「ある日の動態」
昨日の昼頃から頭に重みがあり、家人に言いつけて早めに床を延べさせた。部屋に篭ってい るのは直義にとり日常であったが、何もせず何も考えず、ただ横になっているだけというのはき | わめて不本意な状態だ。何事かしていなければ人は刻一刻と退化してゆく生き物である、とは彼 | の常日頃抱く所感である。
| 過度の睡眠のため、今現在抱えている頭の重みが何のためであるのか、まだ安静にしているべき | なのかどうか判断がつかない。枕元にあった、まだ冷えていない白湯を一口喉に流し込む。立ち | 上がろうとすると頭に鈍痛が走る。
| 「あ、御舎弟、まだ横になられていたほうが。」
| 「顔を洗いたい。俺は何でも潰すのは嫌でな。時間というのは元に戻らない。」
| 「手水をお持ちします。おい、誰か。」
| やって来た若い男に細川和氏は手水の用意を命じた。
| 「さ、お待ちの間は腰を落ち着けになって。」
| 「縁に出よう。風が気持ちいいな。」
| 「秋の風ですな。」
| 直義をそこに落ち着かせることはあきらめ、和氏は相手の腕に直接は触れない程度に手を添えそ | の要望通りに室外へ足を運ばせた。サルスベリが薄紅色の花を楚々として開かせ、ギンモクセイ | が白い花を星のように咲き乱れさせて爽秋と呼ぶに相応しい香りを漂わせている。
| 板敷きの先の方まで出てきて、直義は目を細め小さく息をついた。運ばれてきた手水を見やり、 | どこか億劫そうにする。和氏は心得た様子で盥にかかっていた手ぬぐいを水に浸し、しっかりと | 絞ってから直義に渡した。
| 「さ、どうぞ。」
| 「うむ……。」
| 空に目を向けながら丁寧に、見ようによっては怠惰にゆっくりと額から頬、もしくは鼻から顎へ | と水分を含ませる。それにより直義の面立ちには鋭さが表れ、白皙は冴え渡って人としての温度 | を感じさせないほどであった。
| 直義は飲み物を欲した。室内に置かれたままだった白湯を和氏は運んできた。
| 「先ほど、馬蹄の響きがしたな。俺が目を覚ました直後のことだ。」
| 「さようでございました。」
| 「兄者であろう。」
| 「よくお分かりで。」
| 「そんな気がしたのだ。」
| 白湯を受け取り一気に飲み干す。その横顔には憤りが潜んでいると和氏は直感した。果たしてそ | の通りであった。他人(ひと)からすればどこで感情を害したのか分からないが、直義の口吻に | は確かな非難めいた響き、ともすれば軽侮の調子が込められていた。
| 「外に出てばかりだな、あの男は。まるで子供だ。じっとしていることができないのだ。外に出 | て汗を掻いて帰ってくる。それだけでいたって充実したような表情をしていることが俺には理解 | できない。何が身についたというのだ?汗など流れてしまえば終わりだ。何も残らない。」
| 「ご兄弟とはいえ、お二人はまるで正反対でいらっしゃいますな。」
| 和氏は気遣わしげな表情を見せた。彼には、時折り直義が見せる実の兄に対して持つには正常と | は言いがたい何か、怒りと呼ぶには静か過ぎる、嫌悪と呼ぶほど突き放すこともできていない粘 | り気のある言葉や表情に漠然とした不安を感じないではいられなかった。
| 「まったく違う位置に立っておる。血の繋がりはこれ以上なく近いというのに。……そういえば、 | あの男はいつも俺を外に誘いたがるが。」
| 「はい、昨日から御舎弟の体調が優れないことをご存知で、それで見舞いの花でも摘んでこよう | かな、などと仰っておられました。」
| 「花か。まるで女子供のように優しげな発想だな。」
| 「どちらへ。」
| 「部屋におればあの男が来るのではないか。そちの屋敷へでも行こう。」
| 「まだお加減が万全ではないのですから……。」和氏の言葉は最後まで続かなかった。直義の背 | 中にはもう自分の声は届いていない。遠く高い空を飛んでいく鳥に、地上から呼びかけてもそれ | は無力という話だ。和氏はあきらめて、直義に従った。
| 夕刻近く、足利の屋敷に数頭の馬が乗り入れた。先頭の栗毛を御するのは足利高氏。若々しさ溢 れるふくよかな頬を赤く染め、どこか嬉しげな口元から弾んだ息を漏らしている。手綱を取る手 | 元を見やれば、この時期にはまだ早いと思われるサザンカの紅色の花弁が揺れていた。
| 「疲れたろう、休め!」
| 背後の家臣らに言ったか、飛び降りて背中を軽くしてやった馬に対して言ったか。ともかく当人 | は元気いっぱいな様子で建物の中へと姿を消す。放たれた馬のくつわを駆け寄ってきた馬丁が慌 | てて押さえる。
| 「やれやれ、あの方の体力は無尽蔵なんだろうか。」
| 「気持ちが尽きない、というのもあるだろうな。つまり弟君に対しての。」
| 「御舎弟はまだ寝ておられるのかな。」
| 「和氏殿は、さほどの心配はいらないと仰っていたな。弟と違って慎重な判断をなさる方がそう | 言うのだから確かだろう。」
| 「憲顕、こら。」
| 「そうすると軽く体調を崩されたというくらいだろうから、もう起きてらっしゃるかもしれない。 | 何だ頼春、腕など組んで。似合わんぞ。」
| 「…………。」
| 二人は同年代の若者らしく、日常面からも親しい付き合いをしているのだろうことがその言動か | らも容易に察せられた。また足利兄弟のことを語る口調から、それほど上下の区別に対し、峻烈 | たる意識を持っているわけでもないらしかった。
| 「我々も御舎弟のお見舞いに行こうか。」
| 「もちろんだ。」
| 愛馬の頭を撫で、憲顕は相手の提案に喜んで応じた。
| しかしそうして彼らが立ち話をしていたところへ、たった今屋敷の奥に消えたばかりの高氏が、 | 不思議そうな面持ちで、てくてくと前のめりになって戻ってきた。手には振動を与えられて、少々 | 弱った様子のサザンカがしっかりと握られている。
| 「どうなさいました。」
| 頼春が尋ねた。
| 「直義がいない。和氏もいない。近習に聞いたら外に出て行った様子だと。」
| 「ならば我々細川の屋敷ではないでしょうか。あの御舎弟が、しかも病み上がりであちこち出歩 | きになられるとはちと考えられませんからな。」
| 「うむ。私もそうと考えます。どうされますか。行かれますか。」
| 「行く!」
| |