「寒い日」


部屋の中にいても息が白く凍るような、そんな日。なるたけ寒気に肌をさらさぬように、人々はみなしっかりと袖を閉じたり腕を組
んだり、耐えがたいところをどうにか耐えて行き交っているのに、子どもらは、どうしてかこの寒さを耐えるものでなく、楽しむべ
きものと捉える感性を持つようで、力いっぱいに走り回ったり、お互いにいたずらを仕掛けては押し合ったり、へし合ったり。剥き
出しの腕や足を、真っ赤に火照らせている。十分に布地を纏えているとは言い難い子らもいる。だがそうした子らを区別する子らは
いないし、遊びに夢中になっている彼らの目には、とにかく大勢でいることが楽しくて、その身につけているものの違いなど、そも
そも映ってはいないのだ。
だからといって、ふざけて体をぶつけ合ったりしようという時に、相手と自分の目線とがまるで合わないくらいに違ったなら、さす
がに気づかないというわけにはいかない。おや、ずいぶん大きな奴が混ざっているぞと思うし、明らかに異質なものを捉えた時に、
誰もが一瞬は陥るあの小さな恐怖感という罠に捕らわれて、あっと体を硬くする子どももある。そんな子どもらに向かって、その大
きな体をしたものは言う。
「ええもん見せたろかあ。」
包み込むような上方訛りと発言の内容によって、子どもらの中に小さくあった恐怖心が、とん、と次の展開への期待感に入れ変わる。
瞬きを忘れた円らな瞳が幾つも向けられた先、若い男が立っている。人を安心させるにはどうしたらよいか、よく心得ているらし
いこなれた笑顔。裾の短い山袴のようなものを穿(は)き、上衣は袖無し長めのものを、腰のところで締めている。寒々しいといえ
ば、これほど寒々しい恰好をしている者もそうはいないが、何よりおかしいのは、肌を覆う衣が少ないのは経済的に貧しいからであ
ろうと思われるところが、この晴れた日に下駄を履いたり、耳や手首を奢侈品で飾ったりするなど、むしろ暮らしに余裕のある遊び
人風であるところ。自ら好んでのこの恰好であるなら、よほど寒さに強いのか、己の好みを優先する酔狂者であるのか。
「いくでー。」
背中を軽くこごめて、何か出してくるように腕を動かす。それを先に覗いてやろうと動く子どもあり、前に立つ大きな子の肩に懸命
に顔を乗せてくる子どもあり。
「ほら!」
「わっ、氷!」
「まんまるだ!」
群がる子どもら。小さな手と手が交差して、男の手から我勝ちに氷を奪おうとする。どこかの家の軒先に、出しっ放しになっていた
桶にでも張っていたものであろうか。円さといい厚さといい、なかなかに見事な造形。目に見えるものすべてに触れたがる子どもで
なくとも、ついつい魅せられて足を止め、顔を近づけ、手を伸ばしてしまいたくなる、そうした冷たい輝き。
「重いから気いつけや。」
もっとも年長らしく見える少年の手に、男は氷を委ねる。委ねられた少年の、誇らしげな瞳の輝きは、その手の平の上に危なっかし
くのせられた、美妙なる自然の円鏡の放つそれに、優るとも劣らない。
子ども達のはしゃぎ声が、少し男を離れて、男の方でも見守る目つきになり、一歩二歩、遠ざかる。この辺りは長屋が立ち並ぶ。大
抵は平屋建てだが、男が背を向けて立っている辺りのものは二階を有している。その二階……ちょうど男の頭上辺りに位置するとこ
ろの雨戸と障子が、そろって半分ほど開いている。
「無邪気でええなあ、子どもは。」
「あなたの馴染み具合も相当なものでしたよ。」
「ほうかあ。」
「ええ、とても。」
「なあ白、お前……。」
往来に立つ男は、体の向きは変えないまま、ぐっと胸を反らせて、後ろを見る。
「さむないか?」
不自然な体勢から発する声は、彼本来のものよりも細く、高い。
二階から、往来を見下ろしている顔……欄干の向こうに見えるそれは、声を聞かずに遠目に見たなら、女だろう、とさして疑念も抱
かず納得してしまいそうなほどに、白く小さい。その顔が、少し傾く。
「紅虎、あなた、自分の恰好分かってますか?」
声を聞けば、男と分かる。落ち着きはらった、すんなりとした響き。
