−目次− 第1話 ヨッツーとの出会い 第2話 心細い部活 第3話 気象台気取りで観測開始 第4話 一流の星空と三流の腕前 第5話 夏の風物詩は合宿だ! 第6話 文化祭とその後 第7話 秋の観測→恐竜の足跡と紅葉ツアー 第8話 葛生の石は屑じゃない |
あまり面白くなかった、「地学部回想録」に変わって元部長が「地学部かけずり日記」
を書きます。抜群の記憶力と、愉快な視点で地学部3年間の思いで話を綴る予定です。乞う!ご期待!
★地学部回想録は手違いで最終回が掲載されませんでしたが、おしまいです。
第1話 ヨッツーとの出会い 1995.4
県立朝霞高校に入ってから間もない95年4月上旬
入学生は希望と不安をもちながら毎日登校して来る頃である。僕は不安の方が希望より大きく、特にどの部活に入るかは大きな問題だった。
しかし「嫌だったら入らなくては良いだろう」と思い、部活の事は意識的に深く考えないようにしていた。だから、担任の野地先生による
「この学校の生徒は全員部活動に参加しなければならない。11日までに部登録すること」との大本営のお達しに僕は内心あわててしまった。
そんな折、新入生オリエンテーションと言うモノがあった。主な内容は部活の紹介であり、まずはエネルギッシュな運動部から。どの部活も
見事なパフォーマンスで、新入生はデパートの実演販売を見る主婦達のよう。運動部では泳ぎ(だけ)が得意だったので、水泳部に興味が
あったので注意してみたが「水泳部にはいると溺れている人を助けられます」というコント風の部紹介で「・・・絶句」。それと、もう一つ
興味があった山岳部は部員が少なく、すぐ部長をやらされそうだし、部室のアパートの2階ってすごいところにありそう。ところで学校に
なぜアパートがあんの?やっぱり変だ。続いて文化部。文化部はその性格上パフォーマンスがしにくく、人を引きつけるのにサッカー部と
違ってボール1個と言うわけには行かないのだ。やはり多くの部活がただ文章をよむだけであり、文化部では理科4部(物理・化学・生物・
地学)と社会部あたりに目を付けていたのだが「つまらなそう」だった。
その日の帰り道 中学校からの友達3人で「どの部活に入るか」と言うテーマで話し合った。しかし、結局実際に部活に出ないと分からない
事が多いので、まずは、同じく水泳部に興味がある宮澤君と明日の放課後プールへ見学、と言うことに決まった。
次の日、予定通り二人でプールに行くといきなり名前を書かされた。これが結構怖くて「もし途中で辞める時、この名簿を見て部員が
クラスに怒鳴り込んできたらどうしよう」と、借金が返せなくてやくざに迫られ様なシーンを想像してしまった。その後プールサイドで
「だいご(名字)」と言う当時の部長から説明を受けたり、「自由形50m何秒で泳げるの」「40秒切ると思います」「じゃあ大丈夫だよ」
とハッパをかけられたが「朝6時から朝練もある」の一言で辞めることにした。
やはり僕には運動部は無理かも知れない。次の日、志木に引っ越してきてすぐ友達となったシューへー(毎度おなじみ、 このホームページを始めたヤツ)と先の宮澤君と3人で理科4部を見学することにした。しかし宮澤君は他の部活に行ってしまって二人で 見学するはめになり、ますます心細くなった。シューへーは「理科4部の中では一番良さそうなので(人数多いから)生物部にしよう」 と言っていたので「じゃオレも」となり、生物部に行こうとした。ところが場所が分からず徘徊していて、生物室につく前に地学室の前に ・・・。「生物部どこか聞こう」と人の気配が無いドアを開くと、もうすぐで定年間近かと思われる白衣の教師がいた。彼は望遠鏡を 組み立てていた中腰の体をひねりながら「君たち見ていきなよ」と言った。これが後に言う四元 克志先生(通称ヨッツー)との出会いで あった。
第2話 心細い部活1995.4
