「居場所」


「好きな女ができたって?」
猫が這い入るように、気づけば縁側に現れていた平山五郎の発した言葉に、新見錦は重たい瞼をうっすら開ける。
「吉栄に聞いたんだ。」
「ああ……。」
心根の良い娘らしい、明るい笑顔をいつも絶やさぬ京猫を、新見はぼんやり思い浮かべる。
「ああ、って何だ、本気か?」
「何で。」
「何でって……。」
「ああ、っていうのは、そういうんじゃない……。」
物憂げに背を向ける新見に、平山は草履を引っかけたままの足を上げ、四つん這いににじり寄る。
「お前がさ、何夜も連続して同じ女を呼んだって聞いたからよ、そりゃめでてーことだと思ってよ。常々、人様を見るのにあんな死
んだような目もねえもんだと思ってたが、ようやっと……」
平山の話の途中で、新見は起き上がる。
「……お前のツラを見間違えるわけもねえと思うんでよ。」
「同じ女を呼んだは呼んだが。」
「おお。」
「あんたと吉栄みたいんじゃねえ。」
「……恋仲じゃあねえって?」
「うん……。」
と曖昧に声を漏らし、新見は立ち上がる。
「どっか行くのか。」
平山の問いに、少し振り向き、白く細い顎を覗かせた。だがしかし、不健康そうな色をした唇は結局何を紡ぐこともなく、どこか侘
しく揺れる薄墨色(うすずみいろ)の髪に遮られ、見えなくなり、新見錦は、障子を開けると開けたっきり、どこかへ行ってしまっ
た。

その女のことが、好きになったわけではない。美しい女ではあったが、その女自身に対し個別の感情を抱くには、新見にとってその
顔は記憶の底に刻みつけられたものであり過ぎた。
「錦はんは……うちのこと気に入ってくれはったんと、違うの。」
水底に沈む闇のように、常に揺らいで見える目見(まみ)を、女は新見に注いでいる。三味線の撥(ばち)を持った手が、正座した
膝の上で絶えず、白蛇のように蠢いている。
「お話もせえへんの?うち……錦はんの邪魔にならんようにと思って、ずうっと静かに三味弾いてたんやけど……。」
応(いら)えはない。代わりに、男の陰気な視線が向けられる。それはもう何度も感じたことのある、絡みついてくるような視線。
最初の頃、女はそれに熱が籠っているように感じて、耳たぶまで真っ赤にして、うつむいたりしていたものだった。けれども今では
それが、何ら自身に対しての思い入れを示すものではないことを知っていたし、それどころか、新見錦という男にとって、自分が少
しでも価値のある人間だとは、到底思えないようになっていた。
「何でうちのこと呼ぶん?」
首をくねらし、女は男に背を向ける。
「一緒にいたいん……?」
窓外からの喧噪にもかかわらず、ピンと張り渡された琴線を掻き鳴らすように、女の声は鋭く響いた。
けれども、応えはないのだった。切ない思いに、眉間に暗い陰を落としつつ、女は正座していた足を崩し、新見錦に向き直る。そこ
には鬱々たる暗い目が、まるで何も、彼と彼女との間には、何も起こりはしなかったかのような変化の無さで、ただ凝然と、木偶坊
のようにして、据えられてあるのだった。
「何で、うちのこと見るん……。」
ううん、と女は首を振った。
「見えてへん、錦はんの目、なあんも見えてへん。変な目……なあ、見えてる……?」
小首を傾げる。力を込めすぎ、少し広がった鼻の穴。
「黙れ。」
「黙るけど……。」
「黙れ……。」
女は悲しげに項垂れる。三味線の一の糸を、指で鋭く弾(はじ)いた。びい…ん、と濁った低音が室内に反響する、
女の、つるりとした横向きの顔。触れれば吸いついてきそうな柔肌。透きとおった産毛の見える目元。密集した睫毛の描きだす、くっ
きりと深い闇。少し突き出して見える唇は厚ぼったく、朝露を滴らせる椿の花のように真っ赤だ。
新見錦の、生気のない目が、そんな女の横顔を捉えている内に一瞬、反応らしい反応を見せて、その丸くて暗い二つの沼底にも似た
眼(まなこ)に、鋭い光を走らせた。あ、としか女の耳には届かなかったが、何か口走りさえした。
「え?」
「…………。」
