「こころみに」


ここのところ、天気続きなのが気に入らない。まるで外出するのが当然であるかのような健康的
な日和に出会うと、自分はそこまでの気分ではない、と腰が引けてしまう。
「よう睡骨、今日は最後だな。」
もちろん、天気ひとつにそれほど大きく気持ちが左右されるわけではない。何かよいことがあっ
たなら、どんなに大雨であっても気分よくいられるし、悪いことがあったなら、晴れ晴れとした
空などまず見ようともしない。しかし、こういうこともある。起こったことはあまり気に留める
べきことでもないのだが、暗い空を見ていると何となく不安に思えてくる。また自分には悩みが
尽きないのに、太陽は燦燦と降り続いているのが、まるで嫌味のように思われて気分が拗ねてし
まう、というふうに。
「おい睡骨、おめえ酒臭えぞ。」
「昨日呑んだからな。」
「そら分かってるけどよ、ちょっときついぜ。」
蛇骨は鼻をつまむ。彼自身も相当呑むのだから、彼がきついというのは並一通りのことではない。
睡骨は、小さい動きで己が身を嗅いだ。
彼らはみな朝食中だった。蛇骨、睡骨、それに霧骨がいる。六つの膳の内、三つはすでに空であ
る。
「苛つきたくなる気持ちも分かるけどよお。」
物を食いながら、行儀悪く蛇骨は言った。
「幾ら金があるったって、俺たち七人隊が一商家の私兵におさまって、ぐずぐず日を過ごしてる
なんてな。その上……くっだらねえ女が兄貴に惚れやがって……。」
「ありゃ惚れてんのか?」
「毎日呼び出してるじゃねえかよ。俺、ここに来るまでに使いらしい不細工な女に会ったからよ、
睨みつけてやったぜ。そそくさと兄貴の部屋のほうに行きやがって。」
「まあ、俺らの立場じゃどうしようもねえからな。」
「ちっ、分別あるようなこと言ってんじゃねえや。深酒してるくせによっ。」
「……そりゃ別に関係ねえ。」
味噌汁を啜り飲む睡骨の隣で、ごそりと音を立てて霧骨が立ち上がった。
「おう霧骨、おめえもつまんねえだろ?ここ。」
蛇骨が声を掛ける。
「早くどっか違うとこ行けるようによお……。」
「まだ、ここに来て十日と経たねえぞ。」
「あん?」
「文句言ってるのはお前らだけだ。」
「別に俺は文句言ってねえよ……。」
椀の縁から口を離して、睡骨はぼそりと言ったが、出てゆく霧骨の背中には届かなかった。

上に立つ者が入れ代わり立ち代りする世の中にあっては、秩序の安定など望むべくもない。少し
でも他人(ひと)に羨まれる財や権力を持つ者は、その地位や財産を守るためには、自衛の手段
に訴えねばならない。現在、七人隊が身を置いているのは、まさにそうした必要性に駆られた豪
商の屋敷である。ほんの二月(ふたつき)ほど前、この近傍を制圧し小名となった者が、さらな
る勢力拡大を企図して領内の素封家に資金の提供を求めてきた。武力を背景としたそれは、実質
的な強制であり、命令であった。素封家の中でも規模の比較的小さな家の者は、あきらめて求め
られるだけの資金を供出した。しかし中には、資金力だけなら小名など軽く凌ぐという者もあり、
そうした家では抵抗の気運が高まった。商人たちはそれぞれに兵を雇い、武力を展開した。幾
つかの地点では、すでに衝突が起きている。遠からず全面的な戦に突入すると踏んだ彼らは、各
個に兵力の増強を推し進めるとともに、おのおの連絡を取り合い、広域的な自衛組織を完成させ
ようとしている。
蛇骨が不平を鳴らしたのには、大きく分けて二つの理由がある。一つは彼に特有のものであり、
分かりやすく言うならば味噌汁が好きかすまし汁が好きかというような好みの問題であって、顧
慮するに足りない。今ひとつは、これは傭兵という立場にある者なら理解できることだが、いま
だ腕を振るう機会に恵まれていない。七人隊は、この十日足らずの間に三度、荷駄の運搬に護衛
として付き従ったが、いずれも事無きを得た。それは彼らにとっては当然喜ばしくない。傭兵の
中には、戦いの中に身を置くこと自体を喜びと感ずるものが少なからずいるが、七人隊は多くが
