「ある日の動態」


昨日の昼頃から頭に重みがあり、家人に言いつけて早めに床を延べさせた。部屋に篭ってい
るのは直義にとり日常であったが、何もせず何も考えず、ただ横になっているだけというのはき
わめて不本意な状態だ。何事かしていなければ人は刻一刻と退化してゆく生き物である、とは彼
の常日頃抱く所感である。
過度の睡眠のため、今現在抱えている頭の重みが何のためであるのか、まだ安静にしているべき
なのかどうか判断がつかない。枕元にあった、まだ冷えていない白湯を一口喉に流し込む。立ち
上がろうとすると頭に鈍痛が走る。
「あ、御舎弟、まだ横になられていたほうが。」
「顔を洗いたい。俺は何でも潰すのは嫌でな。時間というのは元に戻らない。」
「手水をお持ちします。おい、誰か。」
やって来た若い男に細川和氏は手水の用意を命じた。
「さ、お待ちの間は腰を落ち着けになって。」
「縁に出よう。風が気持ちいいな。」
「秋の風ですな。」
直義をそこに落ち着かせることはあきらめ、和氏は相手の腕に直接は触れない程度に手を添えそ
の要望通りに室外へ足を運ばせた。サルスベリが薄紅色の花を楚々として開かせ、ギンモクセイ
が白い花を星のように咲き乱れさせて爽秋と呼ぶに相応しい香りを漂わせている。
板敷きの先の方まで出てきて、直義は目を細め小さく息をついた。運ばれてきた手水を見やり、
どこか億劫そうにする。和氏は心得た様子で盥にかかっていた手ぬぐいを水に浸し、しっかりと
絞ってから直義に渡した。
「さ、どうぞ。」
「うむ……。」
空に目を向けながら丁寧に、見ようによっては怠惰にゆっくりと額から頬、もしくは鼻から顎へ
と水分を含ませる。それにより直義の面立ちには鋭さが表れ、白皙は冴え渡って人としての温度
を感じさせないほどであった。
直義は飲み物を欲した。室内に置かれたままだった白湯を和氏は運んできた。
「先ほど、馬蹄の響きがしたな。俺が目を覚ました直後のことだ。」
「さようでございました。」
「兄者であろう。」
「よくお分かりで。」
「そんな気がしたのだ。」
白湯を受け取り一気に飲み干す。その横顔には憤りが潜んでいると和氏は直感した。果たしてそ
の通りであった。他人(ひと)からすればどこで感情を害したのか分からないが、直義の口吻に
は確かな非難めいた響き、ともすれば軽侮の調子が込められていた。
「外に出てばかりだな、あの男は。まるで子供だ。じっとしていることができないのだ。外に出
て汗を掻いて帰ってくる。それだけでいたって充実したような表情をしていることが俺には理解
できない。何が身についたというのだ?汗など流れてしまえば終わりだ。何も残らない。」
「ご兄弟とはいえ、お二人はまるで正反対でいらっしゃいますな。」
和氏は気遣わしげな表情を見せた。彼には、時折り直義が見せる実の兄に対して持つには正常と
は言いがたい何か、怒りと呼ぶには静か過ぎる、嫌悪と呼ぶほど突き放すこともできていない粘
り気のある言葉や表情に漠然とした不安を感じないではいられなかった。
「まったく違う位置に立っておる。血の繋がりはこれ以上なく近いというのに。……そういえば、
あの男はいつも俺を外に誘いたがるが。」
「はい、昨日から御舎弟の体調が優れないことをご存知で、それで見舞いの花でも摘んでこよう
かな、などと仰っておられました。」
「花か。まるで女子供のように優しげな発想だな。」
「どちらへ。」
「部屋におればあの男が来るのではないか。そちの屋敷へでも行こう。」
「まだお加減が万全ではないのですから……。」和氏の言葉は最後まで続かなかった。直義の背
中にはもう自分の声は届いていない。遠く高い空を飛んでいく鳥に、地上から呼びかけてもそれ
