「曙光」


韓信は長身であった。が、威容、というほどの押し出しはなかった。彼より堂々として見える体躯の者など、劉邦幕下に幾人もいた
し、劉邦自身からしてそうであった。韓信は浮浪児の上がりだった。家系も代々の生業も明らかでなく、日々の食事にも事欠くよう
な少年時代を送っていた彼が、骨を丈夫に育てたり、その周りにたっぷりと強靭な肉を蓄えたりすることなど、できようはずがなかっ
た。
顔立ちはというと、目は大きく、鼻は高く、唇はほどよい大きさで、瓜のようにつるりとした膚(はだえ)の上に、それらが品よく
載っている。美形といってよい。だが一般に、人が美人を前にした時に覚えるあの揺すぶられるような感覚、張良を前にして、劉邦
が思わず呆けたようになった、あのような現象を、韓信は起こし得ない。美人にも様々あるが、彼ほど侮りを受けやすい美人もそう
はあるまい。まず、瞼が厚い。常に重たげに、落ちてくるようである。それは彼に奇妙な色気のようなものを与えたが、同時に鈍重
な印象をも見る者に抱かせた。細すぎる眉は、意思の弱さと映った。さらに、彼は色合いの点でも細やかな感触という点でも極めて
優れた肌を持っていたけれども、それは彼に、今まで歩んできた道のりがあることを感じさせなかった。赤ん坊ならば、それは未知
の輝きであった。が、韓信はすでに成人であった。成人であるのに未知というのは、すなわち木偶(でく)ではないかと人々に疑わ
せる。さらに加えて韓信は表情に乏しかったが故に、余計に人々は韓信のことを、肌だけは磨き抜かれた木偶だと思った。
人を驚倒させる美形といえども、その行うところに考えがなく衝動的であり、言葉に真実がなく何も積み重なっていくものがないと
分かれば、人はたちまちに感嘆を侮りに変える。器の美しさしかないと分かれば、あとはその器をどう使うか。劉邦のように、重ん
じられながら、おだてられながら、天下に号令する器として使用されるというのは、まことに恵まれている。古今で最も幸福な器で
あるといえるかもしれない。……大抵は、考えを持たない器は考えを持たない故に、人間のそうした側面、すなわち獣性を満たすも
のとして使用されることが多い。
韓信は、最初から侮りを受けやすい男だった。最初から、器それのみの使い方しか思案されない男だった。楚では郎中(宮中警護の
役人)、漢においては最初は連敖(賓客接待の係)だった。若くて姿はよいが何やら覇気がないので、ともかくもお行儀のよいとこ
ろに配置しておこう、という程度の思案が、それぞれ、彼の配置を決めた担当官においてはなされたのであった。行儀のよいところ
でも最も低い身分に留め置かれたのは、彼に常に聞き苦しい噂がつきまとっていたからであった。

今、韓信はその身体を美々しい行装で固めている。細身の長身だから、あまり重厚な鎧だと着られているように見えてかえって無様
かもしれない、と考えた蕭何によって、身を覆う金気のものは最小限に、しかしそれらにはすべて精緻な彫刻がほどこされている。
その上にゆったりと、地紋鮮やかな衣をまとわせ、綺麗に梳いた髪はうなじのところですっきりと結わえた。
不思議なことに、こうして上品にその姿を飾りつけてしまうと、韓信という男は最初からそのような姿しか知らないかのようであっ
た。淮河のほとりで、綿うちの老婆に飯をめぐんでもらっていたかつての赤貧の浮浪児とは、とても思われない。
こうした韓信の姿に、文武の百官も多少はその認識を改めざるを得ない。鈍重そうな見目に、醜聞にまみれたその過去故に、まずもっ
て姿からして大将などという大品格を要する役職は勤まるまい、と思っていたのが、どうやら容貌や挙措動作に限っては、相当に
優れたものを持っているらしいと気づく。貴族のように見えた。大将軍だ、と言われずとも、確乎として彼と他とを画する気品が、
彼には身についていた。
将軍でもよい。
人々は思った。
しかし大将軍はどうか。
大勢いる将軍のひとりなら、やらせてみてもよい。日々の軍事教練や雑事をこなすに当たって、韓信がどんな失態を演じようとも、
周りに同格の将軍が幾人もいれば目立つまいし、彼の無能を補わせ、それに代行させることも可能であろう。だが大将軍は、ただひ
とりである。その権能は、ただひとりが持つ巨大なものである。韓信が、大将軍の持つ権能を不適切に振るったり、また振るい過ぎ