「なんか……?」
新見は、頭を小刻みに振った。折り曲げた脚をもぞもぞと動かして、女から遠ざかろうとするように、背後はもう壁であるにもかか
わらず、その壁に己を押しつけた。逃げようとする動きのようでいて、視線は女に釘付けのまま。唇が動く。が、今度は声は伴わな
い。
女は、新見に目をやり、ぼうっとしていた。新見は新見で、動いているわりには、何の意思もない顔をしていた。
新見の動きが、はたと止まって、完全に停止した空間が、二人の間に現出した。
(けったいな人に惚れてしもうた………。)
頭の中がくらりとして、女は畳に片手をついた。
(なあんも見えへん、なあんも……。)
迷い込んだ霧中の深さに、途方に暮れた。
「女……。」
新見の声に、ぱっと顔を上げてはみたものの、もう何らの期待感も女の目にはない。
沈黙が続いた。結局、新見は何も言わない。さっきの、女、という呟きにしても、あまりにも低くくぐもった声で、待ち受けていた
わけでもない人間の耳には、到底聞き分けることなどできていなかった。
何も伝えることができない。できないのか、しないのかは、さして問題ではなかった。いずれにしろ女には、新見錦という男につい
て、この先も何も、距離を縮めうるような事実を知らされることはないのだろうという、物狂おしいまでの予感がある。
項垂れる女の纏う空気に、色や形があるとでもいうふうに、それをはっきり認めてでもいるようなおかしな目つきをして、新見錦は、
相変わらず背後の壁に自らを押しつけるようにしていた。
(俺が殺した女だ……。)
不具者のような不格好な動きで壁伝いに立ちあがり、よろめき歩く。
「錦はんっ……。」
女は思考を止めたような、何の意味も持たないような声を出す。
「どこ行くん?どこ行くん?」
膝を躙(にじ)る女の動きに、新見は一分たりとも視線の先を分けない。
(確かに殺した……。)
何も握っていないはずの両手に、彼は刀の質量を覚えた。ほとんど切っ先を畳に預けて、それでもなお重いと感じ、腕の軋みが体の
底から這い上がって来るのを聞くようだった。
「殺した……。」
「どこ行くん?」
視線も、声も、思いも、まるで別の方角を向いてしまっている。一つの部屋に、二人きりでいる若い男女とはとても思われない。雄
であり、雌であり、しかし彼らは交わり方を知らない、別種の生き物であるかのようだった。

まだ干されていない杯に、酒を注(つ)ぎ足す。
「だからさ、先生。」
銚子の口を上向けると、戻り切らなかった酒がこぼれて、平山の骨張った細長い指を濡らした。
「あいつはしばらく放っといてやったらいいんじゃねえかな?」
「会わねえってことか?」
いっぱいになった杯に顔を近づけ、芹沢鴨は揺らぐ液面を覗き込む。
「会ったっていいけど……あいつはあんたにゃ、自分から会いに行きますからねえ。」
「お前のとこにも行くだろう。お前は、あいつを甘やかすからな。あれは頭を撫でてもらいたがるんだ。」
「俺とあんたとじゃまったく……が、まあ俺も、そうだな、いやあいつが、もう少しのめり込んでくれたらと思うんですがね、堅気
な人間とは言わねえまでもさ、何て言うのかな、あいつに前を向かせるようなね。」
「親かよ。」
低く笑い、酒に口を付ける芹沢の堅牢な横顔を、平山は軽く眇めた眼で見やる。
「あいつは若いんだからさあ、芹沢さん。」
「そうだな。」
「好きにやらせてやりゃいい、なんて言わねえでくださいよ。若いったってもう半ばは過ぎてんだから、人生って道のりのさ。」
「分かってるさ。」
「……前から訊いてみたかったんだけど……。」
「何だよ。」
「あんたはあいつのことをどう思ってんのかなって。」
膝先に置かれた銚子に、芹沢は丸太のように太い腕を伸ばす。ひょいと取り上げ、その口に、右目をくっつけんばかりにする。
「ねえじゃねえか。」
「分かってんでしょ?」
自分のそばにあって手を付けていなかった銚子を、平山は素早く芹沢の前に置いた。
「あいつはあんたに……夢中なんだよ、馬鹿みてえに、あんた以外にゃひでえめくらでさ……!」