「分かってるよー。」
往来の男、紅虎は、体勢を戻して、今度は体全体でくるりと振り向く。
「そやけど、わいは動いてるからな。あの氷取ってくるのも結構難儀したんやで。それに比べて……お前、ずーっとそんなとこ座っ
とってからに。」
「黒蠍は、真冬に滝に打たれて、半時近くもぴくりとも動かなかったそうですよ。」
「あいつはおかしいんや。」
「そうですね。しかしわたしは、あなたや黒蠍に比べれば、よほどましな恰好をしていますし、少し寒いくらいのほうが、頭がはっ
きりするようで、好きなもので。」
「少し寒いっちゅう……朝やないと思うけど……おっ。」
長屋の方を向いていた紅虎が、何の気なく往来側に目をやると、子どもらが怖々転がして遊んでいた氷が、ちょうど彼の足元めがけ
て近づいてきているところであった。くすんだ藍色の、ちんちくりんな着物を着た子どもが走ってきて、抱きつくように、透きとおっ
た光の輪を押し止める。あっ、と声を上げた子どもらの表情は、笑っているものもあるが、どことなく不満らしく見えるものが少々
多い。叫びたてる声から推し量るに、どうやら転がしては投げ、転がしては投げの遊びには、転がっている途中の氷を押さえたも
のが、次に投げることができる、という決まり事がいつの間にやらできていたらしいのだが、その権利を、藍色の着物の子が連続し
て獲得してしまっている、つまり、この数回、その子しか氷に触ることができていないというのだった。
「そうか、そうか!」
紅虎は手を打った。
「ひとつしかないもんな。ああ、こらいかんかった!」
「他にないの?」
と責めるような口調で尋ねてくる子、泣き出しそうな顔をして一心に紅虎を見つめてくる子……。藍色の着物の子は、半分は傍観者
らしく、しかし半分は何か気まずい当事者といった感じの表情で、首を伸ばして周りを見たり、紅虎のほうを向いてにやにや笑った
りしている。
「よし分かった、氷探しに行こう!」
どこに?、と詰め寄る子どもら。
「水があるところや、どこや。」
「川行ったらある?」
「川は動いとるもん。元気のあるやつは汗掻くから凍らんのや。」
えー、という声が上がる中に、はいっ!と手を挙げた利発そうな女の子。
「お地蔵さんの池は?」
「お地蔵さんの池?どこや、それ。」
「お地蔵さんの山にあるの。向こうの……。」と西の方を指さす。「山の中に、小さいお地蔵さんがいらっしゃるんだけど、すぐ前
にこれくらいの池があるから、みんなお供え物ができないの。」
「へえ、かわいそうなお地蔵さんや……。」
女の子が両手を広げて作ったわっかを、紅虎は腕を組んでしかつめらしく吟味する。よし、と表情の硬さを解きつつ頷く。
「そこに行こう。」

人肌に長く接していると氷はどんどん溶けてしまう、というと藍色の着物の子はふーんと澄ました顔をしつつも、素直に紅虎の手に
氷を委ねた。その時見えた丸く小さな手の平は真っ赤で、まるで燃えてでもいるようだった。長屋の壁に、紅虎は氷を持たせかけて
おく。誰か盗らないかな、という声に、見張りがおるから大丈夫や、と二階を指さす。
「それか、中に入れといてもうて、お前も来るか?見てるよりおもろいで。」
「元気ですね、あなた。」
「行くか?」
「大きな氷ですか。あまり惹かれませんね。」
まったく動かない白い面の中から、言葉だけがぽろぽろと降ってくる。それを見上げる子どもらは、顔だけを上に向けると自然そう
なるというのもあるのだろうが、ぽかんと口を開けている。
「お前、桜好きやん。」
「……ええ。」
「長持ちせんと消えてまうのが切なあていいんやろ?わいも好きやけど。」
「桜は一度咲いて散ったら、次は一年後。氷は、明日の朝にはまたできますよ。」
「ああ……まあ……。」
言葉を操るのでも、拳をぶつけ合うのでも、何か特別の理由があるというのでもない限り、一度得られた納得の結果を、あまり覆そ
うという風には紅虎は思わない。納得させられるというのは、大抵の場合、むしろ彼にとっては気持ちのよいことであった。