は無力という話だ。和氏はあきらめて、直義に従った。

夕刻近く、足利の屋敷に数頭の馬が乗り入れた。先頭の栗毛を御するのは足利高氏。若々しさ溢
れるふくよかな頬を赤く染め、どこか嬉しげな口元から弾んだ息を漏らしている。手綱を取る手
元を見やれば、この時期にはまだ早いと思われるサザンカの紅色の花弁が揺れていた。
「疲れたろう、休め!」
背後の家臣らに言ったか、飛び降りて背中を軽くしてやった馬に対して言ったか。ともかく当人
は元気いっぱいな様子で建物の中へと姿を消す。放たれた馬のくつわを駆け寄ってきた馬丁が慌
てて押さえる。
「やれやれ、あの方の体力は無尽蔵なんだろうか。」
「気持ちが尽きない、というのもあるだろうな。つまり弟君に対しての。」
「御舎弟はまだ寝ておられるのかな。」
「和氏殿は、さほどの心配はいらないと仰っていたな。弟と違って慎重な判断をなさる方がそう
言うのだから確かだろう。」
「憲顕、こら。」
「そうすると軽く体調を崩されたというくらいだろうから、もう起きてらっしゃるかもしれない。
何だ頼春、腕など組んで。似合わんぞ。」
「…………。」
二人は同年代の若者らしく、日常面からも親しい付き合いをしているのだろうことがその言動か
らも容易に察せられた。また足利兄弟のことを語る口調から、それほど上下の区別に対し、峻烈
たる意識を持っているわけでもないらしかった。
「我々も御舎弟のお見舞いに行こうか。」
「もちろんだ。」
愛馬の頭を撫で、憲顕は相手の提案に喜んで応じた。
しかしそうして彼らが立ち話をしていたところへ、たった今屋敷の奥に消えたばかりの高氏が、
不思議そうな面持ちで、てくてくと前のめりになって戻ってきた。手には振動を与えられて、少々
弱った様子のサザンカがしっかりと握られている。
「どうなさいました。」
頼春が尋ねた。
「直義がいない。和氏もいない。近習に聞いたら外に出て行った様子だと。」
「ならば我々細川の屋敷ではないでしょうか。あの御舎弟が、しかも病み上がりであちこち出歩
きになられるとはちと考えられませんからな。」
「うむ。私もそうと考えます。どうされますか。行かれますか。」
「行く!」
花を握った手で高氏は馬丁に合図した。桶に首を突っ込んで水を飲んでいる最中だった馬は無理
やりにくつわを上げられて少々暴れたが、高氏の柔らかな手を添えられて仕様のなさそうに首を
傾けた。「悪いな。もう少し頼むよ。」
ヒラリと馬の背にまたがる高氏に遅れじと、憲顕、頼春の二人もまたそれぞれの馬に駆け寄った。

連なる山々の頂上付近は、高氏の手に握られたサザンカが示すようにすでに秋の深まりを見せて
いる。日が傾き、しかもそれが時折り雲に隠されるとなると冷たい空気は麓にも下りてくる。さ
らに馬に乗って駆けていると体温は奪われ続け、彼らが置かれている状況は実質冬のようであっ
た。寒い、寒い、と頼春が青ざめた唇をぶつぶつ動かし言っているのに、憲顕も同意の笑みを漏
らす他ない。
細川の屋敷が見えてこようかという頃、先頭を行っていた高氏が突然「あっ。」と声をあげた。
後続の二人が視線を走らせてみれば若干道に突き出た木の枝を引っ掛けた様子である。
「若君。」
「いや、何でもない。サザンカがさ、だんだん元気がなくなっていくなあと思って見てたら……。
少し引っ掻いたけど、大丈夫だよ。」
左手を上げて顔にこすりつけているような仕草。それが後ろの二人からは腕の傷を舐めているよ
うに見えた。こちらにしっかり顔を向けようとしないのは決まりが悪いためと、前方不注意でま
た同じ失敗を繰り返さないためであろうと理解できる。
