「好き」


劉邦が、組織というものにこれほど気を配ったことはない。誰彼と選ぶことなく、気付けば、口を開いていた。軍の規律は乱れていな
いか、不平不満を聞いたりはしないか、逃げ出す者の数は増えていないだろうか、兵士達は今でも自分のために戦ってくれるのか、
ところで項羽軍と比べてはどうなのか、少しは強くなっているのだろうか、と。
――うまくいっているのか。
と最後には必ず、自分への問い、という感じで大きく声を発しながら身体を押し曲げる。ううむ、と彼には珍しく苦悩の態を表す。
劉邦が落ち着かない、ひどくあちこちに気を遣(や)っている、といろいろな人から告げられて、無理もないと思いつつ、蕭何は内
心で笑ってしまった。
(あれは気が小さい。)
傍らに人無きが如しであり、大ぼら吹きであり、しかも恥知らずである。が、気はひどく小さい。
「韓上将軍に、直にお尋ねになってはいかがですか。」
ある日の朝議の終わりに、蕭何はそのように提案した。
「いろいろと漏れ伝わってきてはおりますが、何事も直に確かめてみるのが肝心。」
「それならば、見に行こうか。」
劉邦はぱっと腰を浮かせた。
「練兵場にですか?」
「おう。」
「いけません。」
いささか慌てた身振りになる蕭何に、背後から、不審そうに声がかかる。
「丞相、大王様じきじきに査閲されるというのは、将兵の間に緊張感を持たせましょうし、また士気も上がるでしょうに、どうして
お止めになるのです。」
「周苛。」
くるりと振り向き、蕭何は柔らかな声で、しかし確固とした調子で説いた。
「周苛、そなたは頭が怜悧なだけでなく、心は情けに溢れているが、その情けを添わせていく対象に、韓上将軍は含まれているか?」
周苛は、弾かれたような顔をした。
「周苛よ、思い描いてみよ。たった一人の味方しかおらず、周囲は針の筵で、逃げることもかなわず、針を一本一本抜いてゆかねば
ならぬ……。」
「韓信殿と将兵を向き合わせて、余人は乱してはならぬと。」
「そなた、新しい部署を任されての、まだ部下達と打ち解けておらぬところに、前任者にうろつかれたら。」
「嫌でござる。」
真顔で答えて、笑い出す。周りの者も、幾人かが噴き出した。
「分かった、分かった。」
劉邦が、まとめ上げて言った。
「慰労とでも称して、韓信一人を呼ぶことにしよう。」

派手やかに行われた上将軍任命式の日以来、韓信はひたすら営舎と練兵場のみを行き来している。軍事の統御者として朝議に加わる
資格もあるのだが、それは今は用のないことと、彼は思っている。古参新参問わず、将兵の己を見上げてくる目は実にうろんな気色
である。それは当然のこととして、しかしそのような色を発している暇もないほどの繁忙を、韓信は彼らに与えねばならなかったし、
また実際、為すべきことは多かった。
「樊カイと周勃の隊が互いに兵馬を融通し合ったのはよい。問題は、その報告がわたしになかったことだ。軍に係わることの全てを
負う者とて、末端の逐一までは知らぬでもよいと思っている。だがその軍が、いかなる軍か把捉せぬ内は、知るべきだと思っている。
まして、百余の兵と十数頭の馬の移動を伴う二将間のやり取りが、末端のそれであるはずがなかろう。」
樊カイと周勃を呼び出しては、続けてこのように言った。
「五日前に布告した軍規を、どのように心得ておるのか。上下への伝達は正確を期して遅怠なかるべし、とこのようにあったのを忘
れておったか。はたまたこの一件には当たらぬと断じたか。いずれにしろ、不注意なことである。此度のような件について正しき処
方を申さば、事後の報告ではならず、事前でもならず、それよりも前に、兵馬の質と量に関して意見を持った時に、まずわたしに告
げるべきであった。何となれば、個々の隊内における事情は個々の隊内にて完結するものにあらず。隊と隊、相互に影響し合って必
ずや全軍に及ぶものだからである。全を見て、一と一とを考え合わせて、あるいは取り、あるいは捨てて、均された土壌の如く勝利
を生成する、よき軍隊を維持せねばならないというのに、あなた方は、まるで私事を為すかのように、小規模とはいえこの度の編成
替えを行った。実に、軽率と言わねばなるまい。」
樊カイと周勃は軍規に違反した、と韓信は断じた。しかし、軍規に定めた通りの罰は科さなかった。これまで、放縦とは言わないま
でも、諸将の独断が相当にまかり通っていた劉邦軍である。軍規の正しい理解と浸透のためには段階を踏まねばなるまい、と思って
いた。
「二度目はない。」
二度目はない、と言ったことを、触れを出して全軍に知らせた。

韓信が上将軍となってから、夏侯嬰は自邸に帰っていない。上官たる韓信が営舎に泊まるので、それに倣っているのだ。気にしなく
ていい、と韓信からは一度ならず言われたけれども、そういうわけにもいくまい、と困惑気味に思っている。
