震災日記 〜2011年3月のこと

はじめに。

タイトルのとおり、本話は東日本大震災にまつわる内容となっています。
僕は家も親戚も友人も失うことなく、振り返ると何だか震災ライフを楽しんでいるようにも感じられます。 あくまでも僕の周囲の出来事を僕の主観で綴ったものではありますが、 多大な被害を被った方々及びその関係者の方の気分を害する表現が出てこないとも限りません。 該当する可能性のある方は決してお読みにならないでください。
また僕の率直な感想や意見をできるだけ正確なニュアンスでお送りしたいため、 普段の日記と異なる文体かつ非常に散文的です。悪しからずご了承ください。

3月11日(金)
14時46分。

ブックオフにて立ち読み中に揺れ出した。
揺れが強くなり、避難をするよう店内アナウンスが入る。 両サイドの本棚の下部、引き出しが飛び出してきては通路を狭め危ないことこの上ない。
今考えれば棚から落ちる本に埋もれる、あるいは棚が倒れて下敷きになるなど、 引き出しどころでない危険に遭う恐れが充分にあった。 よい子のみんなはそんな避難経路を取らないように。

出口に着く頃、奥の衣料品コーナーで棚が落ちる音がガターンと響く。 外では駐車車両がぎっしゃぎっしゃ揺れているわ路地の街灯がガシャーンと倒れるわ。
ここでようやく大ごとに気づく自分。
まあ欲しい本もなかったし(バカ丸出しだが、揺れが治まった後に引き続き店内を物色する気でいた) 帰ろうと、車を停めた駐車場まで歩き出した。

ある程度の地震が起きると必ずと言っていいほど避難中に転んでケガをする人が出て、 僕はそのたびに何で足腰が弱っている年代でもない奴が転ぶんだと思っていたわけだが撤回して謝罪します。

まともに歩けない。

酒を飲んでもぐるぐるバットをやってもいないのに、前後左右によたよたと足元がおぼつかない。 意識がはっきりしていて思い通りに歩けないのは気持ち悪い感覚だった。

それでも歩き続けて数分後にはそれも治まり、商店街に入る。

停電。信号も止まって渋滞する車。あちこちから鳴り響く緊急車両のサイレン。 ブロックが盛り上がったり沈んでいる歩道。段差のできたアスファルト。建物から出てきた人で混雑した歩道や駐車場。 内部が荒れ果てた店。割れたガラス。剥げ落ちた外壁。傾いて隣家に寄りかかりそうな家。

想像したより遥かに巨大な地震だったと、爪痕を見て思い知らされる。

無傷だった車に乗り、何とか帰る途中にも崩れかけた民家や道路の段差を目にする。
帰りがけから降り出した雪は強くなってきている。カーラジオからは津波がどうのとくり返し流れている。
地震、津波、加えて雪。なんて悲惨な組み合わせだろうか。

いまいち他人事のように感じているのは、他人事だと思っていたからだ。
ここまで被害を受けたのは先述の市の方で、自分の住んでいる町は、 まあ揺れはするだろうが停電まではしていないだろうと甘い考えがあった。
バッチリ停電していた。
いつも通る道に通行禁止箇所ができるほどの揺れが地元でも起きていた。
途端に家が潰れているかもしれんという思いがよぎる。 築27年の古さに加えて、元々田んぼだった地盤の固さに不安があったからだ。

結果的に家も親の車も人も猫も無事だった。もっとも猫は外へ逃げ出したきり帰って来ないため直接ではないのだが、 本震の直後にビビッてうずくまっている姿を母が確認しているで、まあ落ち着けば戻ってくるだろう。
茶の間にある棚の客用カップとグラス、2階にあった飾り棚とその中のガラス製品の一部、 米びつ収納庫の扉が破壊された程度の被害であった。 自室も物がいくらか散乱し、本棚が本をまき散らしつつ前進してきていたくらいで済んだ。 1冊、ゴミ箱にミラクルシュート決まっているのを発見した時はやや悲しかったが。

あらかた片づけたところでライフラインを確認。
電気と固定電話が止まっていた。安否確認のメールを友人2人に送ったところで携帯も不通になった。 水道は出るし、ガスも使える(この辺りの古い家は大体プロパンガス)。 かなり古いが物置から引っ張り出してきた石油ストーブで暖も取れる。 父が「停電が起きた時に備えて取っておけ」と捨てずにいたものだ。父の英断に救われる。

こんな感じでうちは何とかなりそうだが、ここ数年で隣りにできた住宅の方々はそうはいかない。
オール電化なのである。
そしてすべての家が石油ストーブなど備えていない。 実家から借りてきた家もあるようだが、暖は取れても湯を沸かす程度の調理しかできない。 借りることもできない家は実家かどこかに転がりこむか、電気の回復をじっと待つしかない。 当たり前だがオール電化は電気がなければオール無能なのである。
これが分かっているからうちは電化したくないのだと、しつこいオール電化のセールス電話が 今度かかってきたら宣言したいと思う。

夜、ろうそくの明かりでの夕食は気が滅入るものだと知った。照度が足りないせいだろうか。
ラジオをつけっ放しにしていたにも関わらず、大津波が起きたと報じていたことに今さら気づいた。 帰りの車中でも聞いていたはずなのに、恐ろしいほど覚えていなかった。 よくよく聞けば尋常でない被害が出たらしい。

僕がよく行くブックオフは家からほぼ同じ距離に内陸側と海側、2店ある。 もし海側の店舗に行っていたら、程度は分からないが確実に巻きこまれていた。 内陸側に行ったのはただの運でしかない。

強い揺れが来たらすぐに逃げ出せるよう、玄関に近い茶の間で眠る。 貴重品も枕元にスタンバイし、服とコートは着たままだ。

自身に被害がないとはいえ、やはり精神が高揚しているらしくまったく寝つかれない。 余震にしては強めの揺れがしばしば起こり、そのたびに身構えるから余計だ。
ラジオからは局がキャッチした情報やリスナーのメールにより、津波の凄惨な様子が語られる。

「●●町、壊滅です」
「胸まで水が上がってきています。救援願います」
「■■の路上で200〜300体の遺体が見つかったようです」
「**町、依然連絡がつきません」

地獄絵図が脳裡に浮かび、ヘタなホラーよりリアルで怖い。

阪神や中越、スマトラ等、今までにも悲惨な地震は起きていた。
しかしやはりそれは遠隔地で起きた出来事で、言ってしまえば無関係だった。 次々伝えられる被害情報や写真を見て「ひどいな」とは思うがその程度だった。

