「好き」
劉邦が、組織というものにこれほど気を配ったことはない。誰彼と選ぶことなく、気付けば、口を開いていた。軍の規律は乱れていな いか、不平不満を聞いたりはしないか、逃げ出す者の数は増えていないだろうか、兵士達は今でも自分のために戦ってくれるのか、 | ところで項羽軍と比べてはどうなのか、少しは強くなっているのだろうか、と。
| ――うまくいっているのか。
| と最後には必ず、自分への問い、という感じで大きく声を発しながら身体を押し曲げる。ううむ、と彼には珍しく苦悩の態を表す。
| 劉邦が落ち着かない、ひどくあちこちに気を遣(や)っている、といろいろな人から告げられて、無理もないと思いつつ、蕭何は内 | 心で笑ってしまった。
| (あれは気が小さい。)
| 傍らに人無きが如しであり、大ぼら吹きであり、しかも恥知らずである。が、気はひどく小さい。
| 「韓上将軍に、直にお尋ねになってはいかがですか。」
| ある日の朝議の終わりに、蕭何はそのように提案した。
| 「いろいろと漏れ伝わってきてはおりますが、何事も直に確かめてみるのが肝心。」
| 「それならば、見に行こうか。」
| 劉邦はぱっと腰を浮かせた。
| 「練兵場にですか?」
| 「おう。」
| 「いけません。」
| いささか慌てた身振りになる蕭何に、背後から、不審そうに声がかかる。
| 「丞相、大王様じきじきに査閲されるというのは、将兵の間に緊張感を持たせましょうし、また士気も上がるでしょうに、どうして | お止めになるのです。」
| 「周苛。」
| くるりと振り向き、蕭何は柔らかな声で、しかし確固とした調子で説いた。
| 「周苛、そなたは頭が怜悧なだけでなく、心は情けに溢れているが、その情けを添わせていく対象に、韓上将軍は含まれているか?」
| 周苛は、弾かれたような顔をした。
| 「周苛よ、思い描いてみよ。たった一人の味方しかおらず、周囲は針の筵で、逃げることもかなわず、針を一本一本抜いてゆかねば | ならぬ……。」
| 「韓信殿と将兵を向き合わせて、余人は乱してはならぬと。」
| 「そなた、新しい部署を任されての、まだ部下達と打ち解けておらぬところに、前任者にうろつかれたら。」
| 「嫌でござる。」
| 真顔で答えて、笑い出す。周りの者も、幾人かが噴き出した。
| 「分かった、分かった。」
| 劉邦が、まとめ上げて言った。
| 「慰労とでも称して、韓信一人を呼ぶことにしよう。」
| 派手やかに行われた上将軍任命式の日以来、韓信はひたすら営舎と練兵場のみを行き来している。軍事の統御者として朝議に加わる 資格もあるのだが、それは今は用のないことと、彼は思っている。古参新参問わず、将兵の己を見上げてくる目は実にうろんな気色 | である。それは当然のこととして、しかしそのような色を発している暇もないほどの繁忙を、韓信は彼らに与えねばならなかったし、 | また実際、為すべきことは多かった。
| 「樊カイと周勃の隊が互いに兵馬を融通し合ったのはよい。問題は、その報告がわたしになかったことだ。軍に係わることの全てを | 負う者とて、末端の逐一までは知らぬでもよいと思っている。だがその軍が、いかなる軍か把捉せぬ内は、知るべきだと思っている。 | まして、百余の兵と十数頭の馬の移動を伴う二将間のやり取りが、末端のそれであるはずがなかろう。」
| 樊カイと周勃を呼び出しては、続けてこのように言った。
| 「五日前に布告した軍規を、どのように心得ておるのか。上下への伝達は正確を期して遅怠なかるべし、とこのようにあったのを忘 | れておったか。はたまたこの一件には当たらぬと断じたか。いずれにしろ、不注意なことである。此度のような件について正しき処 | 方を申さば、事後の報告ではならず、事前でもならず、それよりも前に、兵馬の質と量に関して意見を持った時に、まずわたしに告 | げるべきであった。何となれば、個々の隊内における事情は個々の隊内にて完結するものにあらず。隊と隊、相互に影響し合って必 | ずや全軍に及ぶものだからである。全を見て、一と一とを考え合わせて、あるいは取り、あるいは捨てて、均された土壌の如く勝利 | を生成する、よき軍隊を維持せねばならないというのに、あなた方は、まるで私事を為すかのように、小規模とはいえこの度の編成 | 替えを行った。実に、軽率と言わねばなるまい。」
| 樊カイと周勃は軍規に違反した、と韓信は断じた。しかし、軍規に定めた通りの罰は科さなかった。これまで、放縦とは言わないま | でも、諸将の独断が相当にまかり通っていた劉邦軍である。軍規の正しい理解と浸透のためには段階を踏まねばなるまい、と思って | いた。
| 「二度目はない。」
| 二度目はない、と言ったことを、触れを出して全軍に知らせた。
| 韓信が上将軍となってから、夏侯嬰は自邸に帰っていない。上官たる韓信が営舎に泊まるので、それに倣っているのだ。気にしなく ていい、と韓信からは一度ならず言われたけれども、そういうわけにもいくまい、と困惑気味に思っている。
| (いつまで続くんだろう。)
| 家に帰りたいのではない。南鄭の屋敷など、仮のものである。それに家族はいないのだ。故郷に置いている。呼び寄せようかと迷っ | たけれども、東へ帰るのだという決意のために、置いている。
| (韓信が心配だ。)
| 頑健そうには見えない。上将軍になってから、少し痩せた気がする。
| 夏侯嬰は、韓信という男について、一歩も二歩も離れたところから見ている。そうしようと心がけているのではなくて、近づこうと | は思っているのだが、どうにも理解しがたい男で、近づき方が分からない。何か分からないものに、親しみなどは感じない。だから | 家族や友人を想うように、彼のことを想っているのではない。初めて韓信という男を見た時、その語る姿に接した時、はっきりと、 | 魅せられたことを覚えている。どのような性格のものかは分からないが、ともかくも、完成された滑らかな玉のような男だと思った。
| 韓信の身を案じるのは、生来優しい気質故である。ただ魅せられた結果として、多分に恋うるような気持ちが含まれている。
| 樊カイ、周勃の二将軍が幕舎を出て行く時、すでに表は薄暮となっていることに、夏侯嬰は気づいた。韓信の身近で過ごすように | なって以来、時がひどく忙しなく過ぎて行くようになった、と感じている。
| 「上将軍殿。」
| 両腕を腰の後ろ側で結んで、ぼんやりと考え事をしている風の韓信に、声をかける。
| 「日が暮れかかっております。たまには定刻に……。」
| 「ゆくゆくは、軍の編成のみにたずさわる部署を設けたいが。」
| 「は?」
| 「人が未熟に過ぎるのだ。」
| 「それは先ほどの……。」
| 「今日から軍の編成指揮に当たれといって、満足にこなせるものはあるまい。」
| 「はい。」
| 「軍規に則って将兵を裁く、正規の機関も必要なのだが。とにかくまず……。」
| 夏侯嬰、とわずかに鼻にかかった声で名を呼ばれると、夏侯嬰の胸底は、いつも小さく疼く。
| 「意見書は集まっているであろうな?」
| 「そろそろと。」
| 「目を通しておるか。」
| 「はい。」
| 「そなたがつまらぬと思ったものは、落としてよい。」
| |