「色は鮮やかでしたが小振りでしたから、早く労わってやらねば参ってしまうかもしれませんね。」
清らかに五弁を開かせていたその花を、最初に目に留めたのは憲顕だった。他に先駆けて明るく
色づいている様に、初めて脂粉や紅をのせてはみたものの、どこかで異性を拒み続けている潔癖
な処女の姿を見たような気がした。
緩い坂を上りきったところで細川の屋敷が見えた。西側に小高い丘を背負っていることから、周
囲より一段濃い陰に覆われている。
門番達は早くから細川家の次男、細川頼春の姿を認めていた。主家のさらに上に位置する足利家
の御曹司をまったく見知らないわけではなかったが、先頭を駆けてくるにせよ、まさかその人物
がそうであるという頭はなかった。
「頼春様だ。他にお二人。ご同輩だろう。まったく千客万来する日だな。」
馬上から、まず彼らの前に降り立ったのは高氏だった。おや、と門番の一人はその顔を注視した。
見覚えがあったのと、その手の位置が半端に顔を隠していることを不審に思った。もう一人の
門番は、高氏の右手のサザンカを見て早いものだと軽い驚きの色を浮かべていた。
高氏はといえば、まるでその視界には何も映じていないかの如く、門番達の脇を抜けると細川邸
に入り込んだ。
「あっ、お待ちを……!」
あまりに迷いのない動きに、止める機を逸した門番らは慌てて振り返った。その肩に、追いつい
てきた頼春がポンと手を乗せる。
「あっ、頼春様。あの方は。」
「足利高氏様だよ。」
「えっ。」
「直義様はいらっしゃっているんだろう?」
「は、はい。あっ、これは上杉様の……。」
「邪魔するよ。」
頼春、次いで上杉憲顕がまるでねぎらうように門番達の肩に触れていった。ここまで手綱を握り
続けてきた彼らの手は、氷のように冷たかった。

屋敷に上がりこんで最初に出くわした端た女に、足利高氏は間髪いれず弟の居所を尋ねた。洗濯
するためであるのか両手一杯に着物を抱え込んでいた若い女は不意を突かれてすぐには答えられ
なかったものの、覚えのあることだけに黒い目はやがて落ち着きを取り戻した。
「直義様というのは、あの、足利直義様のことですね?」
「そうだ。」
「お厨(くりや)で飲み物と、昼頃には軽いお食事を用意しておりました。和氏様のお部屋に運
ばれていったと思います。あの、ところで貴方様はどなたでしょう。」
「足利高氏様だ。」と答えたのはやはり後からやって来た細川頼春だった。彼と上杉憲顕の姿が
見えた時にはまたやはり高氏は端た女のそばを通り過ぎていた。和氏の部屋の位置なら彼は聞か
ずとも知っていた。
「頼春、憲顕、お前達、来なくていいぞ!」
あっという間に高氏の姿は見えなくなり、二人の側近は目の前に壁でも設けられたようにしばら
く足踏みしていた。高氏の残していった言葉は実質的な命令だった。しばらくして、近くまでは
行ってみようと二人は廊下を進んだ。
細川和氏は細川家の長子である。当然ながらその居室は環境のよい位置にある。南に向いている
と同時に夏、少しでも暑くないようにと落葉樹の植わった中庭にも面している。といっても武家
の屋敷であるから整然と人手の行き届いた庭園などはない。木陰として必要な程度の木々を除い
て緑は取り払われ、言うなれば運動場のようになっている。矢を射る的が三つ、並んでいる。
その中庭をぐるりと囲む廊下へ出てきた二人は、すでに辺りに夜の気配が満ちており、東方の空
にはまだうっすらとではあるが月が姿を現していることに驚き、日没は確実に早まり冬が近づい
ていることを実感した。
前方から人影が近づいてきた。何やら背後を気にしながら、こちらに向かってやってくる。
「兄者。」
「頼春か。憲顕殿も。若君に従ってきたのだな。」