自分の生まれ育った県で災害が発生し、行った場所、行ったことはなくても聞き慣れた地名が 次々と被災地としてコールされていく。

こうなって初めて、地震災害の恐ろしさを身近に感じた。


途中、政府だか誰だかが今回の地震を「東北地方太平洋沖地震」と名づけたと報じられた。
雪の中、取り残されて恐怖する人、音信不通の家族や親戚を心配する人、救助に奔走する人、 そんな人々が多数いる中で、時間を割いて決めなければならないほど地震の命名は大事なんだろうか。

そこにも他人事の気配が感じ取れた。

3月12日(土)
注:起きた時点で日付を区切っているため、深夜の話は前日扱いしております。


寒さと余震でろくに眠れず夜が明ける。
母がガス式炊飯器をぶら下げ、炊いた白飯をIHクッキングな近所に配りに行った。 この人のこういうところは単純にすごいと思う。

一夜を外で明かした猫が帰って来た。
喉を鳴らす振動なのか寒さなのかよく分からないが、全身でブルブル震えていた。
ふと田代島の猫のことが気になった。住民より数が多いという猫達は、無事に朝を迎えることができたのだろうか。 それとも津波に呑まれてしまったのだろうか。

刷られるかどうかから心配だった新聞は、いつもより遅く、非常に薄かった。 事前に準備されているのだろうから仕方ないが、折り込まれた特売チラシがもの悲しい。
案の定紙面はほとんどが地震の記事で占められており、そこで初めてビジュアルで被災の様子を知った。 写真は事実を写しているに違いないが、嘘だろと思うような光景ばかりが広がっていた。

ラジオは電波塔に障害でも発生したのだろうか、 明け方近くからいつもの局が遠くなり、何故か韓国語や英語の番組が割り込み始めた。 やむなくNHKに合わせるが、どうも一歩外から災害を眺めている感が否めない。

散歩がてら町内の状況を見て回る。

昨日の帰宅時には気づかなかったが、道路はあちこちひび割れや段差ができていた。
後日他町へ行った時もそうだったが、橋や歩道とアスファルトとの繋ぎ目には大体段差ができていた。 車道よりむしろ歩道の方が破壊度が高いように見えたのだが、歩道は大抵放置、 気が利いててフタが外れた側溝や陥没箇所にパイロンが置かれている程度である。 車なら何てこともない段差でも、自転車では難儀な場合もあるのだが。

建物は長年建っていた風体の家や納屋や塀の外壁が剥げたり瓦が落ちたり崩れたりしていた。 隣りの建物に寄りかかっている家屋もあった。 昨日の通行禁止箇所に手書きの看板を無視して進入してみると、建物が電線を引っかけつつ倒れ、道路を塞いでいた。 そりゃ通行止めにもなるわ。

開いていたコンビニでは店員が人数制限をしつつ店内に入れているようで、人が列を作っていた。
震災後の店というと客が我先にと殺到して溢れているイメージしかなかったが、存外皆冷静だ。 まだ朝なのにろうそくと乾電池とパンはとうに売り切れたらしい。
スーパーには開店1時間以上前にもかかわらず長蛇の列ができていた。 こっちも大人しく並んではいるが、やはり皆必死なんだなと思う。

墓地へ行ってみると、多くの墓石や法名碑や灯篭?がズレたり倒れたり割れていた。
我が家の墓は石がズレて骨堂が覗いていた。塞ぎたいが墓石は当然びくともせず、花立てと線香台だけ直す。
ふと見ると、向かいの家の墓石がジェンガの向こうを張る絶妙なバランスでせり出していた。 大変危険なので、よい子は地震の可能性があるうちは墓に近づかないように。
同じ菩提寺である母の実家の墓も見に行ったら、●●家と書かれた石が後ろにひっくり返っていた。 割れなかっただけ幸いか。当然持ち上げることなどできないので、やはりズレた花立てと線香台だけ 直して帰る。祖父さん祖母さんすまん。

昼前に帰宅すると断水していた。
前日から反応が鈍くなっていた携帯も圏外になっていた。

ラジオを聞いていると「連絡ください」と安否確認メッセージを送ったり、災害伝言ダイヤル171 ないし災害伝言板をご利用くださいとよく言っているのだが、あまり被害のなかった我が町でも そのどれも利用できないのである。被災の真っ只中では余計に連絡のしようがないはずである。 まして様々な情報をネットで配信されてもどう取り出せというのだろうか。 例えば各避難所に身を寄せている人のリストなど、一番必要としているのは被災地でバラバラに なってしまった家族だろうに。

まだストックはあったが念のため、4Lペットボトルを手に給水所へ行ってみる。

ここにも長蛇の列。1時間待って2、3mしか進まないため諦めて離脱する。
見ればでかい漬物樽を持ってきている者もいれば、 あろうことか軽トラにポリタンクを10個近く積んできている者もいる。 マナー違反も甚だしいが係員も係員、ご丁寧にもそれを満たしてやるから進まない上に全員に回らないのだ。
個人で分けているならまだしも行政が主体となっている吸水所である。 こういう時は1人●Lまでと割り当てて然るべきではないのだろうか。
と思っていたら後に取り分が決められたらしい。気づくのが遅い。

3月13日(日)
今日も携帯は圏外。バッテリー温存のため電源を切る。

頭がかゆくてかゆくて仕方ない。
このままでは寝ている時から起きている時から、ハゲるか血が出るまでかきむしりそうなため洗うことにする。

風呂の残り水なのはこの際構わない。配管から出てきたサビが底に沈んでようと上澄みを使えば済むことだ。 しかし寒い時期に水で髪を洗うのは洗髪ではなく荒行だと、数年前浴室リフォームの際に経験した。 修験者体験はもういらない。
結局鍋で湯を沸かし、水でうめて(温度調整並びに増量)洗う。 シャンプーの泡ガン消え。もう一度洗いたいところだが諦める。 掻痒感が払拭されただけよしとしなければならない。

母が近所の人から自転車を借りてきた。
荷台に幼児を乗せる椅子のついたママチャリではあるが、ガソリンスタンドが休業中で車への給油できない以上、 活動範囲を広げる足として大いに活躍が期待される。

早速母は自転車、僕は徒歩で骨堂を塞ぎに墓地へ行く。
ズレたのは墓石だが動かせるはずもないので花立てと線香台の下の台をずらして塞ぐ。浸水防止にビニールをかぶせて テープで止める。見栄えは悪いが応急処置だ。落ち着いてから業者に直してもらえばいい。