たり、振るわなかったりした場合に、誰がこれを補うのか。誰が取って代わるのか。こなし得る者がいないと思われてきたからこそ、
今まで置かれなかった職である。韓信が不適格であったら、ではまたなくしてしまえばよい、というものではない。安定しない組
織に兵士たちは不安を覚え、逃亡するものはますます増えるであろう。国の存亡を賭けた博打であった。それを蕭何が、最終的には
劉邦が、韓信に託してやろうとしている。人々は、恐ろしい。目の前の韓信には、幸いなことに品はあった。だがその立ち姿は鎧に
包まれていてもなお柔弱であり、才能や人格は、あまりにも隠れたままであった。人々の目には、まだ韓信という人間の器しか見え
なかった。それはそれなりに形のよい、愛でるべきものである。が、器というのは盛り付けてゆかねば空っぽのままなのであり、韓
信という男の膚はあまりにも日月の経過というものを知らぬかのようなのである。
恐ろしい。
恐ろしい儀式が、今進行している。ひとり蕭何だけが、泰然としているかに見える。彼は時折、ほんのりと嬉しげな様子さえ見せる。
丞相は何を思ってらっしゃるのか、と文武の百官でいぶからないものはない。蕭何は、韓信を大将軍という地位に送り込むことに
成功して、安堵しきって、身体を弛緩させているように見える。が、その実、蕭何の内心は文武百官のそれとそう大した差があった
わけではない。彼はただ、他の人々より韓信をよく知っていて、この日を迎えるに当たって始終考えを巡らせていたから、覚悟がで
きていた。これが博打であり、失敗した暁には恐ろしい事態が待っているということについては、おそらく最も生々しく認識してい
たのは彼であったろう。

いつかはせねばならぬ、博打であった。そしてその成否を託するに、韓信以上の男はいないように思われた。
韓信は、あらゆる書物の内容を把握していた。立て板に水を流すが如く、蕭何がどうだ、と言ったものについて間髪容れず滔々と述
べた。書物の特定の箇所を指してみても、ああ、と言ってすぐに話しだす。語っている間は、つまらなそうな顔をしていた。まるで
師に素読するよう言われてふしょうぶしょうやっている不逞の学生、という感じであったが、ともかくも、暗記していた。暗記した
膨大な知識の上に、韓信は独自の経世論のようなものを組み立てていた。彼の異才ぶりを蕭何が認めたのは、その経世論の中で、彼
があくまで軍事を国家の諸機能のひとつとして捉え、他の機能との連携があってこそ初めて国家というものは成り立ち、故に軍事行
動というものも維持できるのだということを、当然の如く、述べたからであった。
「兵力の供給源というのはひとつひとつの村落なわけですから、そこに住まう人々の暮らしの安定は大事です。租税は個々の能力に
応じて、納得させる形で出させなければいけませんし、蓄えの一切ないものからは取り立てるべきではありません。むしろ国庫から
救済費を出すべきです。」
「農繁期の戦は極力避けねばなりません。」
とも韓信は言った。
「兵馬の腹を満たすものをよく育てて、取り入れて、蓄えてくれる民を、その最も張り切って働いてもらわねばならぬ時期に戦場に
駆り出すなど、愚の骨頂です。」
蕭何は驚いた。漢の将軍達の中で、このような物の見方をするものはひとりもいなかった。
「あなたは優れた人だ。」
蕭何は言った。
「博識であり、弁舌には説得力があって人を魅せる。高いところから世の中を見ており、国家とはどうあるべきかという考えを持っ
ている。が、わたしにはどうにも分からないことがある。」
「何でしょう。」
「どうして軍事の統率者でなくてはならないのか。官庁の役人の仕事でも、あなたならば立派にこなされるのではないだろうか。現
に、今あなたは治粟都尉という職にあって、わたしから見れば非の打ちどころのない成果を上げている。」
治粟都尉とは、食糧管理の将校のことである。劉邦陣営に鞍替えした韓信が連敖の次に得た、将校とは言えひどく文官的な業務を司
る役職で、これを韓信はそつなくこなした。日々の食糧の出納を記録する際の書式を少し変え、より短時間に書きとめられるように
し、一目見て一日の収支結果が分かるようにした。彼の個人的な才覚として計算が速く正確ということもあり、食糧管理に携わる将
兵達の間では、一日の仕事量が前よりだいぶん軽くなったと評判である。さらに蕭何が素晴らしいと感嘆したのは、韓信が治粟都尉
