「ここで待っている」


選挙の風が吹き始めましたねえ、とエレベーターに乗り合わせた男がいかにも悩ましげな表
情で声をかけてきた。他に数名、名前も知らない職員やら一度酒を呑みに行ったことはあるくら
いの係長まで、その場にいたものの視線がさっと自分に集まる。
「ああ、やまとのことがあってから初の総選挙だな。」
「一応の落着といいますか、まだ原潜の群れは存在してるわけですけど、それでも時間は経ちま
したよ。影響はあるのかどうか、あったとしてどちらの側に追い風となるのか。」
「……正直、読めない。」
この若くとも優秀な後輩は、省内の実権を握る自分にもう少し明快な答えを期待したかもしれな
い。ため息混じりに漏らした一言で大した見解を持っていないかのように感じてもらっては困る
が、政治評論家だとか選挙のスペシャリストだとかいう人々の事前の予想だって目を見張るほど
の的中率を見せることはない。選挙というのは一日ごとに風向きが変わる。あのやまとのもたら
した衝撃は、ここ最近のニュース等によって改めて国民の目の前に鮮やかによみがえってきてい
る。
真の平和とは何か。海江田は理想主義者か現実主義者か、それとも病的な夢想を振り回す怪物で
あったのか。少なからぬ人々の共感、現在も活動を続けている恐るべき原潜の群れ。それは肯定
されるべきか否定されるべきか。
ともかく各国とよく連絡を取り、最終的な態度決定は国際的な会議の場においてできる限り多く
の国々との一致を見た上で行うべきだ、世界が足並みをそろえなければ海江田の構想、それを我
流に組み立てたと思われる米大統領の提案を可決するにせよ否決するにせよ、世界は長い混沌の
時代を迎えねばならなくなる。
ふっと短くも力のこもった息を吐き、天津は声をかけてきた後輩ばかりでなくその場にいる全員
に対するかのような調子で言った。
「やまとの一件の影響は小さくないにせよ、ある程度の時間が経っている現在では他の要素が与
える影響の方が大きいとも考えられる。国民が我が国の対外姿勢はどうあるべきかという観点か
らのみ政党の選択をするとは思われない。つまり、今回の選挙の結果は必ずしも我々にとって望
ましい形とはならないかもしれない。もちろん、そうであってもやまとの一件を含めて対外交渉
を行う中核にあり続けるのは我々だ。選挙期間中は政治家は国中を飛び回らなければならない。
つまり今も選挙後も、政界にどんな風が吹くにせよ、世界の中の我が国の位置づけを確固たるもの
としておくことができるのは、我々だけだということだ。」
「我々外務官僚の意思を無視できた大臣などありませんしね。国民が直接手を下せるわけもあり
ませんし。」
「……君、省外ではもう少し態度を小さくしておいた方がいい。分かってるんだろうが。まあそ
れにしても、常に対外交渉の任を負っているのは我々だよ。最も実相を把握してるんだ。それに
見合うだけの矜持と、幾分かの傲慢さは持っていても許される、と俺は思うがね。」
「次官殿。」
若い外務官僚はいかにもエリートらしい柔弱な面立ちに、一筋縄ではいかぬらしい幾種類もの想
念を込めた笑みを浮かべた。
「まったく自分も同感ですよ。」

九時過ぎに自宅に戻ると、まるで見計らっていたように電話が鳴った。厚手のコートを脱ぎなが
らリビングに向かい、冷えた手で受話器を取り応対の言葉を発すれば、思っていたより声が疲
れていた。どうした、と受話器の向こうの男が笑う。
「仕事帰りだ。腹が減っていてな。例の料亭でお前にたらふく馳走になりたいところだが。地元
か?今。」
「いや、同派閥の議員に講演を頼まれたんだ。関西だよ。地元に戻るのは週末、東京には週明け
だな。料亭接待はその時にしてやる。」
「腹空かせて待ってるよ。とりあえず今日はコンビニ弁当だが。」