その性向を持ち合わせていた。また働きに応じて報酬が支払われる出来高払い制が採られていた
ことも、彼らの戦闘への意欲を増幅させていた。
「あーあ、暴れてえしヤりてえし、暴れてえしヤりてえし。」
食後、蛇骨はぶつぶつと文句を言いながら睡骨の後をついて来て、そのまま彼の部屋の前に入り
浸った。天気続きで、降り注ぐ日差しは朗らかなものだったが、蛇骨は目をつぶって眉間に皺を
寄せて、もはや完成されたらしい文句をひどく大きな声で言い続けている。
「おい、うるせえぞ。いい加減にしろ。」
「暴れてえしヤりてえの!」
「お前の場合は暴れんのもヤるのも一緒だろうが。どうせ最後には殺しちまうんだろ。」
「分かってねえな。その過程が大違いなんだよ。」
「分かりたくもねえ、変態野郎が。」
うるさい虫を追い払うように手を振りながら、睡骨は立ち上がった。
「おいおい、そんなこと言っていいのかよー……ってどこ行くんだ?」
「知らねえよ。てめえのいねえとこだ。」
「煉骨の兄貴のとこだろー。」
床を軋ませ部屋を出て行く睡骨の背に、蛇骨はじゃっかんの意地悪さを含んだ声を投げた。

七人隊が現在寝起きしているのは、雇い主が今回の決起のため新たに設えた、三十間四方はゆう
にあろうかという広大な陣屋である。集められた傭兵はおよそ七十名。さすがの富豪も財産の三
分の一を使い果たしたと言われるが、そこは富を築く才覚に恵まれたものの鋭い嗅覚による判断
である。彼らは金の使いどころを心得ている。この先もとこしえに財を生み出してゆくその土台
を守るためならば、一時的な散財など、将来数多(あまた)の果実を収穫するために手放し土に
埋(うず)める小さな一粒の種に過ぎない。
傭兵専用の陣屋であるから、色っぽい存在といえば飯炊きの女くらいしかいない。それも飯を作
る時分にしかやって来ないから、男たちは欲求不満である。そのような中にちらほらと、おそら
く雇い主にとっては想定の外(ほか)の女の姿が混じるようなことがあればどうであろう。その
姿は人目を引かざるを得ない。
最初にそのような女の姿が目撃されたのは、七人隊が一度目の荷駄の護衛のため出動した日の翌
日のこと。世間の人々はすでにだいたいが働きに出ているであろうという時分のことであった。
陣屋には門番などいなかった。下働きの娘らしい格好をした、女というよりは少女と言うべきそ
の異質な訪問者は、子ねずみのように門をすり抜け、元からそこにあった木を数本残しただけと
いったふうの殺風景な庭を、心細げに歩いていた。世間一般においては働き始めている時分でも、
傭兵たちにとって朝はまだ早い。何人か起きているものはあったが、そういう傭兵というのは、
粗野に騒ぎ立てる同類たちからは一歩離れたところにいる、という立ち居地のものが多かった
から、少女は無事に奥に入り込めたし、道を尋ねることさえできた。
「あの、もし、こちらに七人隊の煉骨さまはいらっしゃるでしょうか。」
「七人隊なら奥のほうだね。誰がどの部屋かまでは知らないよ。向こうのほうにぐるーっと回っ
ていくといい。奥だよ、一番。」
この日以降、一日も欠かさず女の姿は目撃されている。女は、傭兵たちにとっては現在の主人と
も言える豪商の、愛娘の侍女が、特に貧しい姿に身をやつしてやって来ているものだと言われて
いる。彼女が毎日訪れているのは七人隊の煉骨。背の高い、頭のよさそうな顔立ちをして、少し
品のあるように見えるのが嫌味なやつだ、と傭兵たちの間では囁かれている。その煉骨を、時間
に長短はあるものの、とにかく陣屋の外に呼び出すことが女の目的らしい。もちろん外には豪商
の愛娘本人が待っているのだろうとされているが、その姿を見たものは誰もないことから、侍女
自身が煉骨に懸想しているのではないかとも言われている。唯一真相を知っているに違いない煉
骨は、このことに関して一度も口を開いていないし、同じく唯一、そのことで煉骨を問い詰める
ことのできる首領の蛮骨は、どうやらこの一件に興味を持っていない。