になってから、その部署にあって脱走する者がぴたりと止んだことである。いわゆる“左遷”されて以後、劉邦軍からの脱走者は後
を絶たない。軍中どの部署にあってもそれは変わらぬ傾向であり、韓信の前任として治粟都尉にあった者も、実は逃げている。数人
の部下とともに、管理しておかねばならぬ食糧の一部をくすねて逃げた。この報に接した時、劉邦は地団駄踏んでその前任者を罵っ
たものである。
韓信が、空席となった治粟都尉の職に就いてすぐ、いったいどんな訓示をその部下に対して垂れたのか、また実際どのような手を打っ
たのか、蕭何は知らない。ただ食糧を管理する部隊からの脱走者がぴたりと止んだことに気づき、そこに席を置く人間に会って話
を聞いたところ、誰もが、春の陽光に接したかのような朗らかな顔をしていることに驚いた。彼らはみな口をそろえて、
「士たるもの、どうして簡単に主君を見限れましょう。項羽は苛烈な性格で、天下を治めるのに相応しくありません。我らはみな劉
邦様の温かな政治を望んでいます。遥か関東の、家族や友達の住むところにもそのような政治が布かれてほしいと思います。そのた
めには一時の寂しさや苦しさなど、なにほどのものでしょう。必ずや耐えて、関東に戻るのです。」
そう、韓信様がおっしゃったのです、と彼らは言った。

「あなたは、大抵のことはできるんだと思います。」
万巻の書を己が頭ひとつに叩き込み、縦横無尽に思考を重ねて独自の経世論を編み出し、しかもそれを弁舌巧みに語って聞かせてこ
の場合は蕭何を感嘆させた。望郷の思いに嘆き暮らし、ともすれば逃亡の誘惑に引っ張られそうになっていた人々には、その思いに
心を寄り添わせつつも義侠心に訴え、道理を説き、己を信じさせることによって結束させ、動揺を消し去った。
短期間の内に信頼を勝ち得た、というのが何より凄いと蕭何は思う。それは将兵たちの目に韓信という男が好ましく映じたというこ
とであり、正確に捉えたかはともかくとして、その才覚に感じ入らせたということでもある。人を組織し引率する能を、持っている
と言うことができるであろう。
「人の上に立ち、国家機構の重要な部分の担い手としてぜひとも辣腕をふるっていただきたいと思うが……」
すでに、韓信を推挙しようという気持ちは固まっている。この男には、自分と一緒に国家を基底から支える役割を果たしてもらいた
い。そつなくこなすだろう、と蕭何はほとんど確信している。
しかし、と蕭何はさほど滑らかでもない口元を澱ませる。
「どうも分からない。」
韓信さん、と上体を傾けて韓信に近づいた。ふたりの顔の間にはほとんど一尺ほどの距離しかなくなった。
「あなたは、軍事を総攬したいと言う。」
「そうです。」
韓信の目が輝く。
「どうして軍事なのです。」
「丞相、その問いの意味がわたしには分かりません。」
「どうして……つまり国政の……」
「丞相。」
わたしの頭の中は、と今度は韓信の方から顔を近づける。
「もうずっと、ずっとです。戦を、しています。わたしの頭の中で、ある時は歩兵部隊が中心となって、ある時は騎馬隊が機動に出
て、またある時は戦車部隊が圧倒的な威力を発揮して、勝つのです、わたしが、わたしがです……!広々とした平原で、山越え途中
の嶮路で、何度戦ったでしょう。河を挟んで対峙したこともありました。河床に足をつけながら戦うことは困難です。けれどもそう
した戦も時にはせねばならぬもの。そうした戦いに、幾度勝ったでしょう……!」
蕭何は、呆気にとられた。つまるところ、韓信という男はどういう生き物なのだか、分からなくなった。
「あなたは戦がしたいのか。」
「戦です。兵馬の権を、すべての軍隊を統率する権利を、この手にください。」
「か、勝つのですか?」
そこのところは、蕭何には分からない。国の財政やら外交政策やらを含めての軍隊行動の指針の策定ということならば、多少は関わっ
ていくこともできようし、するべきであるし、故にそのための人材に求められる資質がどういったものであるか、ということにつ
いてもある程度は彼の中で具体的な項目を挙げてみることができる。が、実際に軍を率いて戦わすということにおいては、その勝利
を掴む“こつ”みたいなものは、彼にはさっぱり分からない。だから、その点で韓信が、自分は優れている、百戦して百勝すると幾