午後、借りた自転車で隣町の親戚を訪ねる。
自転車で来たことに大層驚かれたが、たかが8km程度、驚くほどの距離だろうか。
家人は無事で、ライフラインのダメージは似たようなものだった。

安否確認を済ませ、もう少し先まで足を伸ばしてみることにした。
目指す市は津波の被害が出た被災地である。どんな状況か確かめてみたかったのだ。

1時間ほどペダルをこぎ続け、市に入る。
この時期の田んぼに水があり、用水路に魚が浮いていてよく見れば普段と逆方向に流れていたのが津波の名残なのだろう。 道路は車と食料品や日用品を探し求める人で活気づき、店舗の9割以上が休業していることとやたら自衛官と警官が 多いことを除けば普段の日曜と変わらないように見えた。
その辺りはせいぜい冠水した程度で、あからさまな被災地はもっと遠くまで行かなければならないのだった。 しかし十数年ぶりの自転車をのっけからハードユースした僕の脚力は限界だった。
どうせ行っても立ち入り禁止さと諦め帰路を辿る。

ああしかし物見遊山の天罰か。
帰路は強風だった。あまつさえ向かい風。超アゲインスト。
農道は吹きっさらしで防風壁代わりになるものもほぼ皆無で、強風にさらされるたびペダルが重くなった。 おまけにサドルが硬く、ずっと座っていると尻が痛い。
しかし進まなければ帰れない。引いて歩いても重い自転車を捨てていくわけにも当然行くまい。 自業自得という言葉が何度も浮かんだ。

何とか帰宅。
この季節に汗をかくとは思わなかった。そして明日はきっと筋肉痛に苛まれることだろう。

3月14日(月)
地震以降営業しているガソリンスタンドが減り、ガソリンそのものも供給が滞り、入手が困難になっている 状況が続いている中、昨日、町内の某店で1人10Lまで給油できるらしいとの近所情報を入手。
僕の車は半分ほど残っているのでこの混雑時に入れる必要もないのだが、母の方は給油ランプ点灯直前だった。
協議の結果、2台で出向き、満タンにしても10Lは入らないであろう僕が先に給油をして余った分を母方に 入れてもらうよう交渉してみる作戦を取ることにした。

開店時間は9時である。7時に出発したのだが、スタンドには既に列ができていた。 待ってる人はいることは予測していたので列の最後尾を目指す。
おいおい結構長いぞこれ。ホントに並ぶのか? とルームミラーに目をやると、 僕が通り過ぎたセブンイレブンで母、裏切りのUターン。

待てコラアァァッ!

給油目的が消えた僕は即帰ることにした。第一この行列に並び、ちょいちょい進んで10Lを補給するより、 今タンクにあるガソリンを温存しておいた方が得策に違いない。 僕がスタンドに辿り着くまでにガソリンが品切れにならないとも限らないわけだし。
しかし道路にUターンできる場所がなく、もしできたとしても片側1車線の道路の1車線が給油待ちの列で 塞がっている状態である。回っても進めないこと請け合いだ。
迂回路となる交差点まで進んだ結果、列は1km近くあった。 給油と関係ない運転者にとっては甚だ迷惑に違いない。緊急車両が通らなくてよかったと思う。

1時間後、母が帰宅。途中に通過したまだ列の短いスタンドに並んでいたとのこと。 が飽き飽き待った後で給油はないと言われたらしい。ムダ足ですか? そうですムダ足です。

午後、↑の帰りに母が御用達の店に頼んできた灯油を自転車で取りに行く。

少々遠回りをして路地を通ったら、小さな和菓子屋が営業していた。
ガラスに貼られた「さくら餅」の文字にそういう時期だったと思い出す。
今後原材料がいつ入荷するか分からないが、今ある分がなくなるまでは作るよと、老店主は明るかった。

桜餅とうぐいす餅を購入し、カゴに入れて灯油店へ。
普段は配達してもらっているのだが、やはりガソリンがなくあまり車を動かせないらしい。 おまけに灯油を汲み上げる装置も動かせないため、手動で汲み上げているとのこと。かなりの重労働。 こういう生活を支えている業者にも優先的に給油させてやればいいのにと思う。

後から店にやって来たおばはんが不注意にも自転車にぶつかり、借り物の自転車は倒れ、 菓子屋の袋は地面に放り出されて転がった。
「桜餅が!!」
心の声ではなくマジで口をついて出た。幸い自転車にダメージはなく、桜餅がうぐいすきな粉にまみれた 程度で済んだが、ほんの一瞬、心の底からイラッとし、続けて絶望的な気分になった。
我ながらそこまで浮沈しなくてもいいだろうにと呆れる。情緒不安定だったのだろうか。

3月15日(火)
新聞が届かない。

@配達員のガソリン切れか、A新聞店へ輸送する車のガソリン切れか、はたまた B新聞そのものが印刷されていないか。おそらく@だろうと思いつつ新聞店へ赴くとその通りだった。 近所の分も数部いただいて帰る。
ガソリン不足の影響か。職場が仕事をできる状態にないからか。平日の朝だというのに 道路を走る車の姿はほとんどなく、静まり返っていた。

石原慎太郎の天罰発言が新聞に載っていた。
津波に呑まれた赤子や避難もままならない老人や救助ないし避難誘導をしていた人も我欲の塊か?
そういえばいつの間にか地震の名称が「東日本大震災」に変わっていた。 「東北・関東大震災」というのも耳にした気がするが、だからそんな改名に費やす時間がどこにあるのか。
傲慢極まりない発言をした都知事と、震災、原発、どちらに対しても対応が温い政府。
津波が天罰というのなら、そっちこそふさわしい。ピンポイントで流されろ。

自転車の幼児椅子にプラスチックの漬物樽を鎮座させ、水をもらいに行く。
先述の給水所ではない。近所で井戸を所有している家や、どういうわけだか断水していない地域の家が 分けてくれるので、そっちを回るのだ。公設の給水所より早いし、出所が判明している分安全である。

ちなみにポリタンクがなくても、バケツ等に新しいビニール袋をセットしてそこに水を入れ、口を結んでしまえば 多少の震動でもこぼれず、かつゴミも入らず衛生的に水を運搬、保管できる。
早朝のラジオで流し聞いた災害時の知恵が早速役に立つとは思わなかった。 ありがとうNHKではなくその時話をしていたゲストの人。