「君たち見ていきなよ」と、顧問に誘われた僕たち二人。「ま、まあ、 こうなったのも一つの縁だし・・・まあ見るだけなら」と心を許し、彼の説明を受ける。それによると彼は、もちろん四元克志(以下 ヨッツー)と言い、年齢は5X才であった。「へぇ〜来年あたり定年だと思った」と、とっても失礼なことで感心してると早速「で、この 部活の来たら何するの?」と、質問された。間違っても「間違って来てしまった」とはいえない。とっさに僕は、気象に興味がある事を 告げた。シューへーはもちろん天体写真である。そしてヨッツーからいろいろな説明を受けて帰ることになるのだが、一番大事なことを聞き 忘れそうだった。「部員何人ですか?」と。シュウヘーは5人という情報を仕入れていたが「あぁ〜今は、1人しかいないんだ」と、嘆きとも 聞こえる答えに「あぁ〜1人しかいないんですか」と答えた。帰り道・・・。
シューへー:「あそこ機材がいいんだけどねぇ〜」
僕 :「でも部員が一人じゃあねぇ〜」
僕 :「百葉箱にはいいものがいっぱいあったよ」
シューへー:「でも部員少ないし・・・」
と、堂々巡りを続けながらも、充実した観測機械に心を引かれていき翌日2人で入部した。ところで、宮沢君はそのまま
水泳部に入部したそうな・・・。
入部すると自己紹介をし、早速何をやるかを決める。先に述べた通り僕は小学生から興味のあった「気象」。シューヘーもやはり小さいとき
から興味があった「天体写真」を主に担当することになった。
そういえば宇宙人?じゃなく宇宙塵(宇宙から落ちてくる鉱物。いん石とほぼ成分は同じでただ大きいか小さいかでの問題である)を研究
しているただひとりの先輩はその日はいなかったが、次の日に怪しく顕微鏡を覗いている人を発見!それが地学部部長の渡部先輩だった。
こうしてたった3人で95年度の地学部をスタートさせたのである。しかも渡部先輩は進路で忙しくてなかなか来ない。心細い部活だ。
心のどこかで悪魔が「てきとーにやって2年になったらやめちゃえー」とささやいた。
1995年7月 清里高原 渡部先輩・僕・シューへー 部員勢揃い! |
第3話 気象台気取りで観測開始・・・ 1995.4
95/4/19
記念すべき16歳の誕生日(ひつじ年生まれのおひつじ座)。この日から気象観測を始める。初めは
天気 雲量 気温 湿度 地中温度50cm 100cmだったが、後に雨量計(6/9〜)
地中温度200cmも修理して観測の充実を図る。
5月某日
初めての天体観測。学校の屋上で月見会をし、僕は初めて望遠鏡を覗いた。15センチの望遠鏡の威力はすごいもので、月のでこぼこが
はっきり見え、これで月にウサギはいないことを悟ったのだった。人間の肌のでこぼこはよろしくないが月のでこぼこはすばらしい。その後
木星、火星を見たが、ほとんどただの点。理科の資料集のようなシーンを想像していたので、文字どおり「・・・」、天体を始めた人に
ありがちな体験であった。実際あそこまで見るのは莫大な金をかけて、ボイジャーのような人工衛星で写真を撮りにいかないと駄目らしい。
普通の人なら、ここで地学部に幻滅を感じて部活を辞める事態も起こりうるのだが、僕にとっては「・・・」でもコルゲンコーワカプセルの
様に見えた木星は印象的だった。こうして午前2:00頃お開きにして寝た。学校に泊まることも、寝袋に寝ることも初めてなのでなかなか
寝付けなかった。
翌朝8時地学室にて朝飯。なんと朝から制服姿でカップラーメンである。僕にとってはこれこそ貧乏学生の象徴であり、変な充実感が
湧いて来た。同時にアニメ「キテレツ大百科」の勉蔵さんを思い出してしまう。あの番組は小学生から見ていたが、高校になるまで「浪人」
という意味が分からなかった僕にとって彼は不思議な存在であった。特に制服に下駄という服装が・・・そして5浪だか6浪して合格
したのだ。
話は朝食に戻るが、何年も掃除していないであろう給水タンクから供給される水で作ったお茶は、まずかった(10立方b以下の貯水タンク
は年1回の清掃を義務づけられていない)。そして授業中は寝たかったが、入学早々寝る度胸はない。はずだが・・・しゅーへーは夢の中。
大した度胸だ。そしてあっという間に昼食。なんと昨日作ってもらった弁当は冷蔵庫に入れていたために、ご飯はぼそぼそだった。
今から考えると食中毒の危険もあったし、なんで当日学校で買わなかったのだろうか?