ら瞳を輝かせて、自信に満ち溢れた口つきで自薦したところで、そんなものですか、としか蕭何は言えない。
「あなたが優れた人物であることは分かる。だが、わたしは自分で戦をしないから分からない。と言うよりも、いったいあなたは何
者であるのだろうか。」
戦争屋と言うのですか、と蕭何は言った。
「いや。」
とすぐに自分で首を振る。
「あなたには知性がある。」
戦争屋というものには、あまり知性がない、と蕭何は感じている。そこのところは、あくまでも“感じ”である。
「戦をしたいだけの人間ということで構いませんが、戦に勝つというのは単に戦場において策戦で優る、というだけでは達成できま
せん。兵站が十全に機能していることが大切ですし、内部での人事や手当、救護の体制が兵士たちに対して説得的で安心感を与える
ものでなければなりません。そして後方においては、将兵達の帰る場所、家族の住まっている場所、すなわち国家というものが、安
定していなければなりません。」
だから、と韓信は言う。
「万全の態勢で、完全な勝利を、永続的にあげ続けていくために、そのために、結局のところわたしは多くのことを考える、という
ことです。」
「……分かりました。」
蕭何は、観念させられてしまった。これ以上、互いにどれだけ時間と言葉を費やしても、今以上の納得を得ることはできまい。韓信
は、優れた人間だ。だが将帥の才があるかないかということに関して、生粋の文官であり続けてきた蕭何には確かめようがないし、
樊カイや灌嬰の類を呼んできたところで、おそらく分かるまい。彼らは有能な部隊長達であるけれども、百万の兵に将たる人材では
ないし、それを見抜く目も持っていない。彼らと同じような任にあり、多少の文字を知っている夏侯嬰が、蕭何のところにやってき
て韓信という男がいることを教えてくれた時の言葉が、
「とにかく凄いんです。何が凄いんだかはさっぱり分からない。でも丞相、あれは絶対に尋常でない人だと思いますよ。仙人か、で
なければお化けの類じゃないでしょうか。」
というものだった。
夏侯嬰は圧倒されてしまって、彼の中の物事を受け止める容量というものがいっぱいになってしまって、それでも受け止められない
ほどのものだったから蕭何のところに転がりこんできて、助けを求めたのだ。
(今この南鄭で、軍事を一手に掌握するに足る素質とは何であるかを問われて、答えることのできる人間などいない。)
蕭何が、決断せねばならなかった。漢中より出、故郷へ帰る、その道を切り開いてくれる超人を見つけ出してこなくては、劉邦以下
君臣ことごとくこの僻陬(へきすう)にて老いさらばえてゆかねばならないのだった。
(項羽に勝つ、ということだ。)
この田舎に、劉邦を押し込めたのは項羽である。劉邦一派の命脈を保つため、この地より東へ出て行こうとするのは、すなわち項羽
と真っ向対決するということである。項羽に、勝てるか。蕭何は、圧し拉がれた声で韓信に問うた。韓信は、奇妙な反応をした。笑っ
た、というのでもない。ただ軽く唇の端を震わして、少し、蕭何のことを小馬鹿にするような顔をした。
「勝てまする。わたくしは、勝つのです。」
この男に賭けよう。蕭何は思った。決意した瞬間、ひどく静かな心持になった。

紆余曲折があって、韓信は今、劉邦から全軍を束ねる上将軍の印を授けられようとしている。彼の心中を、推し量ることはできない。
茫漠とした空のように、目つきにも口つきにも、およそ取り留めというものがない。どこまでも広がっていくかのような顔をしており、
かといって目的はないようであって、不安げでもあり、ただの阿呆のようにも見える。
「この印は……」
と劉邦が大きな手の平にのせて衆に示したのは、上将軍の印である。朱色の袋に包まれていて、存外小さいものだという以外のこと
は分からない。
「韓信、そなたのために作った。この台も……」
と劉邦は、今自らを含めた全員が踏みしめている式典用の造形物を長い首を巡らして見、
「韓信、そなたのために造らせたものだ。」
と言って、静かに韓信を見据えた。
劉邦の顔は、すこぶる立派である。濃く勢いのある眉毛の下で、目が爛々と光っている。鼻は高く、厳めしさとともに格調の高さの
ようなものを感じさせ、およそ農民の子とは思われない。劉邦の生まれ育った場所を知らないものは、誰も彼を農民の出とは思わな
