「途上にて」


平坦な道路は延々と続くようでありながら、肌を流れる微風の中にははっきりと潮の香りが混
ざり始めていた。西に傾く太陽からの光にはまだ夏の熱が残り、半島南端の港が近づいたという
意識もあいまって人々の着衣の下にわずかな湿り気を生じさせる。
前方に数台の馬車の列が見え始め、荷を守る男達とお互いの顔をはっきり視認できるほどに近づ
いた頃、こちら側の一隊の先頭を行く男に向かって先方から威勢のいい声が掛けられた。
「ブリンディシはもうすぐだよ。船に乗るのかい?」
「ああ、明日の朝に。」
「今夜はゆっくり休むことだぜ。疲れを残して海に出るとさんざんな目に会う。」
どっと馬車隊の男達が笑う。その明るさにやんわりと、それでいて確かな存在感をもって食い込
む声が響いた。
「ご忠告ありがとう。もう十分に骨身に沁みていることでね……。ところであなた方はどこまで?」
「ローマだよ、坊や。見事な金髪だな。」
「まだ道程はこれからですね。商談ですか?よい取引ができますように。」
「ありがとう。あんたらの航海の無事を祈ってるよ。」

舗装された道路を打ち付ける重い馬蹄の響きにも一日の疲れが滲む。行き交う人々の顔を馬上か
ら見やれば、西日に包まれてパンと葡萄酒を恋しがっている。この町に住まう人々も、商談に訪
れている男達も、さらに遠くの港を目指す途上の船乗り達も、よいことがあったならば喜び祝う
ために、悪いことがあったならば明日への景気づけに、求めるところが一杯の酒であることに変
わりはない。そして英気を養うための安らかな寝床を。それが一人きりの静かなものであるか他
人の肌との触れ合いを伴うものであるかは各人の家庭事情、もしくは懐事情による。
町の中心地を少し外れると、決して華やかではないが洗練された様式の家が立ち並ぶようになる。
比較的静かなその通りを一日歩き詰めの馬達の蹄が鈍い音を立てて進む。早く休息をくれと恨
みがましい目をして訴えかけている。
「大きな太陽だなあ。ローマで見るよりずっと大きく見える。」
前から三頭目、黒味がかった毛並みの馬に揺られながら西の空をまぶしげに眺め呟く青年がいる。
黒の短髪は微風を孕んでいかにも無造作に、まだ幼さの残る爽やかな面立ちを包み込んでいる。
「西に行くほど大きく見えるというなら分かる理屈だが。」
ただポツリと呟いただけのつもりであった青年は、後ろからの返答にやや驚いた様子で振り返り、
日除けの布から緩やかな曲線を描いて流れ出た金髪が、西日を浴びてそれこそ太陽それ自身の
ような輝きを放っている様を見とめて一瞬息を詰めた。
「南に行くほど暑いのは、やはりそれだけ太陽が近くにあるからじゃないのかな。」
「じゃ、北に行くほど遠く小さくなるのかい?そんならせめて夏の間だけでも私はガリアかそれ
以北の蛮地に引っ込みたいところだね。」
「理屈というならそれもあり得ると思うんだが……。」
「いつか君自身の肌で確かめて報告してくれよ。」
金の髪の青年、と呼ぶにはまだ骨格からしてか弱げなその人物は、言葉を言い終わらない内に手
の平で口を覆い、いかにも品よく欠伸を漏らした。
「オクタヴィアヌス、君、馬上でまた眠りそうになっていただろう。危ないから気をつけないと。」
「だから馬は嫌いだよ。尻は痛くなるし、日差しを避けるのも面倒だ。」
「……もし君が総司令官になったら、戦場でも輿を乗り回しそうだね。」
「ああ、いいね。一番いいのは非戦闘地に引っ込んでることだけどね。ところでその、宿屋の真
似事をしてくれるという家はどこなんだい?」
左右の家並みを眺めながら、オクタヴィアヌスは先頭を行く男に呼びかけた。柔らかに、滑り込
むように響いたその声に、壮年のたくましい体躯と慎ましやかな使用人の風貌をあわせ持った男
が振り向いて答えた。
「あそこに見えます、窓に赤い色をつけた家がそうです。ご主人様の古くからの友人の家でござ
います。」
「カエサルの友人ならさぞ気のつくことだろうね。食事も大層なものを用意してくれているんだ
ろうが、アグリッパ、君、私の分も頂いていいよ。私は風呂に入ったらすぐにも寝床に潜り込み
たいからね。」
「それはいけません、坊ちゃま。ローマを発つ前にご主人様がお話されていたのは、ギリシャの
地で心身ともにたくましく成長されたお二方に再会するのを楽しみにしているとのことでしたか