ついでにここ数日の食生活の話もしておこう。

我が家の場合、ガスが使え、水もある程度確保でき、食材のストックもそこそこあり、人数が少ないため ほぼ普段と変わらない食事を摂ることができた。

主食に関しては元々そんなに食べないカップ麺の買い置きはないが、お中元のうどん(乾麺)が1箱残っていた。 白米もそこそこ、いざとなったら玄米をビンに入れて棒でついて精米するという手段もある。 最終手段として薄力粉の買い置きで麺なりパンなりすいとんなり作ることも可能だ。
いくら何でもこれらすべてが尽きる前には物流もある程度回復するだろう。主食は万全だ。

続いておかず。
まずは冷凍庫内の食品から、いい機会とばかりに一掃を始めた。
完全解凍されやわやわになった市販の冷凍食品からフライパンないし石油ストーブ上で焼いて食べ、 作り置きした惣菜、魚、肉と片づける。肉は意外にも解凍が遅く、長持ちした。
そこまでするかと思われるだろうが、アイスも飲んだ。 まさかアイスに「飲む」という動詞を使う日が来るとは思いもしなかった。 ムースのようなふわふわした上部と液体の2層に分かれたアイスを混ぜると、 やや甘いがシェイクのようで割と美味かった。カップアイスだったからできた技だろう。
冷蔵庫内で足が速そうなのは牛乳、豆腐、納豆、ハム程度で、これも悪くなる前に片づけた。 後に入手困難となる物ばかりである。

非常事態には入手しにくくなる野菜も、生産者が出荷できない野菜を持ってきてくれたため潤っていた。
これがうちでは到底処理しきれない量のため、余剰分をよその家に持って行く。 するとその家が自宅で栽培している野菜や、あるいは勤務先の店で売り物にならなくなった生菓子や コーヒー飲料をくれる。それをまた別の家へお裾分けして――と物々交換状態になっていたため、 結構な間食料品を買わずに済んだ。
これすべて近所づきあいをおろそかにしなかった親の賜物である。親の人徳で生かされている俺。

深夜、NHKの地域非密着な報道にイラッとする。
静岡で起きた地震には緊急地震速報の耳障りなアタックを流し、仙台局からの報道を遮っておきながら、 その後こちらが揺れた時には速報も出ず、カットインもして来ない。
仙台局も東北のライフライン情報において、他県は電気ガス水道と一通り伝えたのに対し、本拠地宮城は 無料公衆電話の設置箇所だけ伝えて終わりというのも意味不明だ。

他県を無視していいというのではないが、地元がリアルタイムで必要としている情報が何か分からないなら、 電力のムダ遣いにしかならない放送を止めてもらった方がきっとマシだ。

3月16日(水)
今朝も新聞を取りに行く。

帰宅するや「某ガソリンスタンドで給油できる、しかも今ならそんなに並んでいない」という話を 仕入れた母が飛んで行った。
「電気が来れば」というオチがついていた。母、2度目のムダ足。 落ち着くまで給油は待とうという、ガセに踊らされた前回の教訓が生かされていない。

ラジオのチャンネルを回してみたら、我が家御用達の東北放送が受信できた。さらばNHK。

被災後2度目の洗髪。浴槽の残り水が少なくなってきたため、底のサビまで汲み上げてしまわないよう 水をすくうのが結構な真剣勝負。

なぜか町の中心部ではなく外れの方で電気が復旧したらしい。
ならば携帯の基地局も復活しているかと電源を入れてみる。久しぶりにアンテナが立った。
すかさずメールをくれていた友人に返信し、親戚に電話をかける。電池残量がわずかなため、 「充電がないから用件のみ。無事。隣町の親戚も無事。じゃ後で落ち着いたらゆっくりと」 程度で通話終了。4件目で電池残量不足の警告音が鳴り、携帯は再び眠りについた。 親しい親戚には全員連絡したので、他は固定回線の復旧後でいい。

夕方、区長が配給されたというボルヴィックを持ってきた。今頃か。
ついでに水が出るぞと言い残していった。確かに出た。 水を汲み置いた翌日に。配給された当日に。
念のため汲み置き分はそのまま保管。浴槽の残り水も、たゆたうサビ共々排水し、新たに貯めておく。 まだまだ油断は大敵だ。

3月17日(木)
昨日、僕同様新聞を取りに店へ行った近所の人が、17日からは何とか配達すると言われたらしいが、 確認の意味もこめて新聞店へ出向く。

近くへさしかかった頃、しばらく静かだった町が何やら今日は騒がしかった。
どうも誰かが大声を張り上げているようだ。 震災ストレスでキレたか気が触れたかした奴がついに現れたかと思う。

現場が見える位置まで来ると、道路中央に騒いでいる男。取り囲むように5人ほどの男。中に制服警官もいる。 さらに数歩離れて、騒ぎで表に出てきた近所の住人らしき男が2、3人。 脇に給水用のでかいタンクを積んだ軽トラと乗用車とパトカーが停まっている。
中心となっている男は泣きに入っているのか酔っているのか判断のつかない口調でまくしたてている。

「俺ね、ホントはね、おまわりさんスゲェ尊敬してんですよ。ありがとう! (と言って近くの私服警官?に抱きつく。隣りの人にもありがとう!と向かいかけたが制止される)」
「俺はね、早くね、この水を●●●(被災地)に届けたいだけなんですよ!」
「わかるでしょ? 俺本当にね、そんな人間じゃないんですよ。こいつらウソなんですよ (近くのおっさんを指している様子)」

大体こんな感じの話から察するに、軽トラを運転していた騒ぎ男が電柱か標識か嘘つき呼ばわりされた おっさんの車にぶつけたのを咎められて口論になったのであろう。 ただの憶測なので事実は不明だが、軽トラの前照灯が破損していたので事故ったのは明白だ。 男のパフォーマンスは信憑性をなくす効果しかない。素直に謝った方がいいと早く気づいて欲しい。 早朝から迷惑だし。

とりあえず僕が絡まれる危険性はなさそうなので、そのまま横を素通りして新聞店へ。

聞いた話を確認すると、我が家の地域まではカバーできてないと言われた。 急場で集めた学生らしき自転車部隊が配達に当たっているようなので、それもやむを得ない。 やはり数部いただいて帰路に着く。

道中、対向して来たおっさんに挨拶されたので、こちらも返す。それで終わりのつもりでいた。

おっさん「タラさんだよね?」

知り合いか?! 脳内記憶帳を高速でベラベラとめくり始める。

おっさん「お母さん元気?」

母の知り合いか? ならば一方的な知り合いの可能性もあるが、どこかで見たような気がしないでもない。
絞り込み検索をかけた結果、小学校の同級生Oさんの父親ではないかとはじき出された。 それなら親同士で親交があったかもしれないし、Oさん父は今立ち話をしている近くで 整備工場を営んでいるので、通りがかりに見かけていても不自然ではない。