第4話 一流の星空と三流の腕前 1995.5
5月下旬、僕達は初めて野外観測を行った。行き先は、秩父
「関八州見晴らし台」であった。
午後3時飯能駅に集合し、国道299号をひた走る。車の中はやたら荷物が多く、特にショックに弱い精密機械は堂々とシートを占領していた。
よって肝心の人間が端っこに縮こまって座るという人類最大の屈辱を味わい、今までずっと地学室で眠らされていた望遠鏡の逆襲と言った
感じだ。この地球が機械に乗っ取られるのもそう遠くはないかもしれない。「でもまあ、彼ら(望遠鏡)がいないと何もできないし、今日は
多めに見てあげよう・・・。」
やがて車はくねくねとした登山道に入り目的地に到着。夕暮れも近くなり凡人の私は「さあ夕食!」となるが、彼らは早速望遠鏡を組み
立て出した。望遠鏡の組立は結構やっかいで、暗くなるとなかなか難しい。又、部品を無くすこともある。僕が担当した望遠鏡はシューへー
に手伝ってもらって何とかでき、キャンプの定番「カレー(もちろんレトルト)」を食べた。真っ暗で食べづらかったがあれはあれで心に
残ったものだ。当時は天文にさほど興味が無かった為、「望遠鏡なんかどうでもいいから、明るいうちに食べようよー。」と言いたかったが
地学部員の立場上そんなことは言えなかった。 夕食をとって食器を片づける頃には、もう真っ暗で空を見上げると「星の数ほど」星が
あった。シューへーは早速パチパチ撮っている。
僕は写真どころか、極軸合わせも終わっていない。この頃は、北極星が天の北極からずれていることを知らなかったので、なぜ真ん中に
合わせるのがいけないのか全く分からなかった。全くこんなたわけものが半年後に部長をやるのだが、世の中わからないものだ。
午後9時になると、とても静かになるはずだが、山の方がうるさく何かが鳴いている。カッコウかフクロウだったら風流だが、なんと
タイヤが泣いている。実はここ、奥武蔵グリーンラインと言うくねくね林道の近くで、ローリング族が夜な夜な押し掛けてくるのだ。かなり
興味があるがはっきり言って迷惑。普通、音がうるさいのに迷惑するが、地学部の場合、車のライトが当たると感光して星の写真が駄目に
なるので、出来ればライトだけ消して走ってほしい。その方がスリルも出るだろうに、残念だ。(きっと事故ってすぐ静かになると思う。
日付が変わる頃になると、ローリング族もいなくなり、辺りは静かになった。シートで仰向けになっているとセンチメンタルな気分になり
そのまま眠くなる。と、突然周平がやってきて1:15に起こして欲しいと言う。僕は断りたかったが、頭の中できちんと観測(一生懸命写真を
撮っている)している周平と、きちんと鑑賞(ただ星を見ているだけ)している僕の比較のシーンが浮かび、なんか悪いような気がしてまあ
起こしてもいいやと言うことになった。
そして1:15周平を起こしに行ったが、彼は「いいよぉ〜もう寝るぅ」とさっきの意気込みは微塵もない。こっちが「超晴れているよぉ」と
言っても起きないので、写真もいっぱい撮れている事だしあっさり撤退した。対して僕は1枚も撮っていない。北極星が地味なことをうらみ
つつ、また極軸合わせに奮闘するがだんだんずれていく。結局北極星を中心とした星野写真を撮り、終わらせた。
翌朝、蒸し暑い中をおきてカップラーメンをすする音。雑音交じりの携帯テレビの声。そして周平のわめき声。「おい!なんで起こして
くれなかったんだよ」と、ゲゲゲの鬼太郎に指図する目玉のおやじのようにうるさい。これに対して僕は「え!あんだけ起こしたじゃん。