今、廊下を歩く睡骨の目の前に、頭を綺麗に丸めた色の白い男が現れた。渦中の人、七人隊の煉
骨である。ずいぶんと疲れた風情で、睡骨に気づいたのは鉢合わせする直前だった。非常に驚い
たらしく肩を跳ね上げる。
「ああ……お前か。」
「そんなびっくりするこたねえだろ。」
「いきなり来るからよ……。」
ほう、と息を漏らしながら庭のほうを向く。その襟元近くから、何やら非常によい香りが漂って
くることに睡骨は気づいた。
「何だ、ずいぶん色っぽい匂いだな。」
顔を近づけて匂いを嗅ぐ。と相手は急に顔をしかめ、鼻の膨らみをすぼめて後ろへ下がった。
「そういうてめえは酒臭え。」
「……女と一緒だって聞いたが。」
睡骨は改めて、自分はいったいどれほど臭うのだろうと、着物に鼻を近づけてみながら尋ねた。
「だからこんな匂いがするんだろうがよ。」
と言ったのは煉骨だ。彼は着物の襟をぱたぱたさせている。
「臭えったらねえ。」
「…………。」
「着替えてくる。てめえは風呂で汗でも流してきたらどうだ。」
「こんな朝からあの爺さんに薪くべさせるのもな。おい、それより……。」
横を通り抜けていく男に、睡骨は重ねて尋ねた。
「何でそう匂いが染み付くんだよ。立ち話くれーでそんなに付かねえだろ。」
「……察しろよ。」
振り返って、心底面倒くさそうな表情を一瞬だけ見せた煉骨は、小さく舌打ちすらしたようだっ
た。去っていく背中は、清廉な僧侶そのもののようにも見えたが、そう思うことはあまり睡骨は
好きではない。
(まあ、こいつが積極的に何かするわけもねえか。)
そのことに関しては、ほとんど信頼感とでも言うべきものを持っていた。状況としては、女のほ
うから熱烈に言い寄っているのだろうと思われる。雇い主の娘、その侍女とも睡骨は会ったこと
はないが、蛇骨以外から伝え聞くところでは、いずれもじゅうぶんに男たちの視線を引き付ける
ものらしい。とすると、決して心動かされないとも限らないのではなかろうか、と思う。少々心
配である。何もそうはっきりと関係を定めて付き合っているわけでもないが、睡骨と煉骨は、お
そらくここ一年ほどは、お互いしか知らずに過ごしているはずである。その均衡を一方的に崩さ
れるのは、愉快でない。
「酒でも呑むか……。」
他にすることもなかった。臭いはきついと言われるが、意識の内からは酔いは一掃されている。
逡巡することなく、睡骨は今は誰もいないであろう厨(くりや)へと向かった。雇い主の計らい
として、そこには常にじゅうぶんな酒が用意されているのだった。

近頃は本当によい天気が続いている。暑からず寒からず、風は強からず弱からず。このような天
気に、のんびりと山野を歩くことができたらどんなに幸せだろう、とそれができない者はつくづ
く思うに違いないが、容易にできる者でも、その朗らかさを味わうことには吝(やぶさ)かでは
ない。
瓢(ひさご)を手にして、睡骨は山に来ていた。瓢の中には酒が入っている、という以外の記憶
はあまり定かではない。ひとり部屋で呑もうと廊下を歩いていたのが、何かがきっかけで誘い出
されたらしい。きっかけというのは、空を蝶が飛んで行ったとか、風が山のほうへ吹いていった
とか、そういった何でもないことだ。
山に来ているとは言っても、何も本格的に頂上目指して登っているわけではない。何となく頂上
を見ながら、緩やかな坂をだらだらと歩いている。どちらかといえば、まばらに木の生えた草原
といった感じだ。
「おお、いい具合の岩があるじゃねーか。」
平らな表面の、大の字になって寝るにちょうどよいふうの岩を見つけ、膝丈を軽く超える草を掻
き分け、睡骨は近づいていった。手を伸ばし触れると、日の温かさが染み入っている。少し熱い
ようにも感じたが、ともかくも腰を下ろした。瓢を逆さにして豪快に酒を呑む。
「あーあ、いい天気だな……。」
深く腰掛け、仰向けになった。目を閉じて、風を感じること暫く、近くの草むらが明らかに人為
的にざわめいたと感じて密かに体を硬くした。
(ウサギか何かか?)