僕「おかげさまで元気です。そちらのご家族は?」
おっさん「みんな無事でした。家は大丈夫だった?」
僕「ちょっと食器類が壊れましたけどそれくらいで。店、大変ですね」

Oさんの工場は地震で側面が壊れていた。

おっさん「まあ、でも中は大したことないから」

などと社交辞令的な挨拶をして別れる。
帰宅後、母にこれこれこんな人がよろしくと言っていたと伝える。

母「それ、多分Iさんだよ」
僕「・・・誰?」
母「いっつも行く、友達のとこの花屋さん」

言われて思い出した。幸いなことにIさんの花屋は通行禁止区域にあり、彼岸の稼ぎ時だというのに 店頭販売ができずにいたため、勘違いしたままでも奇跡的に噛みあっていた。 固有名詞を出さずによかったと心底思う。

朝食後、投函されていた新聞を発見。
配達されてるじゃないか。もらってきた新聞どうすんだ。
まあ配達されたなら、僕が行かなくて済むのでそれでいい。雪も降ってきたしなーと思っていたら ご近所が新聞を取りに来た。配達されなかったらしい。もらってきた新聞が少し報われた。

親が防災ラジオライトで携帯の充電ができたんじゃないかと思い出す。
それは地区の消防団が余った会費の還元策として購入し、6日の日曜という神がかり的タイミングで 配布していったものである。今はラジオや懐中電灯を備えていない家も多いようで、 このラジオライトはかなり好評を博したらしい。ナイス消防団。

というわけで箱を開けてみる。本体は乾電池とハンドルを回すことによる充電と2種利用できるのだが、 携帯の充電は手巻きでしかできないらしい。
本体と携帯を接続し、レッツ充電!
じゃこじゃこじゃこと1分間に120回転。 労力に見合わない充電量に、手巻き充電はあくまでも緊急用なのだなと思い知る。

前日連絡しそびれた親戚に電話をし、電源を切る。そろそろ電気が通ることを期待しつつ。

3月18日(金)
新聞店に確認に行こうとして、ふと近所の温水器がごんごん唸っていることに気づいた。
もしやとブレーカーを上げてみる。
電気キター!!(°∀°)

ならばと固定電話の受話器を取ってみる。
電話通じたー!(´∀`)

しかしまずは新聞だ。
ちなみに災害後の通電時は@ブレーカーを下げ、Aコンセントを抜き、Bブレーカーを上げ、 匂いや煙などの異常がないことを確かめてからCコンセントを差しこむように。 配線がいかれていて火災が発生する恐れがあるためby東北電力。

新聞店によると本日の我が地域はいつもの配達員が動いているので大丈夫らしいが、 念のため少しいただいた。我が家は配達されたが、 やはり配達されなかったご近所が取りに来る。なぜだ。
新聞店に問い合わせると、店側でも自転車部隊も入り混じっている現在、 誰がどこを配達しているか把握していないらしい。どこもかしこも混乱している。

1週間ぶりのメールチェック。
メルマガやゴミメールがどれだけたまっているかと恐ろしかったが、自粛したらしく 思ったほどたまっていなかった。安堵しつつ若干の寂しさも感じた。

こんな時でも彼岸は来る。例年にならいおはぎが作られる。
古米と化した餅米と、停電中に解凍されてしまったあんこの処分を兼ねていることは内緒だ。 そのためいつもより大量にできたおはぎをよそへ持っていくこととなる。 行くのは僕。もちろん自転車だ。

ついでに農家にもらったほうれん草もわさっと積みこみ、町内の親戚宅を訪ねた後 先述の隣町の親戚宅へ。
被災地に近いせいだろうか、未だライフラインはいずれも復旧していなかった。
市町村レベルの単位で見た場合に大きな被害がない地域は、大抵報道に載らない。 それでも家や家族を失った人もいれば、不自由な生活を強いられている人も多数いることを 知っていて欲しい。

ラスト3軒目へ向かおうとして気づく。向かい風だ。 そしてやはり強い。

3軒目の友人宅へは1度我が町へ戻り、別方向へ同程度の距離を行かなければならない。 あまつさえその道路もまた8割強は両側が田んぼの吹きっさらしであった。
魔の刻再来。風向きは常に前か横から、おまけに嵐のごとき強風であり、 ハンドルは取られペダルは上り坂ばりに重さを増していた。
今日は遊山ではなく用があって動いている。だというのにこの仕打ちは何ゆえか。
人生について考えながら、おそらく通常時の倍以上の時間を費やして防風壁 (一般的には住宅地と呼ぶ)にたどり着き、目的を果たし体力も使い果たした。
しかし帰りはほぼ追い風だ。さあ思う存分吹けよ風とばかりに農道におどり出る。
弱まっていた。無言のまま人力で帰宅。

友人に今日電気が復旧したから今夜から風呂に入れるぜと吹いてきたが、 帰ったら断水していた。朝風呂の習慣がない自分に激しく後悔。
もしや電気も止まるのではと懸念を抱いたが、その後も通電したままだった。 温かい便座。電気ってありがたい。

別の友人から「知人から送られてきた」メールが転送されてくる。

要旨は「福島原発の放射能問題による今後予想される被害と取るべき対策」。

内容はいちいちもっともだが、どうにもチェーンメールくさい。
「医者が言っていた」とか「原発職員からの情報だ」という記述や、 有無を言わさず次々たたみかけるような文章もチェーンの特徴に思える。 大体「あと1日2日で放射能が届く」と言われても、やたらFwとReがついたこのメールが 最初に送られたのがいつのことやら。

送信してきた友人にはチェーンだと思うと返信し、「できるだけ回せ」の指示は無視した。 万が一メールの内容が事実であったならば、僕は犠牲を拡げた大罪人だ。 ちょっとドキドキ。

就寝前、新聞配達員あてにここにも配達してくれと、ご近所宅までの地図を書いたメモを投函口に貼る。
何でうちがここまでしなければならないのだろうか。

3月19日(土)
メモがなくなり、ご近所は来なかった。やっとお役御免だ。

母の花粉症の薬が底をつきそうになっていた。
しかし行きつけの医院は隣市にあり、うちから約20km、 未だ電話が通じず開院しているかも分からない。 ガソリン不足の今、行ってみたらやってませんでしたなんてムダ足だけは避けたい。

