「理想の人」
備考:三十代前半の二人


少し遅れてやって来たパーティ……。格式高いその家の主人、今宵のホストは、完璧に洗練された動作と言葉で、ローレンスを迎え
た。
「忙しい君に、ゆっくりしていってくれとはなかなか言えないが……。」
白銀の髪が一束、乾いた初老の、しかしシミひとつない額の上に落ちている。
「娘さんはどちらに?おめでとう、と申し上げねば、今日の内に。」
「向こうにいる。あれの誕生祝いのために開いたパーティだ。今日ばかりはみなにちやほやされるので、嬉しそうだよ。」
そう言って細めた目で、主人は広間の一角を見る。そこには会場内で最も大きな人だかりができている。良家の子女ばかりだという
ことは、匂い立つような品の良さから明らかであって、そのまぶしく華やいだ様に、ローレンスは何か自分とは違った世界を見るよ
うな目つきを寄せる。それは無論、おかしなことだった。彼は、良家の中でも極めてきらびやかな血筋を誇る一族の出であったのだ
から。
「わたしのように、そろそろ中年の域に入ろうかという者には、少し足を踏み入れにくいような雰囲気ですな。」
「何をおっしゃるか。独身でいる内は誰もが人生の花盛り。男なら女、女なら男の、色っぽい視線を集めずにはおかないものです。
さあ、お引き合わせしよう。」
主人の先導で、ローレンスはその若やいだ一団の下へと向かう。普段の付き合いに親疎の差はあるものの、今宵の主役である娘も含
めて、どれも知った顔ばかり。
「おっ、これはこれは。ローレンスの若殿が。」
最初に振り向いたのは、家同士の付き合いの古さから、幼少期よりよく見知った顔の若き男爵。
「おいおい御一同、道を開けろ。美しい花に夢中になるのもほどほどに。払うべき敬意を忘れた男に、世のご婦人がたの評価は厳し
い。」
「獣と同じですものね。まだしも本物の獣の方が、用心すべきものと分かりやすくていいですわ。」
高さはありつつも落ち着いた声の響きとともに、コツコツと誇らしげな靴の音がして、ふわり、とまさに一輪の花が咲きいでるよう
にひとりの女性が目の前に現れた。それは今宵の主役であるこの家の令嬢。ローレンスもよく知ったはずの顔だった。しかしその姿
に、ローレンスは小さな違和を感じる。どこか、違う人物のように見える。
「どうなさったの、ローレンスさん。」
「いや、あなたは、この家のご令嬢だと思うのですが。」
「そうですわ。」
「一人娘の?」
「そうですとも。」
ほう、とローレンスはまるい目を見開いて瞬く。
「女性というのは……魔的なものです。」
「褒めてらっしゃるの?」
「無論です。昨日までのあなたはフリージアの愛らしさ、今宵のあなたは艶(なま)めくカトレア。驚いたのです。」
「実はみなさんそうおっしゃいますの。わたし、そんなにも田舎娘っぽかったかしら。」
「誤解を恐れず言うならば、形を整える前でもダイヤはダイヤ。しかし磨き抜かれたその姿には、やはり精髄の凄味というものがあ
るのです。」
くすり、と細く白い五本の指で、花弁の唇を隠しつつ令嬢は笑った。
「構いませんわ。自分でも鏡を見ていて、何だか変な気がしていましたもの。それに、嬉しいんですの、みなさんびっくりなさるか
ら。」
「急に甘い言葉をかけてくるような男には、用心なさい。」
「あら。」
すでに心当たりがあるといった顔。令嬢の背後に立つ男達が、ざわざわと互いを見やって、にやりと笑い、中のひとりが端正な口元
を操りながら、柔らかにローレンスに言葉を投げる。
「卿、我々は若く、皮相的にしか物事を見ることができません。しかしその薄っぺらさゆえ、腹の中も見せてしまった通りでして。
決して嘘をつくことはできません。目の前の令嬢の美しさに、思わず口をついて出てしまった言葉の数々、衷心からのものと、誓っ
て申し上げます。」
「いや、なに……。」
真綿の無差別な優しさで、ローレンスはそれを包み込む。
「若さに対しての、汎用性ある文句に過ぎない。行動を信奉する時代だからこそ、ともかくも気をつけるようにと大人は言ってみる
ものなのです。なぜならば、まがりなりにもそうした覚えが、彼らにもあるので……。」
「まるで年老いたもののような言葉を。」
ローレンス卿、と大きく手を振り、首を傾げ、ため息混じりに男爵が語る。
「あなたほど、行動が最上の美徳とされるこの世界に、長く身を置いているものがありましょうか。あなたが、それを望んでおられ
るとは思わないが。しかし家格の高さに優れた人格、加えて実務家としての傑出した手腕、何より……。」
独身、と誰かが口笛を吹くように呟く。
「そう、あなたは、もう長いこと独り身をしておられる。我々の口の端にも、頻繁に上ろうというもの。失礼ながら、誰が最も“効
果的な働き”をするかという、その品のない噂話の中の、ひとつの対抗馬として。」
「そうした噂話は幾つか聞いたことがあります。その中に登場するわたしは、まるきりの別人のようで。」
「お笑いに?」
「いや、そのような働きひとつしない自分の怠惰を、恥じる次第で。」
「卿はお忙しいのですもの。」
薫り高い風がさっと吹くように令嬢の声が響いて、人々の耳目を集める。
「単に勤め人であるから忙しい、ということではありませんわ。それだったら、この場には他にも定まった職をお持ちの方が大勢い