(いつまで続くんだろう。)
家に帰りたいのではない。南鄭の屋敷など、仮のものである。それに家族はいないのだ。故郷に置いている。呼び寄せようかと迷っ
たけれども、東へ帰るのだという決意のために、置いている。
(韓信が心配だ。)
頑健そうには見えない。上将軍になってから、少し痩せた気がする。
夏侯嬰は、韓信という男について、一歩も二歩も離れたところから見ている。そうしようと心がけているのではなくて、近づこうと
は思っているのだが、どうにも理解しがたい男で、近づき方が分からない。何か分からないものに、親しみなどは感じない。だから
家族や友人を想うように、彼のことを想っているのではない。初めて韓信という男を見た時、その語る姿に接した時、はっきりと、
魅せられたことを覚えている。どのような性格のものかは分からないが、ともかくも、完成された滑らかな玉のような男だと思った。
韓信の身を案じるのは、生来優しい気質故である。ただ魅せられた結果として、多分に恋うるような気持ちが含まれている。
樊カイ、周勃の二将軍が幕舎を出て行く時、すでに表は薄暮となっていることに、夏侯嬰は気づいた。韓信の身近で過ごすように
なって以来、時がひどく忙しなく過ぎて行くようになった、と感じている。
「上将軍殿。」
両腕を腰の後ろ側で結んで、ぼんやりと考え事をしている風の韓信に、声をかける。
「日が暮れかかっております。たまには定刻に……。」
「ゆくゆくは、軍の編成のみにたずさわる部署を設けたいが。」
「は?」
「人が未熟に過ぎるのだ。」
「それは先ほどの……。」
「今日から軍の編成指揮に当たれといって、満足にこなせるものはあるまい。」
「はい。」
「軍規に則って将兵を裁く、正規の機関も必要なのだが。とにかくまず……。」
夏侯嬰、とわずかに鼻にかかった声で名を呼ばれると、夏侯嬰の胸底は、いつも小さく疼く。
「意見書は集まっているであろうな?」
「そろそろと。」
「目を通しておるか。」
「はい。」
「そなたがつまらぬと思ったものは、落としてよい。」
「どうにも分からぬことだらけにございまして。」
「よい。」
ぴしゃりと打つように、韓信は言った。この件に関しての責任の総重量が、どっと夏侯嬰の上に圧しかかった。重いぞ、と呻くよう
に思ったけれども、声に出しては言わなかった。ちらりと、韓信を窺い見る。波の立たない横顔で、彼は天幕に開(あ)いた口を見
ていた。唯一のその口は、よく音を拾った。金属音が近づいてきて、際のところで止まった。かろうじて、影が差す。
上将軍殿、と一人の兵士が走り込んできて膝を付き、劉邦からの使者が訪れたことを告げた。

「食事を。」
「はい、すでに座を設けておりますれば、疾く来よと。」
「お断りする理由はない。」
「お連れするよう、言いつかっておりますので。」
使者は、急かした。
「お行きなされませ。」
夏侯嬰は、嬉しげな顔をしていた。劉邦という男と過ごす時間には、甘ったるい心地よさがある、と彼は思っていた。時が経つのを
忘れさせる、己の在ることすら忘れさせる、そんな蕩けるような甘ったるさである。誰にとってもそうだ、と夏侯嬰はほとんど無邪
気なくらいに信じていて、韓信といういまだ解けない謎に対しても、そこのところの思い込みは揺らぐことがなかった。
「夏侯嬰。」
韓信は、夏侯嬰の顔を穴のあくほどに見つめた。最初、夏侯嬰は嬉しげな表情のままにその視線に受け止めていたが、だんだんと、
気圧されていった。口元が、鷹揚とはしていられなくなってくる。
「な、何か。」
淀みある口調で、夏侯嬰は尋ねた。
「うん。」
韓信は頷いた。
「行ってくる。」

劉邦は、韓信の名を呼びながら飛び出してきた。歓迎の辞を叫ぶように言ったけれども、顔に笑みがなく、当たりが激しいので、も
しや自分は怒られているのではなかろうか、と韓信は思ったりした。
実際、劉邦の韓信に対して持っている感情の中には、怒りと名付けても差し支えないものが含まれている。現在、劉邦の命運は極
まっていると言っていい。奇跡のように道が開けるのか、それとも潰えるか、韓信という男、その身体にすべてが懸かっているのだと
思うと、焦りに駆られて、馬の尻を鞭打つように、この男を打ってやりたい気になるのである。漢中に入ってからの劉邦は、常に動
転状態にあると言っていい。
とはいえ、そういった己の内面を、この男は上手に覆い隠す。爆発させたかと思うと、たちまちに覆い隠す。それが巧みで、風格す
ら漂うので、たった今動転振りを目の前に見た者でも、さすがに長者と呼ばれる人は他と違って常にゆったりと世を見渡しているも
のだと、ころりと、騙されてしまうのである。
この日も、劉邦の態度は卒然と変わって、韓信に重々しく杯を勧め、その肩を叩いた。韓将軍、と劉邦は言った。
「軍は精強となりつつあるのだろうか。」