「兄者の部屋に行かれて……。どうやら兄者も追い出されましたか。御舎弟はいらっしゃるので
すか?」
「うん。今、二人で話されているよ。」
「サザンカはどうです。」と憲顕が尋ねた。「しゃん、としてましたか?」
「サザンカ?ああ、若君の手に握られていたのがそういえば……。いや、ちょっと萎んでいて分
からなかったな。」
「そうですか……。ところで御舎弟のお体の調子はもうよろしいのでしょうか。」
「ああ、それは大丈夫。軽い食事をお出ししたが、まあ大体召し上がっておられた。その後は黙々
と書見を。しかし、どうするかな。お二人の話がいつ終わるか分からない。お泊めした方がい
いんだろうか。少なくとも足利に使いはやった方がいいんだろうな。」
「私が小者に言ってきましょう。ついでに食事の用意もさせますよ。腹が減った。」
「なら、我々は部屋で待っているとするか。頼春、お前の部屋を借りるぞ。さ、憲顕殿、参られ
い。」
「あの、私も屋敷に言付けを願いたいのですが。」
「おお、そうだ。頼春。」
すでにその場を去りかけていた弟を、和氏は呼び止めた。「上杉家にも同じような伝言を。」
「憲顕は大事にされてますからなあ。一晩放っておいてどんな騒ぎになるかも見てみたい気がす
る。」
「こら、そんなことを言わずに、ちゃんと出しておくんだぞ。」
「分かっております。」
くすり、と頼春は笑みを浮かべた。その口元には彼独特の人を食ったような感じがあり、和氏は
言葉でもって咎めるかわりに一つ短く嘆息をついた。

細川和氏の部屋に乗り込んできた高氏の頭には、そもそもの事の発端はあまり記憶されておらず、
その右手のサザンカの存在にも十分の注意が払われていたとは言いがたい。むしろ惰性で握ら
れていただけであって、いつかの時点からはもうすっかり意識の外(ほか)、忘れていたという
のが正確なところであった。
高氏はまず弟の名前を呼んだ。次いで身振り手振りで二人きりで話をするということを和氏に対
し、ろくに彼の方は見ないままに言った。直接的な言葉はなかったし、当人の意思もどれほど明
確に形を成していたかは分からない。が、彼の平素の言動から和氏は忖度(そんたく)し、行動
した。
二人きりになるや高氏はどさりと腰を下ろした。板の間は冷たくて思わず尻の穴が縮こまる。弟
の直義は円座(わろうだ)を敷いていた。
「お前がどこかに行くなんて珍しいことだ。どうしたんだ。」
「たまにはよいのでは。今日はいい天気だった。」
「そうかな?悪くはなかったがもっといい天気もあったぞ。そういう日に誘っても出てこなかっ
たくせに。何を読んでいる?」
「兄者ももう読まれたでしょう。まあ、この薄暗さでは火を点(とも)していてもそろそろ読む
気が失せる。」
「本当にな。それにあまり面白くなかったな、それは。……何だ、お前、疲れているんじゃない
か。そういえば体調を崩していたんだったな。もういいのか。」
「いいから出てきたんですよ。しかし兄者、疲れているのは確かかもしれない。俺はあまり出歩
かない。」
「そうさ、そう言ったろ?俺も。」
話をしている時、高氏はよく体を動かす。頭を盛んに揺り動かすために未発達の子供のように見
えることもあれば、腕だけで豊かに感情を伝えてみせることで、よほどの人物かと他人(ひと)
に思わせることもある。高氏自身は、その効果によって使い分けることを知らない。
直義は、兄が何かを持っていることに最初から気づいていた。すぐにそれを指摘するような積極
性は持ち合わせていなかったが、目の前をそれが通り過ぎた時に、何の気なしに口にした。また
もう一つの点にも直義は気づいていた。
「兄者、それは?」