らっしゃる。そうではなくて、卿には高い志がありますから、それのために、己を日々練磨してゆくことに、お忙しいのですわ。」
「何という寄り添ったお言葉だ……!」
人々の中から次々とため息が漏れる。令嬢に対して、それまで以上に深く好ましい印象を抱いたがゆえのものもあれば、麗人にその
ような言葉をかけてもらったローレンスに対し、彼の極めて高いというべき社会的地位と名誉ともあいまって、少なからぬ妬心(と
しん)を抱いたがゆえのものもあった。
「そうは言いましてもご令嬢。」
と男爵が、せっかちらしく口を開く。
「卿にはご一族の血を正しく未来へと継いでゆく責任がおありですから、もうそろそろそのような話が具体的に持ちあがったとして
も不思議ではありませんし、そうなった場合、いったいどのような血筋からも見目からも教養からも、優れた女性が選ばれるのかと、
我々には願うことすら叶わぬ夢物語でありますから、好奇の瞳を瞬かせたくもなってしまうのでして。」
「それはもう。」
令嬢は微笑む。
「わたくしとて、その好奇の眼差しを寄せるひとりにならざるを得ませんわ。けれども……。」
滑らかに動いていた紅唇が、何かに気づいた様子で明らかに中途で閉ざされる。丸みのある額の下、聡明な輝きを放つ目見(まみ)
が見つめる先へ、人々も一斉に顔を振り向ける。
屋敷の使用人がひとり、速足に彼らの下へと近づいてくるところであった。
「何だ。」
とあと数歩で互いにぶつかろうかというところ、屋敷の主人が尋ねると、使用人は足を止めてぐいと主人に顔を寄せ、
「ローレンス卿にお会いしたいという方が。」
潜めた声で、早口に告げた。
「こんな時分に?招待客ではないのか?」
「ライズ保険会社のアンダーライターの方でして。」
「ああ。」
と主人が頷いたのとまるで同時に、ローレンスもまたその口を開け頷く。
「ロードン君です。」
「はい、その方でして、10日にお電話いただいた件で、至急に確認したいことがあると。至急であることは、そう言ってもらえれ
ば伝わるから、とのことでして。」
「そうなのかね、ローレンス卿?」
「ええ……しかしどうも、間の悪いことです。」
恐縮らしく、首を縮めて下を向くローレンス。それへ、またもや寄り添うが如き言葉を投げたのは令嬢。
「その方をお呼びしては?こんな時分までお仕事なんて、頭の下がる思い。せめて喉を潤していただければ。」
「ありがとうございます。」
「わたくし、仕事に打ち込む男性の姿にはっとすることが多いんですの。素晴らしい……この国を支えているのは、まさにそうした
方達ですわ。」
「あの男が聞けば喜ぶでしょう。……しかし、このパーティの端に一時的にも列することは、承諾いたしますかどうか。仕事中毒を
極めたような男でして。」
「ますます、お会いしてみたい。」
くすりと令嬢は笑い、首を傾げて使用人に顔を向ける。
「ご案内して。」

「ご結婚はしてらっしゃるのですか?その方。」
「いえ何分、仕事中毒の酷い症状持ちなもので。」
「あなたと同じ?」
「わたしと彼とでは、異なります。」
「それはお仕事に夢中だからご結婚なさらない、というわけではないということ?あなたが?」
「いろいろと、あるではありませんか。」
「ええ、もちろん!それでわたし、さっき……。」
何か意を得るところがあったらしく、きらめく瞳。しかし令嬢の言葉は、またもや中途で遮られる。
使用人に連れられて、姿を現した青年。すらりと高い背の上に、白く小さな顔が乗っている。撫でつけられた金髪はつややかに輝き
渡り、秀でた額の下に彫り深く埋め込まれた双眸は、水晶玉の如く、ただその内奥に一点、浮き出るような青い光を含んでいる。
「ジュリアス・ロードン君です。」
肩先に知己を迎えて、ローレンスが紹介する。
「ライズ保険会社の、優秀なアンダーライター達のひとりでして。」
ほう……、と人々の間に声が漏れた。素晴らしい眺めを前にした時、思わず唇を割って出てくる類のそれである。
「和やかなひと時に、無粋な風を吹き渡らせてしまったようで、申し訳ありません。ご主人……。」
敢えて低めている、と思われる声でロードンは言った。
「ご令嬢、本日は、あなたのお父上とお母上が、最も神に深い感謝を捧げられる一日(いちじつ)と伺っております。そのような日
に、しかしわたしのような見ず知らずの人間にお心を遣って下さったのはあなただということも、伺っておりまして、感謝申し上げ
ます。」
「興味があったのですわ。」
すらり伸ばされた令嬢の腕に、ロードンの指が絡む。
「仕事中毒を極めたような殿方とは、一体どのような顔つきをなさっているのだろうと。」
「早くも、興を削がれておいでではないかと、危惧いたします。」
「まあ、それは本気でおっしゃってるの……?」
自身の手の甲が運ばれてゆく先を、令嬢は眩しげに見上げる。
それはひとつの美術であった。ロードンがどのように手を動かそうとも、瞼を、唇を動かそうとも、徹頭徹尾、完成されたものとし
て、それは人々の前に立っている。「ああ、わたくしの腕が……。」と令嬢は思う。「完結した世界に波紋を投げかけてしまっては