芹沢は、置かれた銚子に手を伸ばし、奇妙に思えるほどの重厚さで持ち上げ、傾けると、そのまま直に口を付けて飲んだ。二度ほど
喉仏を上下させると、顎を引き、今度は軽い手つきで、畳に置き戻す。
「分かってんでしょ?」
平山の声には、どこかなじるような響きがある。
「あんたは気味悪いくらい人の心を読みますよ。あんたの一言で正道に戻った者もいりゃ、頭から無道に突っ込んでいった奴もいる。
あんたが、気づいてないなんてことはない!」
「……お前はあいつが、毒気のねえ、かわいい、優しい女と一緒になりゃいいと思ってんだろ。」
「…………。」
「そうさな、俺も、そうなったらなったで別に構わねえけど。」
足を崩し、背後の畳に手を付いて芹沢は天井を見上げた。けどよ、と眉間に一筋の皺を寄せ、若干鼻にかかった声で言う。
「あいつは、移り気じゃねえんだ。」
平山が、下を向く。一瞬、二人は黙り込んだ。
左手に、握り潰すように持っていた杯を、芹沢は畳に擦(こす)りつけるようにしながら手放すと、大きな体を揺すぶり、胡坐を組
み直した。
「結果は知らねえさ。ただ……。」
低めた声が部屋の空気を震わすように響いて、思わず平山は左から右へ、天井伝いに視線を巡らす。
「ただ……いいさ、あいつを放っといてやりゃいいんだろう?」
決して投げやりな調子ではなかったし、平山もそう感じたわけではなかった。彼の胸に、痛みというにも鈍い重みが走ったのは、彼
にしても芹沢にしても、新見錦という男に関して、到底そうした、人としてはありふれているはずの表情や、仕草や、まして建設的
な、持続的な営みとやらいうものに、己を翻して置くなどということがあり得るとは、実のところそう信じてはいないし、あるいは
まったく、信じてはいないからであった。
伏し目がちに、平山は自虐的とも見える歪みを、口元に生じさせて、笑った。
「あいつは、何だってああなんでしょうね……俺の言えたこっちゃねえが、世間様から見りゃ……。」
額と髪との境を、ぐぐっと押さえてうつむく。
「情ってやつですかね。結局はあいつだってその求むところは胸ん中ひとつで決めてんでしょうよ。何が欲しいだ、嫌だ……。俺だっ
てね、多分……分かっちゃいるんだけど、あいつに情がいっちまってんですよ。何でかな、ほっとけねえ、どうにも……。多分世
間のね、忍耐力のある、枠ん中でも平気で息してられるような連中は、情だけで生きちゃいないんでしょうね。頭ん中で考えて、嫌
なもんでもぎゅーっと抱いて、好いたもんでも振り捨てて、生きてってんでしょうね。それが……!人並み、ってやつなんでしょう
ね……。ねえ先生、俺らは、外れてんじゃないですか、分かってんですよ。あいつと俺と先生とで、そんな変わりゃしねえ。先生だっ
てね、そんな、変わりゃしねえんですよ。ふふん、だってほら、おんなじ場所に……いるじゃねえですか。」
広げた手で、平山は畳をこすった。
「あんたはさ、先生、生まれも育ちもよくて、頭の出来もよっぽどよくって、幕府の役人相手にだって論陣張れるほどでさ。それな
のにあんたはここにいるんだもんな、ここに……。生き方がおんなじなんだ。あほうの……生き方ですよ。おぎゃあと生まれた赤ん
坊がそのまんま、気の向く方に、気の向く方に……俺もあんたも、新見も。だから俺ぁ……何様なんだろうね。嫌だね。新見の顔の
向きを、無理やり変えてやろうなんざ。」
芹沢は、もうずっと長いこと頤(おとがい)を上げて、無防備に喉仏を晒している。
「あんたにゃ梅さん、俺には吉栄……。」
「…………。」
「女は子を産む。淀みに、光が射す様な……。結局は情じゃねえかと、畜生かよと、ああその通り……。しかも新見は、移り気じゃ
ねえんですよね、せんせ?へへ、それでも、教えてやりたくてね、あいつがあんまり淀みに浸りきった顔してやがるから、まるでそ
こしか生きる場所を知らねえような顔をしてやがるから、教えてやりたくってね……人並みってやつを、俺の知ってる限りの、人並