行くぜ相棒(自転車)。

ちなみに普通20kmを自転車でなどといったら遠慮しそうなものだが、 母は自ら行ってくれと言い切った。花粉症に悩む者の必死さが窺える。

この数日で長距離走行に耐えうる乗り方を見つけていた。
グリップに肘をつき、ネックを握る前傾姿勢。 安全上ほめられた乗り方ではなく、タルいポーズなので見た目にもよろしくないが、 上腕と尻を筋肉痛から守るにはこのスタイルが最適だったのだから仕方ない。 危険性の少ない道では極力この姿勢で運転した。

結果的に医院は開いていて、薬をもらうこともできた。
途中、通行止め箇所もあったがすき間から通り抜けられたことを考えれば自転車で正解だった。

坂さえなければ。

分かってはいたが医院への道は山岳ステージだ。
ポイントは3ヶ所、その内往路の最初、転じて復路の最後は山越えもかくやであり、 こいで上ることが到底不可能な傾斜と距離を兼ね備えた最大の難所である。
体力が十分にある往路はまだしも、帰りはただただ地獄。 重い自転車を引きながら、逆境時の意味不明な自嘲が何度かもれる。 追い抜いていった自衛隊災害派遣第6師団の車に俺も助けてくれとすがりつきたくもなった。

久しぶりにテレビをつける。
ラジオで聞いてイラッとしたCMが映像つきで放送されていた。その画がことさら気に入らない上に、 家電量販店のテーマソングon店内放送ばりに連続で流れるから始末が悪い。
企業CMを自粛するのは分かるが、ならばCM流さなくてもいいではないか。

後日談になるが、このCMはその後も延々、どのチャンネルでもしつこく放送され辟易した。
きこりんを見た時に、僕が旧知の友に再会したに等しい感動を覚えたのは言うまでもない。

さらに後、件のキャラ共に個々の設定があると知ることになったのだが、 それもまたどうしていいか分からなくなるほどツッコミどころ満載であった。
興味のある人は多分ホームページに掲載されていると思うので検索してみるといい。 後悔するはめになっても責任は取れないが。

3月20日(日)
今日明日の午前中に試験通水をするらしいと、友人が役場でしつこく聞き回った情報を リークしてくれたため、朝からちょいちょい蛇口をひねる。

出た!

前回(18日)の失敗はくり返さないぜ! とばかりに即洗濯。即風呂掃除。即入浴。
久しぶりだからか一番風呂の熱さからか、頭からかぶった湯は肌にじんと染みた。
頭も2度洗う。水がもったいないと思う気持ちが残っていて、シャワーは使えなかった。 それでも不便は感じない。 とにかく40℃の湯は気持ちいいし、思い切り洗い流せるのは楽だった。

親が差し入れに持って行く菓子を買いに和菓子屋へ行く。
14日以降、茶菓子やちょっとしたお礼にと買いに来ていたら、開業何十年の歴史中、 たった4回の来店で常連にされていた。 短期間で集中的に通い、老店主の話につきあっていたせいだろうか。

話ついでに先日から気になっていた、比喩でも何でもなくショーケースに無造作に転がっている まんじゅうは何なのか聞いてみた。
曰くうわがけが思うように仕上がらず、商品にならない物らしい。
にもかかわらず個包装されているから訳あり品として販売しているのかと思いきや、 前述どおり転がってるさまからは売る意思がまったく感じられない。意味不明である。

老店主は惜し気もなく、その転がっていた4個すべてをくれた。常連効果か。 ありがたいけどいいのだろうか。

が、帰宅後ふと気づく。

個包装は脱酸素剤が入り、熱着密閉されていた。
以前訪れた際、停電で熱着する機械が使えずにセロテープで封をしていると言っていた。

ではこの熱着包装が施されたまんじゅうが作られたのはいつか?

2日前に店の前を通った際も転がっていた記憶がある。 通電がうち同様2日前からならその日以降に作ったのかもしれないが、今日購入した他の菓子は すべてテープ留めだ。昨日一昨日の製造分だけシーリングするというのも考えにくい。 その前に通電していたのは震災前、直近でも11日という計算になる。


・・・・・・・・・。


皮が若干硬くはなっていたものの、味は問題なく美味かったです。


今日は日帰りバスツアー中のあれこれを書けるはずだった。地震さえこなければ。

3月21日(月)
本日も試験通水開始と同時に風呂を沸かし入る。

さすがに震災後10日も過ぎると開いている店も増えた。
町内の大型チェーン店は本来の営業時間には及ばないものの大体営業を再開し、 個人商店はむしろ普段よりにぎわっている。そもそも祝日に営業していること自体珍しい。 近所の常連くらいしか客がいなかった商店ですら、他市町村から訪れる客がいるという。 皆食料を手に入れるのに必死だ。

散歩がてら大型スーパーを通りがかったら並ばず入れるようだったので、ふらりと覗いてみた。
ここでは1人10点までと制限されている。
にもかかわらずカゴに山盛りの商品を入れている人はどういうつもりでいたのだろうか。

惣菜、パン、ハム等加工肉、牛乳、ヨーグルト、豆腐、納豆のコーナーは商品が一切なく、 菓子やカップ麺の棚もポツンと数点残っている程度だった。
15時の閉店間際だからというよりは、入荷量が圧倒的に減っているからだろう。

あと十数分で閉店という頃、店員がパンコーナーにパンを並べるというか広げ始めた。 といってもマーガリンとジャムだか何だかを挟んだコッペパンとでかい三角蒸しパンの2種類しかない。 しかし途端に客が群がり出し、我先にとパンをカゴに放りこんでいた。 傍らのケースから持っていく者すらいる始末。
皆パンに飢えていたのか。それとも調理せずに食べられるから人気なのだろうか。

とりあえず近所では栽培していない根菜としめじを購入。
我が家では先述の物々交換により食材に困らなかったので、これが震災後初の買い足し。


ここで少し牛乳の話をしよう。

震災後牛乳が不足しているのは、設備の破損、停電、燃料不足、人員不足等の理由により 工場が動けなかった、あるいは現在進行形で動けないためである。
だからといって乳牛の乳まで止まるわけではもちろんない。牛は毎日乳を出す。 搾ってやらなければ体調を崩すため、酪農家は毎日、停電中は言わずもがな手で乳を搾る。 しかし工場が動かないのだから出荷できない。もちろん保存もできない。

かくして牛の恵みは棄てられる。

ちなみに震災前でも大量の牛乳が搾られては棄てられている。消費量が少ないためだ。

もったいないね?
牛かわいそうだね?