でもさー「もういい」っていうからやめちゃったぁ〜」と、やんわり無罪を主張。でも彼は3年(98年5月)たった今でも起こしてくれなかった
と思っているに違いない。
後日写真を現像したが、白黒のごま塩が写っているような感じで、白黒の天体写真に幻滅したのだった。天体写真はできた写真を見るよりも、
写真を撮る行為の方がむしろ楽しいかもしれない。
1995年5月 関八州見晴らし台 −寝過ごした観測の朝− |
第5話 夏の風物詩は合宿だ 1995.7
生命が最も輝く夏、ほとんどの生物は一番活発な時期である。もちろん人間もそうであり、部活もまた然りだ。それは
合宿という形で証明される(本当かよ)。ってなわけでもう夏休み。我が地学部恒例の夏休み合宿は、関東を少し離れた山の中で天体写真
を撮る。場所は福島、長野、新潟あたりであるが、みんな運転免許を持ってない(はず?)なので電車とバスを乗り継いで行ける所に
限られている。しかしこの年の部員は3人だったのでヨッツーの車に特別同乗させてもらった。場所は清里にある小金井市立の保養所で、
先生は小金井市民なのでコネで私たちも泊れるわけだ。日時は7月26-29日、もちろん新月の日である。
当日はとても暑かった。午後1時西国分寺駅で待ち合わせ、国立府中インターから一路清里へGO!。途中、大月で雨が降っていたが
甲府盆地ではからっと晴れて暑かった。そして約3時間かけて到着。清里は標高1300Mでもうさわやか〜なはずだか暑く、部屋に入って無料の
テレビ(100円とらない)を見ると東京で37度まで上がったとの事。こっちも暑いわけだ。夕食はバイキング方式でしかも土用の丑の日だった
のでうなぎが食べ放題で、さすが下水道普及率100%の市だと思った。85%の志木とはちがう。でもひどい口内炎で食べるのがつらかった。
夜になると宿舎の前で怪しい物音がした。そう我が地学部の活動が始まったのだ。望遠鏡をセットし防寒着を着る。渡部先輩は元バレー部
で「排球部」と刺繍されたジャージを着ていた。それを見て、なるほどとつまらないことで感心しながら観測開始。夜空を見ると星がすごく
多く見え、この時初めて本当の夜空を知った(しかし翌年行く妙高にはかなわない)。しかしさっきから曇っているところがあるのだ。薄い
雲だがちょっと気になるし、なかなか動かない。5分後にそれは天の川だということに気づくのは言うまでもなく、しばらくたって周平に
「あれ雲だと思っただろう」と聞かれたときにはドキッとしたものだ。
ぼくはいつものように極軸を中途半端に合わせ、「ずれてるんだよなぁ〜」と少しやる気なさそうにゴマツブ(白黒)写真を何枚か撮った。
後で考えると標準レンズなのだから少し位ずれていても、どんどん撮った方がよかったのかもしれない。結局3時ぐらいに寝た。
翌日は朝8時ごろ起床。本当はもっと遅くまで寝ていたかったが、朝食は9時までにとらなくてはならない。昨日は夕食の豪華さに驚いた
が、朝食の方も結構よかった気がした。その後先生の車に乗って麦草峠へ行く。麦草峠とは、八ヶ岳連山の北側を横断する国道299号線の峠で、
標高2120メートルと日本の国道の最高地点である。僕は昔から「国道何号はどこを通っている」等を覚えるのが好きだったので、いつか
行ってみたいと思っていた。しかしその夢がこんなに早く実現するとは・・・
4人を乗せた車は、まず平坦な141号を北上。八千穂村から299号に左折するがいきなり急坂で、ディーセルのデリカは黒い排気ガスを