ら、この身には過分のお務めとはいえ監督責任を負った立場としましては、食事一つにしても疎
かになさるのを黙って見過ごしにするというわけにはまいりません。」
頑固一徹、道一筋という態度にさながら気ままな風のように吹き過ぎてゆこうとしていたオクタ
ヴィアヌスも足を止める。その表情には変化という変化も見えないけれども、真正面から照りつ
ける入日にいかにも怜悧そうに双眸をきらめかせた。
「アグリッパ。」
馬の腹を蹴り、半馬身ほど先にいた青年に並ぶ。呼ばれた方は実直そうな眉の下に奥まって控え
る黒い目を動かし、何だい?と彼からすれば肩口の高さに揺れる金髪の下の顔に対して若干首を
かたむけた。
「先に行こう。」
「え?」
「ご挨拶をしに先にゆこうと言うのさ。」
自身の乗る馬に速足を命じ、何事かと集まる視線に振り向いて答える。
「主人の言いつけに忠実であろうとするその意気やよしだが、一回の食事をしないという自由す
ら奪われるのは私の好みではない。その調子では何を食するかという細目にまで指導が入ること
になるのだろうな。まったくもって好みじゃないね。お前達は自分に与えられた役目をそれぞれ
着実に果たすがいいさ。私は私の好みを貫き通すこととする。だってお前達が幾らカエサルから
指導監督を徹底するよう言われているにしたって、それを素直に受け入れるかどうかの裁量権ま
で放棄せよとの命令を、この私が、大伯父から受けた覚えは一度だってないのだからね。」
そう言うと馬のわき腹を先ほどよりも強く蹴って、オクタヴィアヌスはたちまち一行を抜け出し、
緩やかに続く上り坂を左手に折れていった。それを黙って見送っているわけにもいかないと、
後に残された人々の中から反応の早い者が数名馬を駆けさせようと手綱を胸元に引き寄せる。
「待ってください。」
それらを制して響いた声は若いながらも貫く一本の筋があるように感じられ、人々は一定の注意
を向けないわけにはいかなかった。
「このままゆっくり来てください。俺が追っかけていきますから。いえ、何もあなた達の務めの
邪魔をしようというのではなくて、彼の、オクタヴィアヌスの好みに合わせてやろうというので
もないので。ただオクタヴィアヌスは今自分に声をかけてくれましたから。彼の学友という立場
にどうしたわけかカエサルから選んでいただいて、まだまったく打ち解けたというには程遠い状
態なので、せっかく声をかけてもらったその機会は大事にしたいかなと。」
「アグリッパ様。」
「その呼び方にもまだ慣れないんだな……。」
「分かりました。行ってらっしゃい。」
「ありがとう。」
笑顔とともに素早く手綱をさばいてアグリッパは馬を発進させる。多少の砂塵が舞い上がってキ
ラキラと赤味を帯びて輝いた。
馬蹄の音も遠ざかり、残された一行は疲れた馬の足に任せてゆっくりと進む。平服を着た護衛の
者が幾人かいるものの、他は全てカエサルを所有者とする奴隷である。先に行ってしまった二人
は主人に命ぜられた彼らが現在仕えるべき相手であるが、彼らの誰もオクタヴィアヌス、アグリッ
パに比べて年長であることから、二人に対する見方というのには自ずから見守るという観点が
加わる。
「やはりご主人様は見る目がおありでしたねえ。坊ちゃまは確実にアグリッパ様を気に入ってお
いでですよ。」
「坊ちゃまが一定の興味以上のものを持たなければそれも時とともに薄れて、興味がおありにな
らないとなるととことん冷たい方だから、ご主人様がどう思い描いておられたところで結局あの
お二人の仲は自然解消……と我々の中でも危惧していたのだよなあ、最初は。もう一月半は経つ
か?確かにまだ距離を測っておられる期間ではあるのだろうが、坊ちゃまからの呼びかけに義務
的な響きがなくなったというのはそれだけで驚くべきことだ。これまで触れ合ってきたお偉い方
々の子弟とは大分違った様子が珍しくてらっしゃったのかなあ。それにしてもやはりまだ一定の
距離を置いておられるのは人見知りが激しいのか、警戒心が強いのか。取り入ろうと努めている
ようにも見えないが、あのアグリッパという青年も内心落ち着かないだろうな。下手を打って遠
ざけられたらそれまで。また貧しい下っ端歩兵の生活に逆戻りなんだから。」
「あまり気負いというのは見られませんよね、それでも。自然体というのか、大らかですよ。い