耳をそばだてていたが、二度目の動きは長いことなかった。起き上がり確かめようかと思い始め、
実際に上体を静かに動かしてみたその時、睡骨がやって来たのとは正反対の方角で、密やかさ
を努めてはいるものの二度三度不自然なざわめきが起こって、決定的なことには、人の黒い頭が
見えた。睡骨は、どうやら向こうもこちらの動きを探っているのだろうと当たりをつけ、動かず、
じっと見ていた。女のように見えた。
髪の生え際から額、薄く下がりぎみの眉が見えた。こうして顔を出そうという時、人は不思議と
自分の頭の存在を忘れている。目が見えて、こちらからあちらが見えるようになるまでは、あち
らからもこちらは見えていないと思っている。
「あっ……。」
それはまだ、十二、三にも見えるような少女だった。綺麗に髪を梳いて、色鮮やかな着物を纏っ
ていた。少女は、睡骨に対してどのような印象を持ったのか。驚きはしたが怖がるふうはあまり
なく、岩の上に少しずつ上ってきた。そして急に素早い動きになって膝を詰めてくると、甲高い
声で叫び始めた。
「ここにもうすぐ人が来るかもしれませんが、わたしのことは知らないと言ってください!わた
しは草むらに隠れてますから、追っ手の人たちが帰っていくようにしてください!お願いします!」
「……ええっと。」
思わず睡骨の腰が引ける。その体に飛びつき、少女は必死に事情を説明し始めた。それによると、
そこそこの身分らしい姿をしている彼女は実は商家の下女であって、仕えている主人の娘に身
代わりを強引に頼み込まれ、これまでは無事に務めていたが今しがた、ついにそのことがばれて
しまった。どんな仕置きを受けるのかと考えると恐ろしくて、主人の娘に似せた格好を解くこと
も忘れて屋敷を飛び出してきた、というのだった。
「きっともう追っ手が出てるんです。捕まったらうんと折檻されて、追い出されて……。」
鼻を啜り上げた、と思った次の瞬間、女は泣き叫び始めた。何を言っているのかはもはや聞き取
れないが、睡骨の着物の襟を掴んで揺さぶり、必死にその助けを求めている。果ては睡骨の胸に
頭を押し付けて泣きじゃくる。その体から、漂ってくる匂いに睡骨ははっとした。同じ香を焚き
染めるものもあるだろうが、しかしやはり、それにしても、それまでの話と合わせて考えてみれ
ばほぼひとつながり、一通りの推測が成り立って浮かんでくる。
おい、と睡骨は娘の体を引き剥がし、怖がらず答えさせるため声も表情も穏やかにして尋ねた。
「お前のその匂いは、つまり主人の娘のもんだな?」
「はい、この着物……。」
「その娘ってえのは、ここのところ盛んに兵や馬を集めている商家のお姫さまだろう。雇われて
いる中には、確か有名な七人隊とかいう連中もいるとか。」
「はあっ、そうです!あの鬼のような、恐ろしげなものをわたしも見ました!」
「うん、それでよ……お前、その七人隊のひとりにお姫さまが懸想してる、なんて噂は聞いたこ
とねえかな。」
「ありますとも!それでわたし、こんなかっこう……、」
「ここんとこ、お姫さまは毎日屋敷を抜け出してきてると思うんだが、その、実際のところ七人
隊のその男とよ、どういう付き合いしてんのか知らねーかな。いや、ちょっとした関係があるも
んでよ。ああ、教えてくれたらお前を追っかけてくる連中には、しっかり煙に巻くようなこと言っ
といてやるから。」
少女は目に見えて明るい顔になり、興奮は安堵の涙に変わって目尻を濡らした。
「はあ何でも、まるで子供のように言われてしまって相手にしてもらえないと。何度か悔しそう
におっしゃっていました。」
「そうか……昨日や、今日の朝も、か?」
「あのう、とても気の強い姫さまで、今日はもっとしっかりお願い申し上げてみるのだと。」
「お願い申し上げてみるって?」
「もう十六におなりあそばすので、一人前の女として見ていただきたいのだと。」
その時、ふたりの耳に人声らしき音が入り、娘は突き飛ばされでもしたような動きであっという
間に岩の陰へ移った。それを睡骨は覗き込む。まあ静かにしていろ、とでも言ってやるつもりだっ