周りで、ひそひそと子どもたちが言い交わしているのが聞こえて、紅虎は、耳を傾けつつ、両脇に目をやる。
「ねえ、男の人?」
「そうだろ?」
「でも色白いよ。うちの父ちゃんと全然違う。」
「でも女は声が甲高くてうるさいじゃないか。俺の母ちゃんとか、お前んとこの姉ちゃんみたいに。」
「あれはな、」
何かとても大事な話をする時のように、紅虎は姿勢を低くし、両手を広げて、子どもたちを呼び寄せる。
「変な人や。」
「へんな人?」
「変な人、って書いて変人って読むねん。」
「へんじん?」
「そうや。」
ふーん、と頷く子どもらに合わせて、紅虎もゆっくりとその面を上下する。そうした光景を二階から眺めて、色の白いその“へんじ
ん”と呼ばれたところの者の表情は、特にこれといって、変わるところがないのであった。
須臾(しゅゆ)の後、おもむろに背を伸ばし、紅虎はくるりと表情を入れ替えて、笑う。
「行こうか。」
と子どもらをぐるりと見る。うん、と頷く子どもら。
町の人間でない者が、行ったことのない場所へ行く道を知るはずもなく、案内のため、子どもらに先に立ってもらいつつ、紅虎は柔
らかな曲線を描く目鼻を、ひょいと上向かせ、
「見張り頼むでー。」
のんびりと、抑揚豊かな声を響かせた。返事は、ない。
前を行く、子どもたちの小さな頭が、ばらついた動きを見せて、紅虎の顔を盗み見たり、その顔を透かすように、長屋の二階にひっ
そりとしている人の姿を捉えてみたり、はたまた、大人の存在など知らぬように、浮き浮きとしてひとり抜け出していってしまった
り、様々に広がってゆくのを、少し高い視点から見下ろし歩いていた紅虎は、たまたま目の合った、中でも小さな女の子をひょいと
抱き上げ、肩車した。
「後ろ見てなあ、わいに教えてくれんか。」
「何を?」
「変人さんが、こっち見てるかどうか。」
紅虎の頭をぎゅっと掴んで、女の子は後ろを振り向く。うーん、とかすかに声を漏らして、
「見てるよ。」
やがて、紅虎の後頭部に口元寄せて、はっきりと強く囁いた。
「ほうかあ。」
うん、と頷く女の子。
「頬杖ついて見てるか。」
「ほおづえ?」
「こうすることや。」
と空に肘を置いて、紅虎は上向きながらしてみせる。うん!とまた女の子は頷いた。
「ほうかあ。」
と紅虎は笑う。
肩車をされている女の子を見つけて、先を行っていた数人の子らが羨ましげな顔をしつつ、後ろ歩きに紅虎のそばにやってきてまつ
わる。それらの頭に、順々に手の平を置いていきながら、やったるやったる、と紅虎は言う。
町の西側にある山を目指して、最も先を行っていた子がくるりと角を曲がって見えなくなる。
「あんまり急ぎなや、転ぶで!」
大きな声で紅虎が注意すると、その子はにゅっと角から首だけを突き出して、
「早く行かないと、とけるよ!」
と言った。
「ああ、それもそうや……。」
最もなことだと思い、左右にいた子らの背中を紅虎はぽんと押す。
「ちょっと走ろか。」
「肩車は?」
「後でしたるから。ほら、行くで!」
肩の上の女の子を、ひょいと持ち上げて、下ろすかと思いきや、そのまま右の小脇に抱え、左の小脇にも、最も近くにいた子を少々
荒っぽく抱え上げる。
「あっ、いいな。」
とまた羨ましがる子どもらに、
「何でもやったる。お地蔵さんの池に着いた順や。」
と言葉をかけると、紅虎は、わっとばかりに駆け出した。
驚いて、目を丸くしたのも束の間、その後を、子どもたちがいっせいに追う。

見下ろす通りが、急に閑散としてしまって、軽い驚きのようなものを抱きつつ、白鴉はゆっくりと息を吐く。冬本来の景色というべ
きか。弱い日差しを受けて白っぽく見える地面に、葉の落ちた木や、今自分がいるこの建物などが、確かに影を落としてはいるのだ
けれども、それはもう、ほとんどあってないようなものだ。すべてが、その存在を希薄にしている。
紅虎が立て掛けていった氷の円鏡に、目をやる。その踏みしだくところの地面が濡れている。日陰であるので、そう急速にとけるこ
ともないだろうが、紅虎が、極めて短い間に子ども達の心を手に入れることができた、それを可能にした唯一最大の功労者としての