みってやつをね、へっへ……。」
平山の声が、一人芝居でもしているように響いていた部屋が、しんと静まり返る。芹沢が、酒を呷り出した。衣の擦れ合う音、器物
の互いに触れ合う音。喉を鳴らす音が、何か意を含んでいるかの如く、響いた。
「無駄でいいんです。」
拗ねた子どものように、平山は胡坐を掻く膝を抱えると、項垂れた。
「思いついただけでさ、ただ急に、ぽっとね。それだけでさ……。」
へへっと笑い、肩を揺らす。薄い唇が両端を吊り上げて、三日月型の闇に開いた。
「目くそが、鼻くそを憐れむようなもんですかね。」
そう漏らす平山の細い黒髪に覆われた頭を、芹沢は捻じ曲げた首の上から、見下ろしていた。

障子越しに、二人の男がやり取りしている。
「構わねえよ。」
そのどっしりとした体つきからすればいささか高い、しなやかな青年を思わせる美声。
「実際、先客はいるんだ。」
その手が動き、何かまさぐるような音が立つ。
「しかし先生、同じ調子では……以前は……。」
「重助。」
美声の主は、芹沢。彼は室内に一人ではなく、その巨躯を、目鼻の陰も妖しげな、色白の女の上に置いている。
「変わったんだ。」
女の無抵抗の四肢を、芹沢は弄ぶ。
「いや、今の間だけだ。」
「はあ……。」
「俺も大概てめえ勝手だ。二度三度そういうことがあったって、不思議じゃねえだろ。」
「……分かりました。」
平間重助。芹沢家代々に仕える家系に生まれた、決して目立つことのない、しかしあまり揺らぐことのない、感情を潜めた声を持つ
男。彼は、そっと膝を上げる。
「新見はん……。」
突として、気だるげな女の声が、男たちの耳底を打って震えた。
芹沢の脇の下から、するりと冷たい質感の女の腕が伸びて、くねくねと、衣越しに芹沢に纏いつく。それは、障子越しの廊下にて、
中腰に立つ平間の目には見えない。
「寂しいんちゃうの……。」
女の名は、梅という。他人の情婦であったものを、芹沢が奪った。
「気にすることでもねえ……。」
「前は入れてあげてたのに。」
「うるせえな……。」
絡みついてくる腕を、芹沢は強引に剥がした。梅の身体を畳に縫い止め、一瞬、雄の気を露わにする。はっとなまめく梅の顔から、
しかし、芹沢は視線を逸らせた。噛み合わない呼吸が、交錯する。
「先生。」
平間の声が、滞留しかけていた部屋の空気をさっと散らした。
「ようございますか?」
「ああ……構わねえよ。」
芹沢の意識が、ぼんやりとした感じで表へ向く。離れていく身体を、梅はぽかんとした顔で見ている。
気遣わしげに遠ざかっていく平間の気配。それがふつりと途絶え、部屋は静寂の湖底に沈む。
「十日か……。」
青年のような芹沢の声が、波紋を落とす。
「もういいだろう。」
「……何のこと?」
梅が問う。それは澄み渡った秋虫の声のように響いた。が、それに芹沢が、包み込む草葉のざわめきの如く、答えてやることはなかっ
たのである。

十日と三日が過ぎていた。芹沢が、平山の言を容れて、新見とろくに顔を合わせないようになってから、である。もういいだろう、
と芹沢は思っている。十日過ぎたのだから、もういいだろう、と。
「何の効き目もありゃしねえ。」
「……は?」
「なあ近藤君。」
八木邸の庭を見下ろして、芹沢は立つ。湿気を含んだ草木の濃い香りが、鼻孔を塞ぐ。
「雨になりそうだな。」
「あっ、そうですな。」
「……近藤君、君は頭を使って生きているか?」
「は?頭?……そのう……。」
「君の隣の男の目が、さっきから俺を獣(けだもの)呼ばわりしてやがるのよ。」
「えっ、そ、それはその、……歳っ……!」
「近藤さん。」
注目を浴びた男は、まったく物怖じせず口を開く。近藤に比べれば半分ほどしかないような小さな白面に、険しい影を落としている。
「そのことで、あんたは言わなきゃならねえことがあるんでしょうが。」
「う、む……。」
近藤はたじろぐ。
「何だ、近藤君。」
「いや、その……。」
「いいや分かるぞ。つまりこの俺に、分別を持てと、言いにきたんだろう。」
