「虫の墓」
滔々と流れる川。傾く日。小枝を振るって走り回る子どもら。新見の目の前を二、三度ぐるぐる回るように見せながら、しかしさっ と駆け抜けてゆく。夕餉の膳と母の笑顔が、彼らの行く手には待っているものに違いない。
| 新見の腹が、中途半端に鳴った。減り具合が分らぬような、くっ、と変に上がり気味の音だった。彼は、同僚たる平山五郎を待って | いる。川原をふたりしてぼうっと歩いていたところ、向うの堤の上にある女の姿を見とめて、平山は断りの言葉もそこそこに、せか | せかと橋を渡り行ってしまった。ただ彼は、相手の性質をよく心得ていた。新見という男に、かけるべき言葉を知っていた。
| 「いいか、ここで待ってろ。ここで、な。」
| と彼は言ったのだった。理由をおざなりにして、命令をした。それが効果的であることをよく分かっていた。それが証拠に、新見は | 言われた場所にぼうっと立っている。先ほどから、動作といえば一歩二歩、子どもらをうるさく感じたのかどうか、それすら判別の | つかぬ無表情で、後ろに下がったのみだった。
| ふと、頬に痒みを覚えた。時折短刀で切るだけの、結ぶにも中途半端な髪の一本が、川上からの穏やかな風に吹かれてかかった | かと思い、新見は人差し指の腹で少し強くこすった。すると何か、髪よりもっと幅も厚みもあるものが、丸められて転がったような感 | 触を得た。虫だな、とすぐに思った。人差し指と親指で、そのものを摘まんで目の前に持ってくる。元の体の長さはどれくらいであっ | たか。ともかくも丸まってしまった、羽虫。
| 新見はその場にしゃがみ込み、まだ足を動かしている虫を地面に落した。少し汚れた指先を、砂を摘まんでこすり洗うようにする。 | 虫はまだ生きている。死んだら砂をかけて埋めてやるつもりで、膝を抱え、じっと視線を定め、新見は動かない。
| 後ろに、人の気配がある。新見が頬に触れたところから、少しずつ近づいてきていることに、新見は気づいていた。だが一間ほどの | 距離を残して、その男は三つ、四つと呼吸をする間、動かない。男であることも分かっていた。職業柄、いきなり斬りかかってこら | れる可能性もなくはない。ただ、殺気はなかった。
| 「これも、死んでいる。」
| 背後に立つ男が、突として声を発した。柔らかな響きだが、まるで抑揚がなかった。一歩二歩、男が近づいてくる。それとは反対方 | 向から射す西日は、燦然と血のように赤い。
| 「殺すつもりはなかったが、踏んでしまった。これも埋めてください。」
| 新見の目の前に、ぽとりと黒く小さなものが落ちてきた。蟻だった。それは完全に死んでいたが、羽虫はまだ息があったので、新見 | は手を動かさなかった。
| 「新見錦。」
| と男が言った。
| 「いや、田中伊織と呼んだほうがいいのだろうか。」
| 「…………。」
| 「どちらもでいいことか。」
| 男は、新見のすぐ隣にしゃがんだ。新見は目だけ動かした。夕日に染まった男の両手が見えた。
| 「わたしは長州のものだ。君のことはいろいろと知っているが、まあ、急いで話すこともない。あまりにもここは……開けている。 | いい場所だ。」
| 男は新見に視線を向けた。羽虫が動かなくなったので、新見は砂を摘まんではかけ、摘まんではかけしていた。
| 「君の顔を見にきた。何か分かるかと思って。しかし、わたしからすると君は逆光だからな。よく分からない。鼻の形はいいようだ。 | あと、髪はもっときれいに刈ったほうがいいよ。」
| 川上から吹く風が強くなった。少し顔を上げた新見の視界に、手入れの行き届いた男の総髪が、きらきらと赤くきらめいているのが | 見えた。男は遠く川上の方角を見やっていて、ぽつりぽつりと紡ぐ言葉は聞こえたが、その口の動きはいっさい、頬や顎の動きから | も感じ取ることはできなかった。