もくもく出しながら苦しそうに登坂していった。「人間が空気を汚し、そこから逃れるために地球を愛する?地学部が空気を汚している。」
と言うちょっとした矛盾を抱えながら、「ここは1200m・・・、ここは1500m・・・」と言うように標識を何本も過ぎ、峠に着く。立科
ビーナスラインの様な草原をイメージしていたが辺りは木ばっかりで、日本国道2位の292号渋峠(群馬.長野)2172メートルの方が
よっぽど高そうな気がした。ここからは山登り組の僕、先生と、白駒池でボート組のしゅーへー、渡部先輩に別れることになった。
「ここまで来たら山登りしなきゃ、いかんでしょう」と思っている僕を尻目に、「ボートだ!わぁーい」はしゃぎながら二人はボート乗り場
に消えた。対して山登り組みは思い切り地味で、僕はともかく先生が「山登りだ!わぁーい」とはしゃいだらおかしい。まるでこれから手術
を始める医師(先生)と助手(僕)のような「じゃあ行こう(始めよう)か」「はいっ」と言う雰囲気で始まった。1時間ぐらいかけて2305m
の丸山まで登ったが、そこも木ばっかりで眺めが悪い。これでは林間学校に来た中学生もかわいそうで、さすが「林間(木ばっかりで眺めが
悪い)学校」だと思った。やはり良い景色が見られる山を選んで登りたいものである。帰りは少し迷ったが無事到着。ボート組はと言うと、
とても楽しくて時間延長してボートで寝ていたらしい。こうして登山組みは足の、ボート組みは手の運動をし、帰りに三泊めに野宿をする
場所を探して清里に帰ったのだった。宿舎は風呂も広く、登山後の入浴は風呂好きな僕にとっては堪えられない。
この日の夜も、もちろん観測。昨日と違い宿舎の望遠鏡(反射45cm?)も借りられ木星を見た。でも、この辺は夜になると毎日雲が
出てくる。なるほど南の小淵沢方面向かってゆる〜やかな斜面になっている地形が原因らしく、夏の湿った南風により雲ができるという
ワケで、1日目も曇って何回か中断した。渡部先輩は寝ていて、夜露まみれになっていた。古典の世界で夜露は風流なものと相場が決まって
いるが、天体観測の世界では厄介者で機材を濡らし最悪の場合壊してしまうこともあるので、望遠鏡に夜露が付かないように使い捨てカイロ
を巻き警戒にあたった。しかしその努力も空しく空は晴れず、早め(と言っても夜半過ぎ)に寝たのだった。
三日目はもう宿舎を出る日である。3泊の予定だったが、どうも予約がとれなかったらしく野宿となった。と言っても夕方までは時間が
あるので、昼間は普通の観光をした。まず初めに行ったのは野辺山電波観測所であった。我が地学部が使っているのとは桁違いに大きく、
直径は最大45ミリではなくて45メートルで、それこそ地学の資料集に載っているような写真をばりばり撮っている。しかし星の出している
電波等のパワーをお椀型のアンテナで読み取って映像化するので、レンズのついた望遠鏡とは全く仕組みが違う。みんなは45メートルの
スケールに結構感動していたようだが、僕の方はと言うと昔っから感性がちょっとずれていて、お椀を上に向けたまま雨が降ったときにも
水が溜まらないように、お椀を作るパネルに隙間を空けていたことにかなり感動した。そこを出ていったのは10時30分頃だが何と雷雨に
なった。朝から夕立とはびっくりし、4人は走って車に乗り込むと、すぐに雨が降り出してきた。結局お昼過ぎまで降り、あとはからっと
晴れた。以後はお昼にラーメンを食べ、そして野辺山駅へ行った。駅は標高1345.67Mで「日本で一番高いところにある駅」として、