「分別というと、また……!」
慌てて手を振る近藤に、芹沢は半ば覆いかぶさるように巨体を寄せる。
「分別だ、なあ、近藤君。この世間に生きるというのは、分別を身につけるということだ。それができない野郎は世間からはぐれち
まうのさ……そういった奴らは小さい、“世間みてえなもん”をつくる。そこにゃあそこの習いってもんがあって、その習いに則っ
て奴らは生きてるが、そりゃあくまでも“世間みてえなもん”で、本物の世間様からすりゃ奴らは外道だ。だから、教えてくれるん
だろ……?“天下の公道”を歩く人間は、分別があって我慢強い。だから、蔑むべき対象にも手を差し伸べて、頭ん中を整理して真っ
当なもんにしてやって、己らの歩む四方の景観を、ますます綺麗なもんにしてやろうと言うんだろう?」
「芹沢先生……。」
「芹沢さん!」
近藤の横っ腹を突く勢いで、白面の青年は近藤と芹沢の間に割って入る。
「あんたにとっちゃあ、近藤さんや俺らの抱く野望なんざ、そもそも野望とするに値しねえ、どうしてそんなもんを目指すのかと首
を捻りたくなるような代物(しろもん)だろうが、俺らは必死なんでえ……。そのためにゃ貧苦も恥辱も、奥歯噛み締めて乗り越え
てってやる。てめえ、……あんた、いいか、あんたのやることが、その一切を歯牙にかけない暴慢が、無体が、その、俺らの必死で
切り開いた道を敢え無く閉ざしちまうってんなら、俺は……少なくとも俺は、あんたを許さねえから……!」
「……ははははは。」
「何で笑う!?」
「お前のその気概……買えるものなら買いてえな。」
機嫌よく言う芹沢に、白面の男は少し呑まれた顔をする。が、それは一瞬のことだ。男の気概は並大抵ではなく、ほとんど痼疾の如
き執念とでも言うべきものであった。男は、必死の形相で芹沢を睨み上げ、歯軋りして言う。
「あんたにゃ力がある……芹沢さん、何であんたはその志のために人を率いて動かねえ。十分な力が、あんたにゃあるのに。」
「志?」
「ここは、あんたの本当にいたい場所とは違うだろ。小指の先ほどだって、重なりゃしねえだろう。」
「ははは。」
笑い声、というよりは単に乾いた音(ね)のようなものが、芹沢の口から漏れる。
「そんな大層な男に見えるかよ。」
「今は、獣(けだもの)だ……。」
「……変わらねえよ。もう駄目さ。」
ひどく優しげに、芹沢は目を細める。
青年のまっ白い眉間に、険しい皺が刻まれた。
「邪魔になるか?排除するか?」
優しげであった芹沢の目縁(まぶち)が、歪む。苦痛を快楽とするような、転倒した感覚を持つ者のみが浮かべ得る、それは狂気の
色だった。青年は、背に粟(あわ)が立つのを感じた。思わず、退きそうになる。が、己を叱咤し、むしろ踏み込んでゆく覚悟に漲っ
た目を、芹沢へとぶつける。
青年が己へと向けた叱咤……当然ながら、それは彼の内に留まるはずのものだった。ところが芹沢は、青年の目と、その姿を見澄ま
しただけで、直観的にそれを、ほとんど鼓膜を揺るがせたもののように、“知った”のであった。
「おうおう……。」
歪みは、芹沢の顔全体を覆い尽くす。嘲っているような、笑っているような、蔑んで、だが羨んでもいるような、そんな顔。
「頭から火が出そうだな。今この場で抜刀して、万一俺を刺殺せたとして、組内に治安がもたらされるわけではないもんな。大義名
分、人手がいるな。物事は順序よく、ここぞという時を見極めねばな。」
「芹沢さん!」
二人の男のやり取りを、半ば自失の態(てい)で打ち眺めていた近藤が、大声を上げる。
「な、何を、恐ろしいことを!」
「……近藤君。」
打って変わって、芹沢はどこぞの学者先生のような顔になる。
「君は本当に、片田舎の道場主といった顔だな。分別のある……それだけの顔だな。」
近藤は、ぽかんとした。元から詰まった眉間(まゆあい)から当惑の色が滲み出し、野暮ったい身体全体を押し包む。
「俺にはな、それだけがないんだよ。」