たが、図らずも、勢いに乱れた娘の着衣の間隙に、意外に大きなふたつの膨らみが柔らかにひ
しめいていることに気づいて言葉を呑んだ。
「おい、そっちに行ってみよう!」
「しかし、こう当てがないとな!」
人声はこちらに近づいてくる。その方角にちらちらと視線をやりつつ、睡骨はどうも気になって
尋ねた。
「おい、お前、幾つだ?」
「十六です。姫さまと同じ。背格好も似ておりますから……。」
「それで身代わりか。」
「あの……お礼は、精一杯させていただきますから!」
「あん?」
「あの……。」
胸元で両手を握り合わせて、力を込めた目で睡骨を見上げる。ほんの子供と思っていた娘の性を
急に意識させられて、睡骨は妙な心地を覚えつつ視線を逸らした。

西の空に日は大きく傾きつつあり、地上を照らし出すその光には淡く黄金の如き色合いが滲み始
めている。陣屋に帰り着いた睡骨は、ともかく今日も寝床に潜り込むことができるのだという安
心感と、それにともない募る疲労感を、少々重たげに背負いながら自身の部屋へ戻ろうとしてい
た。帯にくくりつけた瓢は疾うに空で、歩くたび股(もも)を擦る状態が長らく続いていたので、
今は少し痒くて熱いように感じられる。
廊下を渡り、部屋が見えてくるようになると同時に、ふたつの人影を認めた。自分もそうである
が、七人隊というのは誰が誰であるか、遠目に見ても一目で見分けのつく集団だ、とつくづく思っ
た。
「何してんだ、お前ら。」
蛇骨と銀骨が、素焼きの壷を前にして腕組みし、あぐらを掻いている。
「おう睡骨、兄貴帰ってきてるぞ。」
「知ってるよ。」
「どこ行ってたんだよ。また酒か。」
睡骨の腰の瓢に、蛇骨は視線を走らせる。しかしその興味はひたすらに、前に置かれているいび
つな形の壷に注がれているらしいことは、いつも気まぐれにくるくる動く、その表情や声からよ
く分かる。
「何だ、それ。」
「霧骨がよ、ここに来る途中に会った行商人から、何かいろいろ買ってたろ、木の皮みたいなの
とか。それをこういろいろ混ぜて、壷ん中に放り込んで密封してたらしいんだが、さっきよ、し
ばらくぶりに開いてみたら何かいい匂いがするもんで、俺もここから気づいて行ってみたんだよ。
どうも、酒みたいなのができてるんじゃねえかって……。」
「いい匂いって、何もしねーけど。」
「おめえよ、自分の酒臭さで何も分からなくなってんじゃねえの?」
「そうか?」
自分の周りの空気を吸い込み確かめてみるように、鼻を蠢かしてみせる七人隊の最年長者に、蛇
骨は少々冷ややかな視線を送りつつ、壷の口を片手で持って、突っ立っている睡骨の前に置いた。
「でよ、霧骨の野郎は美味い酒なんぞできても嬉しくねえからって、もらってきたんだけど、本
当に無害かどうか分からねえだろ?誰が一番先に呑むかってえ相談を……大兄貴は部屋にいなかっ
たんだよ。」
「酒、ねえ……。」
壷の上に屈みこみ、中身を覗き込むとともに大きく息を吸い込む。
「おう、ちゃんと匂いするじゃねえか。いい匂いだな……。」
鼻先が縁にかかろうかというくらいにまで近づけば、さすがにその芳香を嗅ぎ取ることができた。
ひとしきりその香りを堪能した後、顔を上げ、睡骨は壷を両手で持ち上げた。彼らがいる場所
は、西日が直接は当たらない。曲がり角の向こうから、わずかに、柔らかな舌先が入り込むよう
に伸びてきている光。その粒子を壷の中に取り込もうと、顔の高さで左に傾け、斜めから内部の
液体を覗き込もうと試みる。茶色いように見えたが、壷自体が茶色いのでどうも分からない。
「煉骨には見せたのか?」
「それがさあ、兄貴のやつすっげー不機嫌でよ。」
「ふうん……。」
壷を手に、睡骨は立ち上がった。
「おいおい行く気かよ、この野郎。」
驚きと感心と、じゃっかんの非難が入り混じったような声を上げた蛇骨を、睡骨は見下ろす。そ
のついでに視界に入ったもうひとつの顔に、思わず目が行った。今は少しくすんで見える赤い蓬
髪(ほうはつ)。さいころの一の目の如き目は、何らかの思いを映すでもなく、ただ確かな意思
を持って睡骨を見上げている。