「うん?」と高氏は指差された自身の右腕を見上げた。その時に、彼は話しながら右腕を振り上
げていたわけである。「ああ、そうだ。これは見舞いなんだ。」弟の目の前に一輪の花を突き出
す。上杉憲顕が見つけた時、瑞々しく可憐な姿で咲いていたそれは、今、手折られ、色あせ、花
弁に皺を寄せてしまっている。
「見舞いの品とは、ありがたいことですな。」
「もっと綺麗だったんだがな。」
「それは残念。」
兄の指から花を絡め取り、つくづく眺めてみるがその表情はこれといって感情の浮いたものでは
ない。兄高氏の方もそうであり、この部屋にいて最も残念そうな面差しをしているのは何といっ
てもサザンカの花それ自身であった。
「それと、頬に怪我をしているようですが。」
「あっ、そうだ!」
高氏は左の頬を押さえた。そこには糸のような擦り傷があった。深さは大してないのだが、長く
切れているのでそれなりに出血があった。
ひと撫でして、すでに指先に何も付着しないことを確認する。ここに来る途中のことを、高氏は
説明した。二人の側近には心配されても仕様がないしうるさいので隠していた、と言った。
「お前にはいいんだ。お前はうるさく心配しないからな、うん。」
肌が切れている、その感触は、好悪どちらの感情がともなうにせよ指先を惹きつける点では一致
する。大人はその欲望を抑えることで傷口が速やかに塞がることを知っている。だから触れない。
足利高氏もすでに大人と呼ばれる年齢であり、その事実を経験から知っている。にもかかわら
ず、彼の指は傷口に触れ続けた。そうすることでどうなるか、という経験からくる知識は脇に追
いやられ、その部分がどうなっているのかじっくり確かめたいという、今現在の状態に対する欲
求のみが彼の脳内を占めていた。
張っていた薄皮が、ぷつりと切れる音がした。
「おい直義、花、貸せ。」
不意に高氏が右手を出した。その上に直義は黙って花を置く。
「せめて色合いだけでも再現してやるぞ!……薄暗いな。かといって火の近くに行き過ぎると熱
い。……こうやって、血を花びらに塗るだろ?うん、あんま綺麗じゃない……何でだろう。意外
に血ってのは薄いんだな。」
「その血塗れの花をまた俺にくれてやろうと?まるで呪いだな。」低い声を漏らして直義は笑っ
た。彼が笑うのは、それが表情だけのものにしろ珍しい。
「うまくいかない。」
高氏は呟いた。花を直接傷口に押し当てる。早くもそこは乾き始めていて、離そうとするとくっ
ついた花びらがわずかにちぎれた。ああ、もういいや。そう言って高氏は花を火中に投げ入れた。
一瞬、花弁の形に炎が大きく伸びて輝いた。たちまちに灰燼に帰したが、その明るさはしばら
く闇の向こうに張り付いていた。
後には、高氏の頬の傷だけが残った。
「どうしよう。」
「手当てを。」
「舐めとけば治るよ。でも自分の頬は舐められないから。」
なあ、と高氏は弟を見つめた。自分の頬をひょいと指差す。以前していた約束の合図とでもいう
風だった。
「確かにその位置は舐められない。」
直義は右手を伸ばした。軽く触れようかというところで上体を傾ける。高氏の頬に直義の鼻先が
寄る。が、あまり息遣いは感じられない。
「痛くしたら駄目だぞ。俺は痛いのは嫌だ。」
いつもの頓着のない口調で言いながら高氏は自ら頬を寄せる。直義は舌を伸ばし、よく拭き取れ
るように丸く固めた先端で赤い筋を突き、唾液が十分に染みてきたところで一定の力を込めてひ
と撫でした。痛い、沁みた、と高氏が涙声を漏らす。
直義は何度か繰り返し舐めた。血の味がまったくしなくなったところで顔を離し傷口を見たが、
薄暗さのためすっかり血が止まったという確信は得なかった。もう一度顔を近づけると、今度は