大変だわ。そんなにももろいものと思うわけではないけれど、この均衡は、爪の幅ほども何かがどこかにずれてしまったら、たちま
ちに消滅してしまうものに違いないわ……。」
この考えに、令嬢は恐れを抱いた。ロードンの唇に自身の手が触れる瞬間、傍目にも分かるほどの震えを全身に走らせたのは、その
ためである。無論、肌を触れ合わせているロードンに、それが伝わらぬわけはない。どう受け取ったのか、ロードンはわずかに上唇
の先を令嬢の肌に当てただけで、すぐに離した。離れてゆく彼らの手と手の間には、冷たい空気が緩やかに流れた。
令嬢は、ロードンの唇に触れた自身の右手を、ちょうど心臓の上に握りしめながら、その鼓動を聞いていた。目の前の男に触れては
いけないように思いつつ、実際にほとんどその感触を知ることができずに終ってしまうと、何か非常に歯痒いような、身悶えしたい
ような感覚に囚われた。
(はしたないこと……。)
人知れず、己を恥じる。
慎み深い人々は、“儀式”の終わりを正確に計ることができる。小さな風がそちこちに渦を巻くように、お喋りの虫達が、いっせい
に経巡って人々の頭を薙いだ。
「ご覧になりましたか。あれはいったい、どんなしつけを受けたもんでしょうね。まるで流れるような一連の動きで、我々の瞳の表
面を優しく撫でていきましたよ。」
「ロードンというのは聞いたことがある。多少は見るべきもののある家なんだろう。しかし多くの、貴人と呼ばれる人々を目にして
きた我々が、そろいもそろって、こうまで見事に諸手を挙げて降参する事態になろうとはね。」
「足元に跪きにでも行きますか。」
「誰かがやるかもしれないなあ。だがよすがいいよ。古今東西、己の前に容易くひれ伏すものに麗人が垂れるのは、ただ地面を見る
のと変らぬ眼差しだけさ。」
がやがやと、近くにいる人同士でてんでに話し始めた広間。話題の中心となっている人物は、どこか素っ気ないような表情で、ロー
レンスの後ろに立っている。
屋敷の主人が、飲みかけの右手のワイングラスとは別に、きらきらと泡立つ透明な液体を湛えた小振りのグラスを持ってやって来た。
頭ひとつ分も背丈の異なるロードンを見上げて、
「仕事の話をしにこられたということで、度数の低いものを見繕ってきましたが、だいぶん甘口で……お気に入るかどうか。」
「忙しくしている時には、甘いものを少し口に含むのが一番です。思考が明晰に保たれます。」
主人の手から、いっさいの摩擦なく受け取ったグラスを、ロードンは口に運んだ。その瞼が一瞬、完全に閉じたのを、人々は見逃さ
なかった。ここぞとばかりに凝視する。
冷たい感触を予想させる白皙、壊れ物のような鼻梁、少し険のある眉間から、まっすぐに伸びた細く金色に輝く眉、柔(やわ)く見
える瞼、曲線的な陰を落とす頬、そして、上下の合わせ目に水彩画の如く淡く色を滲ませた唇……。
ジュリアス・ロードン。
彼に備わるすべてのものが、人々の中に、何か謎めいた期待感のようなものを抱かせる。それは多分に精神的なものであり、しかし
幾分かは、物質的な衝動をも含んだものに違いなかった。
「お部屋をご用意した方がいいか……。」
温雅な微笑を浮かべつつ、主人は心の中で己を戒める。(形あるものに惑わされるなど、この歳まで生きてきた甲斐がないかのよう
だ……無論この人物はただの“器”ではあり得ないが。しかし少なくとも今は、わたしがこの人物について知っているほとんどすべ
ては、その外観なのだから。何という、これは……“試練”なのだろうか。若い頃に経験し尽くした類のものとは異なる、もっと消
極的な、だからこそ打ち消しがたい期待感を伴った、困難な……“試練”……。)
さて、どうやり過ごそう、と思いつつ、主人は右に流し目をする。わずかに頭を揺り動かしただけで、さっと使用人がやって来る。
眉の薄い、肩幅のわりには小さな顔をした男だった。
「いやいや。」
とローレンスの手が動いて、その使用人の動きを止める。主人に向かい、
「廊下の一画でもお借りすることができれば。涼しい風の吹き込むような場所がよいですな。」
「たやすいご所望です。」
主人はちらと使用人の方を見、使用人は頷く。
「どうぞ、こちらへ。」
出入り口の方に手を伸ばす使用人の男に、ローレンスは頷き、主人に向かっては、では、と小さく言いつつ頷く。同じように、主人
の方でも応えているところ、「ご主人。」とやはり低めたような声を投げてきたのは、ロードン。主人の目が素早く動いて、この稀
なる美貌を誇る男を仰いだ。
「このままお暇いたしますので、お礼を。ご令嬢にも。」
「……あなたの、予定を狂わせてしまったのではないかと、恐れているが……。」
「電話で二十分も喋り通した後に、喉を潤すのを忘れて飛び出してきて、車に揺られること三十分にもなりましたでしょうか。この
よく冷えた一杯の酒が、今のわたくしにとりどれほどありがたいものであったか、文芸の才が無いゆえに、お伝えし切れぬのが残念
です。」
「ロードン君は、なかなかにそそっかしいところのある人でして。」
とにこやかにローレンスが口を挟む。
「仕事に熱中するあまりに生理的な欲求すら忘れてしまう、というのも実際よくあることなのでして。」
「そうなのですか?」
