「何度でも願う」


冬休みが終わって、初めてのゼミで仲間が顔をそろえて、教授も加わり、みんなで初詣に行こ
うという話になった。総勢二十人ばかり。ただでさえ女っ気の少ない法学部だ。幾つものゼミナー
ルで人数を割り振れば、男所帯もわんさと生まれるというものである。
時刻は午後四時半過ぎ。神社の境内に足を踏み入れると、そこここの木々の根元には昨日降った
雪がまだ残っていた。正月もすでに十日も過ぎているから、参拝客の姿はまばらである。
「もう家族で行ったやつも多いだろう。」
「おうさ、親父に引っ張られて行ったよ。」
「俺は一人暮らしだから、近くの神社であけましておめでとうございまーす、なんてアナウンス
してるのを聞いただけだ。」
「もう行ったやつはどうするんだ?また五百円出す気にはならねえんだけど。」
「千円いっとけ!……そうさな、家族と行ったやつはどうせ無病息災とか、一人身のやつは彼女
できますように、とかやったんだろ。今回は、国を憂える○○ゼミの一員としてやってきたんだ。
それに相応しい願掛けをするとしようじゃないか。」
「しかし、天津は風邪かあ。新年早々、湿気(しっけ)てやがる。」
折から吹いた冷たい風に、身を縮めながら一人が言った。皆(みな)が顔をそろえると思ってい
たところで、しかも主要な役割を平素から果たしている人間がいないという事態は少なからず寂
しい。一同そろって残念そうな面持ちで空など見上げる中、厚手の黒いコートを着た大柄な男が、
懐から何かを取り出す。
「おー海原、ごつい財布だな。」
隣から好奇の視線が注がれるが、海原渉は動じない。まるで事務的な作業でもしているかのよう
に、黙々と己の財布を開くと札を入れるところから一枚、最も額の大きなものを取り出す。
「おいおい、まさか……。」
「天津の分も願掛けしておいてやろうと思ってな。」
「二人分で、一万円……?」
「いや、二万円だ。」
さらに一枚取り出す。会話を聞いていた学生達が、いっせいに言葉にならない声を上げる。
「し、しかし海原、願掛けってのは、代わりにしといてあげるもんかね……。」
「あいつは確か、公務員試験のT種を受けるんだったな。合格祈願とでもいくか。」
「ああ、あいつは確実に合格だろうな。いいなあ……。」
先ほどとはまた違った声が、学生達の間に漏れる。
すでに初詣は済ましたというものは多かったけれども、所が違い、共に行く仲間が違えばまた心
境も変わる。同じゼミを選んだだけあって、将来的にかくありたいという方向性において彼らは
重なり合う部分が多かった。
拝殿前に到着した彼らは、もうあまり口を開かなかった。思い思いに賽銭を放ると、教授が代表
して鈴を鳴らした。
「これで神様がいらっしゃる……。」
ゆっくりと手を合わせて頭を低くする師の姿に倣い、弟子たる若者達もまた神妙な様子で手を合
わせる。三十秒ほども目を閉じて彼らは、神、もしくはそれぞれの心の中にある人間とは違う大
いなる力を発揮する何ものかに向かって呼びかけた。自身のこと、友のこと、恋人のこと、家族
のこと、またより大きな人間の集団、たとえば国家のことなど。

帰り道、ひとりだけいない天津のことが、また話題に上る。
「あいつ一人暮らしだしな。やっぱり顔は見にいっとくべきだよ、うん、友達として。」
「しかしこの人数で押しかけても迷惑だろうし、もう五時過ぎてるからな。帰りの方角と時間で
都合のつくやつ、かつ、何か見舞い品を買っていける金銭的余力のあるやつ。だいたい五人くら
いでいいだろう。おい。」
条件を並べた当人が手を挙げ、その後にばらばらと挙がった手は十を越した。
「おいおい、これから会いに行く女のひとりもいねーのかよ。」
「お前もな!」
「しかし普通のアパートだって言ってたからな。二階や三階だと床がぬけるぞ。おい、八十キロ
越えてる奴は遠慮しろ。ひとりだけか……。じゃあ、俺が六十八キロだから、それ以上のやつも
アウト!おっ、いいね、ちょうど五人になった。」
「よし、これで行くぞ。」
「こら、海原!お前、手ぇ挙げてなかったろうが。……何だ、行くのか?」
