「しようがない」
備考:リクエストいただたものです。
| ある感情が芽生えた時期を、はっきりそれと示すことは難しいが、その思いを意識の上に見出すに至った画期の出来事というのは、 思い返してみれば、やはりあれであったのだろうと何となく見当のつくものがある。
| 何度か訪れたことのある町で、睡骨は、夜に賑わうその界隈を、いわゆる物色しながら歩いていた。すでに幾つか知った顔を見つけ、 | 声もかけられたが、ただ冷やかしにきただけの体(てい)をして、通り過ぎてきた。彼女らのことを、それぞれに魅力あるものと | 認めたからこそ以前には関係を結んだには違いないが、今あらためて見ると、そう大した惹かれ方もしない。相手の容色がそこはか | となく衰えたか、こちらの好みが一方的に変わったのかは分からないが、ともかくまったく惹かれないので、惹かれる女を探す。
| 「やあ旦那、旦那、どうです。いい娘(こ)がいますよ。」
| 矮小な体つきの男が、睡骨の行く手にひょいと現れた。高い声で、口先滑らかに話しかけてくる。
| 「元気のいいのが好みですか?それともしっとりおしとやかに、聞き上手なのがお好み?色はやっぱり白いほうがいいでしょうな。 | 乳房は片手に収まる程度?旦那の手の平はでかいでしょうが。」
| 「抱けりゃあいいんだ。先立つもんはある。ただ多少の好みってもんがあらあな。」
| 「そりゃ、そうでしょうな。」
| 立ち止まらない睡骨の歩幅に合わせて、小男は飛び跳ねるようにしてついてくる。
| 「さっきからどうも物足りねえ。女に愛嬌は大事だが、も少しこう、つんと澄ましたような美人ってないねえのかね。」
| 「なるほど、女を知るにつれて求めるものも変容していく。知的で意地っ張りで、品のある美人をお求めというわけですな?」
| 「察しがいいじゃねえか。」
| 睡骨の声音が柔らかになり、その歩く速度が目に見えて落ちる。
| 「歩き続けんのもめんどくせえ。今日のところは、てめえの店で手ぇ打ってやるよ。」
| 「や、ありがたい。」
| 「そうだな、色白の……贅沢は言わねえや。鼻筋は通って目元は涼やか、笑った顔に品があると……。」
| つらつらと、浮かんでくるまま口に上せてはみるものの、まさかそれらすべての条件を満たす女が存在するとは思いもせず、最後に | は少しく空しい気分になってはあと息を吐いた。
| 「まあ、そういうこったがつまり、贅沢は言わねえからよ。さ、行くか。」
| 小男の肩を押して、それまで歩いてきた道を引き返してゆく。お望みどおりの女をお側に侍らせてみせますとも、と男は背中に首を | 捻りつつ言ったけれども、無論、期待などはしていなかった。
| 宛がわれた女の容姿には、理想のすべてが具現化されていたわけではなかった。ただ、小さく声を上げてしまったくらいには、似て | いた。誰に似ていたかというのは、それまで睡骨は認識していなかったのだが、目の前に現れた女は、色の白いところと、全体に肉 | 付きの薄いことと、目じりが切れ上がり、さらに鼻筋の通り具合にさして難点のないところなどから、どことなく、彼の兄貴分である | 男に、似ていた。
| あれ……、と睡骨は思った。
| (何でだ?)