とどことなく硬い感じのする声で言ったのは、今にも消え入りそうな笑みを口元に上せている令嬢。
「生理的な欲求すらお忘れなら、人がその手で作り上げた倫理上の望ましい枠組みのことなど、さらにお忘れですわね?」
「それは……。」
具体的に何のことかと、問いたげな顔をするロードンの背広の袖を、ローレンスが引っ張る。
「いつかは我々も嵌らねばならない。」
「……結婚かい?」
「そうさ!よく分かったな。」
ローレンスは目をまるくする。
「女性から問われたのだし。君は了解している風で。この場にいる人達はみんな若いし……。」
「意外だなあ。もっとヒントを言わねばならないかと思った。それなりに意識の浅いところに漂ってるのかい?そうしたことは。」
「ただの当て推量さ……。」
ロードンは曖昧に笑った。
ふたりの男が言葉を交わしている間、広間中の視線は彼らに集中していた、と言っても過言ではない。片や名家中の名家、家系図の
豪華さだけではない、現代においても国家に有用な人材を輩出し続け、富と名声を伸長し続ける一族の、正しく後継となるべき人物。
片や、その極めてきらびやかな経歴の男に会いにきた、“まったく背景のない”男。その変則的な現れ方が、まずは人々の気を引
いたわけであるが、その興味を持続させたのは、違わず“彼の功績”であった。
令嬢の視線も、当然彼らの上にあったのだったが、その目の色は、少々他の人々とは異なる。あからさまな好奇の色がなく、どちら
かといえば沈んでいるようにすら見える。絶えず思考を働かせているようであり、しかし目の前のやり取りから注意をそらすことは
できないといった風な、そんな難しげな表情。
「わたしは、思い込みをしていたかもしれません。」
ローレンスが、くるりと彼女を振り向いた時も、映ったのはそうした顔だった。無論、美しくはあったが、内心ローレンスはおやと
思った。
「ご友人の結婚観が、異なりまして?思ってらしたのと。」
「そうかもしれない。」
ローレンスは腕組みする。
「けれども、分かりませんわ。たまたまそうした思念が、頭におありになったのかも。」
「たまたまああなった、こうなったというのは、己を元気づけるのに便利のいい言葉です。」
「何か気落ちなさること……?」
令嬢の目が、少し色めく。
「もしかすると、ロードン君には実際それが身に迫ったこととなっているのではないかと。」
「そうだとしても……。」
顎を引きつつ、令嬢は首を傾げる。
「何かお困りに?」
「特に想像力を要することではありません。」
ふるふると、ローレンスは首を振った。
「あなたの周りのご友人方が、次々にご結婚なさって、あなたひとり取り残されたとお考えください。無論そんなことはないわけで
すが。」
「とても落ち着かなそう。」
「ええ、そうなのです……!」
にこりと、ローレンスは笑う。
「けれども……それではあなたには、まだそうした約束を取り交わすようなお相手はいらっしゃらないということ?」
「どうしてあるでしょう、そんなことが。」
はあっ、とローレンスは息を吐いた。その様に、人々は興味を掻き立てられないではいられない。令嬢もまた、引き込まれていくよ
うな目をしていた。が、彼女にはあくまでも、他の人々とは異なる風があった。部外者の物見高さではない、何か当事者の真摯さと
も言うべきものが、表情に、仕草に、現れていた。
「本当に?」
「本当に……お疑いに?いえ、では、お話しましょう。言葉の選択に、多少、困難さが伴うかと思われますが。」
「何をお話に?」
「わたしの理想の人について。」

耳をそばだてていただけの人々も、何やら改まって体の向きを変える。いったいどういった語りをするのだろう、と興味津津。彼ら
の頭の中には、まったく異なるふたつの方向への期待感が、きれいに分かれて半々にある。一方には、輝かしい歴史を戴く貴族は、
極めて優雅にして妥当な語りをするだろうとの期待感。また一方は、あくまでも三十年程度の歴史しか持たぬ青年が、青臭く賛同を
得にくい語りをすることによって、この場にいる人々のみならず、社交界全体に大いなる幻滅をもたらすのではないかということへ
の期待感。
「どれほどの、高き理想を……。」
お持ちでいらっしゃるのでしょう、と令嬢はどこか恍惚とした目見(まみ)で尋ねた。
「誤解を怖れぬ気構えで申し上げますが……。」
「あなたは勇気のある方ですわ。」
「そうなのでして。」
にやり、とローレンスは幾分粗野に笑った。
「しかし、それにしても振り絞らねばならない。」
「お話しください。」
「……ご存じかとは思います、みなさん。」
ぐるりと、ローレンスは一同を見回した。右手をすっと、顔の左側へと突き出す。血の巡りのよさそうな指先が示すものに、人々の
視線が一斉に寄る。それと入れ替わりのように、人々の視線の集まったところから、ローレンスに向かってひとつの視線がつと出て、
それを受け流すように、ローレンスは顔を右側へ向ける。
「この……わたしの傍らに、お互いの体温を感じるほどに近く立つ、ジュリアス・ロードン君……彼は極めて、美しい人であります。」
「疑いなく……。」
人々の、惑いなき頷き。
「しかし、彼は単なる、見事な彫刻を施されただけの容器、ではありません。たとえばここに、極めて美しい一輪の花が咲いていた