「俺は、いいだろ?」
覚えず、弱い声が出た。不本意さを、鼻息に紛らす。それに対し赤髪の男、銀骨は、少し頭を動
かしただけで何も答えない。そうした反応は予想の内であったので、睡骨は小さく息をついて、
蛇骨、銀骨のふたりの脇を通り、廊下を曲がり、西日の差す方角へと歩いていった。ぶっ飛ばさ
れねえようにしろよー、と蛇骨の声が遠く聞こえた。

「入るぜー。」
何の気兼ねもない相手の部屋に足を踏み入れる心地。もっと言えば、その部屋の空気に肌が触れ
た瞬間、睡骨はまるで寝間にでもやって来たかのような心地を味わった。
「おう。」
「何だ、その壷。」
煉骨は本当に着物を代えて、彼にとっての仕事道具を前に広げ、何か作業しているようだった。
顔を上げ、睡骨を見るより先にその両手に抱えられた壷の上に、視線を止める。その表情に、特
に不機嫌の色は見えないことを確認しつつ、先ほど蛇骨から聞いた話を睡骨は要約して伝えた。
「それで?その中身を当ててみせろってのか?」
目の前に置かれた壷の口を取り、煉骨は中を覗き込んだ。
「酒かどうかなんて知らねえが、本草(ほんぞう)みたいなもんを混ぜ合わせたんだろ?だった
らてめえの中にいる“先生”に聞けばいいんじゃねえか。」
「なに言ってんだか、分かんねえな。」
思わず、どすのきいた声になった。それを見越していたかのように笑う相手に、睡骨は渋い顔を
する。
「どうなんだよ。」
「あん?」
「匂い。」
「いい匂いだな。しかし……。」
「しかし、何だよ。」
「お前の酒臭さの方がきつくて、よく分からねえ。」
「……いい匂いだっつったじゃねえかよ。」
座ったまま、互いの距離を少し詰め、睡骨は腕を伸ばして煉骨の手から壷をもぎ取った。その動
きは当然ながら、彼の体から相手へと吹く微風を起こしたのだったが、その微風のほとんどは酒
の臭いで覆われつつ、しかしわずかに、よく知った匂いが含まれていることに煉骨は気づいた。
その匂いに関する事情から、彼はまず、自身の体に“まだ”その匂いが残っていることを疑った。
衣服だけでなく、自身の体にも染み付いていたのかと思い、鎖骨から肩にかけて鼻を近づけて、
探った。
「どうかしたのか。」
睡骨は、取り上げた壷の内部に改めて鼻先を突っ込んでいる。
「やっぱ酒かな、これ。……おい、何してんだよ。」
「着物を代えたのに、あの女の匂いがするわけもねえか。」
淡々とした言葉とともに自身に向けられた目に、睡骨は内心あっと小さく声をあげた。どうして
そこに注意を向けることを忘れていたのか、と己の迂闊さに苦笑が漏れる。まずい、とは思わな
かった。隠し立てするつもりはない。ただうまく順序を考えて話したほうがいい、とは思った。
「酒を呑みながらよ、山の方に行ったんだ。そこで女に会った。お前のことを呼び出してた女じゃ
ねえよ。その身代わりになってた女さ。」
「そういや、下働きの女を替え玉に使ってるって言ってたな。」
「その替え玉がばれちまって、逃げてる最中だったんだよ。追っ手が来たらごまかしてくれって
必死だったんだが、追っ手の連中を捕まえて聞いてみりゃ、お姫さまが、自分が強引に頼み込ん
だんだからってことで親父に執り成したらしい。まあ当然といえば当然なんだが、それでその替
え玉の女はお咎めなし。お姫さまのほうはこれからしばらく……まあ、俺たちがいなくなるまで
だよな?」
「…………。」
「それまで、周りにちょいとばかし人を多く置かれることになったらしいんだが。そこで替え玉
にされてた女、というか子供なんだが、これが安心して戻りゃいいのに、何だか怖いからついて
きてくれってよ。何でもするってえから、俺としちゃ酒ばっかりでもなんだから何か食わせても
らおうかと思って、ついてったんだ。……そう変な顔するなよ。」
「あ?」
「眉間に皺が寄ってるぜ。」
「……話が長えんだよ。」
自らの眉間(まゆあい)を指先で押さえつつ、そこで皺を解いてしまうのも癪だと感じたのか、
結局難しげな表情はそのまま、微妙な目の動きで煉骨は話の続きを促した。
「それで飯を食わせてもらって、帰ってきた。」
「……ん?」