「一朝一夕には変わりません。ただ、これまでが弱体にあり過ぎましたので、手を加えるところは幾らでもあります。ですから、変
わっていると言えば、確かに変わっております。」
「早く変わってもらいたい。将軍。」
俺はな、と劉邦は韓信に顔を近づけた。
劉邦の言葉は、荒い。公の席では繕うが、でなければ地を出す。人によっても変えるけれども、韓信は最もありのままで接してよい、
いや接すべき人間だ、と大将の印を授けた時から思っている。
(俺とこの男は生死を共にするのだぞ?一心同体だ。この男が俺自身で、俺がこの男だ。)
片膝立ての姿勢で、劉邦は韓信の杯に酒を注いだ。
「俺はな、ここからもう一歩も東に向かっては出ていけんのではなかろうかと思うとな、おかしくなる。」
「分かりました。」
「何が分かった。」
「大王様のお気持ちが。」
「信よ。」
劉邦はあぐらを掻き、背中を丸めた。それでもまだ韓信より目線が高かった。
今朝方の話を、劉邦はした。組織改まり、まだ定まっていないところへ前に係わりのあった者がうろつくのはよくなかろう、と。
「だから樊カイや周勃達に、直接尋ねることもしておらんのだが。」
「ご心配なのですね。」
韓信は、ありふれた言い方をした。それは確かにそうであったが、劉邦にはしっくりとこなかった。いいか、俺は、大将だよ、と言
葉の響かせ方を間違わぬよう、劉邦は一音一音を捏ねるように発した。
「軍の総大将はおめえだが、この国の総大将は俺さ。国の総大将ってやつはな、民の容れ物よ。どいつもこいつも俺の中にいる。周
勃も樊カイも盧綰も、お前もさ。それがな、反目し合って大喧嘩でも始めようもんなら、おめえ、容れ物ってなあ、壊れるんだぜ?
つまりな、俺の中に入ってるやつらのご機嫌は、俺にとって生きるか死ぬかの大事よ。ここのところ、俺は息苦しい。じわじわ首を
絞められてるような気がしてな。そんなやつによ、己の息が絶えるか続くかの心配をしているやつによ、ご心配なのですねたあ、そ
りゃそうだが、間違っちゃいねえがよ、でもそりゃ何か、ちょっと違うだろう?」
「分かりました。」
「今度は何が分かったんだ。」
「大王様のおっしゃったことが、分かりました。」
「そうかい。」
はい、と韓信は頷いた。
韓信も、劉邦も、数々の料理を目の前にしながら、いまだ箸をつけずにいた。食おう、と劉邦は言った。箸を、韓信の手に握らせて
やらんばかりにして、勧めた。
任命式の日のことを、思い出していた。あの日、韓信の肌と目が澄み渡っていることに、気付いた。認識を新たにした、と言った方
が正確かもしれないが、いずれにせよ、意識の底に深く彫り刻まれた。
童(わっぱ)だ、と思っている。童は汚れを知らないものだ。
「信よ。」
うつむきつつ、劉邦は尋ねた。
「困っていることはないか。」
「大王。」
ご安心ください、と韓信は端正に唇を動かした。
「わたしは、上手くやります。」
「そうか。」
こくり、と韓信は頷いた。全身を軽くゆするような頷き方が、子どもじみていた。やはり童だ、と思った。よく見ると、口の端が汚
れている。二、三度箸を往復させただけなのに、食べ跡が雑然としている。劉邦とてその辺りの作法は顧みることなく生きてきた人
間であるが、いかにも無法者という態で奔放に食い散らす劉邦に対して、韓信は動きが小さく、どことなく、たどたどしい。食事など、
本来の務めではないと言わんばかりであって、おかしな慎み深ささえ感じさせる。不意に、劉邦の心の中に、韓信への親しみとも
言うべき、温かな感情が湧いた。
「食い方は下手だな。」
と言いつつ、韓信の汚れた口の端を、着物の袖で拭ってやった。

情というのは、一度湧いてしまうと打ち消しがたい。湧いたばかりの頃は、四六時中を共にしたくなる。
劉邦は、韓信を連日のように呼びつけた。食事を共にし、そのまま宮中に室を与えて夜を過ごさせた。ずいぶんと打ち解けられたも
のだ、と人々は驚いた。何か特別な思惑があるのでは、と勘繰る者もいたが、その思惑が何かということになると、思いつかなかっ
た。
夏侯嬰も、驚いた人の一人だった。劉邦は、韓信との距離を縮めたのだ。あっさりと縮めたことが、驚きだった。やはり劉邦は自分
より高い位置にいる人間なのだ、と思った。
劉邦と韓信が、人目も憚らぬ蜜月中に、その事態は出来した。軍規を犯したとの理由で、一人の将校の首が営門に掲げられた。殺す
ほどのことだったのか、と劉邦はその報に接した時に思った。行き過ぎではないか、と訴えに来た者が数人いた。劉邦は、蕭何を呼
んだ。
「韓信の命だ。」
「で、ございましょう。」
「正しいことだったと思うか。」
蕭何は、驚いた顔をした。
「何で間違いがあったかのように仰せられます。」
「訴えがあった。」
「間違っておるのは、その者達ですぞ。」
「分かっている。」