たくさんの記念オレンジカードが売っている。オレンジカード収集家の私としてはつい買ってしまい、家にはプリペイドカードが200枚ほど
あり、ちなみに7割は未使用である。駅前にはたくさんの土産屋があるが、いろんな意味でとても買う木にはなれず夕方までの暇を持て余した
4人は駅付近の公園で寝る。こんな天気のいい昼間から観光地の公園で寝るなんてあまりにも不気味すぎる。多少の人たちがいた公園も4人が
来てからは誰も近寄ってこなくなった。八ヶ岳の見ながらの昼寝は心地よく、頂上付近で成長する雷雲もゆっくり観察することができた。
昼寝の時間まで研究するなんてさすが次期部長である(自画自賛)。その雷雲による2回目の雷雨に、4時ごろに遭う。先生曰く「何年か前、
畑仕事をしていた人が雷に打たれて死んだんだよぉ。」う〜む恐ろしき雷。そしてこんなローカルな話を知っているヨッツーもすごい情報網。
彼もある意味恐ろしい。地震、雷、火事、親父とはよく言ったものだ。その後又からっと晴れ、前日決めておいた八千穂高原スキー場(標高
1700m)の駐車場に行く事になった。
スキー場は夏なので全く人気はなく静かだった。そこでまず望遠鏡を組み立て夕食を作った。これまではずっとレトルトだったが、今回
初めて調理をした。あの「シーン」とした中で「ジャァー」と肉、野菜をいためるのだ。メニューはご飯、ベーコン入りコンソメスープと、
やはりレトルトのビーフシチュー。コンソメスープはマギーブイヨン(コンソメの素)の入れすぎで酸っぱくなってしまったが、はんごう
炊飯はとてもうまくできたのを覚えている。
夕食が終わり皿を紙で拭く頃「いちばんぼーしーみーつけた(多分金星?)」と言うような感じで星が出てくる。皿を拭くという日常と、
きれいな星空という非日常がかみ合わさって絶妙なムードであった。すこし感動していると隣で「ガチャガチャパチパチ」と、もう観測が
始まっていた。彼らにとってムードなんかどうでもいいらしい。これでは永遠に女子部員が入らないかもしれない。そういえば、僕も含めて
みんな女の子にはあまり興味なさそうだし、髪を染めたりピアスなんて考えたこともない!
時は移り、午後9時。光害がほとんどない空の星は音もなく輝いている。僕もやっと真面目に観測をし、生徒3人達は徹夜をしたのだった。
そして午前5時前の日の出。曇りがちだったが太陽が昇ってくるのを何分も見て、寝た。
朝の目覚めは9時。周りには幼稚園のとき刺された忌まわしきアブが数匹飛んでいて恐かった。急いでテントを片づけて車の中積む。僕は
虫が嫌いで、特にゴキブリなんか資料集の写真見るだけでドキッとする一方チョウは割と大丈夫で、青虫なんてかわいいとすら思っている。
また、寄生虫、細菌、ウイルスや、爬虫類、哺乳類、鳥類も好きだから、変なやつだ。動物を飼うのだったら呼んで返事をしてくれる様な
愛想の良い、犬、鳥、猫に限る。
話しは戻って、テントを片づけると忌まわしいアブはどこか行き、やっとカップヌードルが食べられる。と思ったがヨッツーの「お〜い
帰るぞ」の一言で朝食は無し。そして坂のくだりでこんどはエンジンブレーキの排気ガスを撒き散らし上信越、関越自動車道で朝霞高校に
着く。そこは35度の地獄だった。
1995年7月 八千穂高原スキー場 -Lunatich Dawn- |
第6話 文化祭とその後 1995.9
風が涼む9月。我が校は「ケヤキ祭」と称して文化祭がある。文化祭といえば日ごろおとなしい文化部達も総力を
挙げてアピールする。いや、しなければならないのだ。特に地学部等はこういうイベントがないと日ごろの成果が発表できない。