「まあ、いろいろ話を聞きつつだな。そうそうお前、明日っからもう呼び出されなくて済むんだ
ぜ。清々したろ。」
「…………。」
腕組みして、下から睡骨を睨付(ねめつ)ける。煉骨には話の軸をぶれさせるつもりはないらし
い。そのくらいは睡骨もよく分かっている。相手をなだめるように笑いつつ、しかしそんなもの
には何の実効性もないこともよく理解しつつ、極めて軽い調子で言った。
「替え玉に使われてた女がな、ほんの子供だったんだが、世間を知らねえもんで、男に対する礼っ
てのはそういうことをするもんだ、と思い込んでたんだよ。」
「それで?」
「何もしてねえよ。疑うんなら、女に会わせてやる。お前は話を聞きだすのが上手いし、だいた
いあんな子供、脅しをかけりゃ一発でほんとのことを話すぜ。」
まだ腕組みしている煉骨だが、それでもその表情は多少は柔らかくなっている。
「つまり、女にくっつかれただけか。」
「お前と同じでな。」
「ふん。」
眉間の皺もだいたい解(ほぐ)れた。ついに腕組みも崩れて、煉骨は自身の白い頬を左手で軽く
撫ぜた。そんな彼を、今度は睡骨が下から見やる。
「お前よ、ほんとに何にもなかったか?」
「何が。」
「だからよ、今日のお姫さまはだいぶん張り切って来たみたいだからよ。」
あぐらを掻いた足の間に、何か猫でも抱くようにして抱えている壷の表面を、睡骨はいかにもそ
のような手つきで撫でたり、揉むように動かしてみたりする。
「お前、向こうであの子供に会ったのか?」
「子供っつっても、いい女に見えたが、会ったよ。というか、見た。」
「ちょっとでも会ったり話したりすりゃ、だいたい分からねえか。」
「不機嫌だったら失敗した、とかか?いや、何か泣いてるように見えたけどよ、それがてめえに
拒まれたからか、せっかく受け入れてもらえたのにもう明日からは会えないわー、てことなのか、」
「気になるんだったら、替え玉してた女にさりげなく聞き出してくるよう頼めばいいじゃねえか。
てめえに感謝してるんだろ?そんくれえやってくれるさ。」
「ん、まあ、そうだな。」
「それにしても……。」
睡骨の足の間に、すっぽり埋まるようにしてあった壷を、煉骨はひょいと取り上げた。
「あれがいい女に見えるとはな。よく分からねえ趣味してやがる。」
「金持ちのお姫さんのことか?ありゃまあまあ、いい女だろ。」
「てことは、その替え玉してた女もそれなりにいい女に見えたわけだ。」
「ん、いや、子供だと思ったけどよ。結構胸が……おい、どうすんだ?」
「胸がねえ……。」
壷の中に右手を差し入れ、煉骨は内部にあるものに中指を触れさせた。植物の形は残りつつ、だ
いぶん柔らかくなって、押すと簡単に穴が開いていくのが分かった。密閉されていたために逃げ
ていかなかった水分は、わずかに粘り気を帯びて、そこそこの深さにまで達しているらしい。
「胸がでかかったけどよ、ほんと何もしてねえからな。」
煉骨は黙って、手を壷から出した。指の中ほどまでが、淡く黄金色の光を帯びた液体によって包
まれていた。それを口元に近づけると、さっと舌を出して、舐めた。あ、と睡骨が声を漏らす。
一呼吸置いて、突然、煉骨が咳き込んだ。さすがに驚いて睡骨が腕を伸ばすも、その手が届こう
かという矢先にぷつりと咳は途切れる。少しの間、押し黙る空間。
「酒だな。」
低い声で、煉骨は言った。
「薄めて呑んだ方がいいぞ。濃すぎて、噎(む)せた。」
「……何でえ。」
力の抜けた様子で、浮かせていた腰を落とす。睡骨は、相手の腕の中にある壷を少し傾けさせて、
手を突っ込み、同じように中の液体を掬い取って、舐めた。そしてやはり、咳き込んだ。
「きついだろうが。」
煉骨は、壷を互いの間の板間に据えた。おう、と睡骨は少し弱さの混じった声を上げた。
「でもよ、結構美味そうだよな、これ。」
まだ咳が収まりきらない調子で言う。
「呑むか、水入れて。」
「いいけどお前、着替えてこいよ。あと風呂で蒸されてこい。一度、酒を抜け。」
「そんな気になるかね。」
言いながらも立ち上がり、その途中で睡骨は自身の襟元を大きく広げ、扇(あお)ぐように動か