姿からは、紅虎達が戻ってくる頃までには、ずいぶんと遠ざかってしまっているのに違いない。
ふと、空を見る。風はほとんどないといっていい。ただとにかく冷えている。
また氷を見る。紅虎に、その見張り番を頼むと言われた。けれども、答えなかった。最初から、こうしてしばらくは窓を開けて、も
うしばらくすれば本など片手にして、時を過ごすつもりであったから。結果として、見張り番になるのだろう、と思っている。
「誰か、いますか。」
廊下に向かって声をかけると、短い話声がした後に、
「お呼びですか。」
襖が開いて、見知った顔が手前にひとつ、奥にふたつ、廊下に膝をついて現れた。
「何か熱い飲み物を。茶でも湯でも、どちらも構いませんので。」
「かしこまりました。」
三人ともに頭を下げた中で、奥のひとりが少しだけ早く体を起こし、
「炭をお持ちしましょうか。」
と部屋の主の目の前に、少し幅を取って置かれている長火鉢を、右手で軽く指し示しながら尋ねた。
「ああ、そうですね。もらいましょう。」
「では……。」
と三人腰を浮かせかけたのを、
「ああ、それと……。」
と白い手が、どこか気だるげに動いて制する。
「湯を多めに……沸かしておくと、いいかもしれません。」
「はっ……?」
いつもより、少し明瞭さに欠ける物言い。
「沸かしておくと、いいかもしれません。」
「はあ……。」
「ここから、」と言いつつ部屋の主は、相変わらずの人形顔を口だけ動かし、今度は窓の外に向かってゆるゆると腕を伸ばしつつ、
言った。「あの山に行って、何かして、帰ってきた人は、冷えているでしょう?」はあ、と三人の男はばらばらに頷く。「あの山に
行ったことがないので分かりませんが、たいたい半時でしょうか、もう少し短いでしょうか。とにかく、だいたいこのくらいだろう、
とあなた方が思う辺りに合うように、湯を多めに沸かしておいてくださると……いいかもしれませんね。」
「…………。」
いつの間にか、廊下に膝をつきなおしていた三人は、めいめい顔を見合わせていたが、やがて手前に位置を占めていた男が口を開け
て、
「では、今から四半時過ぎた辺りから……しかし、多めにというのは。」
「人数が多い、かもしれない。」
「はあ……。」
「十人。」
「それは、ずいぶんと、」
「子どもです。」
「……先ほど、表で子どもが賑やかに騒いでいる風でしたが、そういえば、今は聞こえませんね。」
「いい目の付けどころです。」
「紅虎様がご一緒なのかと思いましたが……。」
「そのくらいの理解があれば、十分ですよ。……ああ、そうそう、表に出ることがあるか知りませんが、氷が立てかけてありますか
ら、気づかず倒してしまうことのないよう。」
「氷、ですか。」
「ええ。」
白鴉は頷いた。
白い冷涼たる横顔に、男達はさらに疑問を告げることもできただろうが、あまり端的な説明をするつもりがないらしいことは明らか
だったし、常には簡潔な物言いをする人がそうなのだから、最初からぼかした言葉の積み重ねに終始するつもりであるのだろう。
「……分かりました。ではともかく炭と、飲み物を、お持ちします……。」
今度こそ腰を上げて立ってゆく彼らを、完全に視界から外し、白鴉は窓枠に下膊(かはく)を延べてその上に顎をのせる。自ずと丸
みを帯びた背中は、彼としては珍しい。
階段を下りていく足音が、耳の底の方に響く。ひとりふたりと増えていったのが、やがてふたりひとりと減ってゆく。後はかすかな、
何だかはっきりとは分からない物音……。
しばらく、階下から注意をそらしていた。通りを、見るともなしに見ている。向いの長屋の戸が開いて、白髪混じりの、煤(すす)
けたような肌色をした女がひとり、桶を二つ右手に抱え、左手にも一つをぶら下げた恰好で、出てきた。左右を見て、白鴉には気づ
かない様子で長屋の奥を振り返り、おい、おい、と誰か呼ぶ。子どもの名前らしいのを、大声で繰り返すが、誰も出てこない。
「どこ行きやがった!」
