際世論の中で決して孤立しているものではない。むしろ絶対平和主義の思想は、一層深まり、普遍的な国際世論となって拡大している。
 国家や国際関係の制約の中においてすら国連における全面完全軍縮に関する八十二ケ国決議の採択(一九五九年)や部分的核実験停止条約(一九六三年)などの国際的諸活動の中にその方向が示され、同時に、核兵器の発達に伴って各国の科学者、知識人、労働者、学生、一般市民層の間に拡大した戦争及び軍備競争を憎悪し平和を追求する平和思想の高まりは急速度に高揚している。
 
 「ラッセル・アインシュタイン宣言」(一九五五年)、パグウォツシュ科学者会議(一九五六年七月)はひろく東西科学者の一致した支持をうけ、原水爆禁止運動は全世界的規模の運動にまで発展した。
 また、一九五四年NATO核武装計画など一連の緊張政策によってもたらされた情勢に対して出された五五年一月のウィーン・アピールに対しては短期間に七億名の署名が寄せられ、さらにラッセル・サルトル等のベトナム法廷は、ベトナムにおけるアメリカの戦争行動に犯罪性を規定づけている。このような戦争否定の世界世論は、ひとしく人類の安全と生存を保障しようとする国際倫理観の樹立につながっている。
 
 現在、帝国主義相互間の矛盾は依然として存在し、さらに帝国主義と社会主義、帝国主義と民族独立闘争の対立は続いているが、社会主義勢力と民族独立運動など世界の平和勢力は、帝国主義侵略と戦争政策に反対し、平和五原則を基本とする国際関係を推進しており、平和世論の高まりと相まって、基本的に戦争は不可避ではない国際情勢をつくり出している。
 以上のことは、明らかに古い戦争の論理が崩壊し、新しい平和の論理が創造されつつある世界史の流れを示すものに外ならない。
 われわれはこのように普遍化されつつある絶対平和の思想の現実的意義に強い確信をもつものである。
 
   (三)何を守るかー国民生活と権利の防衛
 政府自民党の安全保障政策の基本は、安保条約強化延長の方向にも示されているように、国家、民族間の関係を対立抗争の対象としてとらえ、軍事同盟によって意識的な敵対関係を形づくるという古い固定概念に支配されている。
 「国を守る気概」を国民に求め、「侵略から守る」という彼らの抽象的観念はこのことを示すものに外ならない。
 
 これは、人類の志向する平和思想とは全く逆に、一貫してアメリカとの安保条約を柱として自らの軍事力も強化し、再びアジア支配の地位を確立しようとしている。
 この方向はニクソン体制によってアスパックの軍事化、日本の防衛責任の強化などで一層強められる情勢にある。
 さらに安保条約の中で「締約国は、その自由な諸制度を強化する」(第二条)として、アメリカと日本の資本主義体制の維持強化をうたっているが、これは彼らが「侵略」から守ろうとするものは国民の生命や生活よりも独占資本の支配体制であることを証明するものである。
 
 また「……それぞれの国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎しむことを約束する。」(第一条)と規定しながら、ベトナムの民族独立闘争に対してB52の沖縄発進や原子力艦隊寄港にみられるように安保条約上の義務としてベトナム戦争に加担している事実からみれば、安保条約がいかに日本国憲法の基本に違反し、国民生活と権利を侵害するものであるかが明かである。
 われわれの安保条約廃棄、安保体制打破の政策は、このような自民党の政策と強く対決し、これを根本から転換せしめようとするものであり、その基本はあくまで日本国憲法の精神に立って平和を確立し、国民の生活と権利を保障し、これを最大限に伸展させるための努力を約束するものである。
 
 いわゆる「国を守る気概」という愛国心は、資本主義の矛盾を押しつけて、生活を圧迫し、諸権利を侵害しながら古い精神主義を強要する中からは絶対に生れるものではない。
 国家の基本法たる憲法の精神を完全に具現し、民主主義を高度に発展させる中で文化的な国民生活を保障し、その権利を最大限に尊重して、個々の生活実態からも守るに価する自発的な意志が形成される政治基盤からのみ、真の意味の愛国心が発揮されるのである。
 
 このような愛国心こそが最終的に非軍事的手段による有効な国民的自衛の源泉となり、行動が期待できるのである。
 われわれは、政治、経済、文化その他国の全機能をあげて非武装中立の平和国家建設にその努力を傾注する決意を明かにするものである。
 
二、非武装中立の基本的な考え方とその実現性
   (一)「非武装」と「中立」の概念
 もとより「非武装」と「中立」は異る概念であり、一つは国家の在り方の原理であり、他は外交政策である。しかしこの二つはいづれも平和主義を共通の根底にもっており、そこに両者を統一する根拠がある。それは決して理想主義的性格のものにとどまるのでなく、今日の世界情勢と日本の条件を加味するとき、もっとも現実主義的性格をあわせもつものであり、理念的、価値的側面を強くもつと同時に、政治的リアリズムの上に立つ現実的政策である。
 さらに現実の政策としてわれわれが非武装を主張する場合に、中立外交の諸政策と切り離し、非武装だけを抽出して議論することはほとんど意味をなさない。われわれの非武装とはそれは沖縄の即時無条件全面返還と基地撤去、中国との国交正常化、国連加盟、日米安保条約の廃棄、隣国との不可侵条約の締結等、その他アジアにおける諸々の緊張緩和の政策実施による政治状況、外交関係の変化を基礎としているからである。
 