| 「羽虫を殺すつもりなんて、なかったでしょう?蟻を殺すつもりなんて、わたしにもなかったけど、しかし結果として殺してしまっ | た。困ったものです。望む道を、ただ進もうとしているだけなのに。羽虫や蟻の分際でよけないのが悪い、と思いますか?そう思え | れば、いいんですけどね、本当に。」
| 男が振り返った。ふたりの視線が初めて真正面から合った。
| 「……もう、すっかり埋まってしまったようで。」
| つと視線を下げて、男は新見の手元を見る。新見は、半ば無意識で作業していたのだったが、言われて頭を下げ見てみれば、なるほ | ど小さな土饅頭ができている。そこそこ地面を掘り返した手が、汚れている。
| 男は立ち上がって、新見の目の前まで来ると腰を曲げ、手を伸ばし、さながら数珠のごとき小さく丸い形をした石をひとつ拾うと、 | 新見手製の土饅頭の上に置いた。にっこりと、男が笑ったらしい雰囲気を感じたが、新見は顔を上げなかった。
| 「君は無口、なのか。それともわたしが上手でない、のかな。ま、どちらでも、いずれにしろ……いや、もしかして、」
| 腰を曲げたまま、男は頭だけ低くした。それまでよりも早い、どこか剽(ひょう)げた動きだった。本来肩にかかるはずの髪が、逆 | 立ちした。
| 「もしかすると君は新見錦でない。……としたら、とても変な男に映ってるんでしょうね、僕は。ねえ、新見錦さん。それとも田中 | 伊織さん?ん、どちらで呼べばいいのか、決めておいてくれますか、次会うまでに。」
| くすくすと男は笑い、ひょい、と曲げていた腰をまっすぐ戻した。
| 「お連れが帰ってきましたよ。」
| 平山五郎とすれ違う際、男は軽く頭を下げた。平山はひょろりとして背が高いが、男も相当に上背があった。頭を下げられた平山は、 とっさのことに反応しづらかったのか、似合わない、真面目な男のような表情をして戻ってきた。
| 「おい、ありゃ誰だ。」
| 西日を背負い去っていく、男の後ろ姿を指さしながら、おいおいと平山は新見に尋ねた。
| 「知らん。」
| 「通りすがりか?またえらい美形に話しかけられたもんだな。」
| 「美形……。」
| 新見は口の中で呟いた。そうだったのか、という風だ。
| 「お前、目が腐ってきてるんじゃないか?あんまりにも意欲ってもんがないから。あーあ、お前はもったいないやつだね、ほんとに。 | きれいなもん見りゃぱっと心が明るくなるだろ?……ならない?あっそう……。」
| 細身の体が全体に萎んだようになる。つまらなそうに、その場にしゃがみ込んだ平山は、今度は新見の目の前にあるものを指して尋 | ねた。
| 「何だよ?」
| 「虫の墓。」
| 新見の答えに、平山は何か思い知ったように頭(こうべ)を垂れた。
| 「ああ、そうだな、うん、そうか。」
| 立ち上がる。
| 「帰るぞ。」
| 新見の腕を引く。
| 「な、お前、今日は酒飲もうな。いつも飲んでるけどな。」
| ひどく気遣いの滲んだ口吻で、新見の背中をぽんぽんと叩き、にこにこ笑っている。ある程度見慣れたもののように感じる、そうし | た男の表情。新見は顔を伏せた。何かさっと心をよぎる暗い影のようなものがあった。その生じた源を、彼は努力すれば説明できた | かもしれないが、そのように意欲的になることが、もはや彼にはなかったのだ。
| 「どうした。」
| 「何でもない。」
| ふたりが歩く道は、真っ赤な光が滔々と流れる川のようだった。うつむき気味に歩く新見の目には、少し前を行く平山の姿が逆光の | ために黒く映じた。そして自身は真っ赤になって、まるで溺れているようだった。平山のほうが背が高いので、余計にそのように感 | じられた。
| 新見は一瞬、歩みを速くして、平山の隣に並ぼうとした。それはたとえば、前方から大岩が飛んできたので避けようとするような、 | |