海原は頷く。
「たく、しょうがねえな。だいたい、お前八十キロ越えてんじゃねえのか。」
「ぎりぎりで越えてない。」
「じゃあ六十八キロは余裕で越えてんだろうが!」

電車に乗って二駅目。冬であるから午後五時過ぎでもすでに辺りは暗く、しかしラッシュアワー
は紙一重の差で外して、静かな宵の口を海原達六人の学生は楽しむことができた。駅の構内を一
歩外に踏み出した彼らに、冷たい風がすっと何かを掠め取るかのように吹いていった。
駅にほど近く、小さな商店街があって、そこで月並みながら見舞いには果物だろうとバナナやり
んご、みかんなど買った。金を出したのは海原だった。他の者が財布を出すより先に、彼がさっ
さと支払いを済ませてしまったのだ。さらに他の商店も見て回って、湯たんぽ、丹前、厚手の靴
下、マフラーや手袋などを買う。
天津の下宿先には、来たことのあるものもあれば初めてのものもあった。町のメインストリート
を外れると、いたって静かな、寂しげな風景になってくる。五分も歩かない内に、足元が土の道
になっていることに皆は気づいた。
行く手に、こんもりと木々の生い茂る場所が見えてきた。街灯に照らされ、積み上げられた石材
が鈍く光っている。
「あれ、神社じゃねーの?」
ひとりが小走りになる。彼は金属製の湯たんぽを、何にも包まず脇に抱えて持っていた。
「おい、落とすなよ!」
別のひとりが叫ぶ。
そこは確かに神社だった。石造りの、十段にも満たない階段を上りきれば同時に鳥居をくぐり、
ようよう六畳あるくらいの石畳を進めばもう拝殿前にたどりつく。
先に走ってきた学生を先頭にして、彼らは階段を上り、境内に入った。
そこには先客がいた。平均的な日本男児の背丈に、コートの上からも分かる細身の体格。こちら
を振り向いた顔は薄暗さのためによく見えない。月明かりはまだ弱く、街灯の光も路上からでは
十分でなかった。
「何だ、お前たち、どうしたんだ。」
その人物が声を発した。落ち着いた青年の声。彼の方では、先ほどからの話し声に、すでにこち
らのことを分かっていたようだ。
「あっ、天津!」
びっくりしながらも、皆は笑顔で天津の下に駆け寄った。と言っても、ほんの二、三歩、飛び跳
ねただけである。
「何だ、お前、熱出して寝てたんじゃなかったのか。」
「つい一時間前まで寝てたよ。頭がだいぶん軽くなったから、熱を測ってみたら平熱だった。そ
れで、正月に初詣に行ってなくて、人ごみが嫌だからな、とりあえず三が日終わってからと思っ
てたのが今まで行ってなくて、それで、来た。」
天津が経緯を話している最中、ひとりが天津の額に手をやって、ああほんと熱ないや、と言った。
それで皆は安心して、実は今日自分達も初詣、もしくは今年何度目かの願掛けをやって来たの
だと話した。
「天津は賽銭幾ら入れた?」
「百円。」
「そんなもんだよな。五百円とか千円とか大奮発だよ。しかし天津、聞いて驚け。この中に何と
一万円、二人分で二万円出した猛者、もとい馬鹿がいる。」
「海原?」
暗がりでも背の高低は分かる。天津は自分を囲む人々の中で最も高い、また横幅もがっしりとし
た男に目をやった。
「おお、そうだ。」
海原はにっこり笑った。不思議とその笑顔ははっきりと見えた。
「さすがだな。」
「天津、聞き逃したかもしれんからもっかい言ってやるけど、こいつが出したのは二人分で二万
円、な。」
「それを俺に強調するってことは。」
「俺の分とお前の分。」と海原が言った。皆はどこか気の毒そうな、だが同時に何か期待するよ
うな笑みを浮かべて天津を見た。それを受け流すのも面倒な様子でひとつ短いため息をついて、
天津は話題を変えて皆がいったい何を持っているのかを尋ねた。
「湯たんぽに、果物、それは何だ?」
袋に手を触れて覗き込む。
「服か?コート?それにしては柄が……。」
「丹前。」
「こっちはマフラーな。あと手袋と靴下。見舞いだよ。」
「主旨は、防寒、かな。」
「ご名答。」天津は寒がりだからな、と皆が口をそろえる。
「ありがとう。」
「ちなみに天津、これを買った時の代金を払ったのは誰か分かるか。」
