「笑」


楽もなく歌もなく、聞こえてくるのは会話に興ずる抑揚豊かな人々の声と、時折起こる笑い
さざめき、それに食器の触れ合う音だけ。日常的に催される宴の席で、マエケナスはいつにな
く気の抜けたような心持で、ぼんやりとその人物を眺めていた。いついかなる時も深い水底のよ
うに静まっている。低く漏らされる笑い声も、その後に訪れる穏やかな沈黙を深めるものでしか
ない。
「マエケナス」
その人物が振り向いた。
「どうかしたのか」
「いいえ、どうもしませんよ」
杯を持っていつもの如く瓢(ひょう)として答えると、その人ははは、と幾分か高い声で笑った。
「そうか」と澄み切った青い泉のような目元を伏せる。
知っているのだろうか、この男は。こんな何気ない動作にも仕草にも、人はどうしようもなく惹
きつけられるのだということを。知っていて行うことは、この男の最も得意とするところではあ
るが。
「アウグストゥス」
マエケナスが声をかけると、彼(か)の人はちらと目だけを上げてみせた。「あなたはこのロー
マの光ですよ。今つくづくと思ったのです」そう云うとアウグストゥスはふふと笑って、
「嘘をつけ」と云った。その表情にもまた皆が魅せられたけれども、ただ一人アウグストゥスだ
けはその表情の素晴らしさを知らぬのだと思うと、何かおかしかった。打算が働いていようともい
なくとも、ともかくもこの絶大なる力に支配されることのないのはただ一人、アウグストゥスだ
けなのだ。
「本当ですとも」
どこか真面目くさったような調子で云うと、アウグストゥスはまた低く声を漏らして、素晴らし
く、笑った。




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