近藤の肩に手を置き、半ば支えの台のようにして、芹沢はごそりと身体を動かす。背後に回す形になった、白い膚(はだえ)の青年
に、「土方君。」と呼びかける。
「それだけがないんだよ。それだけがないために、俺はこんなところにいるのさ。ふっふっ……はははは。」
芹沢の哄笑が、空に響く。
いつの間にか弱い雨が降り出し、庭の濃緑に、打ち掛かり始めていた。

自室へと戻って来た芹沢を、待ち受けている男がいた。部屋の出入りする側、すなわち芹沢の立ち現れた側に背を向けて、寒いのか
と怪しむほどに丸く、小さくなっている。
待っていた、という構えではない。何しろ、寝ている。だが芹沢には分かる。いつも大酔しては眠りこけるこの部屋、彼の臭いに満
たされたこの部屋で、男は芹沢を待っていた。
「新見よ。」
掴み上げて揺すぶれば、ばらけてしまいそうな細い身体。
その細い身体に、芹沢は己を被せた。新見、と耳元で呼び、口付ける。相手の顔の、どことも分からぬ場所に、何度も何度も口付け
た。
ああ、と声が漏れた。芹沢ではない。
「ははは。」
芹沢は、大仰に笑った。
「起きてたな。」
また、口付けた。今度は、新見の方でもむしゃぶりついてくる。いつの間にか、二人の身体は激していた。
獣、と言っていい。被服など、初めから持っていなかったかのようだ。二個の裸体が絡み合い、足で掻き合い、爪で互いを傷つけ合っ
た。唾液と汗と、精液とが混じり合って、部屋は淫靡に濡れた。
あっという間だった。芹沢がこの部屋に現われ、新見と絡み合うまで、あっという間だった。二人の男の間には、それしかなかった。
会えば、交わった。最初の頃は、一見、普通の関係だった。他の誰もがそうであるように、ただ言葉だけで混じり合い、時に心を
通わせる、そうした関係であると、見えていた。だが違う、と芹沢は今にして思う。あの当時から、自分と新見は身体を繋げ合って
いた、と。
(新見が、そういう目で俺を見ていたからだ。)
そして芹沢は、拒まない。快感を分かち合うだけの行為を、拒む頭が彼にはなかった。
新見が求めた。芹沢は、受け入れた。今でも新見が求めているとなれば、やはり拒む理由はないのだった。
(しようがねえだろう。)
新見の小振りな頭を、芹沢は己が胸板に押しつける。
(こいつには、俺しかねえんだ。)
平山の顔を、思い浮かべた。もういいだろう、と言うと、その顔はうつむいて笑った。
「新見。」
下肢を繋げ、新見の臓腑を突く。
「俺がいいのか?」
新見は、芹沢の身体にしがみついて離れない。あちこちを吸ったり舐めたりして、時に噛む。
芹沢は、ゆっくりと動いた。それは彼らしくない交わり方だった。
「芹沢さん。」
新見が、腰を揺らす。足りない、と言っている。
「話をしてるんだ。」
芹沢は笑った。
「お前の話だ。お前に、人並みってやつを見せてやりてえと、平山が言ってた。」
「人並み……。」
「だがお前は、俺しか見ようとしねえ。」
新見の両頬を、芹沢は左右の手でぴったりと包み込んだ。その温もりが心地よいのか、新見はああ、と鼻に抜けるような声を漏らし
て目を閉じた。芹沢さん、芹沢さん、と白い歯の隙間から、何度も呼びかけてくる。その唇を芹沢は啄み、ちゅっと音を立てて吸っ
た。新見の舌が、離れて行く芹沢の唇を舐めた。
「話を、してるんだ。」
新見の口を、芹沢は手で塞いだ。その手をまた、新見は舐める。うっすらと、目蓋を開く。
話をしている、と芹沢は繰り返した。新見の喉首を掴み、いささか痛みを感じるように力を込め、視線を合わせる。
「新見。」
沈黙が流れた。新見の目には、正気が宿っているようだった。だがいっかな、口が動かない。
笑いながら、芹沢は首を振った。ひどく優しい笑顔だった。新見が、目を細める。
「何が欲しい?」
優しい声で、芹沢は尋ねた。
「あんたが欲しい」
新見は、答えた。
ふっと、芹沢は先のことを考えた。新見と己の、明日、である。途端、見通しがなくなった。眼球に、けぶったものが張り付いた。
「明日、明後日、明々後日。」
暗い声で、謡うように芹沢は言った。
