「蝶」


道端に少年が寝ている。名は韓信ということをすでに鐘離昧は知っている。少年は人の行き来
のある方へ椀(わん)を置いて長々と寝そべっていた。その椀の中には、また周りには、ぱらぱら
と小銭が落ちている。道行く人々が与えていったものだろうが、少年は気づかずただ気持ちよさ
そうに眠っている。その頭上へ、どこからか一匹の蝶が舞い飛んできた。それは白い姿をして、
まるで花に戯れるかのように少年の顔のすぐそばをふわりふわりと飛んでいた。やがてその蝶の
巻き起こす微風に起こされたものか、少年の目がぱちりと開いた。彼は目の前に蝶を見つけると
あっと云って起き上がった。そして手を伸ばしてそれを捕まえようとしたが蝶は逃げて、それを
追って少年は立ち上がるとまた蝶は逃げて、少年は声を漏らして笑った。迷いなくその足は蝶を
追いかけて行った。いっそのこと足元にある椀や小銭など蹴飛ばしてしまって、少年は見る間に
白い影となって姿を消した。

「韓信」
「ああ、鐘離昧」
「これ」
鐘離昧の差し出した椀の中には小銭が入っていた。覗き込んで、韓信はしばらくじっとしていた
けれども、また鐘離昧を見上げて、何?と尋ねた。鐘離昧は苦笑しながら、「お前のだから」と
云うと韓信の手を取って、重みのあるそれをのせてやった。韓信は改めて眺めていたけれども、
やはりあまり思い出すことはなかったようで、
「そう?」
とまた鐘離昧を見上げた。鐘離昧はその手を椀ごと包み込むように持ちながら屈み込むと、「お
前のなんだよ」と重ねて、優しく云ってやった。すると韓信はそう、と今度は呟くように云って
から小首を傾げて、それから何とも云えない、とても嬉しそうな声を漏らして、笑った。




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