だからもっと牛乳を飲むように。さすれば牛も酪農家も報われよう。

そんなわけで近所の酪農家に棄てるならくれと言ってみたところ、あっさりとくれた。
搾ったままの原乳なので鍋で沸かして殺菌する。焦がさないようかき混ぜながらふつふつと。 乳を温めているだけなのに、たちこめるのはなぜかホワイトソースのような匂い。

味見にコップ半分ほど飲んでみる。
味自体は市販の牛乳の濃いやつと大差ないように思えるが、温めただけの牛乳をそのまま飲める時点で違う。 僕は砂糖を入れないホットミルクはどうしても飲めない。まずいからだ。 そしてそれだけ濃いのに後味はすっきりしている。

そうかこれが牛乳本来の味と匂いなんだね山岡さん!!(※)

空いたペットボトルに注いで冷蔵庫へ。
どうも震災前より食生活がリッチになっている気がしてならない。


 ※『美味しんぼ(©花咲アキラ・雁屋哲/小学館)』10巻参照のコト

3月22日(火)
朝、昨日ペットボトルに入りきらず、コップに入れていた牛乳を飲む。
やはり昨日の美味さは幻ではなかったと飲んでいたら、底にどろりと乳脂肪が沈んでいた。 上澄みだけで十分な濃さだったというのに、どれだけ濃いのか。

試験通水は昨日一昨日という話だったが、念のため蛇口をひねってみた。今日は出なかった。

もはや超機動ママチャリと化した自転車・I田1号で元の職場を訪ねる。

実は11日にネットで買い物をしていた。間の悪いことに食品である。 ある意味運がいいというべきか、発送自体停止したため輸送途中で悪くなることはないのだが、 それならそれでいつ頃発送されるのかが気になる。運送各社はようやく動き出したようだし、 宅配関係の取り扱いもしている元職場で現在の運送状況を確認したかったのだ。

今日から再開した職場は、恐ろしいことにレジに小銭が1枚もなかった。
業務停止中、おそらくは防犯のためだろうが準備金を本部に送っていて、戻ってきたら すべて札だったらしい。バカかこの会社。
出勤していたのが仲のいい同僚だったので、両替に走ってやる。 両替機のある銀行までおよそ6km。普段なら絶対遠慮するYさんも、この日ばかりは即提案に乗った。 土曜の母といい、皆なりふり構っていられないのだろう。

僕が行った銀行の支店には両替機があり、キャッシュカードがあれば50枚まで無料で両替できる。 Yさんから借りたカードと合わせて3枚あり、100円50円10円と各種作れるはずだった。

両替機が動いていなかった。

行員に申し訳なさそうに両替依頼書を差し出され、窓口で両替。
手数料をがっつり取られる。いやそこはサービスするところだろ銀行。
納得いかないがゴネても仕方ないので支払う。自腹だ。

職場にとって返して早々、なぜか 客への電話かけを1ブロック割り振られる。さらに来店客応対。
ありがとうございましたーと言いながら、一体自分は何をしているのだろうかとカオスが生じる。
部外者に仕事をさせたと本部にバレたら店長ヤバいのだが。その時は自業自得だ。

大量の牛乳は飲みきるより先に傷みそうなのでチーズを作る。 牛乳2より牛乳1チーズ1の方が消費は早そうだ。

以前市販の牛乳で作った時は完全にカッテージチーズだったが、今回はややクリームチーズよりで ザラザラ感が少ない仕上がりだった。乳脂肪の含有率が関係しているのかもしれない。 原乳すげえ。

3月23日(水)
とりあえずダメもとで蛇口をひねってみた。水が出た。試してみるもんである。
即行朝風呂。機は逃してはならない。

生活費を下ろしに銀行へ行く。

両替機が動いていた。

なぜもう1日早く稼動させないのか銀行。
むしろなぜもう1日遅く業務再開しなかったのか元職場。

3月24日(木)
超機動ママチャリ・I田1号を駆り管轄のハローワーク(以下職安)へ行く。

僕は現在失業給付を受けている。失業中にあっては貴重な収入源のこの給付、 受けるためには決められた認定日までの1ヶ月内に2回以上の求職活動を条件とする。

が前回の認定日直後にあの地震が起きた。

次回認定日まで残り2週間。新聞広告に求人情報は載らず、チラシも入らず、派遣サイトは県内0件、 情報誌も刊行されていないこの状況で、活動の場は職安以外にない。 万が一検索システムが動かなくとも相談ぐらいはできるだろう。

職安までは風も坂もないオンロード。敵がなければ約20kmは余裕の距離だ。

予想に反して来庁者は少なく、閑散としていた。
津波被災のない地域のため、企業のダメージによる失業者は思ったほどいなかったのだろうか。 単にガソリン不足で足がないだけかもしれないが。

予想通り求人件数は減っていた。
沿岸地域の求人が残っている。ほぼ全件アウトだろう。除けば求人数はさらに減る。

人のことを気にしている場合ではないが、僕よりよっぽど切実だろう震災失業者を 優先的に雇って欲しいと思う。

待ち時間がゼロだったので、相談窓口に行ってみた。

震災前、とある企業に職安を通じて履歴書を送っていた。
連絡が来る予定は11日だった。加えてそこは津波被害を受けた市内にある。

当然連絡は来なかった。

15時近くまで連絡がなかったのだから不採用だと思うが、確定ではない。 とはいえ状況を考えると個人で連絡するのも気が引けた。
採否通知が職安に届いていればと思ったが、届いていなかった。
職員に電話をしてもらったが不通だった。

言外に、2人揃って見切ろうという結論に達した。

ちなみに上記の紹介状をもらう以前、派遣会社を通じて応募した仕事があった。
不採用だったが 就業先は上記と同市。あまつさえ川っぷちだった。
その派遣会社から別口の紹介もされたが、あまり好みでない仕事内容だったため保留していた。
就業先は以下同文。これまた川っぷちだった。

どこでも採用されていたら被災確実。軽く見積もっても車はアウトだっただろう。
ついているのかいないのか、まったく分からない。

3月27日(日)
兄が米を送れと電話してくる。取りに行けないから配達してくれる業者でとの注文つきだ。
こっちだってガソリン不足が続いているっつーのに、温いコト言ってねーで1kmもない 郵便局までくらい取りに行きやがれ! と電話を受けた親に言っても仕方がない。

現時点で配送可能な最寄りの業者というと、隣町のネコの営業所しかない。
強風の中、30kgの荷を積んで自転車8kmは危ないしさすがに遠慮したい。 奴のために車を出し、農家から米を受け取り、コイン精米所で精米し、隣町で発送するというのは 実にガソリンと労力の浪費でしかなく甚だシャクだがやむを得ない。