韓信は正しい、と劉邦は言った。
「そうです。」
蕭何の顔が、少し赤くなったようだった。
「細かすぎる法の網の目は、民を窒息させる因(もと)。秦国の政がそれを教えてくれました。しかし適度に縛ってやらねば、様々
な悪徳に支配されてしまうのが人の世というもの。秦国が滅び、法の網の目が消え去った今の世の乱れぶりが、それを証明しており
ます。法は必要なのです。新しき世をつくる、大王につき従ってきた者達の志はみな同じと思っておりました。しかし此度の韓将軍
の処断の正しさを解さぬとは。世を憂える気持ちがないのか、新しき世をつくるということがどういうことか、分かっておらぬのか。
国とは、法と民なのです。」
「そして法は人を裁いて初めて生きる、と続けて言いたいのだろう。」
劉邦は、馬鹿ではない。
「例外はあってもいいのです。ただ、最初の内はいけません。」
それも、分かっている。
部屋の中を行き来する、劉邦の顔が暗い。首を晒されたのが己の知友であったからだろうか。それもある、と劉邦は言った。しかし
蕭何は本気にしなかった。元来、劉邦は人の死に淡泊だ。どれほど近しい仲の人を失っても、あまり嘆かない。己を担ぐ人々の手前、
嘆く振りはするけれども、それだけだ。薄情、というのではない。人はいつか死ぬものだ、と思っている。
「ではなぜ。」
「多少は、嘆く気持ちもある。」
「けれどもそのように沈んでおられるのは、他に理由(わけ)があるのでしょう。」
劉邦は、足を止めた。肩先が、蕭何の目の前にある。軍の内部でのみまとまってしまっていることが気に入りませんか、と蕭何は思っ
たままに問うた。首を突き出していた。振り向いた劉邦の顔が、非常に大きく見えた。そうだ、とは劉邦は答えなかった。違う、とも
言わなかった。彼らしい明快な答えが、不意に影を潜めた。
「韓信が来る前は、将軍達の上にはただ君があるばかりでした。将軍達の演じた失態で、君の知らぬものはありませんでした。それ
が韓信が来たことによって、韓信を頂点として、軍はまとまりました。」
両の手を用いて、蕭何は球体を描いた。
「今まで君が取り捌いていた将達の失態が、韓信のところでぴたりと収まる。」
また逆に描いて、球の頂点で親指と親指を突き合わせる。
「知らされないということは、不安なものです。新しい部署を設けて己から切り離した後、気持ちの落とし処にわたしはいつも迷い
ます。恐れながら、君にも似た心境でおられるのではと思いつつ、いささか、暗さが勝るようにも感じられます。」
「丞相。」
劉邦はまた、歩き出す。先ほどよりも、前にのめっている。
「それはあると思うのだ。意外に大きな側面を占めている、と思う。聞いたか?樊カイと周勃が軍規に違反し、韓信に叱責されたと。
危うく首を刎ねられるところであったというぞ?二度目はない、という触れを全軍に出して、半ば見せしめ的に許されたわけだが、
これが二度目の例であれば、韓信は樊カイと周勃を斬っただろう。」
「止むを得ません。」
「そして俺はやはり事後に知るのだ。」
「止むを得ないことです。」
「韓信は、あれは……。」
迷いがないな、と劉邦は急に声を小さくする。
「俺に頼らんのだな。」
蕭何は、黙っていた。
「軍中にあっては別の顔か。見ておきたいものだが。」
いつの間にか、劉邦は歩みを止めていた。壁に向かって立つ背中が、物問いたげである。韓信に向かって問いたいのだろう、と蕭何
は思った。
「信を呼べ。」
強い口調で、劉邦は命じた。
「寝食を共にし、ますます君臣分かち難い仲とならん、と伝えてくれい。」
振り向いた顔は、笑っていた。自然な笑みであったが、心底にはいつになく深い思慮がある、と蕭何は感じた。
「訴え出てきた者たちへの、それが答えとなるだろう。」

俺は韓信のことが好きなのかもしれん、と劉邦は思っていた。常に、積極的に好きなのかもしれん、と思うようになっていた。おそ
らく、己がそういう感情を持つ相手は、あまりいない。劉邦は、好かれる。俺はお前のことが好きだ、生涯を共にしたい、と言って
寄り集まってくる人間には事欠かない。そうした人間に、劉邦はちらちらと好意を見せる。
劉邦を毛嫌いする人間も、多い。劉邦の方でも、避ける。嫌いになるとは限らない。俺のことを嫌うのも当然だな、という気持ちが
劉邦にはある。
(下品で怠け者で、嘘つきだからな。)
そうかといって、嫌われていると感じるのも楽しいことではない。だから、避ける。
いずれにしても、劉邦は己に向けられた感情によって返す態度を決めるので、それを見極めない内に親しげに近づいたり、また逆に
邪険に扱うなどということはない。今まで例外というものはなかった、と思う。我が子に対してすら、そうであったはずだ。
韓信は、劉邦のことを嫌ってはいない。そもそも、あれは人を嫌わないのではないか、と劉邦は思っている。