「何だ、どっかで食べてこいよ。一人で食うのか?寂しいやつだ。」
「お前は秘書やSPが常にいるからなあ……。まあ、俺は一人の方が落ち着くよ。……選挙はどう
だ。」
テーブルの上のリモコンを取り上げ、天津はテレビの電源を入れた。画面にニュースが映り、ア
ナウンサーの音声が聞こえてくるより先に音量を0にする。
「各選挙区を回って支持者と接していると手応えを感じるんだがな、実際に一つの選挙区に張り
付いてデータを取っている連中の印象だとどっちに転ぶか今の時点では分からないそうだ。」
「やや与党優勢、とニュースの字幕には出てるぞ。」
「俺も見てるよ。」
それを証明するように、受話器の向こうから今天津が見ている画面とぴったり合わさるアナウン
サーの声が次第に大きくなって流れてきた。「要は今の時点では確信を抱くまでには至らない、
ということさ。」すぐにまた小さく戻っていく音に代わって男の力強い声が響く。
「海原。」
この友人は“鉄板”だ。少なくとも彼の当選には確信を抱いてもいい。
「何か話があって掛けてきたんじゃないのか?」
ネクタイを緩める。と、まるでそこから抜けるものでもあったかのように両肩がストンと落ちた。
椅子を引き寄せ腰を下ろす。
「世界政府準備委員会内で二カ国、または数カ国間での話し合いの場を設けるというのは前進に
見えて停滞じゃないのか。……正式に設けるということが、一部の連中の目から見ると正式な決
裂に見えるらしい。そんな非難を聞かされる。俺は忍耐強い方じゃないからな。同じ説明を日に
何度も繰り返さなきゃならんのは閉口だ。」
「テレビで説明したのにな。」
海原はここ最近、日曜朝の各政治系番組常連だ。ゴールデンタイムのニュースにちらほら顔を出
すこともあるから、おそらく知名度では政治家中トップクラスとなっているだろう。
「笑うな。外務大臣が貴様らの代わりに矢面に立たされてるんだぞ。」
「そういう役回りだ。政治家は損。みんな分かってるよ、お前も。」
「分かっとる!」
受話器から離れて、天津は声を出して笑った。海原の顔がすぐそこまで迫ってくるようだ。
「愚痴を聞いてもらいたかったわけか?」
「聞かせてやるんだ。いいか?これから一方的に話し続けてやるからな。」
「おい待て、飯を食わせろよ。」
「温めてくるのは待ってやる。」
「分かった、分かった。」
受話器を置き、天津は電子レンジに弁当を放り込んだ。三分待つ間に電話を食卓の上に移動する。
伸びた回線に埃が絡まっているのを手早く拭いているところにチンとよい音がした。「海原。」
もしかすると切れているかもしれないと思いながら再び受話器を手にする。
「外交政策というのはどれだけ訴えても庶民の感覚にはあまり響かない。」三分待っていた間に
海原はいろいろと考えていたようだ。
「世界との繋がりがあって初めて我が国は成り立っている。が、それを意識する機会はめったに
ない。大抵の人間は毎日毎日直径数キロ、下手したら数百メートルの枠内で生活してる。日米同
盟がどうだ、国連やNATOがどうだ、ニュース番組でどれだけそうした話題が伝えられようが大し
た感想は持たない。痛くも痒くもないし嬉しくもない。」
「海原、“世界の中の日本”を外務省事務次官に語るのか?」
「講演に呼ばれれば、俺は今の立場上外交政策について多く語りたいと思うんだが、結局のとこ
ろ聴衆が聴きたいのは明日の自分の生活がどうなるかだ。野党は徹底して“庶民の生活を守る”
と訴えることに力を入れているし、我が党としてはその土俵に上がらなければ“庶民の生活”と
やらに背を向けていることになる。」
「やまとの時には世界平和の実現が大衆の心を捉えたが、一時の激情が過ぎればやはり気になる
のは明日の食卓なわけだ。仕方ないよ、大衆の視野が狭いのは昔からだ。」