として、それが明日にはもう枯れてしまうと聞かされたとして、もう二度と、その花の美しさに接することはできないと確信したと
して、残念な気持ちを持っても、それの喪失は結局、他の、それほど美しくはない花々の喪失と、何ら変わるところはありません。
目の前にあったものが消えたという、あくまでも、自分に関わらぬところでの変化に過ぎない。……単に容姿に恵まれた方ならば、
野に咲く花のように、そちこちに見られます。」
実際、ローレンスは言葉を選んでいるようだった。人々の顔の上に、注意深い視線を次々に落としていく。
「気まぐれで……それらのひとつを手折ってしまうことは、お互いにとり不幸……。我々はだから、選ぶのですな、理想という基準
に則り……!」
「その理想とは……!」
急き込んでくる人に、ローレンスは落ち着くよう、両手を上げながら微笑む。
「理解には順序が必要です。急いて結論だけ申し上げても、みなさんはおそらく三者三様の受け取られ方をする。わたしはできる限
り、みなさんに同じような印象を抱いていただきたい。この場におられない方々にも、それは伝聞されるであろうと考えて。」
「明日にはロンドン中が、この一幕についての一部始終を知ります。」
「あなたの美しさもまた、一晩にして轟きます。」
令嬢に向けてさらりとそんなことを言うローレンスの隣で、先ほどからいっこう動きのなかったロードンが、静かに腕組みしつつ下
を向く。
「その人がその人であることを証明するのに、容貌は欠かすことのできないエレメントです。多くの人がそうであるように、わたし
にも、それについての“好み”はあります。しかし一目惚れするにしても、人は何かしらその人の内面から看取するものがあって、
それと合わせて非常に好みに合うところがあって初めて恋心を持つのだろう、とわたしは思います。ですから、見た目の好みを語る、
というのは厳密には不可能であって、それは少なからず、その人の言動を支配する精神面に対する好みと混じり合って、語られる
のだと思います。……さて、わたしは今、自らの理想についてお話ししようとしているわけです。丁寧に、分かりやすく、お伝えし
たい。そうすることで、どなたかが、その私にとっての理想にピタリと当てはまる人物を、探し当ててきてくださるかも分かりませ
んから。」
上品な笑いがさざ波のように立って、さっと広間中を巡った。
「何事も、まずは大まかに。それから詳細を語ります。時刻のことも考えなければ。ロードン君は、持ってきた用件を早くわたしに
投げつけたくてたまらないでしょう。」
「先ほどから、黙っておられますわね、ロードンさんは。」
「雄弁と寡黙を、それは鮮やかに使い分けるのです、彼は。さながら空が、太陽の輝きと月のそれとで一日を真っ二つに割るように。」
「まるで貝のように、口を閉ざしてらっしゃる……。」
「誰にも劣らぬ深い思惟が、彼にとっての貝柱です。その場限りの巧みな印象付けで、己を売り込もうとする輩とは異なります。広
い視野で物を見て、何を欠かすことができないかを、よく知っています。……大抵の人は、己の欲に忠実でありたいと願います。彼
もまたそうです。」
とローレンスは、傍らのロードンにちらと目をやる。
「彼は言います。自分は欲深な男である、と。欲するところを手に入れるため、他人の感情を踏みつけにする行為に出ることもある。
だから、自分のことを蛇蝎のように嫌っている人間がいるのも当然なのだ、と。これは実際、彼のことをひどく辛口に評価する御
仁に出くわした後に、彼の言ったことなのですが。その時の彼の顔、思い出すと笑ってしまう。まるでけろりとしていて。」
ローレンスの話を聞く人々の顔は、どこかそわそわとして見えた。いまや彼らはたったふたりの男の一挙手一投足に翻弄され、しか
もそれに気づかず、目の前の餌にむしゃぶりつこうと必死だ。飼い主が、左右の手にそれぞれ違った餌を持っていて、そのどちらも
魅力的で、しかし上品な飼い犬たる彼らには、そのどちらもはっきり口に出して要求することができない。
ロードンという男について、どうしてそう美しいのかということに関して、彼らはもっとよく知りたいと思う。一方で、ローレンス
が何を以て理想的とするのか、それの話も聞きたくてたまらない。
「媚びることを知らない男です。可愛げがまったくない、というほどではないですが、まあ、ない。それでいて彼には、強力に彼を
支援してくれる、社会的にも一定の影響力を持つ人々が複数人、おりまして。彼らはロードン君の、水際立った容姿と洗練された物
腰にまずは目を止め、言葉を交わしてはその思慮深さにあきれつつも瞠目し、そして次には、意外にも世間擦れした一面を持つこと
に対し、何とも言えぬ嬉しさのようなものを噛み締めました。彼らのロードン君に対する見方は、幾つかの段階を経ましたが、最終
的にはどのような局面においても有用な人物、として落ち着いた。これを、わたしも支持します。どのような局面においても、とい
うのはこの際おそらく、女性にのみ備わった能力を要するのでなければ、まさにすべての局面といってよいでしょう。社会的な成果