(好きとか嫌いとかは、あれの慮外だ。)
戦のことしか考えない、と当人が言った。
好かれもしないし、嫌われもしない。劉邦の態度は宙ぶらりんであった。思えば世人はたやすく好きとか嫌いとか言うものだ。会っ
て間もない相手に恋を語り、弱いと見るや侮蔑の態度を投げつける。
韓信は、世人と異なる。劉邦は、韓信のような人間を見たことがなかった。何を為そうとしているのか、何を為すことができるのか。
楚軍の末端にいたものが、身を翻したと思ったら漢軍の頂点に立った。これは異常なことだ。そして劉邦に、態度を決めさせない。
いつまでたってもぶつけてくる感情を持たないように、軍中にあって見えざる手を動かしている。何を、生み出そうとしているのだ
ろう。
(精強の軍か。)
いったい、韓信とは何なのだ。
基本的な問いがぽっかりと浮かんできて、劉邦は笑った。何度も寝食を共にしたのに、結局、韓信という男が何であるのか分からな
い。ただどうも、好きらしい。あまりにも情動を欠いた男ゆえ、劉邦の方で勢いが余ってしまったのだ。女が、己に無関心な男のこ
とをあれこれ気にかけた末に、惚れてしまった。そういうことだ、と劉邦は思った。とすれば、韓信は意外と女にもてるのかもしれな
い。

韓将軍、と劉邦は静かに呼びかけた。酒を数杯、煽っていた。いかにも機嫌のよい呑み方だった。
「昨日と変わらず、余は将軍を酒席に呼んだ。ある思惑があるのだが、ずばり言い当てることができるか?」
韓信は、頭を低くした。
「わたしを漢王の敵に仕立て上げようとしていた者達は、当てが外れたわけです。わたしの軍への支配力は高まり、将兵達は屈従せ
ざるを得ないでしょう。わたしの好み通りの軍が、できます。」
「嬉しいか。」
韓信は、笑った。幼い顔だった。
不思議と、劉邦の心が満ちた。そうだ、お前はこういう顔をしていればいいのだ、と思った。韓信は、甘えている。好意が伴ってい
る、というわけではないらしい。ただ目の前の相手に、頼りに頼れば、自分にとってよい結果がもたらされるであろうということを、
知っている。
そうだ、俺に頼れ。俺がいなけりゃお前はしたいと願っていることが何もできんのじゃないか。
劉邦は、ひどく真摯な気持ちでそう念じた。
俺がいなくなったら、こいつは死ぬしかないんじゃあるまいか、とふと思った。
「韓信、東進はいつ開始するのだ。」
「少なくとも、あと三十日の間はお待ちください。」
「お前のやることを、俺は何でも追認してやる。好きにしろ。」
韓信の表情が、柔らかい。人並みの感情を、持っているように見える。
「俺は、いいやつだろう。」
韓信の心を、劉邦は探った。
「俺がお前を引き立ててやれば、お前は動きやすくなる。俺以外に、お前の望みをかなえてやることのできる人間は、おらん。」
韓信の身体は、前に傾いていた。緩んだ目元で、劉邦を見ている。劉邦という器を、押し包むように見ている。その声はというと、
あまり届いていない様子だ。そんなにも俺の顔を見てどうする、と劉邦は尋ねた。
「何かあるのか。」
ずいっと劉邦の方でも身を乗り出すと、韓信の目が少し大きく開かれる。あ、と彼は声を漏らした。
「何だ。」
「龍に見えた。」
龍を見たことがあるのか。人に言われるたび、劉邦は思う。
韓信の顔には、いっさいの曇りがない。人の世の塵芥にまみれてきたという、跡がない。ほんのりと赤い唇が、しどけなく開いてい
る。
不意に、劉邦の脳裏に、若い時分の放埓だった日々の一幕が浮かんだ。明けても暮れても快楽の極みを求めて、女と交わり、男と交
わり、獣とも交わった。性欲は常に溢れていた。それは今も変わりないが、冒険的な精の放ち方は、あまりしなくなくった。たまには、
男もいい。
卓の周りをさっと動いて、劉邦はばっと韓信を捕まえた。耳の後ろを舐め上げ、喉元へと唇を這わせてゆく。劉邦は、己の衝動に素
直だ。相手が嫌がるというのは、あまり考えたことがない。
胸元に手をやり、はだけさせる。腹を撫でると、韓信の身体が震えた。くすぐったいらしい。右の手が、いつの間にか劉邦の着物を
掴んでいる。
韓信の身体を半ば持ち上げ、上体から、首筋のあちこちを吸い上げながら、組み敷いた。
「漢王。」
と韓信が声を発した。劉邦は答えなかったし、動きも止めなかった。
劉邦の腹の下で、彼の雄を主張する器官が、硬さを増している。韓信の太股にそれを押しつけながら、劉邦は着物を脱ぎ、韓信から
も、その肌を覆っているものを、ちぎるように解かせた。
韓信の肌は、劉邦を喜ばせた。任命式の日に、叩くように触れた肌は張りがあり、吸いつくようだった。こんな肌をした女の身体を
撫でまわしたいものだ、と思った。
―――男でもよいわ。
即物的に、劉邦は思った。目の前にある佳肴(かこう)を味わいつくすことこそが快楽の果てだ、といつの頃からか思い定めていた。