唇を使って全体を吸った。
「直義……。」
それまで心地よさそうに目を細め、ぼんやりしていた高氏が、弟の動きに対してゆっくりと頭を
動かした。弟の着物を鷲掴みにし、相手の体を倒そうとするのと同時に自らもまた前に倒れこむ。
お互いの、唇が触れた。

細川頼春の部屋では、細川兄弟と上杉憲顕の三人が盃を傾けていた。食事はすでに終わり、話の
ネタも尽きてなだからに沈黙が訪れようとしていた。
秋虫の声に彼らが耳を傾けていた時、人のやってくる気配がした。近習の遠慮がちな足取りとは
違った。
「親父殿のお帰りだ。」
足音一つでその人全てを目の前にしたように、和氏は唇に笑みを上らせた。
「しかしまたのんびりと。主家の若君二人がいらっしゃっているのだが。たった今お帰りになら
れたということかな。」
「その通りだ。」
次男頼春の言葉とともに縁側に姿を現したのは細川家現在の当主、細川公頼である。
「上杉の屋敷で呑んでいたところ、憲顕殿が我が屋敷にお出でになっているということで、これ
は当主じきじきに歓待せねばならんと飛んで参ったのだ。ま、こちらはこちらでお開きにしよう
かと思っていたところでもある。歳も歳なもんで酒量が減って……。しかしながら、それが今日
のところはよかったというのか。驚いたことに、うん?高氏様、直義様がお二人そろって見えら
れていると?」
「さようでございます。今、わたしの部屋でお話をなさっています。先ほど食事を持っていかせ
ましたが、いらぬとのことで。飲み物だけは廊下に置いてあります。」
「寝所を整えておいたほうがいいな。お前の部屋で過ごされるというのならそれでもいいが。と
もかくもう少ししたら儂(わし)じきじきに出向いてみるか。……それにしても、あのお二人は
たまにこうしたことをなさる。我が屋敷では二年ぶりくらい。上杉殿の屋敷でも何度か、お二人
が泊まられたことはありましたな、やんちゃなお年頃の時分には特に。」
「ええ、始終。ただその頃には、わたしや頼春殿などもともに同じ部屋にいたものです。馬であ
ちこち駆け回った後に一つの部屋でみなそろって寝てしまったり。御舎弟が先にどこかへ行って
しまわれて、後から若君が追ってこられるというのもよくある形で。御舎弟があまりにそっけな
いので若君が泣いてしまわれて、それを我々二人で宥めたこともありました。」
なあ、と憲顕は幼馴染を振り返る。頼春は酒を呑むことに飽いた様子で、先ほどから空っぽの椀
を右手の中でくるくると回して遊んでいた。ああ、そうだ、と答える時にも手は止まらない。
「そうだな。あのご兄弟は昔から兄が弟を追っていく。お前のところは義兄(あに)が弟をじっ
と見ている。俺のところはおそらく、俺の方が兄者のことを遠くから眺めているんだな。兄弟と
いっても様々だ。それにしても……。」
人差し指の爪で椀の内側を弾く。その時だけ、手の動きが大人しくなった。木製の椀の乾いた音
が、いつもの彼には似つかわしくなくどこか神経質に響いた。
「あのご兄弟は、幼少の頃からまるで形が変わらない。我々は憲顕、歳を重ねるにつれて主家に
対しての距離の置き方を変えてきた。父上や、お前の親父殿にはまだまだ甘えが残っていると言
われるが、それでもだいぶん足元に下がってきたさ。結果として、まるで変わらないご兄弟二人
だけで向き合わなければならない時間が増えた。高氏様が泣かれていたとしても、今の我々がそ
こに居合わせている可能性は低い。そもそも高氏様が泣かれることはなくなった、あの方も成長
された、という見方もあるかもしれないが、俺にはどうもそう見えない。御舎弟はそっけないま