した。ふわりと寄せてきた風に、煉骨はしかめた顔を横に向ける。それを見て笑い、さらにふざ
けた動きで前のめりに相手の体の上に覆いかぶさろうかとしたのであるが、その胸元を、睡骨に
とってみれば少々心外なほどの強い力で押し返された。
「何だよ。」
興を殺(そ)がれた心地であったが、
「せっかく着替えたのに、またつくだろうが。」
「あ?ああ、あの女の匂いか?」
「くせえんだよ。」
今度は体ごと横を向く男の前に、睡骨は妙に大人しげに膝をついた。
「お前って結構……。」
思うところのある様子で、しげしげと煉骨の横顔を見る。その視線の意味が今ひとつ飲み込めな
い様子で、何だよ、と煉骨は少しだけ相手に顔を向けた。いや……、と睡骨は自分の襟を持って、
その匂いを嗅ぐような仕草をしつつ、
「つくづく、あの女を抱かなくてよかったなあ、と思ってよ。」
「……抱こうとしてたんじゃねえか。」
「そうなんだよなあ。“あの澄ました顔した野郎”が、女の匂いつけて帰ったくらいじゃ何とも思わ
ねえんじゃねえかと思って。」
またいっそう相手の方へ顔を向けて、煉骨は眉間に訝しげに皺を刻んだ。
「まっしかし、てめえにもいちおうの恋着じみたもんはあるみたいで、よかったぜ。」
「恋着だとっ?」
「いやあ、妙なこころみをしねえでよかった、よかった。」
「おい、待てっ……。」
立ち上がる睡骨の着物の裾を、思わずといった様子で煉骨は掴んだ。その綺麗に丸めた頭に、睡
骨はぽんと手をやる。にっ、と機嫌よく笑う顔。それに対し、煉骨の表情はどこか張り付いたも
ののようにぎこちない。
「おい、睡骨……。」
「その壷、どっかに隠してろよ。後で呑むんだからな、てめえとふたりでよ。ん、分かってんだ
ろ?」
煉骨の頭から頬をつるりと撫でると、睡骨は軽やかとしか評しようのない足取りで、部屋を出て
行った。

淡く滲むようであった夕暮れは、赤味を濃くして、今しも闇を呼び込もうかという構えである。
少し冷たくなった廊下を睡骨は爪先立ちでそそくさと歩き、角を曲がると、同じように向こうか
ら歩いてきていた蛇骨と危うく衝突しそうになって、身を引いた。おう、と互いに声を漏らす。
「大兄貴が帰ってきてよ、明日辺り動きがありそうだとよ。」
「そうか。」
蛇骨の頭越しに覗き込む廊下には、他に人影は見えない。
「大兄貴は厨だよ。喉渇いたってさ。」
「ふうん。」
「つーかおめえ、あの壷どうしたんだよ。煉骨の兄貴んとこか?」
「ん、ああ……。」
「何だよ。」
目を逸らす睡骨を怪しんで、蛇骨はその顔を覗き込む。
「いや、それがよ、結局酒だったんだけどよ。」
「おっ、そうなのか。」
「美味くてよお、あんまり美味かったもんで、もう呑んじまった。」
「何いっ?」
「あのままだと濃すぎるんだよ。水に薄めて呑むと、美味い。」
「てめっ、ちょっとくらい残しとけよ。」
「しょうがねえだろ。水で薄めるったって、あの量じゃそんな増えねえよ。ふたりで四、五杯ず
つも呑めばすぐだ。」
「にしてもよお……。」
「霧骨に頼めばまたできるんじゃねえのか。俺はちょっと、風呂行ってくる。酒抜けって言われ
たもんでな。」
蛇骨の肩を軽く押して、自然な動きでその場を離れる。つまらなそうな、蛇骨の声にならない声
が聞こえた。次いで小さな足音が遠ざかっていく。煉骨の部屋に行くかもしれない、と睡骨は思っ
たが、あまり不安はなかった。煉骨は、ごまかすために上手い言葉を選ぶだろう。それよりも、
今はとにかく汗を掻いて、この体に染み付いているらしい様々な臭いを落とすばかりだ。
ふと顔を上げると、雲ひとつない空が見えた。純粋に茜色に染まり、東の空から次第次第に暗く
なっていく。ひとつふたつ、仄白い花弁の如き星を見つけ、睡骨はふんと鼻先で笑った。明日も
いい天気になりそうだなどと、柄にもないことを思った自分を笑ってやったのだ。しかし何やら
楽しげな心地がすることは、否定のしようもなかった。




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