い青年ですから我々としては応援してあげたいじゃないですか。」
「坊ちゃまにとっても新しい対人関係の形というのか、知らなかったことを知るというのはいい
ことだ。あのお二人の仲が互いにとって有益なものとなるように、それをカエサルは望まれたの
だろうから、我々としては主人の希望に副うまでだ。うむ、何事につけて。」
二人の若者が姿を消してすでに久しい曲がり角に彼らの先頭を行く馬の鼻先がようやくかかり、
真正面からの強烈な落日の光が右方からのものに角度を変えて、それもつかの間、立ち並ぶ建造
物が直接の射光を遮って卒然と暮色を深める。衣服に染み込んだ風の涼しさに驚いて、幾人かの
ものは思わず腕をさすり肩を縮めた。それまでは南部特有の放埓と陽気を感じさせていた海から
の潮の香(か)が、何やら寂しげに思われてくる。
誰が言うでもなく、彼らは少し馬の足を急がせる。本来の住まいは遠く離れてきたものの、温か
い家庭の光があるだろうと思うとまだ見ぬ場所でも不思議と恋しく思われる。疲れた体を休めた
いのは疾うからのことであった。が、あまり急いで先行する二人に追いついてもいけないと結局
は元の通りの足並みに。仕える立場にあるがゆえの他人本位を違和感もなく受け入れ、多くは初
めて目にするブリンディシの町並みに改めて目を向けた。目的の地はまだ遥か遠いギリシャ。果
てしない旅の始まりがこのブリンディシ。全ての通りに満ち満ちた潮の香が、旅人の五感を刺激
する。
冷めた暗紫色が忍び寄る空に、うっすらと白い月の影が浮かんだ。港町はまだ熱を持った頬を両
手に包み込みながら瞼(まぶた)を重たげに下ろそうとしている。薄暗い通りを進む一行の中で、
一人が緩慢な動きで大きなあくびを漏らした。

白い帆をさながら女人の豊満な胸のように膨らませて船は快調に波を切り裂く。遠くから見やれ
ばさながら氷上を滑るが如く。実際には定まらない足場に軽く贓物が浮き上がり、かと思えば押
し上げてくる感覚に全力で踏ん張る。不意に左右に大きく揺れることもあり、経験豊かな船乗り
達はまるでそうした動きの一つ一つは予知できるものと言わんばかりに平然としているが、多く
は海は初心者に等しい一行にあって何らかの体調の変化をきたしていないもののほうが珍しい。
一人の奴隷がそう広くもない船室でごく少量ながら嘔吐した。さらに続けて腹の中の物がせり上
がってくるのを堪えきれない様子で背中を大きく揺さぶり、と同時に奴隷という立場ゆえ仕える
相手に憚って部屋の隅の方へずるずると這っていった。
「坊ちゃま、どうか。」
「うん、外に出てくるよ。私も気分は悪いが彼ほどじゃない。風に当たれば治まる気がする。」
いつもの通りの穏やかな声音でそう告げると、オクタヴィアヌスは薄手の日除けですっぽりと頭
を覆った。その口元には笑みが含まれているようであり、伏せられた目元は睫毛の先までピンと
張り詰め見事な気品を漂わせている。
オクタヴィアヌスが出て行った後、室内と甲板を隔てる間仕切りはしばらく落ち着かず右にずれ
たり左にずれたり、その度に外の明るい光が差し込んで部屋の中ほどを踊るように駆け回った。
出入り口の近くに投げ出されていたいかにも若い引き締まった足が引っ込んだのは、日差しがま
るで人の手の平のように熱く実体を感じさせるものであったからだ。
「夏が戻ってきたみたいだなあ。びっくりした。」
呟いた声はアグリッパのものであり、彼はひょいと立ち上がると間仕切りの隙間から空の青さを
覗くように見やった。彼の外見や言動は陸地に立っていた時とまるで変わらない。
「ちょっと出てきます。気持ちよさそうですよ。」
大部分の人々は応えることもできず、ただ二、三人が青年の健やかさを羨むように笑みを漏らし
て頷いた。
風向きは安定しているようで、甲板を歩くアグリッパに船乗り達はのんびりとした声をかけた。
日に焼けた顔はどれも油を塗ったようにピカピカと光り、そうかと思うと軽く振ってみせる手の
平は小麦粉のように白く、パッチリと開いた目の色はどれも濃い色合いであるからこそ白い部分
が際立ち、縮れた口髭の下にあっていかにも頑丈な並びのよい歯は真珠のように輝いていた。
「よう若いの、いい血色じゃないか。船酔いなんてどこ吹く風だね。」
「気持ちいいです、とっても。海ってのはきれいだし広いし伸び伸びしますね。」