ま、若君は鈍感な……鈍感な明るさを持ったまま弟君を追いかけている。そう見えて仕方ないん
だ。」
「頼春。」
「ああ、分かっている……。」
彼はどこか自分の言葉を悔いているように見えた。高くて細い鼻筋には彼特有の利口であるがゆ
えの不真面目さ、と同時に、立ち上がり部屋を出て行こうとする後姿には不本意さが滲み出てい
た。「頼春。」と兄の和氏が叱責の調子で呼びかけた。それに対し、今日のところは許して欲し
いとでも言いたげに、一瞬だけ振り返って笑い、袖を翻して頼春は姿を消した。
「ここはあの馬鹿者の部屋なんだがな……。」
「頼春は時折り一人になりたがります。」
「兄のわたしよりもお主の方があれには近い。そうした面もあるのか。……ところで直義様、高
氏様はどうなさるのか。父上。」
「うん、そうだな。見てくるか。」
公頼はのっそりと立ち上がった。和氏の方も、軽く腰を浮かせながら憲顕に声をかける。
「そろそろ休まれたいのではないか?客間を整えてくるので、少し待たれよ。」
「ありがとうございます。」

しばらくぶりに雲間から月が出た。この時期の月は輝きを冷たくし、従う星辰(せいしん)も夏
とは趣きを異にする。毎年毎年、同じ有様を空は描き出すというのに、地上を蠢く我々は何とも
のすごい速さで移り変わってゆくのだろう……と縁側に佇み細川和氏は思う。彼は今、上杉憲顕
を客間に案内してきたところであった。
(背が伸びたとは思っていたが、いつの間に抜かされたのか。元服前のあの子の手を引いて、
ばないよう気遣いながらこの辺りの山を散策した思い出は、昨日のことのように鮮明なのだが。
そういえばあの時には頼春も一緒だったはずだが、あれの姿には覚えがない。先ほどのあれの我
ら兄弟の評は何となく分からんでもないが、しかしあれが俺を眺めている理由など……。)
ふっと声を漏らして笑い、和氏は己が足元を見つめた。青白い光に照らされて、親指から小指ま
でが全て冷たい繭の抜け殻のように映った。
「和氏。」
「おや、父上。」
普段ならそろそろ寝床にある時刻であった。二人は肩を並べて夜の静寂に溶け込むように言葉を
交わした。親子二人きりの時間など今更面映いことだ、と二人とも心の中では思っている。
「ご兄弟はいかなご様子でしたか。」
「若君には一日中馬で駆けておられたので身を清められたいと。着替えもご所望であった。直義
様の分もお持ちした。その後、寝床を整えさせた。お主の部屋でそのままお休みだ。」
「御舎弟は今朝まで体調を崩されていたのですが、変わったご様子などありませんでしたか。」
「む、それは気づかなかった。あの方は一言もお話にならなかった。ただこちらの問いに一度か
二度頷かれただけで。もともと静かな方だ。また顔色など、この暗さでは窺いようもない。そう
だ、変わったところといえば若君の頬に傷があった。擦り傷のようで、すでに塞がっていた。」
「……父上、あのご兄弟をどう思われますか。」
「頼春の言だな?ふむ、まあ問題なしとは言えんが。特に高氏様にはもう少し次期当主らしい威
厳と落ち着きを持っていただきたいものだ。しかし総じて上手く回るのではないか?直義様は弟
君として補佐的な立場につかれる。あの方はそれに相応しい資質をお持ちだ。また我々、家臣団
もついておるのだから。」
「わたしも別段心配はいらぬと思うのですが、ただ頼春や憲顕殿は我々より近い立場からあのお
二人を見てきた。それ故、少し気になりました。……あのお二人、同じ部屋でお休みですか?わ
たしの部屋で?……少々珍しいことですな。例えばわたしが今になって頼春と一緒の部屋で一夜
を過ごせるかというと、気詰まりですな。あれも他の者には多弁なのに、わたしの前ではあまり