2学期が始まってすぐ、何を展示するかをヨッツーを含む4人で協議。95年は写真の展示、プラネタリウムと、個人研究、僕=気象発表、
シューヘー=太陽の視直径(地球が公転している事を実証するための観測)の発表、渡部先輩=宇宙塵の観測をやることとなった。まず一番
始めにやるのが写真の現像で、一刻も早く見たいこともあり8月中にやってしまう。しかし僕は8月下旬に北海道へ10日以上行っていたので
写真はシューへーに任せきりで、彼のひんしゅくを買った。しかし幸いな事に、お土産のウエファース菓子とJR北海道のC62オレンジ
カードで彼は思わずにんまり(するわけわけないか・・・)。後日現像したのをみたところシューへーが撮った写真はよく撮れている、渡部
先輩もうまい。しかし僕はろくな写真しか撮れてなく、まあいつもの事である。
9月中頃になると俄然忙しくなっていく。その中で最もたいへんなのがプラネタリウムのドーム型スクリーンの制作。場所をとる、手間が
かかる、紙代がかかる(1万円弱)挙げ句の果てには、保管しておけないので2日しか持たないという核廃棄物並みの最悪の物体である。
我々の使う地学室は授業で文化祭前ぎりぎりまで使うので、文化祭の2日ぐらい前まで作れない。そして文化祭に間に合わせるために、柱を
立て、表は黒、裏は白の紙(スクリーン)をきれいに貼る作業を大急ぎでやる。半球形の壁にしわを作らないでかつ急いで紙を貼るのは
かなりの難易度だが、部員以外で毎年何人か手伝いがきてくれる。持つものはやはり友である。ちなみにシューヘーはこれに加えて
プラネタリウムの説明づくり(リチャードクレイダーマンのBGM付き)、投影機の修理もしていて、もっと大変だったと思う。
そして当日、プラネタリウムはほぼ完成ずみだったが個人研究はできておらず、少なくとも僕の場合は朝早く来てぎりぎりまで気温グラフ
をプリントしてたような気がする。9時ごろ開会式が始まりしばらくすると、部活の文化祭展示紹介30秒CMであった。だが部長の
渡部先輩は誰が出るかも何もやるかも決めてなく、即行でせりふを考え、結局3人全員で出演するはめとなった。僕は単独でステージに
立ってしゃべるのは初めてだったが,二人の対話の後「あっ!・・・とにかく来てください」だけだったのであまり緊張しなかった。
後になってあのとぼけたせりふはかなり好評だったらしい事を知った。
開会式も終わるといよいよ一般公開である。作ったプラネタリウムを自ら体験し、いいムードに浸った後、公開開始。はじめは立地条件が
あまりよくない事も手伝い廊下にはだれもいなかったが、だんだん増えてOBの方もみえた。しかし、この時はつながりが全然無く、OBと
親しくしゃべる事もなかった。また外部のお客さんからいろいろ質問されても答えられない事もあって精神的に疲れた。特に地学は言葉で
説明できない質問が多く、お客をさらに混乱させたと思う。
次の日の夕方、文化祭は終わった。ここで一番つらいのはドームを壊す事である。みんな一見破壊魔になってドームを壊すが、複雑な
気持ちだったに違いなく、また大量の紙ごみがでるので「もしかしたら地学部は地球破壊学習部の略称なのでは・・・」と思ってしまった。
とにかく文化祭をあんなに一生懸命やったのは初めてであり、高校の楽しい思い出の1ページとなったのは間違いない。
渡部先輩はここで部活を引退し、新しい部長へ引き継ぎとなる。僕は一生懸命やり、天文気象両方の知識のバランスが取れている