「やあ分かってるぞ、素晴らしい!ぜひとも船乗りになるべきだね!」
「あはは。ところで私より先に出てきた人がいるかと思いますが。」
「ああ、あっちの方にいるよ。無愛想だね、彼は。」
「喋りませんでしたか。」
「顔も向けなかったよ。」
「あ、やっぱりな。」
「何だい。」
「いいえ。」
軽く手を振りアグリッパは船乗り達に礼を言った。
おそらくあの船室にいたものの中で、完璧に繕われたその完璧さゆえに違和感を感じたのは自分
ひとりであっただろう。たとえ他にいたとしても、こうして二本足で立って追いかけてこられた
のはやはり自分ひとりであったに違いない。
「オクタヴィアヌス。」
舳先(へさき)近くの手すりに寄りかかった背中に、慣れたものを前にする時のような心の軽さ
を感じた。
「気分はどうだい。吐いちゃいないか?」
「……よく分かったな。」
二人の青年の視線は一瞬だけ交わった。オクタヴィアヌスは内部からの不快と見透かされたこと
への少なからぬ不愉快を滲ませた目で、アグリッパは手を伸ばし触れ合うことも厭わないただまっ
すぐな優しさを込めた目で、互いに相手を見つめた。
「君は意外に分かりやすいよ。」
「ほう……初めて聞く評価だ。」
「海が綺麗だね。」
「空を見てるよ。動かないから。鳥が邪魔だな。動くから。」
「君にかかっちゃ世の中ほとんどのものがいらないね。……ギリシャは楽しみかい?」
「ああ、そうだね。」
「ローマとは大分違うんだろうか。俺はいまだにギリシャなんて本当にあるのかな、なんて思う
んだけど。」
「分からないね。もうギリシャかもね。あそこに見えてくるんだろうね。」
オクタヴィアヌスは目だけを船の進行方向へと走らせた。睫毛の動きからそれと知ったアグリッ
パであるが、同時に白い手が動きかけながら動かなかったことにも気づいた。相手の目線の位置
に合わせて、アグリッパも手すりに深く寄りかかる。海の香りが急にきつくなり、波の音が肌を
震わせるように全身に流れ込んできた。
「真っ先に何をしたい?向こうに着いたら。」
「地面に転がって寝たいね。体の中がすっかり静まるまで動かない。……気分が悪い。吐くもの
なんて今朝食べたキュウリくらしかないけど。」
「あれだけしか手をつけないなんて、君はあんまり人を気遣わないよね。」
「気遣いの問題じゃないよ。実際あれだけしか入らないのさ。アグリッパ、ちょっとずっと喋っ
ててくれないかな。私はもう黙ってるよ。人の声に耳を傾けてると気が紛れるような気がする。
船乗り達の声もするけどね、あれはどうも潮っぽくて。」
眉間に小さく寄せた皺がまるでむずがる子供のようで、単純な欲求から発するわがままにはなる
ほど悪意が入り込む余地はあるまい。同年の、しかし生まれも育ちもまるで異なる様態であった
自分達二人はこうして様々なところで相手の言動に呆れと驚きと、どこか感心したような心持ち
を今後も持ってゆくことになるのだろう。
「オクタヴィアヌスは面白いね、何だか。」
「君はじゃあ、自分が一般的な人間だとでも思ってるのか?」
「泡だよ、ほら。」アグリッパは海面を指差した。「魚が息でも吐いてるのかな。ヴェヌス神は
海の泡から生まれてきたんじゃなかったっけ。見ていようよ。」
「動くから嫌だ。空を見てるよ。でも目が疲れてきた。寝ようかな。」オクタヴィアヌスは目を
つむり、それきりうんともすんとも言わなくなった。通常の呼吸など、船乗り達の笑い声と遥か
な海上を寄せ来(きた)る波のざわめきの前には無いに等しい。
空を見上げ、白い鳥影が無数に飛んでいる景色に目を細め、アグリッパは相手に話しかけた。
「楽しみだね。ギリシャなんて君と来るとは思わなかったよ。だってほんの二ヶ月前まで知らな
かったんだからね、君のこと。」
「…………。」
目を閉じるとあらゆる音が数倍に膨れ上がって、鳥達の鳴き交わす声が聞こえ、風が空の高いと
ころで吹きまくっているのが聞こえ、自分の話す声もまた余韻を深くして響いた。
「楽しみだなあ、全てが……!」
新しい日々へ向かう彼らの耳に、ひと夏の熱を抱いたままの海の鼓動が、まるで歓送の曲さなが
ら、力強い響きをもって流れ込んできた。




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