を問われる場面であれ、個人的な充足を得るための戦いの場においてであれ……とここまで聞いて、わたしが、ただ役に立つか立た
ぬかだけで人を見る男、とお思いにならないでください。それはひとつの評価項目には違いない。結果として、その評価項目におけ
る得点が異様なまでに高かったので、その人を評するのにそれは欠かせぬアイテムになったのです。……さて、それにしても、どん
な局面でも発揮する才があるというのは尋常ではないのでして、まさか懐中電灯や電卓を見るのと同じような目で見るわけにはいき
ますまい。」
「それはもう……。」
浅い笑いを浮かべつつ、若き男爵が口を開く。
「わたしなら、畏敬の念も露わに仰ぎ見ますね。」
「そうでしょう。」
「器用にその場を切り抜ける人間、というのなら幾人か知っていますが、あなたが言うのは、その場において、事態打開に幾ばくか
の貢献をするということなんでしょう?常に!……あなたがそうだと、おっしゃるんですか?無論、見るからに尋常ではありません
が。格別の恩寵が、その身には溢れていらっしゃる……!ロードンさん、何か、お話しに……?実のところ、我々の多くは今に至る
まで、あなたの存在に真実味を見出せないでいる。」
「時間がありません、男爵。この場にいるすべての人々の声を、あなたが代弁しているとしても。ロードン君は急ぎの身です。」
「あなたは戻ってこられるからいいけれども、ローレンス卿。」
話の腰を折られて、男爵はむっとした顔をローレンスに向ける。
「この機会を逸したら、我々の多くにとってこの夜の出会いはまさに一睡の夢の如しなのでして。」
「いいではありませんか。」
「え?」
「どのみち今宵、どれだけの時間を費やしたところで、みなさんにとってロードン君が、まるで同じ地表に足をつけて立つもののよ
うに身近しく感じられるようになるとは、とても思えないのですがね。いったい、このわたしがどのくらいの時間をかけて、彼の存
在をそのように同種のものとして“引き下げて”見ることができるようになったと思われるのです?」
「…………。」
「いいではありませんか。」
同じ文句を、今度は笑いながら、ローレンスはくるりと広間中を見回しつつ、言った。
「そう急いで、夢から覚めようとなさらずとも。覚めたところで、目の前の現実は夢と寸分も違いませんよ。夢が逃げていくことも
ない。むしろ、夢はその幻惑的な色彩の眼差しを、我々に向け続けるでしょう。結局のところ、夢は現実に依拠するものです。夢は
現実の下位であって、決して上位ではあり得ません。“いつまでも夢でありたい”などと、向上心溢れる人間が思うわけはないので
す。彼は、まさに“そう”なのでして。」
「我々が願っているよりもはるかに強く、むしろ先んじて、手と手を取り合い、同程度の温かみを分かち合いたいというのですか、
彼は……。」
「ですとも!けれども、みなさん、今は……。」
広間に満ちた華やいだ生娘のような期待感を、ローレンスはぐいと右手で押し返した。
「今は、このわたしの告白ひとつにて、ご満足いただきたいものです。気恥ずかしくもゆるがせにはすべきでない、一個の人格から
の告白でありますので。」
「それはもう、我々一同押し戴くように拝聴いたす所存ではありますが、しかしそれにももう、費やす時間があまりないのではない
かと危惧いたします……。」
「何をおっしゃるか。」
ははははは、とローレンスは屈託なく笑った。
「もう二言三言も付け加えれば。」
「付け加える?」
「余すところなく言い表すのは不可能にしても。」
「あなたの理想についてのお話でしょ?」
「ええ、そうですよ。いたって世俗的な野望を持った、有為の人、それも衆に優れて。姿は極めて幻想的でありますが……。」
「ロードンさんのことでしょ?それ。」
「ですとも。」
「理想の……。」
にこり、と今度は穏やかな静けさに満ちた表情を浮かべつつ、ローレンスは男爵の前に手をかざしてその動きを止めた。
「想像してみてください。わたしの言葉通りに。まるで完璧な人のようです。現に、彼に瑕疵などないように見えます。」
手と顔の動きで、ロードンを示す。
「しかし、彼は短気なところがあります。また秘かに、対象を嫌うこと子どもの如しでありまして、たとえば前からやって来る好き
でない人に、はっきり目を合わせたにもかかわらず、気づかぬ振りして通り過ぎたりします。ある一定の狭量さが彼にはあるのでし
て、それを自身で認めて、それゆえに、彼は己をつまらぬ人間だと言います。しかし、つまらぬ人間であることを、改めようとは思
いもしない。不都合を見出し得ないからです、彼が、己の道を進む上で。」
「…………。」
「迷うということが、ほとんどない人で。彼のたたずまいに一点の曇りもないのは、その精神が、静かな山間にしんとしてある、泉
のように深く透きとおっているからです。姿のよい花なら幾らもあります。だが彼ほど、己の存在価値を踏まえて、高潔なる自由意
志を振りかざし、一刀両断に、その歩むべき道を見澄まして、日々揺るぎなく、猛進し続けているものはいないでしょう。……彼の
姿勢を、わたしは愛します。折れ曲がることを知らない、突き刺さらんばかりに鋭い一本の柱……彼の、信念です。時に攻撃的で、
