「曙光」
韓信は長身であった。が、威容、というほどの押し出しはなかった。彼より堂々として見える体躯の者など、劉邦幕下に幾人もいた し、劉邦自身からしてそうであった。韓信は浮浪児の上がりだった。家系も代々の生業も明らかでなく、日々の食事にも事欠くよう | な少年時代を送っていた彼が、骨を丈夫に育てたり、その周りにたっぷりと強靭な肉を蓄えたりすることなど、できようはずがなかっ | た。
| 顔立ちはというと、目は大きく、鼻は高く、唇はほどよい大きさで、瓜のようにつるりとした膚(はだえ)の上に、それらが品よく | 載っている。美形といってよい。だが一般に、人が美人を前にした時に覚えるあの揺すぶられるような感覚、張良を前にして、劉邦 | が思わず呆けたようになった、あのような現象を、韓信は起こし得ない。美人にも様々あるが、彼ほど侮りを受けやすい美人もそう | はあるまい。まず、瞼が厚い。常に重たげに、落ちてくるようである。それは彼に奇妙な色気のようなものを与えたが、同時に鈍重 | な印象をも見る者に抱かせた。細すぎる眉は、意思の弱さと映った。さらに、彼は色合いの点でも細やかな感触という点でも極めて | 優れた肌を持っていたけれども、それは彼に、今まで歩んできた道のりがあることを感じさせなかった。赤ん坊ならば、それは未知 | の輝きであった。が、韓信はすでに成人であった。成人であるのに未知というのは、すなわち木偶(でく)ではないかと人々に疑わ | せる。さらに加えて韓信は表情に乏しかったが故に、余計に人々は韓信のことを、肌だけは磨き抜かれた木偶だと思った。
| 人を驚倒させる美形といえども、その行うところに考えがなく衝動的であり、言葉に真実がなく何も積み重なっていくものがないと | 分かれば、人はたちまちに感嘆を侮りに変える。器の美しさしかないと分かれば、あとはその器をどう使うか。劉邦のように、重ん | じられながら、おだてられながら、天下に号令する器として使用されるというのは、まことに恵まれている。古今で最も幸福な器で | あるといえるかもしれない。……大抵は、考えを持たない器は考えを持たない故に、人間のそうした側面、すなわち獣性を満たすも | のとして使用されることが多い。
| 韓信は、最初から侮りを受けやすい男だった。最初から、器それのみの使い方しか思案されない男だった。楚では郎中(宮中警護の | 役人)、漢においては最初は連敖(賓客接待の係)だった。若くて姿はよいが何やら覇気がないので、ともかくもお行儀のよいとこ | ろに配置しておこう、という程度の思案が、それぞれ、彼の配置を決めた担当官においてはなされたのであった。行儀のよいところ | でも最も低い身分に留め置かれたのは、彼に常に聞き苦しい噂がつきまとっていたからであった。
| 今、韓信はその身体を美々しい行装で固めている。細身の長身だから、あまり重厚な鎧だと着られているように見えてかえって無様 かもしれない、と考えた蕭何によって、身を覆う金気のものは最小限に、しかしそれらにはすべて精緻な彫刻がほどこされている。 | その上にゆったりと、地紋鮮やかな衣をまとわせ、綺麗に梳いた髪はうなじのところですっきりと結わえた。
| 不思議なことに、こうして上品にその姿を飾りつけてしまうと、韓信という男は最初からそのような姿しか知らないかのようであっ | た。淮河のほとりで、綿うちの老婆に飯をめぐんでもらっていたかつての赤貧の浮浪児とは、とても思われない。
| こうした韓信の姿に、文武の百官も多少はその認識を改めざるを得ない。鈍重そうな見目に、醜聞にまみれたその過去故に、まずもっ | て姿からして大将などという大品格を要する役職は勤まるまい、と思っていたのが、どうやら容貌や挙措動作に限っては、相当に | 優れたものを持っているらしいと気づく。貴族のように見えた。大将軍だ、と言われずとも、確乎として彼と他とを画する気品が、 | 彼には身についていた。
| 将軍でもよい。
| 人々は思った。
| しかし大将軍はどうか。
| 大勢いる将軍のひとりなら、やらせてみてもよい。日々の軍事教練や雑事をこなすに当たって、韓信がどんな失態を演じようとも、 | 周りに同格の将軍が幾人もいれば目立つまいし、彼の無能を補わせ、それに代行させることも可能であろう。だが大将軍は、ただひ | とりである。その権能は、ただひとりが持つ巨大なものである。韓信が、大将軍の持つ権能を不適切に振るったり、また振るい過ぎ | たり、振るわなかったりした場合に、誰がこれを補うのか。誰が取って代わるのか。こなし得る者がいないと思われてきたからこそ、 | 今まで置かれなかった職である。韓信が不適格であったら、ではまたなくしてしまえばよい、というものではない。安定しない組 | 織に兵士たちは不安を覚え、逃亡するものはますます増えるであろう。国の存亡を賭けた博打であった。それを蕭何が、最終的には | 劉邦が、韓信に託してやろうとしている。人々は、恐ろしい。目の前の韓信には、幸いなことに品はあった。だがその立ち姿は鎧に | 包まれていてもなお柔弱であり、才能や人格は、あまりにも隠れたままであった。人々の目には、まだ韓信という人間の器しか見え | なかった。それはそれなりに形のよい、愛でるべきものである。が、器というのは盛り付けてゆかねば空っぽのままなのであり、韓 | 信という男の膚はあまりにも日月の経過というものを知らぬかのようなのである。