話さなかったりする。」
「お主と頼春とでは年齢に開きがある。高氏様、直義様兄弟は父母ともに同じ、歳も近い。また
他に……他にご兄弟がおられない。うむ。仲睦まじい理由は幾らでもある。」
「そうですね。ただ時折り御舎弟は……。」
自分の感じる不安を和氏は結局言葉にし得なかった。あまりに漠たる感覚で、伝えようと試みて
も上手くゆくとは思われなかった。公頼が追求する姿勢を見せなかったのは、その生来の気質か
ら自然なことであった。彼は大抵のことに大雑把であった。しかしある特定の事柄には、非常に
緻密な思考を巡らす人でもあった。
「和氏よ。頼春はこう言ったな。あのご兄弟はまるで形に変わりがないと。だがな、覚えておけ。
変わりないものなどこの世にはない。目の前に広がる風景すら、この夜空でさえも。一年前の
今日という日に、まるでこれと同じ夜空が広がっていたと思うか?まず雲の広がりようが違った
だろうし、月は確かにあの形だったか?見える星の数はこれだけだったか?変わっていない、と
感じるのは大枠の話だ。なるほど空は在り、大地は在る。だが様相は確かに異なる。」
「あのご兄弟も変化していると?」
「もちろん、どのように変化したかなど家臣として首を突っ込む事柄ではない。足利家の興廃に
絡むとなれば別だが。」
「分をわきまえろと……。」
「だいたいな、人と人との係わり合いほど面倒なものはないのだぞ?不用意に首なんぞ突っ込ん
ではいかん。とばっちりを食うぞ。」
父の顔がずいと近づき、和氏は思わずのけぞった。
「いや、少し気になっただけのことで。わたしもそれなりにあのご兄弟とは近く接していますか
ら、年上でもありますし、ついつい要らぬ老婆心が起こったと。」
「……他に気にするべきものもあるだろうに。」
「何か仰いましたか?そうだ、サザンカが、憲顕殿の言うには若君がサザンカを摘んでこられた
そうですよ。山の上はもうすぐ冬ですね。」
「部屋にあったかな?まあ、いい。儂らももう寝るぞ。若君は朝、早く目を覚まされそうだ。足
利まではもちろんお前達がお送りするのだからな。」
和氏は頷いた。久しぶりに父と長話をしたことで、そこそこの満足感があった。足を動かすと、
思っていたより熱が保たれ感覚がしっかりしている。相手が相手だと、体を動かしているつもり
はなくとも実際には体内は休まっている暇はないのだな、とおかしく思う。
和氏の部屋は現在、足利兄弟に使用されている。よって彼は来客用の部屋の一つに向かう。その
近くの別室には、先ほど彼自身が上杉憲顕を案内した。
視界がおもむろに暗くなった。月が雲に隠されたのだ。風が木々をざわめかせてゆく。人はみな
寝静まり、今この屋敷で起きているのは自分ひとりではないかと思う。
(明日は雲は晴れるかな。どちらにしても朝から馬を駆るなど御舎弟は嫌がりそうだ。)
ここへ来た経緯から、足利兄弟が明日同時に屋敷を出発しないなら、自分はおそらく直義を送る
側になるだろう。それならばいま少し、夜を深く過ごしてもいいのではないか。兄とともにいた
いと、そのために朝から馬を駆ることも厭わないと、そうした性質(たち)の人物ではないのだ
から、彼は。
柱に手をやり、夜空を見上げる。月はずっと隠れていたが、雲が止まっていることは一瞬とてな
かった。流れ続ける固まりは厚くなり、薄くなり、やがてぽっかりと穴を開けた。そこから月の
光が八方に散り、和氏の頭上にも降り注ぐ。
(まるで花のようだな。光の花弁が、降り注いでくるようだ。)
ほんの一瞬、和氏は時を忘却した。




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