「居場所」
「好きな女ができたって?」 猫が這い入るように、気づけば縁側に現れていた平山五郎の発した言葉に、新見錦は重たい瞼をうっすら開ける。
| 「吉栄に聞いたんだ。」
| 「ああ……。」
| 心根の良い娘らしい、明るい笑顔をいつも絶やさぬ京猫を、新見はぼんやり思い浮かべる。
| 「ああ、って何だ、本気か?」
| 「何で。」
| 「何でって……。」
| 「ああ、っていうのは、そういうんじゃない……。」
| 物憂げに背を向ける新見に、平山は草履を引っかけたままの足を上げ、四つん這いににじり寄る。
| 「お前がさ、何夜も連続して同じ女を呼んだって聞いたからよ、そりゃめでてーことだと思ってよ。常々、人様を見るのにあんな死 | んだような目もねえもんだと思ってたが、ようやっと……」
| 平山の話の途中で、新見は起き上がる。
| 「……お前のツラを見間違えるわけもねえと思うんでよ。」
| 「同じ女を呼んだは呼んだが。」
| 「おお。」
| 「あんたと吉栄みたいんじゃねえ。」
| 「……恋仲じゃあねえって?」
| 「うん……。」
| と曖昧に声を漏らし、新見は立ち上がる。
| 「どっか行くのか。」
| 平山の問いに、少し振り向き、白く細い顎を覗かせた。だがしかし、不健康そうな色をした唇は結局何を紡ぐこともなく、どこか侘 | しく揺れる薄墨色(うすずみいろ)の髪に遮られ、見えなくなり、新見錦は、障子を開けると開けたっきり、どこかへ行ってしまっ | た。
| その女のことが、好きになったわけではない。美しい女ではあったが、その女自身に対し個別の感情を抱くには、新見にとってその 顔は記憶の底に刻みつけられたものであり過ぎた。
| 「錦はんは……うちのこと気に入ってくれはったんと、違うの。」
| 水底に沈む闇のように、常に揺らいで見える目見(まみ)を、女は新見に注いでいる。三味線の撥(ばち)を持った手が、正座した | 膝の上で絶えず、白蛇のように蠢いている。
| 「お話もせえへんの?うち……錦はんの邪魔にならんようにと思って、ずうっと静かに三味弾いてたんやけど……。」
| 応(いら)えはない。代わりに、男の陰気な視線が向けられる。それはもう何度も感じたことのある、絡みついてくるような視線。 | 最初の頃、女はそれに熱が籠っているように感じて、耳たぶまで真っ赤にして、うつむいたりしていたものだった。けれども今では | それが、何ら自身に対しての思い入れを示すものではないことを知っていたし、それどころか、新見錦という男にとって、自分が少 | しでも価値のある人間だとは、到底思えないようになっていた。
| 「何でうちのこと呼ぶん?」
| 首をくねらし、女は男に背を向ける。
| 「一緒にいたいん……?」
| 窓外からの喧噪にもかかわらず、ピンと張り渡された琴線を掻き鳴らすように、女の声は鋭く響いた。
| けれども、応えはないのだった。切ない思いに、眉間に暗い陰を落としつつ、女は正座していた足を崩し、新見錦に向き直る。そこ | には鬱々たる暗い目が、まるで何も、彼と彼女との間には、何も起こりはしなかったかのような変化の無さで、ただ凝然と、木偶坊 | のようにして、据えられてあるのだった。
| 「何で、うちのこと見るん……。」
| ううん、と女は首を振った。
| 「見えてへん、錦はんの目、なあんも見えてへん。変な目……なあ、見えてる……?」
| 小首を傾げる。力を込めすぎ、少し広がった鼻の穴。
| 「黙れ。」
| 「黙るけど……。」
| 「黙れ……。」
| 女は悲しげに項垂れる。三味線の一の糸を、指で鋭く弾(はじ)いた。びい…ん、と濁った低音が室内に反響する、
| 女の、つるりとした横向きの顔。触れれば吸いついてきそうな柔肌。透きとおった産毛の見える目元。密集した睫毛の描きだす、くっ | きりと深い闇。少し突き出して見える唇は厚ぼったく、朝露を滴らせる椿の花のように真っ赤だ。
| 新見錦の、生気のない目が、そんな女の横顔を捉えている内に一瞬、反応らしい反応を見せて、その丸くて暗い二つの沼底にも似た | 眼(まなこ)に、鋭い光を走らせた。あ、としか女の耳には届かなかったが、何か口走りさえした。
| 「え?」
| 「…………。」
| 「なんか……?」
| 新見は、頭を小刻みに振った。折り曲げた脚をもぞもぞと動かして、女から遠ざかろうとするように、背後はもう壁であるにもかか | わらず、その壁に己を押しつけた。逃げようとする動きのようでいて、視線は女に釘付けのまま。唇が動く。が、今度は声は伴わな | い。
| 女は、新見に目をやり、ぼうっとしていた。新見は新見で、動いているわりには、何の意思もない顔をしていた。
| 新見の動きが、はたと止まって、完全に停止した空間が、二人の間に現出した。
| (けったいな人に惚れてしもうた………。)
| 頭の中がくらりとして、女は畳に片手をついた。
| (なあんも見えへん、なあんも……。)
| 迷い込んだ霧中の深さに、途方に暮れた。
| 「女……。」
| 新見の声に、ぱっと顔を上げてはみたものの、もう何らの期待感も女の目にはない。
| 沈黙が続いた。結局、新見は何も言わない。さっきの、女、という呟きにしても、あまりにも低くくぐもった声で、待ち受けていた | わけでもない人間の耳には、到底聞き分けることなどできていなかった。
| 何も伝えることができない。できないのか、しないのかは、さして問題ではなかった。いずれにしろ女には、新見錦という男につい | て、この先も何も、距離を縮めうるような事実を知らされることはないのだろうという、物狂おしいまでの予感がある。
| 項垂れる女の纏う空気に、色や形があるとでもいうふうに、それをはっきり認めてでもいるようなおかしな目つきをして、新見錦は、 | 相変わらず背後の壁に自らを押しつけるようにしていた。
| (俺が殺した女だ……。)
| 不具者のような不格好な動きで壁伝いに立ちあがり、よろめき歩く。
| 「錦はんっ……。」
| 女は思考を止めたような、何の意味も持たないような声を出す。
| 「どこ行くん?どこ行くん?」
| 膝を躙(にじ)る女の動きに、新見は一分たりとも視線の先を分けない。
| (確かに殺した……。)
| 何も握っていないはずの両手に、彼は刀の質量を覚えた。ほとんど切っ先を畳に預けて、それでもなお重いと感じ、腕の軋みが体の | 底から這い上がって来るのを聞くようだった。
| 「殺した……。」
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