時に狡猾で、時に卑屈ですらある彼に、そのすべてを許すのが、彼の信念です。だから彼は信頼するに足る……!分かりますか。彼
の言葉、行動、そのすべての裏にあるのは、たったひとつの意味でしかないのです。意外なほど単純な動力源に、疑いの眼差しを向
けるのもばかばかしいというもの。わたしはそれに気づいたのです……!みなさんはどうか知りませんが、わたしは気づいた。誇る
わけではありません。どうして誇ることができるでしょう。それに気づいたことによって、わたしはある種の敗北感を味わった。惨
めなものではない、むしろ快い、ただ確かに、わたしは“あきらめた”!気づいたのです……この目の前に立つ男は、確かにわたし
の理想であるのに、と……!!」

「え、何ですって?」
ローレンスの話に突として脈絡が見えたことに、人々は驚く。予期しない繋がり方をした円環の出現に、追い付かない頭に鞭打って
一生懸命に理解しようとしつつ尋ねる。
「理想とおっしゃいましたか?」
「ええ。」
「だって……しかし、そうですね、人としての在り方としての理想というのならばそれも……。」
「そういう理解で構いませんとも。」
「あっ、つまり……。」
「男でも女でも、こうあって欲しい、というのを突き詰めていけば、だいたい同じようになっていきはしませんか?」
「うーん、それはまあ……。」
「大まかな話ですよ。女性には、昼食を抜いていることをたしなめられたいように思い、男性には、上司に叱られた後にはさりげな
く小用にでも付き合って欲しいように思い、いずれにしろ、求めているのは優しさ、ということでいいのでは?そういうことです。」
「つまりローレンス卿……!性別まで無くして平板化してしまった典型の像としては、あなたは最もロードンさんのような方を理想
とするというわけですね?」
「そうなのです!」
「あきらめたというのは?敗北感というのは?女性であったなら……!」
「どうなのでしょうね、わたしは。ともかく、お会いしたことがないわけですからね、つまり……。そうした女性が忽然と目の前に
姿を現したら、と思っても、実際、そうしたことがあるものだろうかと、疑わしく思うものですから。……どうなのでしょうね。い
ずれにしろ、もう今は終わりにしましょう。」
女性的ですらある優しげな口吻で、しかしあっさりと、ローレンスは人々の尽きぬ興味に戸を立てた。上流社会の人々は慎み深いが
故に、好奇心のみを楯にしてそれを突き破っていくことができない。
「ううむ、もうお時間ですか……。」
広間は、冷めやらぬ熱に満たされつつも、ざわめきを散じて、さざ波ばかりの海原のように、ある種の平穏を取り戻そうとしていた。
「ご案内しましょう。」
ぷつりと途切れた会話の糸を、掬い取ったのは老練の手際。
「ローレンスさん、あなたは、“多くを持つ者”ですよ。あなたの身に備わったすべてが、あなたをより輝かしい未来へと導くでしょ
う。」
「といって、狂おしいほどに願ったからといって、すべてが手に入るわけはないのでしょうね。」
「こんな歳まで、真剣に生に取り組み続けて、なお面白くてやめられない。なぜだと思います。」
「愉快です。」
すっかり相好を崩して笑うローレンスを、老練の手際を誇る紳士が、どこか感に堪えぬといった様子で仰ぎ見る。(言うまでもなかっ
たか……深く見通す目を持った青年だ……。)
主人の後ろにずっと控えていた使用人が、では、とその小さい顔をふりふりと、ローレンスとロードン、交互に向けて動かす。ああ、
とローレンスが頷くと、使用人はようよう主人より前へと出てきた。
「また、お会いしよう。」
白く薄い皮に包まれた、骨の浮き出た小振りの手が、ロードンに向けて、どこか思わせぶりに伸ばされる。その手を見、そしてこの
宴の主催者に目を移し、ロードンは静かに口を開く。
「そう言っていただけると嬉しい。わたしは、場違いな訪問者でありましたから。」
「ぜひもう一度あなたに会いたい、そう思います。」
ぎゅっ、と彼らは手を握り合う。
(つややかな肌触りだ。ひんやりと心地よい……。)
老いたりといえども、いまだあらゆる欲望の坩堝の只中にあって、平気な顔して生きている。少なくともこの夜、この広間に会した
人々の中で、最もローレンスの言うところの“引き下げた見方”をロードンに対し、当てはめることができたのは、この限りなく上
流階級の雰囲気を漂わせた老境の人であった。
(何がどうであれ、このような人物に出会えたことを、わたしは喜ぶべきだ。それにしても、なるほど、これは……夢ではあり得な
い……。)
ひんやりと包み込んでくる手の平が、冴え冴えと降り注いでくる青き目見(まみ)の輝きが、その夢の如き姿態を借りて巧みに働き
かけてくるのは、しかし、音に聞くセイレン達の歌声のような、聞く者の歓心を買い、うっとりと我を忘れさせるような類のもので
は決してない。むしろ真逆というべきである。セイレンを夢見ていた者達にとっては、覚めてこそ悪夢。
ジュリアス・ロードン……人界に初めて降り立った天使のような顔をした青年が、その手に込めた力、目見に宿した光によって伝え
てきたもの、それは……
(ライズ保険会社をよろしく、といったところか。)