| 恐ろしい。
| 恐ろしい儀式が、今進行している。ひとり蕭何だけが、泰然としているかに見える。彼は時折、ほんのりと嬉しげな様子さえ見せる。 | 丞相は何を思ってらっしゃるのか、と文武の百官でいぶからないものはない。蕭何は、韓信を大将軍という地位に送り込むことに | 成功して、安堵しきって、身体を弛緩させているように見える。が、その実、蕭何の内心は文武百官のそれとそう大した差があった | わけではない。彼はただ、他の人々より韓信をよく知っていて、この日を迎えるに当たって始終考えを巡らせていたから、覚悟がで | きていた。これが博打であり、失敗した暁には恐ろしい事態が待っているということについては、おそらく最も生々しく認識してい | たのは彼であったろう。
| いつかはせねばならぬ、博打であった。そしてその成否を託するに、韓信以上の男はいないように思われた。 韓信は、あらゆる書物の内容を把握していた。立て板に水を流すが如く、蕭何がどうだ、と言ったものについて間髪容れず滔々と述 | べた。書物の特定の箇所を指してみても、ああ、と言ってすぐに話しだす。語っている間は、つまらなそうな顔をしていた。まるで | 師に素読するよう言われてふしょうぶしょうやっている不逞の学生、という感じであったが、ともかくも、暗記していた。暗記した | 膨大な知識の上に、韓信は独自の経世論のようなものを組み立てていた。彼の異才ぶりを蕭何が認めたのは、その経世論の中で、彼 | があくまで軍事を国家の諸機能のひとつとして捉え、他の機能との連携があってこそ初めて国家というものは成り立ち、故に軍事行 | 動というものも維持できるのだということを、当然の如く、述べたからであった。
| 「兵力の供給源というのはひとつひとつの村落なわけですから、そこに住まう人々の暮らしの安定は大事です。租税は個々の能力に | 応じて、納得させる形で出させなければいけませんし、蓄えの一切ないものからは取り立てるべきではありません。むしろ国庫から | 救済費を出すべきです。」
| 「農繁期の戦は極力避けねばなりません。」
| とも韓信は言った。
| 「兵馬の腹を満たすものをよく育てて、取り入れて、蓄えてくれる民を、その最も張り切って働いてもらわねばならぬ時期に戦場に | 駆り出すなど、愚の骨頂です。」
| 蕭何は驚いた。漢の将軍達の中で、このような物の見方をするものはひとりもいなかった。
| 「あなたは優れた人だ。」
| 蕭何は言った。
| 「博識であり、弁舌には説得力があって人を魅せる。高いところから世の中を見ており、国家とはどうあるべきかという考えを持っ | ている。が、わたしにはどうにも分からないことがある。」
| 「何でしょう。」
| 「どうして軍事の統率者でなくてはならないのか。官庁の役人の仕事でも、あなたならば立派にこなされるのではないだろうか。現 | に、今あなたは治粟都尉という職にあって、わたしから見れば非の打ちどころのない成果を上げている。」
| 治粟都尉とは、食糧管理の将校のことである。劉邦陣営に鞍替えした韓信が連敖の次に得た、将校とは言えひどく文官的な業務を司 | る役職で、これを韓信はそつなくこなした。日々の食糧の出納を記録する際の書式を少し変え、より短時間に書きとめられるように | し、一目見て一日の収支結果が分かるようにした。彼の個人的な才覚として計算が速く正確ということもあり、食糧管理に携わる将 | 兵達の間では、一日の仕事量が前よりだいぶん軽くなったと評判である。さらに蕭何が素晴らしいと感嘆したのは、韓信が治粟都尉 | になってから、その部署にあって脱走する者がぴたりと止んだことである。いわゆる“左遷”されて以後、劉邦軍からの脱走者は後 | を絶たない。軍中どの部署にあってもそれは変わらぬ傾向であり、韓信の前任として治粟都尉にあった者も、実は逃げている。数人 | の部下とともに、管理しておかねばならぬ食糧の一部をくすねて逃げた。この報に接した時、劉邦は地団駄踏んでその前任者を罵っ | たものである。
| 韓信が、空席となった治粟都尉の職に就いてすぐ、いったいどんな訓示をその部下に対して垂れたのか、また実際どのような手を打っ | たのか、蕭何は知らない。ただ食糧を管理する部隊からの脱走者がぴたりと止んだことに気づき、そこに席を置く人間に会って話 | を聞いたところ、誰もが、春の陽光に接したかのような朗らかな顔をしていることに驚いた。彼らはみな口をそろえて、
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