   (二)非武装中立の基本的な考え方
 国家の安全保障の方法には二つの道筋がある。一つは同盟関係か単独かを問わず、軍事力の強化による方法であり、他は相手国との緊張緩和を基本とする方法である。この二つの間には外交政策とか国家戦略についての基本的な考え方の違いがある。
 第一に軍事同盟政策はもともと敵対関係を想定して生れたものであり、しかもこうした敵対関係を想定した政策をとること自体が、その敵対関係を持続させ、ときには激化させ、敵対関係の解決をいっそう困難にする。そういう方法に対する反省が非武装中立政策の考え方の基本である。
 
 また自主防衛論は、現実的にも論理的にも当然核武装にまで発展する性格をもっているが、その場合の安全を保障する抑止力とは何を意味するのか。A国のB国にたいする抑止力はB国にとってはA国の与える脅威であり、B国のA国にたいする抑止力はA国にとってはB国の与える脅威と映る。この場合に自国の軍事力あるいは核の傘に対してはそれを抑止力と称し、敵の軍事力に対してはそれを脅威と勝手に名づけているに過ぎない。むしろこの相互関係からいって、強大な軍事力はじつは抑止力ではなく起爆力であり、必然的に緊張の激化を生み出さずにはおかない。こうした奇妙な論理から抜け出すためにも、われわれは軍事力を前提としない世界を作り出すために全力をつくさなければならない。
 
 第二には、多くの中立国が武装していることをもって、非武装中立を非現実的とする説があるが、スエーデン、スイス、オーストリヤ、カンボヂャ、インド等が中立と安全を守っているのは、その軍備の程度によるよりも、国際政治の状況、国際世論、その国の中立政策、国民の抵抗精神によるものである。スエーデンが軍備を縮小しても、そのために侵略される可能性が増すとは考えられない。またオーストリヤはもし隣接国から巨大な軍事的圧力が加えられたら、これに対抗し得る武力はないが、しかしそのためにオーストリヤが安全を脅されていると考えるものは誰もいない。
 カンボヂャは三万の軍隊をもっており、しかもこの国は現に戦争の火中にある隣接国との長い不安定な国境線があるが、この国の軍隊が米国に援助された隣接国からの侵略を防げるとはとうてい考えられない。カンボヂャの中立と安全は、現在の三万の軍隊を四万に増やしても、二万に減らしても少しも変らず、隣接国がカンボヂャを攻撃しないのはカンボヂャの武装をおそれでいるからではない。このことはインドその他の中立諸国についても同じである。従って他の中立国の武装をもって日本の非武装を非現実的とする理由は当らない。
 
 第三には、これまで、安保体制か非武装中立かを論ずる場合、どちらがより日本の安全、あるいは防衛に役立つかという観点から問題がとりあげられてきたが、どちらが日本とアジアの平和や緊張緩和により有効かという観点から問題へ接近していくべきだという考え方である。
 問題は日本の外交がこれまで一度もアジアの緊張緩和のために外交を展開してこなかったことになる。逆にアジアの緊張を激化させる方向に力を貸し、つぎにアジアの情勢が不安定だ、脅威があるから安保や自衛隊が必要だというのが防衛論者の大方の立論であるが、こうした悪しき循環論をわれわれはどこかでたち切らなければならない。
 
 このような考え方が非現実的でない証拠には、最近、中国の核の脅威が誇張されながら、それにくらべてはるかに強大なソ連の核の脅威を感じなくなっているが、これは日ソの国交回復による国際環境の発展にあり、従って中国の「脅威」を減殺するためには中国との国交に問する外交的諸措置を誠意をもって積極的にとることである。中国に向けられている沖縄の核軍事基地を撤去させることもその一環である。
 このように非武装中立は、戦争からの逃避だけを目的とするのでなく、現在対立している国を含めて、国家的利益の共通性を積極的に拡げていくことに中心的な目的がある。日本国民がある朝目をさましたら、突如某国が核侵略を行っていたという状況想定は全く非現実的である。現実にはそれに至るまでに半年、あるいは数年の相互作用による緊張増大の過程があると考えるのが常識であろう。その緊張増大の過程を如何になくしていくかということこそ、真の安全保障の道である。
 
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非武装・平和中立への道
党外交防衛政策委員会=党国際局外交委員会
一九六八年一二月二八日
*社会党の非武装中立路線を体系的に述べた文書。出典は『資料日本社会党四十年史』(日本社会党中央本部1986)、目次はサイト管理者、長文のためニページに分けて掲載。画像は1972年横浜での社会党・社青同の米軍戦車輸送拒否闘争。全文(zip)