と最後に、やはり家の奥に向かってそんなことを叫ぶと、ぴしゃりと戸を閉め、また左右を見ながら二歩三歩、往来の中ほどへ出て
きた。
「氷を、とりに行っていますよ。」
と白鴉は言った。女の顔が、はっと上を向く。
「氷?」
不意をつかれて、少し上ずっただみ声。
ええ、と白鴉は流れるように頷く。
「あなたの子どもがどんな顔か知りませんが、そこでさっき、大勢子どもが遊んでいて、今は氷を取りに行きましたから、供え物の
できない地蔵の、山だか池だか。」
「ああ、それだ!」
女は、左手に持っていた桶で、自分の太股をパン!と叩いた。
「知った声が聞こえてたような気がしたんだよ。ああ、そうか……!」
顔をくしゃくしゃにして、忌々しげに何度も舌打ちする。我が子の所行を、どうにも許すことのできない様子。
やがて女は、例の、長屋の壁に立てかけていた氷の円鏡に目を留める。そしてまるで、結わえつけられた紐を真っ直ぐ引かれていく
牛のように、それに向かってずんずんと進んでいくと、そのまま、歩んできたままの足で、ぐしゃり、と氷を踏み潰した。
あ、と白鴉は思った。少し驚いて、下膊に下ろしていた顔を三寸ほど、上げる。
女は、自分の長屋に戻っていくように、方向を急転回させて、またずんずんと歩き出したが、道の中ほどまで来ると、首だけぐるり
と回して白鴉を見上げた。
「教えてくれて助かったよ。時間を潰さないで済んだ。」
「……いえ。」
「ほんとに気の利かない、ぐうたらな馬鹿でね……!帰ってきたら頬の三発も張ってやろう!」
「…………。」
家の前に桶をひとつ投げ出すように置くと、女は、通りを南の方角へ歩いていく。四十間も先へ行ったところの、角をちょっと右へ
折れたところにある長屋の住人共用の井戸に、はるばると、飯を炊くための水を汲みに行くのであろう。

子どもたちを夢中にさせた、一枚の円い氷は、正月の鏡餅を割るよりももっと容易く割れてしまった。子どもたちは、欠片を投げ合っ
て遊んだ。桶でも樽でも、水を張って外に出しておけば明日の朝にはまた氷が手に入る。枡(ます)を使えば四角い氷ができるだ
ろう、と紅虎に聞かされて、彼らの瞳はまたすぐきらきら輝きだした。わざわざ遠出して、持ち帰ってこれたのは池全体に張ってい
た氷のほんの一部でしかなかったが、子どもの顔ならすっぽり収まるくらいの大きさのものばかり。転がすことはできないけれども、
それはそれで、子どもらにとっては嬉しいもののようだった。
とかしようによっては円形を造ることができるかもしれない……そうした考えをもって角を手の平で温めたり、息を吐きかけたり、
袖で無心にこすったりする子ども達。
紅虎に肩車してもらう順番を待って、今しも高いところから、声を上げてはしゃいでいるたったひとりを、羨ましげに見上げながら、
軽く駆けてゆく紅虎の後を追っていく子ども達。
さらにまた、白鴉に言われてその部下らが沸かした白湯を受け取って、ほっと人心地ついて安らけくいる子ども達など……。
穏やかな心境のものが見たならば、この上なく優しい感情を抱くであろう光景。少しささくれた心境のものが見たならば、たちまち
に胸の不快は慰められて、穏やかな心境を手にい入れることができるであろう光景が、その時、そこにはあったのだった。

ひとつの出来事が、持ち上がる。白鴉のいる長屋の向かいの長屋から、例の煤けたような肌色の女が出てきて、彼女の、おそらく五、
六歳ばかりになるだろう、息子と思しきひとりの子どもの前までやって来ると、何も言わず、その頬をひとつぶち、あっとその子
が声を上げたところを、またひとつ、反対側の頬をぶった。その場にいた子ども達や大人、みんなの視線が集まる。わずかの間、静
まり返る一帯……
「わあっ!」
と声を上げて、そのぶたれた子が泣きだしたのを合図に、はっと、何か金縛りから解放されでもしたように、人々も動き出す。
怯えて、二人、三人と寄り集まる子ども達。親子のそばへ近づこうとするものもある。それに先んじて、紅虎が、肩に小さな男の子
を乗せたままやって来る。母親に、何か言う。それに応えて、母親も盛んに口を動かし、険しい顔をぐいと紅虎に近づける。しばら