「二年後、三年後、六年後。」
知らねえよ、と新見が言った。
「知らねえよ。」
明日、あんたがいればいい。
「明日か。」
「明日だ。」
それだけか、と芹沢は笑った。いいや、今この時だけだ、と新見は首を振りながら思った。

縁側に、影が差した。細長くてしなやかで、どこか色のある動きをする影……。新見よお、とその影が言った。
部屋の中に横たえていた身体をぱっと起こし、新見はその影を呼ばわった。
「平山さん!」
「でけえ声だ。」
平山の声が、笑った。
のそのそと部屋に這い入ってきた平山からは、陽と草木の匂いがした。さぞ着物は温まっているだろうと、新見は青白い腕を伸ばし
た。腰の辺りの弛みを掴み、引っ張る。よせよせ、と言いながら、平山はされるに任せる。
「一緒に、壬生寺の辺りまで行ってみねえかと思ってよ。」
行ったら何かあるのか、という顔を新見はする。いいや、と平山は首を振る。
「行ってみねえかと、思っただけさ。」
しばらく黙り込んでいてから、新見は小さく一つきり、点頭した。

「いい天気だなあ。」
平山は、跳ねるように行く。時折り、新見を振り返っては、笑った。新見はそのたびに、平山さん、と呼びかけたそうな顔をしてい
た。
壬生寺の境内に、入る。子供が三人、遊んでいた。
ざり、ざり、と砂が鳴る。新見は平山の後ろ姿だけを見ていた。何度めか、その尖った顎がこちらを向いた。
「新見。」
頭上に広がる空のように、その声はまばゆく、純であった。
「俺に兄弟はいねえんだがよ、いや正確には、いた記憶はねえんだがよ、弟がいりゃあ、お前みたいにかわゆく思うのかね。」
新見は、首を振った。否定するのではない。分からない。ぼんやりとした顔で、平山の言葉の続きを求めている。
「お前にゃ兄弟はいるのか?」
新見の首が、横に振られる。
「兄貴ってな、こんなかね?」
自分の顔を、平山は指す。新見の首は、また横に振られる。分からねえよな、と笑いながら、平山はざり、ざり、と砂を鳴らす。
「余計なことをしちまった。お前は、俺の弟じゃねえもんな……。」
「平山さん。」
今度こそ、新見はその名を呼んだ。
「何だ、甘えるんじゃねえや……。」
「平山さん。」
名を呼ばれれば、用があるのかと、普通は思う。それは言葉にして伝えられるものだと、かつては平山も待ったものだ。だがそう回
数を重ねない内に、平山は悟った。とんだ横着者だと思いながら、己を見上げてくる新見の頭に手を置いた。ひんやりとした髪だった
と、覚えている。
「いいよ、いいよ。」
なるほど、用はあるのかもしれない。が、それはこちらが感じ取るだけのことだ。
(言葉を知らねえわけでもねえのに。)
横着者、ではないのだ。さらに回数を重ねた後に、思った。
(問答をするのが、怖いのか。)
問答をすれば、答えが出てくる。それが怖いのか、嫌なのか、と思った。
(多分、そうだ。)
かつてのように、平山は新見の頭に手を置いた。砂が鳴る。頭上で、風が鳴る。
すべては、平山が感じ取るだけのことだ。新見は、何も言わない。自分から問うてくるということが、ない。馬鹿だな、と平山は思
う。
(お前を怖がらせることなんざ、言わねえよ。)
新見の頭を、何度も撫でてやる。
俺はな、と平山は言った。
「お前の兄貴のつもりさ。」
するりと下ろした手を、新見の腕に絡めた。引いて、歩く。
「親兄弟の血の繋がりは、切っても切れねえ。そうだろう?だからさ、俺にとっちゃ、新見錦って男の存在はどこまでも自然にくっ
ついてくるもんだと、そう思ってんだがな。」
平山の手と、新見の手が、睦び合う。
「安心しろよ。」
握る手に、平山は力を込めた。
「平山さん……。」
「先生もだ。」
新見の身体が、硬くなる。その手の表面がすっと乾き、己から離れていこうとするのを、平山はいささか荒く掴み直した。しばらく
黙って、二人は歩いた。
お前は馬鹿だ、と平山は言ってやりたかった。男に焦がれて、どうするのか、と。
(だがしょうがねえ。ありゃあ、いい男だもの……!)