声には出さず、肩を揺らして老人は笑った。この世の中に多くいる、彼もまた不自由な労働者達のひとりなのだ、と思った。
「ロードン君は、明日も仕事かね?忙しい身では、夢を見る間もないだろうね。」
「泥のように眠ります。しかし、夢は見ますよ。」
そう言うとロードンはどこか眩しげに、傍らのローレンスに目をやると、
「彼もまた、わたしの夢なのでして。」
ローレンスの背に添えるように、右腕を広げた。
ああ……、と老いたる貴人は思う。ローレンスはロードンを理想と言ったけれども、ロードンとしてもひとつの理想をローレンスの
中に見出しているのではないか、と。そして、その理想を見つめるロードンの姿は、また何という比類のない美しさで、光り輝いて
見えるのだろう、と。

まとまりのないざわめきに支配される広間。令嬢の周りには相変わらず最も大きな人の輪ができていた。
「そういえばご令嬢、ロードン氏が来られる前、何度かローレンス卿に対して言いかけておられたように思いますが。」
「ああ、あれは……。」
ぽっと頬を赤らめ、令嬢は下を向く。
「わたくしてっきり、ローレンスさんにはもう心に決めた方がおられるのだと。だからあのように、心静かな面持ちをしてらっしゃ
るのだと思って……。でもあのようにおっしゃられるということは、まだ理想の女性は見つかってないんですのね。」
「女性は見つかっていない、ということですね。」
「ええ、そうですわね、ロードンさんが……。」
頬に手を当て、令嬢は始終考えを巡らす風に、視線をあちこち泳がせていた。
「けれども結局のところ、あの方は一欠片だって足りないところのない人生を、手の中に収められると思いますけど。」
「羨ましいですな!」
「ええ、ほんと……わたし、何か僻んでるようだわ……。」
「え?」
「いいえ!」
白い顔を大きく振り、令嬢はその場で小さく輪を描くように歩く。
「今日は疲れました。昨日までのわたし、ほんとに小人や妖精やユニコーンたちと一緒にいたんだわ。今日初めて知った……こんな
世界、知らなかったわ……!」
「まだまだ、知らないことはたくさんありますよ!」
周りを囲む青年たちが、どっとなって言った。
「我々が旅しているのは、我々ひとりびとりに与えられた過去、現在、未来へと続く一本道ですもの。誰かが先回りして、こそっと
見てくるなんてことできやしない。自分の足で進むしかないんですからね!」
「いろんな方と出会うのでしょうね。」
「女も男も年寄りも子どもも、みんな歩いていますよ。あなたに手を振って来るものもあるでしょう。触れ合えるほど近く寄って来
るものもあるでしょう。しかし、まるで気づかず去っていき、その後二度と会わないものもあるでしょう……。そうした中に、あな
たが理想として熱く焦がれるような男性も出てくるのでしょうな。願わくば我らの中に……とはいきませんかな。はっはっはっ。」
汗ばむような陽気さで、青年たちは笑い合う。それに対し、令嬢ははっとして瞼を伏せる。
「わたしの理想……。」
そんなことは考えたこともなかった。彼女は重ねて、昨日までの自分の無知と、それ故の幸福を思うのだった。
「そうですわね、いつか、そんな方が……。わたしの、理想……!」
「乾杯しましょう!祝福しましょう!あなたが生まれたこの日、そして明日からも続く、そのまばゆい色と光に満ちた未来に!」
乾杯、乾杯、とあちこちで声が上がった。次々と差しのべられてくるワイングラスに忙しく応えつつ、令嬢の薄茶の瞳は茫洋として、
まるで道に迷ってでもいるようであった。不安に押し潰されそうな子どもの顔、一方で、何とかあがいて道筋を掴み取りたいと意
志する、若く逞しい女の顔も見え隠れする。
(今日この日を、忘れるものですか……!わたしという精神が、初めて世界に触れた……たかだか一個の人間の中に広がる、果てし
もなき宇宙を見た!あの人は、まるで時に佇む形象のよう。人の精神の中に永遠に現れ続ける……おお、けれども、わたしはあの人
に触れた!触れた!冷たい手だった……まるで凍てついた骨だけで、つくられているようだった。わたしの手を運びつつ、あの人は
何を思ったかしら、真昼の陽光のように温かなわたしの手を……。ああ神様!彼がそのような手を、つまらなく思う人ではないよう
に……!)
宴は続く。誰もが熱っぽく赤い耳をして、陶然として広間を行き交う。臥内(がだい)に伏して、夢に遊ぶべき時刻にはまだ少し早
いけれども、夢にも紛うひと時の訪れ……その跡は容易には消えやらず、人々の意識を蕩けさす。浮かれきった若い男が、突然、広
間中に響く大声で叫ぶ。夢ならば覚めるな!現実ならば、時よ、止まれ!お前は、こんなにも美しい!……そっと笑みを含む老紳士、
喝采して喜ぶ同年の者、淡く色の滲んだ流し目を、それへ送る妙齢の婦人……若者の叫びは、様々に聞かれる。誰もが何かしら感
想を抱いて、そしてまた、目の前の友人や顔見知りたちとの歓談に花を咲かせる。時間は静かに、だが刻々と、過ぎてゆく。めくる
めくシャンデリアの輝きに、人々の刹那の欲望、永遠の願いが、映し出されては、消えてゆく……。




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