かった。どこの貴い家の人であろうかと思った。だから、彼は今の地位に居る。
韓信は劉邦を見て、少しいじけて思った。
(俺もこんな顔だったら、早くに取り立てられてたのかな。)
無論、己の才に気づかなかったものが悪いのだが、もう少し分かりやすい標識というのがあってもよかった。俺はどうもパッとしな
い。立派な顔でもないし、気宇壮大という身体つきでもない。希少な大才を持っていながら、気づかれることがなかったのはそのた
めだ。天というのも気が利かぬ……と韓信は思い、思いながら、劉邦の顔をじっと見ていた。
「韓信、今そなたを……」
劉邦は、息を吸った。彼の唇に、人々は意識を集中させた。大きくて薄い、つやつやと赤い唇。
「将軍達の、上に置く。すなわち、上将軍とする。」
ほう、と息を吐かぬ者はなかった。ものすごい勢いでぶつかり合う絶望の闇と希望の光とで、人々の目は眩んだようになった。ああ
言ってしまった。誰もが、自分達の運命が、あるひとつの方角に定まってしまったことを知った。それは果たして上り坂であろうか、
下り坂であろうか。

しばらく、場は放心した。
劉邦にしてからが、ぽかん、と口を開けていた。彼は内心、小さなおかしみのようなものを感じていた。俺の運命は、この妙に滑ら
かな肌をした男の才能のあるなしによって決まるのだな、と思うとおかしかった。
(この男は幾つなのだ。)
そしてこの俺は幾つなのだ、と考えるに及んで、声を立てて笑いだしたくなった。
劉邦の唇の端がうずうずと揺らぐのをどう見て取ったか、蕭何が、いつになく張りのある声を発した。
「大王様、印を、上将軍にお授け下さい。」
まるで張良のようだ、と劉邦は感じた。
「授けるとも。」
知らず、笑みがこぼれた。
「信よ、受け取れ。」
韓信は劉邦の前に跪き、両手を高く挙げて頭上に印を押しいただいた。軽いものだ。
「大命を、拝し奉りまする。」
印を受け取ること自体に、韓信は感慨を抱かなかった。ただそれを受け取ることの意味に、慄かんほどの快感を覚えた。これまで頭
の奥底でのみ展開されていた風景が、今、眼前に広がる気がした。
(俺は、ついに得るべき場所を得たのだ。)
韓将軍。
劉邦の言葉は、韓信の耳の上を滑った。
そなたの手に委ねられたのは、全軍の兵馬の権。我らは戦わねばならぬ。戦わねば潰えてしまうだろう。つまり将軍、と身を屈めな
がら劉邦は言った。
「そなたの手の平に託されたのは、我らの運命よ。」
その言葉だけが、韓信の耳を通って頭蓋の内側に響いた。
「漢王、わたくしを、信じていただきたい。どうか、信じていただきたいと思いまする、わたくしの、才を。」
息遣いを感じ取れるほどの近さで、劉邦は韓信の膚(はだえ)を見つめた。
(透きとおっている。)
式典は、夜明けとともに始まっていた。今、東側の空からは、白っぽい光が射している。光のしずくがまるで霧のように場を押し包
んでいて、誰の輪郭も明瞭でない。韓信と劉邦ほどの近さにあって、初めて明確に捉えることができる。そなたの肌はあまりにも白
く、我らはそなたから何も読み取ることができない……と劉邦は言い、嘆息した。
「だが丞相が言うのだ、そなたにすべてを賭けよと。見よ、余の手を。震えておる。」
韓信の目の前に、劉邦は両手を差し出した。
「真実、我らはそなたに賭けたのだ。」
小刻みに震える大きな手を、韓信の重たげな目が見下ろしている。何を思ったか、韓信はゆっくりと居住まいを正すと、大将軍の印
を両掌の間に包み込むように置くことで、拱手した。言葉はない。その目は何事か言わんとするように劉邦に向けられたけれども、
結局、言葉はなかった。

木偶のように、見える。
誰もが、思った。
思わなかったのは、二人だけである。劉邦と、蕭何であった。蕭何は、韓信が木偶のようであることに慣れていたから、今改めてそ
れを思わなかったのである。劉邦は、韓信に見つめられていた。
(“これ”は目も透きとおっている。)
眼睛の輪郭が奇麗で、きらきらとした光が見える。蕭何や張良も、このような目をしている。が、蕭何の目には優しさがこもり、張
良の目には知性が鋭くきらめいていた。
(この男の目には、何があろう。)
ただ透きとおっているだけではないか。
そうかといって、劉邦には目の前の男が木偶とは思われなかった。そう思うには、距離が近すぎた。内面を読みとりがたいことに変