「……俺も何か願掛けしといてやるかな。」
ポケットに手を突っ込んで、天津はくるりと踵を返した。現在、学生として最も一般的な家庭教
師始め、知り合いの勤める新聞社で時折事務の仕事や、教授からの依頼でその研究の助手的な仕
事など、様々なアルバイトをこなしている天津ではあるが、それを理由として、親からは最低限
にすら届かない仕送りしか受けていない。天津自身がきっぱりと断っている。負担をかけたくな
いという親を思う気持ちからだが、決して感情を豊かに吐き出すタイプ、また吐き出せるタイプ
でもないので、かえって親の方では気に病んでいる面もあるようである。
財布を取り出し中身を確認するまでもなく、天津は自身の所持金が千円と五十七円であることを
知っている。
「海原。」
内心、幾ら出したものか思案しつつ、天津は海原に声をかけた。
「お前は将来、どうするんだ。」
「断然、政治家になる。」
「二十五歳まではどうするんだ。とりあえずは官公庁や企業に就職するとか。」
「三年四年で辞めてしまうのでは、相手方にとっても迷惑だ。親父の知人のところで秘書をやる
ことになっている。」
「民自の大物か……。」
天津は財布を取り出す、手の中で二度三度くるくると弄んだ。
「さてと、お前のためにどう願ったものか。すでに当面の身の振り方は決まってるんなら、二十
五歳以降に出馬するんだろう衆議院議員選挙で勝利すること、かな。」
「とりあえず、そうだな。」
「ううん……。」
天津は財布を開いた。後ろから数人が覗き込む。
「幾らあるんだ?」
「千五十七円。」
「うわ、厳しい。」
千円を取り出すか五十円を取り出すか。らしくもなく長々と迷う天津の手を眺めていた仲間のひ
とりが、やがて自身でも何やらごそごそとやり始めた。
「見舞い品は結局全部海原が買っちまったしな。」
「よし行け。」と他のものも応じて、彼らはめいめい重さのある硬貨を二枚、三枚と賽銭箱に投
げ入れた。ふっと笑って、天津もようやく選び取った五十円玉を投げ入れる。本当は千円を使い
たかったが、それをしてしまうと実際問題として明日からが非常に厳しい。
「ようし、全員出したな。そんじゃ、我らが同志、海原渉君の政治家人生に幸多かれと願って!」
鈴が鳴らされ、拍手を打つ音がいっせいに闇に響く。海原を除く六名が、拝殿に向かってじっく
りと頭(こうべ)を垂れた。

午後七時半近くになって、彼らは散会した。見舞い品を受け取った天津は、少々それらを持て余
している様子である。
「治ったからって夜更かししたら駄目だぞ、天津。」
「風呂上りにはその丹前着てな。」
「寝る時には湯たんぽをこう、抱いて寝なさい。」
ははは、と穏やかな笑い声が、星々に飾られた夜空に響く。それは冷たい冬の夜空にもかかわら
ず、心地よい温もりを感じさせるものであった。天津は微笑んで頷く。そして彼は、
「海原。」
と後ろの方で、何やら神社の方を見上げていた長身の影に呼びかけた。影は振り向き、天津を見
つめた。
「ありがとう。」
天津の言葉に、影は黙ったまま手を振り、応えた。

冬休みの後は、すぐに後期試験期間が訪れる。学生達にとっては、さながら戦場に乗り込む前の
ような心境だ。落ち着かず、不安であり、逃げられるものならば逃げたい。
海原渉は、学ぶことには非常に積極的であったが、それは自分が興味を持った対象を自分のペー
スで学ぶということにおいてであって、もちろん大学で選択した講義はどれも興味をそそられた
から採ったのではあるが、教授の講義の進め方が百パーセント彼の好みに合うはずもなく、故に
たびたび休んでは自分好みの本をよみふけったり、気ままな旅行をしてみたり、他の熱意に溢れ
た学生とともに政治的な活動にも加わってみたりということをしていたのであった。出席率は際
立って悪くはないがよくもない。そして教授の話をどれだけよく聞き、ノートを取っていたかと
いうと、結局はまた彼の感じる興味の多少によるのであって、しかもこれは生来のものとして、
彼は試験問題を作成する側の意図や好み、端的に言うところの癖というものを掴んで実地に生か
