あさぎ月夜

2005年5月8日(日) 「家族計画」計画考察


レビューページで絶賛しているゲーム「家族計画」であるが、
他人同士が家族として同じ家で生活していくことを可能にした理由とは一体なんであろうか?

司が、「ただの共同生活ならよかったんだ。なのに、どうして家族なんだ?」

という台詞が作中の前半部にあった。
そう、彼らを家族として機能させることを可能にした直接の原因とは・・・、


『家族計画をやろうじゃないか』


という、寛の言葉であると思う。
その提案と契約を仮にしろ認めたことが、彼らを後に家族として機能させるに至らせたのだ。
彼らは仕方なしにしろ、一応にしろ、父、母、娘、息子、という役割を受け入れた。

付け加え、寛、真純、末莉、春花の4者の適応は素晴らしかった。
特に真純は計画開始の翌日から、自発的に家族の朝食を「母」の役割に則り用意した。
これは、作中ではまったく触れられていないが非常に重要な行動だったと思う。

他者の気持ちを最終的に動かすのは、決して言葉や理屈ではない。
では何かというと、それは、行動だ。あるいは、行動に表れなくとも使ったエネルギーが最終的に重要になる。(見えなくとも伝わるのだ、そういうものは)

真純は食事の用意という苦労を進んで引き受けてくれた。自分で食事を用意できない青葉は嫌々ながら食事に釣られ、その他のメンバーも「用意してくれるのなら、食べようか」と、そういう気持ちになったに違いない。

嫌い合う者たちは決して一緒に食事できない。人間は普通、3大欲求を嫌いな人間と一緒には満たせないからだ。人がグループを結成するときによく食事を共にするのは、それにお互いの警戒を解いて仲良くさせる効果があることを知っているからだ。


付け加えて、全員から生活費を先んじて徴収し、それから運用能力の高い(買い物上手な)人間が生活の采配を振るう。この選択も素晴らしかった。なぜなら個々のメンバーが物や食料を別々に持ち込むと必ず不公平感を覚えるものが出るからだ。これは共同生活者の和を確実に乱していく。
おそらくは、これは寛や真純から出た提案だったと思われるが、実際に家族を持っていた経験が生きているのだと思われる。10代や20代前半の若者が寄り集まっても、こういう取り決めはなかなかできないものだ。



さて、ここからは個人的な話になるのでサラサラっと読み流してくれて構わないが、なぜこのように考えるのか理由を説明しよう。

実は私は複数の他人と同じ屋根の下に暮らしていたことがあるからである。

同時に暮らした人数は高屋敷一家よりも少ないが、合計数なら私の方がかなり多い。最大で私を含め5人。学生が多かったが、既婚者(というか夫婦)の2人と暮らしていたこともある。

異性の同居人と2人きりで住んでいた期間もある。
しかし、恋愛沙汰とは無縁であったし、(性格が劇的に好みでなかった)
もちろん、トイレでドッキリもない。(あるわけない。見たくないので警戒している)
まぁ、たまには「まじかよ・・・こんなヒモみたいなパンツ・・・」ぐらい。(あるじゃないか)

私たちは、ただ本当に「利害関係とタイミングが一致した」という理由だけで同居していた。
家族でも恋人でもないので、食事を一緒にすることもほとんどない。食事の当番や金銭問題の不公平感で、恩に着たり着せたりするのも嫌だったし、別の生活をしているのに食事の時間を合わせるのも面倒だった。また、そうする価値も見えなかったのだ。

他人の関係とはそういう寂しい関係のことなのだ。

しかも、自宅というのはやはり共同生活であっても、力が抜ける。
よく「結婚したら相手の態度が激変して愕然とした」という話があるが、その状態である。色々な意味で、人それぞれのだらしない部分がじわじわと出てくるのだ。

家族計画では、各人がだんだんと当番をサボるようになり、その仕事を茉莉が一手に引き受けていたが、こういう部分を無償で受け止めてくれる人種は全世界で母親くらいのものだ。互いの至らなさで、ぐちぐちと後味の悪いケンカができるならまだ良いほうで、無言でいても不満を溜め込んでいるから相手を避けるようになるか、他がやらないなら自分もやらない、とさらに怠惰な状況に流れていくのが普通だ。

育った環境の違いというのも非常に不公平感を煽る。
例えば、冬にヒーターを付けて温まるのが当たり前の家庭に育った人間と、冬は部屋でジャケットを重ね着して堪えるのが当たり前の家庭に育った人間では、「生活の最低限」に対する了見がまるで違う。片方が外套を着込んでいる一方で、他方がヒーターを付けて快適な生活を送っていたら不満が出るのは至極当然のことだ(電気代は分けられないのだから)。

家があって、人がいるだけでは家族にならないのだ。私はその現実を何年も見続けた。
同じ家に住む人々が家族であるのは、少なからずそうありたいという意志を持ち続けているからなのだ。そうでなければ、例え血縁であろうと家族ならざる関係へと変わっていくだろう。

相手に可能な限り無関心でいた、そんな関係は気楽でもあったが、同時に言い様のないほど窮屈だった。同じ家に複数の人間が呼吸しているのに、孤独だけがこんこんと肩に降り積もる生活だった。