「…………。」
「その大衆にどれだけ媚びることができるか。政治家の資質を計る重要なバロメーターだ。」
「嫌な言い方をするな。」
海原の低い声が、今までよりもずっと耳の近くに聞こえた。お互いに受話器を顔に寄せすぎだ。
笑みを浮かべた口元に天津は煮付けた里芋を運ぶ。
「勝てよ、海原。与党で過半数を確保すれば、後は国民やマスコミが何を言おうが法案は通せる。
お前が外務大臣なり、党でも政府でも重要な役職についてくれれば外務省もこれまでの路線を
維持できる。」
「俺は今度は党内だろうな。閣内が続いた。」
「無役ということもあるな。お前の若さで重要閣僚を歴任となれば党内の嫉視が凄まじいだろ。
まあ、お前でなくとも今の路線を支持する人間なら我が省は大歓迎だ。」
「おいコラ、本音を出しすぎだ。」
「不誠実は嫌いなんだろ?それに俺が言っているのは許容できる範囲であって、最も望ましいの
はさっきも言ったが……。いや最も望ましいのはお前が総理大臣になることだな。」
「ああ?」
「ならないのか?」
「……いつかは、まあ……。」
「政治家たるもの志は高く。」
缶入りの烏龍茶を天津は何やら趣深く傾けた。口元の綻びはそのままに、受話器の向こうからの
切り返しを待つ。
「なあ、天津。」
「何だ。」
「三年待てよ。」
「ん?」
「つまり事務次官の座を三年守れ。」
「俺を幾つだと思っているんだ?この先三年以内で事務方トップを退くようなことがあると思う
か?俺自身が希望するか、どこかからの陰謀でもない限りあり得ないな。」
「その陰謀に気をつけろと言うんだ。省内での自分の評判を分かっているのか?」
「誰しも敵はあるさ。」
「お前は多い。」
「……三年待てばどうだと言うんだ。」
「やまとの一件以後、俺の知名度は飛躍的に上がった。今度の総選挙に党全体として勝ち、それ
なりにメディアへの露出の多い役職を手に入れればさらに上がる。実績を残し党内からも一定の
評価を得る。味方を増やし、少なくとも敵を増やさないようにすれば、まあ三年もすればそうした
声が上がってくる。今だって俺や大滝をニューリーダーだと持ち上げる声があるが、それよりも
さらに現実味を帯びた声がだ。」
天津は天井を見ていた。食事をしていることなど疾うから頭になく、テーブルの縁に置いた右手
から今にも割り箸がこぼれ落ちそうだ。
「実際のところ、俺は本当にお前はこの国のトップに立つべきだと思ってるよ。」
「おい、何かこの辺がむず痒くなった。」
「本当だ。」
「…………。」
「三年でも十年でも待ってやるさ。」
「……俺がこの国のトップになった時に、お前が外務官僚としてのトップでなければ意味がない。
俺はお前こそがそのポジションに相応しいと思っている。お前がその位置にいなければ、俺の
初めての政権運営に大穴が空くことになる。」
「約束する。“ここ”でお前を待つ。」
海原の低く笑う声が聞こえた。天津も笑みを漏らし、目の前の弁当と右手の箸に注意を戻して食
事を再開する。テレビを見れば明日の天気図が映っていた。いい天気だなと呟けば、同じ画面を
見たのだろう海原がおおと応える。
「選挙はこうでなくちゃいかん。」
「まずは目の前の合戦に勝つことだ。」
「おお。じゃあな、何を馳走してもらいたいか考えておけよ。」
「楽しみだな。しかし俺は待ってばっかりだ。東京にいるんだから仕方ないが。」
「東京と言うよりも外務省内にな。事務次官様となりゃそんなもんさ。俺は大臣なのに飛び回っ
てばっかりだ。」
「体壊すなよ。」
「心配して待ってろ、事務次官。」
「ええ、書類が溜まる一方なのを心配しながら、お待ちいたしておりますよ、大臣殿。」




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