好みの景色を探すのではなく、出会った景色の中から好みを見つけてむしゃぶりつくのだ。
どこか、飢えている感じがする。劉邦の性交は、粗暴であり、執拗だった。

行為の初めに、漢王、と呼んで以来、韓信は言葉を吐かなかった。肉体は、どちらかといえば積極的に劉邦を迎え入れた、と言って
よい。従順であり、協力的だった。劉邦が足を開かせようとすれば、自ら開いた。
身体を繋いでからは、絶えず鳴いていた。苦悶の色が消えて快楽に浸りきるのに、そう時間はかからなかった。普段より幾分か高い
声で、恥ずかしさなどいっさい感じないようだった。それは、劉邦の好みに合った。劉邦も、声はいっさい抑えなかった。
絶頂を越えて、劉邦の頭に雑然とした思考が生まれた。それまでは、ただ官能だった。荒い息を、劉邦は休ませた。
韓信はうつ伏せになって、眠っているように見える。さっきまでは、四つん這いだった。劉邦が果てたのと同時に、気を抜いたのだ。
息が思いのほか静かなのは、劉邦よりもよほど先に絶頂を越えていたからだ。純粋な快楽の後には幾らかの苦しさを感じていたよ
うだったが、劉邦に訴えることはなかった。最後の方は、半ば意識を飛ばしていたようで、今は実際、泥のように眠っているのかも
しれない。韓信の半身と、劉邦の性器とは、まだ繋がったままだ。
軍の有り様(よう)ばかりを語る口で、男の一物を銜えることもできるのではないか。
軍の統帥権を求めて止まぬ目が、恍惚として、性の喜びだけを追い求めることもあるのではないか。
劉邦の中には、精が残っていた。それを吐きだすのには、ゆったりとした時間を要する。劉邦は、腰を動かした。
韓信の目が、薄く開いた。声を漏らす。と同時に、またぎゅっと目を閉じた。眉間に、皺が寄っている。苦しいのだろう、と思った
が、劉邦は動きを止めない。己を取り巻く韓信の熱が、時に震え、時に張りつめて動かなくなる。それを乱すのが、心地よかった。
少しずつ、劉邦の中から精が抜けてゆく。韓信の中へ、流れ込んでゆく。互いの声が、混じり合う。

「信よ。」
衣服を、着るでもなく、ただ掻き集めながら、劉邦は問うた。
「俺に抱かれている間は、何か考えたか。」
のろのろと、韓信の頭は動いた。左右に、振られたようだった。
「そうか。」
掴んだ衣服を、劉邦は韓信の上に投げた。
「時折り、抱かれろ。お前の軍隊内での専横は、すべて許す。お前の定めた法を破ったなら、盧綰とて首を刎ねるがいい。」
ありがとうございます、と掠れた声で韓信が言った。
不意に、温かな感情が劉邦の内に湧いた。うつ伏せに寝たままの韓信の肩に手をやり、その耳に唇をつけんばかりにして、囁いた。
「俺のことが、好きか。」
応(いら)えはないと、思っていた。左の手で、髪の生え際を柔く撫でてやりながら、続けて問うた。
「項羽には、勝てるのか。」
「勝てます。」
「そうか、それで」
俺のことは好きなのか。
耳を食みながら尋ねる。韓信の頭が、ちょっと動いた。
「好きか。」
劉邦の長い両腕が、韓信の腰のくびれを抱いていた。
「好きです。」
「ん?」
「漢王。」
そういえば、と劉邦は尋ねた。
「俺がお前を犯そうという気を発した時に、何か言いかけたな?何を言おうとした。」
韓信は、すぐには思い出さない様子だった。しばらくして、顔が劉邦の方を向いた。
「ここでやるのかと。」
「お前は場所を選ぶのか。」
「いえ……。」
ぎゅうぎゅうと、劉邦は韓信を抱く手に力を込めた。今はいっさいを吐き尽くした陰茎が、時折り韓信の太股を撫でてゆく。そうか、
俺のことが好きか、と劉邦は呟いた。しかしな、と陰茎を韓信の尻の穴にあてがい、犯してでもいるように、腰を揺らした。
「お前が俺を好きだというのは、俺がお前の望みを叶えてやるからだ。俺がお前を、お前の領分と信じ込んでるところでまでこうし
て身動きのできんように押さえつけたら、すぐにも嫌いになる。」
「今はすべてを委ねてくださると。」
「そうする以外にない。」
笑いながら、韓信の身体を撫でる。
「俺とお前は、このまま心中よ。お前から軍の全権を取り上げる時には、俺も龍たる呼吸の途絶える寸前となってるだろうさ。まあ、
そうならんように、気張ってくれよ。お前のためだ。」
腰を揺らして、韓信の尻に陰茎をぶつけている内に、そこが熱を帯びてきた。最初は単に衝撃が生む熱であったのが、中途からかす
かな快が生まれ、せり上がってくる。うっ、と劉邦は呻いた。精の分泌が極めて盛んな身体であることは、誰よりも劉邦自身が一番
よく知っている。だが一度味わった肉体を捕らえて、再び性的な衝動に駆られるというのは、そこに快楽を生み出すものがあるとい
う認識を得たからだ。韓信の身体はいい、と劉邦は思う。
当然のように、新たな欲望に目覚めた性器を、劉邦は韓信の中に埋め込もうとした。ところが、韓信の身体は大人しくそれを受け止