経験としては悪くないと、今になれば思えるが、
しかし、もう一度あの生活に戻りたいかと聞かれたら、それは決して戻りたくない。

つまり、それほどに家族計画は難しい。

小さな箱の中で互いの理想を押し付け合い、なおかつそれらを許容し合うのが家族なのだ。相手がどんなにダメでも捨てられないのが家族なのだ。これは並大抵のことではない。


そして、これほど難しいテーマを消化した家族計画はやはり素晴らしい。

この作品には、もっと家族全員が結束するような理想的な結末を求める意見が多々見られるのだが、しかし、家族計画の結末はこれ以上ないほど理想的な結末であったと私には思えるんだ。


(2009/11/12 加筆修正)

家族計画 計画考察

5月14日(土) 友情の確認法


人の心は読めぬもの。

知りたい、聞きたい。だがきけない。
極論を言うなら、きいたってそれが本音かどうかなど分からない。

分からないから余計に知りたくなったりして、ああ、もどかしいこの気持ち。誰かおしえて、あの人の心を。そんな風に悩めるあなたに私からとっておきの方法を。


友情の確認法。

なんだか愛情の確認法の出だしっぽくなってしまったが、愛情にも応用は可能。


友情の確認、それは至極単純に成る。

心理学?そんなハイカラなものは必要ない。
勉強も要らない。学校も試験もなんにもない。朝は寝床でグーグーグーだし。死なない。

「おい鬼太郎、そんなにいい方法があるのかのぅ?」
「はい、あります、父さん」

ただし、多少刺激的な方法なので、精神が弱っている時にはお勧めできない。

無闇に説明を続けるより例を示した方がうまく伝わりそうなので、そうすることにする。

以下に、実際の成功例を用意したので、見てみよう。



今回、登場するのは3人である。それと携帯電話が2つあれば、ことは成る。

一人を「私」と表記し、もう一人を「先輩」と表記する。あとは電話を受ける「相手」だ。

3者は普通の友達同士である。


そして今回の目的は「先輩」が「相手」にどう思われているかを調査するものである。

作戦の説明・確認は事前に行われるべきであり、
また「私」と「先輩」、この2者にその手はずが十分理解されていることを作戦開始の必須条件とする。

では、はじめよう。



先ず、私が相手に電話。

プルルルルッ。

相手 「はい、もしもしー?」

私 「やあ、元気?ハウドゥユドゥー?」

相手 「ああ、私か。どうした?」

私 「うん、ちょっとね。・・・あのさ、○○先輩ってムカつかねぇ?」







ここで先輩に素早く交代!!!







相手 「ああ、○○先輩ね。すげームカツクよあいつ。調子こきすぎじゃね?」

先輩 「・・・・・いい度胸だ!!いまからお前の家行くから待ってろよっ!!」

相手 「え・・・ひぃぃっ!!せ、先輩!? なんでっ!?ち、違います。○○がそう言ってたんですよ!」

先輩 「嘘つくな、てめー!!!」

相手 「わ、わあぁぁぁっ!?」



友 情 が 確 認 さ れ た 結 果 、 友 人 は と て も 不 幸 な こ と に な り ま し た 。




・・・。


こんな実例しかないですが、とにかく本音が確認できたという点において作戦は成功しました。


なにか誘導尋問くさかった気もするが、しかし、別ルートとしてはちゃんとこういう結果もあったはず。


友人 「え、○○先輩?なんで?あの人いい人じゃん。俺あの先輩結構尊敬してるよ。」

先輩 「・・・・・○○。お前、いいやつだな。うっ、ううう・・・。」

友人 「え?え??先輩?なんで?泣いてるし・・・」







恐るべきかな、本音確認ゲーム。





親しい友人との会話中、パッっと出る第三者についての話題。

その答えには制限がかかりづらく、動揺するにしろかなり本音率が高い。


上記の例の三人はそんなことをただの笑い話として済ませられる関係でした。

冗談の通じる相手となら、これは相当おもしろいし、一生笑い合えるネタにもなるし、やってもいいです。

やってもいいですが、

それで洒落にならない修羅場が巻き起こっても私は絶対に責任はとりませんので、お気をつけになってください。

しっかりと謝れる人。
後でちゃんと全部ネタばらしをして、誠実な説明のできる人。
それを許せる器量と関係を持つ人。

また、許されなかった場合にもそれなりの罰を受ける覚悟を持てる人は、試してみてもいいかもしれません。





(2006年)7月13日(木) ナイフ


漫画家が、8.6cmのナイフ所持で逮捕されました。


いつの間にこんなに規制が厳しくなったのか。

私は小学生の頃、刃渡り20センチを超える凶悪なナイフを腰から下げてジャスコの中を歩き回っていましたが、誰からも、何も言われませんでした。プラスチックの鞘に刀身が収まっていたから、オモチャだとでも思われていたのかも知れません。



しかし、釣具屋で買った本物でした!!


でもお店で簡単に買えたってことは規制がなかったんでしょうね。

こうやってどんどん色んなことがこの先、規制されていくんでしょうか。


たしかに、危険を未然に防ぐために、規制するべきこともあるでしょうけど、
だからと言って、こういう流れになってくると、最後には「死ぬから産むな」みたいな話になってはきませんか?

なんかそれって違うんじゃないのかな。


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