くの間、続くやり取り。その間、ぶたれた子どもは泣き続ける。嫌な光景だった。大抵の人々にとって、それは嫌な光景だった。
二階から、一部始終を見ていた白鴉は、二杯目の熱い茶を、ゆっくりと飲み干したところだった。茶托の上に器を置くと、彼は立ち
上がる。
廊下に出たところでたまたま部下と鉢合わせして、二言三言交わし、階段を下りて、土間の上の履物に足を置き、出てゆく。それま
でにどんな展開があったのか、弱く白っぽい冬の日差しの下に白鴉が姿を現した時、あの泣いていた子どもは母親とともに、ちょう
ど彼らの住まいへと、消えていこうとしているところだった。
「白。」
紅虎が、近づいてきた、笑みのない顔で。
「どっか行くん?」
「ええ、少し。」
「仕事の話か。」
「ええ。」
「つまらんな……。あの氷、何で割れたん?」
「先ほどの婦人が踏み潰したので、あっという間に。」
「ああ……そっか……。」
「紅虎様。」
顔に覚えのある部下が、盆を捧げてやって来る。
「いかがですか。白湯ですが。」
「酒かとおもた。」
少し笑い、まだうっすら湯気を立ち昇らせている器を、紅虎はひとつ取る。
「ほら、飲みや。」
と言って、持って行ったのは頭上。顔も手も真っ赤にした子どもが、きょとんとした目でそれを見る。やがて小さな手が、左右そろっ
て伸びてくると、その窪みの中に落とし込むようにして、上手に椀を受け取った。
「あったかい!」
即座に叫んだ子ども。
「落としたらあかんで。わいが危ない。」
「うん!」
ただの白湯を、この上なく美味なるもののように、子どもは煽る。ちょうど真上にあるので紅虎からその顔は見えないが、触れ合う
肌から何か伝わってくるものがあるのか、彼の表情もまたそっと、柔らかなものとなる。
「あなたは飲まないのですか?」
そう言い、今度は白鴉の手が、盆の上に伸びる。
「ああ、飲む。」
「どうぞ。」
と差し出してくるのを、一瞬だけ、さっきの子どもがしたのと同じような表情で見てから、紅虎は、今度ははっきりと、笑った。お
おきに、と器を受け取る。
「あー、美味いわ。」
まっ白い、息を吐く。
「そうや、これも凍らしたらおもろいな。」
「どれ?」
頭上から子どもが尋ねる。
「この湯呑や。表面だけ凍ったら小さい円い氷ができるし、全部凍ったら面白い、変わった形になるわ。」
「へー。」
「飲みさしでも何でも、今日家に帰ったら表に出しといたらええ。」
「うん!」
通りを見渡すと、あちこちで、地面が輝いている。敷き詰められた氷の欠片を、踏み砕いて回る子ども達。一層細かに、数多くなっ
た輝きが、見る者の目をあらゆる角度から突き刺す。
子ども達は、一緒に遊んでいた子どものひとりが、ぶたれて連れていかれてしまった事実を、もうすっかり忘れてしまっているかの
ようだった。彼らは世間を知らず、それゆえに想像力が貧困で、目の前で分かりやすい形で展開されるのでなければ、到底、自分よ
り他の人間に心を寄せるということができない。
「元気やなあ。」
はあ、と紅虎は息を吐(つ)く。
「わいはさすがに疲れた。」
朝帰りの寝ぼけた顔そのままで、子どもらと同じように遊んでいては、当然おかしな調子にもなってくるでしょう、と隣から、批判
というにも熱のこもらぬ声が飛んでくるかと思ったが、
「あれ、白は?」
くるりと首を回したところが、そこには誰もいない。
「ああ、もう行かれましたよ。」
「ええ?」
「紅虎様に、白湯をお渡しになって、すぐに。」
盆の上にひとつだけ残っていた白湯を、自ら傾け答える部下。
「何や、そうなん……。」
北風も凍るような、シン……とした通りの向こうを、とりとめのない目つきで紅虎は眺める。そうして少し首を傾けた彼の頭を、空
になった器の縁で、トントンと、子どもが叩く。合わせて動く細い足。褪せた冬の色調の中、その霜焼けだらけの指先ばかりが、燃
えるように、鮮やかだった。




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