すことがあまり上手でなかった。どうしても自分の好み、自分ならばこうする、という独断を一
般的にも当然のものとして感じてしまう傾向があるのだった。
以上のような自身の性質を、海原は経験から知悉(ちしつ)していた。己を知ることは、古来よ
り戦で勝つための大前提であるとされる。
「天津。」
廊下を歩いていた先で、見つけた姿に呼びかけた。ゼミ仲間とともに体調を崩した天津を見舞っ
た、その翌々日のことである。
「やはり、こうしたことはお前に頼るに限る。」
そう言っただけで、天津は全てを了解した。
「何と何のノートがいるんだ?」
「ええと待て、待て。ひとつやふたつじゃないからな。」
ぼろぼろになった時間割表を取り出し、上から順に指を乗せて確認していく。天津の身長に合わ
せて少し前かがみになっているのが、本当に必死らしく見えて可笑しかった。
待ちながら、天津は何気なく窓外に目を向けた。しばらくは寒気は弱まるとのことであり、ガラ
ス越しに注がれる日差しは、それが外気に触れていないがための錯覚だとしても、優しく、穏や
かに見えた。
「いい天気だなあ。」
天津は言った。その声に、海原が顔を上げる。
「こんな日は外に出たくなるよな。」
「うむ、あの神社なぞ歩いてみたら気持ちよさそうだ。」
「お前達が初詣に行ったという神社か。そうだな、あの辺りは緑が多いしな。ところで……。」
手を伸ばし、天津は友人の手に握られた紙を摘まんで心持ち、相手に寄り添うようにして覗き込
んだ。
「ノートがいるのはどれとどれと、どれだ?」
「ああ、まずこれと、これと、これと、これもそうだ。あとこれと、これと……。」
「…………。」
「で、これ。」と最後のひとつを指差し終えた海原の隣で、ふむ、と天津は冷静に頷く。友人の
頑丈な二の腕をぽんと叩きつつ、分かった、とまた頷く。
「全部貸してやるのはもちろんだが、海原、ここはひとつ真剣に神頼みでもしておいたほうがい
いぞ。俺も一緒に祈ってやる。」
「そうか。」
「うむ。」
海原は時間割表を折り畳み、元のように鞄に突っ込む。
「よし、じゃあ今から行くか。」
「何だ。」
「神頼みに、行くんだろ。」
窓の向こうを、海原は顎で指した。
「ああ……。」
その言わんとするところを理解し、天津は呆れた。この目の前の男は頭はいいのに、どうしてこ
のように時に当事者意識を欠いた、よく言えば前向き、悪く言えば鈍感な反応を見せるのだろう。
「危機感が足りん……。」
「うん、何だ、天津?」
「いや、はは。」
海原の腕を掴んで引っ張る。愚痴をこぼしてはみたものの、天津はどうしてもこの海原という男
を好意をもってしか見ることができない。海原の中にある優れた資質が、天津に好ましい期待感
を抱かせる。短所は長所の行き過ぎであり、長所は短所の上手くコントロールされた形である。
海原渉は恵まれた家系に生まれた。彼は必ずや衆議院議員となり、政界において、すなわち国家
の中枢において、陽の当たる道を歩くことになるだろう。生まれ落ちた時から、人より二段も三
段も頂上に近いところにいる男。加えて優れた資質を持っていると見たならば、どうしてその尻
を支えてさらなる高みへと押し上げてやらないという選択肢があろうか。自身もともに、這い上
がるチャンスであるのに。

月の初めには大勢の参詣客で賑わったであろうに、今は閑散としている。寒気は緩んだ、とはいっ
ても、季節は実際として冬に深く分け入っている。室内から見える日差しが穏やかだと思って
外に出ると、やはり裏切られた気分になる。
首に巻いたマフラーを、天津は少し引き上げる。ゼミ仲間から、というよりは海原から貰った例
の見舞いの品であった。
「新しい年が始まったばかりで、こう何度も願掛けすることになるとは思わなかった。出費が厳
しいな。」
財布の中から百円玉を取り出して、名残惜しそうに指先で遊ぶ。我ながら感傷を抱く相手が低俗
であるとは思う。
「俺が出してやる。」
隣に立つ男の手元から紙幣が放たれる。いかな天津でも、思わずああ、と声を漏らさずにはいら