芹沢にとっても、新見錦という男はどこまでも自然にくっついてくる存在だ、と平山は言った。それは、そうだ。芹沢は、拒まない。
与えられたものを受け入れる。望まれたものを、与える。新見は、芹沢とともにありたいのだ。彼を、見ていたいのだ。その身体
に触れていたいのだ。芹沢は、どこまでも許すだろう。
そうか、と平山は思った。芹沢には、自我がないのだ。だからこそ、果てがないのだ。千の口が彼を善人だと評すれば善人の顔をし
てみせ、万の目が彼を悪党だと蔑めば悪党の面をしてみせる。誰かにとっての芹沢鴨という男、を常に演じ続けている。
(因果なお人よ。)
笑ってしまう。
そして平山は、新見のことを思う。
「お前は、芹沢さんが好きで堪らないんだな。」
空が、青い。
「それだけなんだな。」
風が鳴っている。子供らの笑い声を、優しく包み込んで鳴っている。
「他に、ないのか。」
握り込んだ手を、強く揺さぶった。沈黙が落ちる。再度揺さぶり、そして、諦めた。
新見錦という男にとって、自我は、芹沢鴨という男を通してのみ現れる。
分かっていたことだった。ただ、なぜ芹沢なのだろうと思うと、おかしかった。顔か、身体か、声か。洞(うろ)の深さに、魅せら
れたとでも言うのだろうか。何でだ、と尋ねた声が、悲愴、とでも呼ぶべき調子を帯びていて、平山は笑ってしまった。優しい声で、
問い直す。何でだ、どうして好きになった、一言でいい、教えてくれ。
「一言、くれたら、後は黙る。」
平山さん、とまるで少女のような高い声が聞こえて、はっとした。振り返ると、新見の顔が間近にあった。小さい顔で、幾分愚かし
げな表情をして、ぽつりと小さな唇から言葉を溢れさせた。
「あの人は、俺を拒まない。」
平山は、自分はいったいどんな表情をしているだろう、と思った。眉間にうっすら皺が寄っているだろう。鼻の脇にも寄っているか
もしれない。だが何といっても、瞳の奥に閃いたものは、新見にしか見えなかったろう。
「そうか……。」
新見の目に、それは彼を否定するように映らなかっただろうかと、少し心配した。
「そんな人は、あの人しかいないのかもな。」
新見は頷いた。常にない、しっかりとした頷き方だった。
「そうか。」
分かった、と平山も頷いた。何度も頷いた。
「分かった。」
しようがない、という言葉が、心に浮かんだ。それは深く、刻みつけられた。
笑うしかなかった。その言葉を吐く時、人は笑うしかないのである。心を、空(から)にさせる言葉だ。ある種、晴れ晴れとさせる。
だが違う、と蒼穹を見ながら平山は思う。このように、澄み渡った青さとは違うのだ。湿気がとぐろを巻く、青さなのだ。いまにも、
透明な筋が幾本も落ちてくるような。青いが、うすら寒い、いっそのこと、寒々しい。
「新見……。」
ゆるゆると掴んだ手を、平山は引いた。
「帰ろうか。」
この青空とは、違うのだ。平山は、悲しかった。どこまでいっても、自分達の上にこのような青空はないであろう、と思うと悲しかっ
た。
「平山さん。」
新見の頭が、肩口に寄った。
「平山さんには、吉栄がいる。」
平山の目が、丸くなる。まじまじと、新見の頭の頂を見ていた。
「そうだな……。」
ぼんやりとした顔で、前を見る。子供らの歌い騒ぐ声が、急に鼓膜を震わした。
ふっ、と平山は笑った。そうだな、と頷く。
「でも結局、俺はここにいるよ。ここにいて、いろいろやきもきしてんのさ。」
それきり、会話はなかった。遠くで、風が鳴っていた。ざり、ざり、と砂を踏む音が、どこまでも続くかのように、鳴っていた。





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