めなかった。
「漢王、他の者をお求めください。」
劉邦は聴かず、腰を進めようとした。激しく身をよじって、韓信はそれを逃れた。
「何だ。」
劉邦は、少し怒っていた。
「声が出なくなります。」
実際、韓信の声は掠れたままだった。
「立てなくなります。」
とも言った。
「やわな身体だ。」
「申し訳ございません。」
「それでもお前を犯(や)る、と言ったら犯られるか。」
「お任せします。」
劉邦は、黙った。
いったん房中の外(ほか)の事情を挟まれ、耳に入れ、しかもそれが組織に立つ人間としては尤もな事情となれば、劉邦とてその精
の奔流に待ったをかけざるをえない。なかんずく、韓信である。能う限りの権威付けをしてゆかねばならない時に、声を潰して、足
腰を立たないようにして、どうするのか。蕭何が、嘆くどころの話ではなくなる。
さっと動いて、劉邦は韓信の身体を跨いだ。肩の高さまで膝で進むと、小さく円く開いていた韓信の口に、己の男根を捻じ込んだ。
「お前の性技は巧みだ。」
口蓋に亀頭を擦りつけ、さらに奥の粘膜を突き上げる。
「声は出さんでいい。腰を揺さぶるのも止めてやる。それ以外の全身で俺を楽しませろ。」
お前の身体はいい、と劉邦は言った。
韓信は苦しげであった。目尻から、涙が一筋落ちている。だが口腔の奥にあっては、舌が忙しなく動いていた。唇はぴったりと劉邦
の性器に添わせて、右手は、その根元を掴んで擦(こす)り上げている。左手は、劉邦の内股を撫でていた。と思うと、腰に回して、
引き寄せる。自身でも、頭をもたげる。劉邦の堂々たる男根が、さらに深く、韓信の口中に埋まった。

劉邦が、静かになった。正確に表現すれば、元の劉邦になった。……と人々が言っている。
(それはあの男を表層的にしか知っておらぬ者の言だ。)
と蕭何は思った。
役所に、韓信が訪ねてきた。前もって使者を交わし、日時を打ち合わせてのことだった。
「軍中のことは、一任されております。」
持参した、竹簡の巻物を一つ一つと開きつつ、韓信は淀みなく述べた。
「されど、軍とは国家という車駕についた輪の一つに過ぎません。国家の有り様を定めずして、軍の有り様は定まらぬと心得ており
ます。また逆も然り。故に、ここに軍の有り様を定めるについて、丞相に一言お断りせねばならぬと思い、参りました。丞相のご了
解を得られた後には、漢王の御前で、他の重臣の方々にもご説明申し上げ、ご納得いただきたいと、考えております。」
巻物の一つを、蕭何は手に取った。うっすらと、笑っている。
「意見を聴くつもりはないようだ。」
「意見が、おありでしょうか。」
「わたしは、ない。」
韓信の筆跡は、見事だった。この男の頭の中がそうであるように、ただ一本の筋道が、すべてを包括して、迷いなく貫かれていた。
目に留まるに任せて、蕭何は文言を拾い読んだ。純一の思想があり、淡々として見えて、激烈だった。軍法、である。非情の裁きを
下すものではないのか。蕭何は思った。であるのに、この熱情とも呼ぶべきものは何なのか。宣言と言うよりは、叫びのようであり、
これをこのまま将兵達の前で読み上げたなら、何よりの士気の鼓吹となるのではあるまいか。
「これはあなたの思い、だな。」
韓信の眉根が、顰(しか)む。
「法というのが、理(ことわり)であることは知っている。だが理を考え抜くのには、情熱が要ると思うのだ。」
トントン、と蕭何は己の胸を叩いた。
「これは、あなたの思いだ。」
否定する言葉はなく、韓信は両目を閉じた。
「漢王様も、意見はお持ちにならぬと考えます。すでに、仮の軍令は敷いております。将兵の間には、怨嗟の声もあるようですが、
かといって代替の案を示せるものはおらず、悄悄(しょうしょう)として、受け入れつつあります。」
「主君が認めると言っているものを、敢えて追い落とそうとするほどの大きな叛意は持っておらん、ということだな。結局、あなた
が勝つか負けるかしないと、彼らの決心はつかんでしょう。」
「己の属する組織への不満を溜めている兵というのは、弱い。」
「そうかもしれませんが、相手は項羽だ。」
そうした不満を持っていなくとも、怯む、と蕭何は言いたい。
「そうです。」
韓信は、微笑んでいる。
「だから、我らが楚軍を破るのに必要なのは、心ではない。万の可能性に対処し得る、陣立てです。」
それは、我が脳中にある、とは韓信は言わない。もう何度も、蕭何の前では主張してきたことだ。
薄めた酒によって満たされた盃を、韓信は口に運ぶ。
巻物の一つを、蕭何は閉じた。意見は、ない。
「韓将軍、将兵の心はいらぬ、勝利への方策は己が頭一つにある、と言われるならば、東進のための準備にはあまり時間は要します
まい。」
「わたしの思い描く通りに、散開し、参集する兵馬があればよい。今、それは整いつつあります。半月ほど前でしたか、漢王に、軍