| 女は非常に静かな動きで睡骨に近づいてくると、互いの膝頭の間に拳ひとつ分の間隔を残して、座った。彼らの脇には寝具が延べら | れている。今から彼らはそうしたことをするのであって、決して他の、お喋りなどに時間を費やそうというのではない。女は伏し目 | がちに、男の方から行為でもって、何かしら命じられるのを待っている。
| おい、と睡骨は低く言った。
| 「ちょっとこう、も少し顔あげてくんねえかな。」
| 女は素直に顔を上げ、睡骨を見た。小さな灯火と、格子窓から差し込む淡い月の光に左右から照らしだされて、表情のない細い面(お | もて)が、作り物のように浮かんでいる。
| 「やっぱり目つきは違うよな……。幾つだ?」
| 「十八。」
| 「ふうん。」
| 腰を上げ、女の体を両手でもって、軽く床の上に倒した。女の目がまた、おそらくは無意識に伏せられるのを見て、その眉間(まゆ | あい)の冷冷たる様が、殊にあの男に似ていると睡骨は思った。
| 好みの女の特徴を、思い浮かぶまま挙げていったところが、こうして出てきた女がよく見知った男にどこか似ている、というのは少々 | 驚きであり、何となく可笑しいようでもあり、しかし圧倒的な強さで抱く心情としては、困る。脳裏に男の影が張り付いて動かな | いままの状態で、目の前の女を抱こうというふうにはなかなか思いがたい。一方で、こうした事態に至ったそもそもの理由としては、 | 健全な雄としての器官が至極真っ当な働きをした結果であるのだから、その本能の高ぶりを、急になかったことにしようとしても | 無理がある。
| (どうするんだ、これ、抱くのか?もちろん女だからな。脱がしちまえば女の体なんだが、しかしな……いや、しかし……。)
| あれこれと思いながら、ほとんど無意識に体は動いて、女の着物を脱がし、小振りな白い乳房を前にすれば、次いでは自身の下帯を | くつろげざるを得ないような状況と相成る。女のほうでもだんだん積極的に動き出して、睡骨の背やら腰やら急かすように撫でさす | り、下半身をもどかしげに揺らしたりするので、肉体的にはもうまったく唯一の選択肢しかなくなる。
| (しようがねえ、どうしようもねえ。)
| 脳裏には、いまだ断続的に男の影がちらつくのだったが、それを問題と感ずることは次第になくなっていった。男でも構わないと思 | うわけではなく、目の前の体は実際のところ女なのだからそれが第一義、と思うわけだ。目を閉じ、小さな呼吸を繰り返している女 | の顔が視界に映り込むたび、表裏をなして意識の上に現れてくる男の影。それで少しでも獣としての本能が立ち止まる、ということ | が最後にはまったくなくなった。その男の存在も、目の前の女の体も一緒くたにして抱え込み、睡骨はただ己の快楽を極めんがため | だけに、使った。
| 非常に明るい日差しが、黄ばんだ障子を通して、部屋の中ほどに横たわった睡骨の右半身を殊に熱く照らしている。目を瞑り、静か な呼吸を繰り返し、彼は眠っているかに見える。
| 「おい睡骨、この部屋は、ってやっぱ片付いてねえ……おい、寝てんのか?」
| ずかずかと踏み込んできた男の声が、誰のものかなど、その声を聞く前から分かっている。ここ十日足らずの間に、睡骨はずいぶん | とその男の足音やら纏っている空気やら、彼が声を発する前に一瞬どんなふうに大気が震えるのかなどといったことに対して、熟知 | するようになった。
| 「寝てんのかよ、おい。」
| 男は、寝ている睡骨の爪先近くをかすめて、部屋の奥に入り込んだ。そこに多くの雑多なもの、たとえば葛籠(つづら)や文机といっ | た大きなものから、鍋や扇や着物といった細々としたものまで、何の脈絡もなくただ積み重ねられていることを、睡骨は知ってい | た。
| 「片づけなくていいのか。」
| 「そんなに長く泊まるのか。」
| 即座に返ってきた声に、男はわずかながら驚かされたようである。短い沈黙の後に、ふっ、と小さく息をつくのが聞こえた。
| 「分からんが、お前、これだと少し寝ぼけてぶつかったら、埋まるぞ。つまらん怪我をして汚名をあげたいとでもいうんなら、別に | 止めねえけど。」
| 「うまいこと角が当たれば、死ぬこともあるな。」
| 「そうだな。」
| がさごそと音を立てて、男は積み上げられたものを取り崩し始めている。埃が立つのではないか、と思うとゆっくり横になっている | 気にもなれなくなって、とりあえず、睡骨は身を起こした。左の方角に目をやれば、見慣れた背中が、どことなくのんびりとくつろ | いだ風情で動いている。片手で鍋を持って床に置き、その下から出てきた草鞋を、使えないことを確認してからポンと放る。
| 「ここも似たようなもんだなあ……。」
| 「何か値打ちのありそうなもんでも探してんだろうが、そもそも人の上に立つ連中ってのは、そういうとこきっちりして隙を見せね | えから成り上がってこれるんじゃねえのか。」
| 「何かひとつくらいねえかと思ってよ。……駄目だな、なんにもねえや。」
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