シューへーに部長をやってもらいたかったが、彼は「ぜっったいにイヤ」と激しく反発。僕もあまり乗り気ではなかったが急に
「やるんだったら部員が2人で楽な今しかないっ!」と思い、部長を喜んで?引き受けた。
第7話 秋の観測→恐竜の足跡と紅葉ツアー 1997.10
文化祭も終わり10月。我が国では秋晴れが続き、絶好の行楽 天文シーズンである。観測好きな先生・シューへーは
もちろん、単に美しい星空にあこがれる僕も、オオカミとは逆で新月の日は血が騒ぐ。そんな訳で10月第4土曜日、夏休みに行った
八千穂高原スキー場に再び行く事になった。
朝9時頃秋晴れの飯能駅で待ちあわせ、国道299号で長野県へ行く。この道は埼玉から佐久方面に抜ける最短距離だが、途中に峠が2つ
(志賀坂峠=埼玉、群馬 ぶどう峠=群馬、長野)あり、道も悪い。極めつけは「ぶどう峠夜間通行禁止」という正に神秘の道である。
と中「恐竜の足跡の化石」がある群馬県中里村や、日航ジャンボ墜落の御巣鷹山がある上野村といった、これまた謎のベールに包まれた
感じの村を抜け、6時間かけて八千穂村に着く。
防寒具をしっかり装備して、点の北極点が北極星から1ーずれている事を今ごろ知った僕は「極軸合わせも理解したし、今度こそしっかり
写真をとるぞ」と決意した。しかし雲がたくさん出てきてしまったので、まだ暗くならないうちに急いで中央高速でとんぼ返り。国分寺に
着く頃には雨が降っていた。(八千穂では雪になったらしい)他の2人は知らないが、僕にとっては星は見られなかったけれど恐竜の足跡の
化石や紅葉が見られ、また神秘の道路を通れて楽しい1日だった。ちなみに月曜日からテストで2人共低得点だったのは言うまでもない。
後日談になるが、僕は2〜3日前から当日に雨になることを知っていた。もちろん先生も知っていると思い「天気下り坂になるのを
知っているのになんで行ったんですか?」と尋ねると「おお!そうだったのか」とのこと。そういう天気予報を見ないという、うっかりした
所が四元先生のヨッツーたる所以なのである。
第8話 葛生の石は屑じゃない 1996.3
スギ花粉最盛期の3月初め、我々は栃木県葛生へ化石採集に行く事になった。地学部に入って1年近く経とうと
しているが、2人共あまり化石に興味がないので地質系の校外活動はこれが初めてである。朝早く学校に集まり、ハンマー、クリノメーター
等を車に積め込んで東北自動車道で葛生に行く。
この町は採石場跡が多く、化石採集にはもってこいである。よくテレビ朝日の戦士モノ(ゴーレンジャーとか)の番組で、爆弾を使った
戦いのシーンに採石場跡が使われる事があるが、正にあのような所である。巨大な崖があるので立ち入り禁止の場所や、崖のぼりなど、
今から考えるとかなり危険な場所に連れていってもらったと思う。小回りのきく2人だから行けたのであって、今のように20人もいると
部員一人一人に目が届かなく、危なくて行けなかっただろう。
昼食は、梅の花がほころぶ中でカップラーメンを食べた。これは些細な事なので今まで忘れかけていたが、こうやって思い出すととても
懐かしい。ちなみに成果はフズリナの化石ばかりで(1個だけ海ユリの化石があった)、同じ種類だけたくさんあってもつまらない。
おかげで現在も50`以上もあるフズリナの岩が何のありがたみも無く中庭に放ってあるが、
もし50年経って再び母校を訪れた時、あの岩があってくれればこれもまた懐かしくうれしい。そう考えると「思いでの岩」として
大事に取っておかなければならないと思った。
天体写真館…ここの写真の、8割はシューへーが撮りました。