れない。賽銭箱へと吸い込まれてゆく、最も立派な額面の紙幣。
「お前は、惜しみないね……。」
「金を持っているからな。」
「身も蓋もない。」
はあ、と天津はため息を吐く。
がらがらがら、と鈴の鳴る音が境内に響き渡った。
「お前が無事に卒業できますように。」
「一万円分だから、もうひとつふたつ願ってもいいぞ。」
手を合わせ、目をつむりながら二人は会話する。
「そうだな、お前が立派な政治家になるように。」
「それはこの間願っただろ。」
「俺が官僚として大成しますように。そのためにも海原が立派な政治家になりますように。」
「はははは。」
「政治家だろうが官公庁だろうが民間の企業だろうが、二世三世というものを批判しているマス
コミだろうが評論家だろうが、先祖代々引き継いできた地盤のあるものが強いことには間違いな
い。」
合わせていた手を解き、顔を上げた天津は酷く白けた表情をしている。
「地盤のないものはそれを一からつくりあげる。他人の地盤を少しずつ借りて集めるものもあれ
ば、乗っ取るものもあるだろうし、まったく、本当のゼロからつくりあげてみせるものもあるだ
ろうが、それは稀だな。」
「お前は、俺の地盤を借りようというんだな。」
「お前や、お前の親父さんを通じて各界の大物に食い込む。」
「俺が倒れても、お前は上に行きそうだな。」
「ん?そうした仮定はしたことがなかったな。お前が倒れる、か。政界は一寸先は闇というが。
……うん、あまり楽しくない仮定だ。」
会話の中身にはそぐわない柔らかな微笑を、天津は浮かべてみせた。それを受けて、海原は遥か
上空に向かって声を立てて笑う。
「楽しくないと思ってくれるか。それはよかった。」
「単なる踏み台とするには、俺はお前のことが好き過ぎるんだよ、海原。」
「……そうか。」
「ああ。」
天津はくるりと拝殿に背を向けた。人気のない境内を、ゆっくりと散策するように歩き出す。内
心、自分でも意外な感情を持ったものだと思っている。海原の周りには、そのあまりに恵まれた
地盤と資質ゆえ、まったくいっさいの利己心なく接近してくる人というのは、彼が長じるに従っ
てほぼ皆無になっていったと思われる。その利己心が、相当に権力、名声にかかわるものである
ことも、海原家という常夜灯においては宿命のようなものであった。自分もまたそうであった。
まずはどんな人物か見定めたい、すなわち、自分にとって益のある人物かどうかを確かめたい。
(しかし俺の満足は、どうやら俺ひとりの栄達で得られるものではないようだな。)
人として好きになった、とはあまりに稚拙な動機付けであろうか。
「海原。」
「何だ。」
「結局、お前は新年を迎えてから幾ら使ったんだ。」
「分からん。」
「お前には、願掛けなど必要ない。」
「結局は気休めだしな。しかし自分以外のことは、何かに宜しく頼みたくなることもある。自分
以上にままならんから。俺は、こうした願掛けをする時には、誰もが自分以外のことを願うよう
にすればいいと思う。」
「優しいんだな。」
「自分のことは自分でしよう、という気構えでなくちゃいかんということだ。」
「そうだな。」
天津は立ち止まり、どこに太陽があるのか分からないような、茫洋として光り輝く冬の青空を見
上げた。それはガラス細工のように冷たく温度を感じさせず、しかしキラキラとして、切ないま
での情感を見るものの心に起こさせる。
(俺はお前のことを、願おうかな。)
天津、と海原から声がかかる。
「帰るぞ、寒いからな。」
「お前も寒がりとは知らなかった。」
「馬鹿者、病み上がりを気にしてやっているんだ。」
天津は軽く驚いた表情を浮かべてみせる。
「そうか。」
「ほれ、帰るぞ。」
海原の大きな手が、天津の腕を掴む。
「大学に戻るってのに、帰るってのもおかしなもんだ。」
「そういえばそうだ。」
ははは、と二人は笑った。互いの肩が触れ合うほどの距離で、通い合う心が、何よりも温かかっ
た。




                                                倉庫へ戻る