わりはないが、そういった存在というのは本来あまり近づけるべきものではない。何事が起こるか、分からないからである。だから
こうして至近に対していると、劉邦の心は無条件にざわめいて、落ち着かず、仄かに恐れすら抱いた。
「何を考えておる。」
「漢王様。」
首を振りながら、韓信は言った。
「わたくしは戦以外のことはあまり考えませぬゆえ、そのような問いは意味を持ちませぬ。」
劉邦の、眉尻が下がる。
―――分からぬ。
心の中で、呻いた。
―――本当に、本当に分からぬ。
ここまで理解しがたい生き物に、劉邦は出会ったことがない。才能の程度が分からぬことはもちろんであったが、より根本のこと、
すなわちこの男の生きている目的が分らない。幾度か、話をしたことはある。何か目的はあるらしい、とは分かる。韓信は、いつも
明快に語っているかのようである。実際、言葉のひとつひとつを拾っていけば、言っていることは分かる。が、それを積み重ねてい
くと、出来上がるものは広がりを持つ巨大な何かであって、結局、何だか分からない。
「君、君よ。」
蕭何には、劉邦の心の声がよく聞こえた。
「御覧(ろう)じませ。」
彼が腕を上げた先には、清々しい朝の光が満ちていた。
「これは曙光にございます。」
諭すようでもなく誇るようでもなく、ただ目の前の情景を詠むように、蕭何は言った。
「曙光とは、未知の光です。未知にして、その馳せ来るを決して避けることのできぬ光にございます。」
「これを曙光と言うか。」
いつになく硬い声で、劉邦は問うた。
「さように。」
「丞相……。」
劉邦は、すっくと立ち上がった。
「そちを、信ずる。」
何か大きな決断をしなければ、おそらくこの身は滅びを待つだけであろう、という思いが劉邦の内にはある。いや、この僻陬の地に
までやって来た男達、誰の胸にもそれはある。
(樊カイに任せられるか?周勃に委ねられるか?)
間違いなく、この天下の至強は項羽である。それは圧倒的なもので、劉邦麾下の将達は誰も彼に比肩するどころか、彼の足元に頭を
持ってくるさえかなわない……と当の樊カイや周勃にしてからが、思っている。
―――だが何ゆえに韓信だ?
韓信という男を、風聞と外観でしか知らないものは、そう思う。彼らに比べれば、劉邦は韓信を知っている。劉邦にとっては無味乾
燥な事柄がやけに多く詰まった頭を持ち、それを語りながら、瞬間瞬間に光を散りばめたような顔をする。そうした時に、劉邦ははっ
とする。結局は子どもであろう、痴れ者であろうと思いつつ、一個の人間にして己の心を突き上げることができるものに、まったく
の興味なしとは言えない。それに……、と劉邦は思う。
(蕭何が測ったのだ。)
かつて劉邦という男を測り、何万という衆の中から導き上げた。その目が正しかったかどうか、乱世のたどり着く果てにおいて、そ
の答えは見えてくるであろう。ただ蕭何が見出した瞬間から、劉邦の徒党は膨れた。蕭何は凄い、と劉邦はごく自然に感じていた。
その蕭何が多数の人材を測り、これは、と見出してきたのが韓信なのだ。その事実に重みのあることくらい、劉邦は分かっている。
(信よ。)
劉邦は、心の中で呼びかけた。
(俺とお前は同じ立場だ。)
蕭何によって、見出されたのだ。
そう思うことは劉邦にとり、愉快だった。くつくつと笑う劉邦の姿を、韓信はぽかんとして見ている。
「信よ。」
大ぶりな手の平で、劉邦は韓信の頬を叩(はた)いた。
「共に行こうぞ。」
顎を引き、声を低める。そうして伏し目をつくると、その眦(まなじり)からは彼独特の気品のようなものが立ち上った。
ひと際まばゆく、陽が射した。
はい、と韓信が答えた。変わらぬ茫洋の姿が、そこにある。

数万の人の目が、この光景を見ていた。その家族も含めれば実に数十万の人の運命が、今、未知の光に押し包まれんとしていると言
える。異常の事であろう。だが最早、陽は射したのだ。
「どのような一日になるかは分かりませぬ。」
蕭何は、大声を発した。
「いずれにせよ、これは曙光にございます……!」
ある者は瞠目した。ある者は天を仰いだ。ある者は沈思の態となり、またある者は笑った。
陽が射していた。誰の上にも等しく射して、刻々と、その高度を上げていった。





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