を進発させるまでにはあと三十日お待ちください、と申し上げました。」
「あと残り半月、ということになる。」
「妥当なところです。」
「しかし、まずは桟道を修復せねばなりませんな?他に道がある、という話も聞きますが……。」
「そのことも含め、半月後には我が考えを述べさせていただく。今はまだ、確かめておかねばならぬことが多くありますゆえ。」

門外まで、蕭何は韓信を見送りに出た。稀なことだった。上将軍という、新設されたに高位にさりげない箔を重ねたい、という気持
ちがある。と同時に、韓信という人間のあちこちを、もっと掘り下げてみなければ、と思う。
韓信は、夏侯嬰を共に連れてきていた。
「漢王が、早く返せと仰しゃいます。」
韓信の言に、蕭何は笑った。
夏侯嬰は、劉邦個人の僕(ぼく)のようなものだ。何でもやらされる。一日中厩にいて熱心に馬糞を片づけていることもあれば、罪
を犯したものを取り調べて刑罰を言い渡すこともある。今は、韓信の秘書のような仕事をやっている。最初に、韓信という男を買っ
たのは、夏侯嬰だ。縄に繋がれ、斬刑に処されようとしている一小使を、彼は見止めた。どうして見止めたのだ、と問われれば、顔
だ、と彼は答えただろう。それ以上のことは、彼には分からない。
韓信を、肯定的に見る者は少ない。味方が必要だ、と劉邦は考えた。疑いと侮り、敵意さえ混じった視線だけでは、自分ならば堪え
られない、と思った。
「将軍に関することの全てを、大王は己のこととしてお感じになる。」
優しさではない、と蕭何は思っていた。生き抜くために、韓信と同一になる道を選んだのだ。
「夏侯嬰が側にいてくれて、助かっております。」
「取り上げるつもりはないのだ、少なくとも、今は。おそらく、大王は将軍に、親愛の情を抱いておられる。」
うん、と蕭何は頷いた。
「言っておられた。己の前で、戦の話をしないでいる将軍は、かわいい、と。」
好ましい事実を告げるように、蕭何は言った。
「軍中のことは、将軍はただ一人で捌かれる。甘やかし甲斐がない、というとおかしな響きと思われるかもしれぬが、将軍と大王は、
親子ほどの歳の差がある。将軍も、歳を重ねればお分かりになるかもしれぬが、利発な年少者もかわいいものの、たまには年下ら
しく頼りなげな様子を見せてくれると、年寄りは嬉しいものでしてな。」
劉邦の心情を読み解いて聞かせつつ、蕭何はそれでも、劉邦の心の底には手をつけることができていない、と感じていた。戦の話を
しないでいる時の韓信はかわいい、と言った時、劉邦の目ははっきりと、蕭何がいまだかつて見たことのないものを見ていた。
―――何だろう?
気にはなった。それを読み解くためにも、韓信という人間をもっと掘り下げねばならないと思ったし、劉邦という人間に関しても、
そうだった。
「将軍は、漢中王劉邦という人を、どう思いますか。」
好きですか、嫌いですか、と蕭何は続けた。
一瞬、韓信の目が丸くなった。一つ、大きく点頭する。
「好きです。」
口元が、花のように綻んだ。
側に来ていた夏侯嬰が、真っ直ぐな少年のような瞳を輝かせる。
「そうですか。」
蕭何は、目を細めた。
「よかった。将軍は、漢王に対して私心がない、ということですね。」
「私心?」
「全てを、共有できる。好きとは、そういうことです。」
「そうですか。」
韓信は、ぴっくりしたようだった。
「そうです。将軍は、漢王に対しては包み隠すところがない、という意味のことを仰しゃったのです。」
「包み隠すところは、ありません。」
「よかった。」
蕭何は、空を仰いだ。
「将軍の、抜き身の魂とでも呼ぶべきあの軍法、渾身目玉のようにして読み込ませていただく。明日には、漢王の御前に捧ぐ心積も
り。」
「腑に落ちぬ点がありましたら、講釈に伺います。」
手直しはせぬが、という言葉があからさまに潜んでいて、おかしみを、蕭何は口の奥で噛んだ。
韓信は、馬上の人となった。夏侯嬰も、続く。
「将軍、何となくだが、痩せたようにお見受けする。」
「夏侯嬰に、言われました。」
「ならば、よかった。嬰が気を遣ってくれるのならば、安心だ。」
「わたしも、そう思います。」
韓信が馬首を翻すと、つき従う人々も同じようにした。韓信の馬が一歩を踏み出すと、他の人々の馬もまったく同じように一歩を踏
み出した。見事だ、と蕭何は思った。韓信が軍を変えつつあるのかどうか、門外漢である彼には分からない。ただ門外漢であるゆえ
に、単純な動作にも心を動かされやすい。
―――見事だ。
韓信の一行を見送り、しばらく、立ち尽くしていた。やがて背を丸くして、門内へ戻る。役所の敷地を踏んだ時、彼は小さく飛び跳
ねた。





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