なぜこんなにも辛辣にあたるかと言えばこの男、津波で会社を流され失業したのである。
え、そこは同情するところじゃね? と思われるだろうが、彼は住居も自家用車も無事で ライフラインも我が家より早く復旧していたにもかかわらず、毎日家で遊んでいたのだ。
休業か廃業かの確認もせず、会社や職安に休業手当や失業給付や被災日までの給料といった 相談にも行かず、新たな仕事を探しもせず、である。
養う家族がいる奴が何やってんだよコラアァッ! となっても何ら異存はないだろう。

ちなみに僕も失業中ですが守るべきものはないので、と一応自己弁護させてもらいます。 最悪な兄弟だな。

閑話休題。

2週間近く動かさずにいた車は、 ボディカラーがすっかり花粉イエローになっていた。
あー風が強い日が続いていたからな。心底花粉症でなくてよかったと思う。
バッテリー上がりも懸念していた、というかむしろ上がっていればそれを理由に 発送を見送りできたものだが、エンジンはあっさりとかかった。ちっ。

帰路、通常利用しているガソリンスタンドの前を通ると本日終了にもかかわらず車が並んでいた。
明日のためのその1か。ご苦労なことだと思ったが、車内に人の姿はない。 場所取りに駐車して帰っているようだ。

持ち主は横行している車上荒らしやガソリン抜き取りの危険性は考えないのだろうか。

3月28日(月)
そろそろ余震もなくなってきたかという頃、思い出したように強い揺れ。

これだけ地震が続くと「これはもう少し後に強くなる」とか「この揺れはすぐ終わるな」と 読めるようになってくる。
今朝も「震度4、5くらいは行くが大丈夫だ」と朝食の片づけを続行。 揺れが来るたびに屋外へ猛ダッシュしていた猫ですらいい加減慣れて逃げようともしない。 この慣れがいつか命取りにならなければいいが。 小さな揺れで蓄積したダメージで、ある時突然家が崩れないとも限らないわけだし。

母を隣町の親戚宅に連れて行く。
積もる話をしている間、僕は以前入り口で挫折した津波被災した市へ行くことにした。
機動力とガソリンの節約を考慮して、従兄弟の自転車を借りる。子供椅子もなく身軽な、 6段ギアのシティサイクルだ(まあ自転車のギアの使いどころが僕にはまったく分からないのだが)。 加えて距離も半分程度で済む。前回よりは軽快なはずだ。 地味な追い風が復路の地獄を予告しているが、今は気にしないでおこう。

ちょりちょりと農免道路を進んで市に入る。
前回川水が逆流した形跡を見つけた付近は田んぼの水も引き、ちょっと見は普通の農閑期の風景だった。 道路と田んぼの間にある乾いた水路に、あるはずのない魚の死骸が点在していた。 自転車だからこそ気づけた異常だ。

大きな川の堤防に出る。
汚れた川水、ガレキの水際、破壊された堤防沿いの建物というイメージしかなかったが、 水は静かに流れ、建物もほぼ無傷で建っており、水圧によるダメージの痕跡はない。 河川敷に残るゴミもレベル的にはポイ捨て。 川沿いといっても、この辺りまでは水が来なかったのだろうか。

そのまま堤防を河口側へ。
車では川から逸れるように曲がらざるを得ない道路を今日は直進。そのまま川沿いを行く。

この辺りの建物にも目立った水害の跡はない。が、河川敷のゴミの様相は明らかに違っていた。

家庭用洗剤、未開封のカップ焼きそば、目覚まし時計、弁当箱、鍋、CD、服、バッグ、ドライヤー、 ワープロ、枕、布団、こたつ、テレビ、電子レンジ、スーツケース、扇風機、ファンヒーターの灯油缶、 扉の取れた冷蔵庫、タンスの抽斗、扉、タイヤ、椅子、タンス、看板、業務用の冷蔵庫、半分になった船、 梁と柱のついた屋根、円筒形の巨大な金属の何かは工場かどこかの設備だろうか。
不法投棄と言えなくもないが、やはり無理がある。

土手から見えるように立てかけられた、 ドアだっただろう板にスプレーで意味不明のロゴが書かれていた。
壁や電柱に書くだけでは飽き足らないのだろうか。
こんな時に、こんな場所で。
何を思ってそんなことをするのか、知りたいとも思わない。

自衛隊車が立ち塞がっていた。川沿いに行けるのはそこまでらしい。
少し戻って市街地へ進路を変える。カーブして海へ続く川をショートカットする形になる。

路面の歪みやひび割れはどこへ行っても同じだが、乾いた泥でうっすらと白くなったアスファルトと、 集積所に積まれたゴミの山が床上浸水を物語っていた。
大通りとの交差点を越える。
厚さを増した泥は踏まれて乾いたために路面に走りづらい箇所を作っていた。 まだ堆積したままの重く湿った黒い泥は、縁石と同じくらいの厚さがある。 ゴミは家具、家電、畳が目立つようになり、各家の前に積まれていた。
傍らに屋根まで白っぽくなった車が停まっている。少なくともその高さまでは水が来たようだ。

再び川沿いに出た。
線引きされているはずもないのに、そこからスッパリと、突然理解できない光景に変わった。

空き地にコンクリート製の階段だけが残されている。上ってもその先はもちろんない。
車は好き勝手な向きで屋内外を問わず突っこんでおり、船は路駐していた。
形が残っている建物も、取り壊す以外にないだろう。

ガレキが歩道を覆う道路を橋の方へ曲がる。
欄干は歪み、千切れていたが歩行者への安全対策は取られていない。 橋もまたガレキにより、どうせ車道しか通れないからだ。

渡った先の風景は、写真でしか見たことがない戦後の焼け野原を思い出させた。

家も店も工場も公園も、黄土色の更地になっていた。
休日に友人と、仕事上がりに1人で、何度か足を運んだ古い映画館も全壊していた。
近くに積まれたガレキの上に、細いフィルムとイベントで撮ったらしきポラ写真が混ざっていた。

震災は、形のないものも壊していった。

引き返し、商店街を通る。
店外に出された商品、什器、家財等、泥とヘドロに塗れた多量の動産と押し流れた車により 歩道は通行不能状態、片側1車線の道路もすれ違いが難しいほどに狭まっていた。
ここにも思い入れのある店がある。ただでさえ郊外の大型店に圧迫されていた個人経営の商店街。 難しいかもしれないが、どうにか再建して欲しいものだ。

商店街を離れるにつれ、泥とゴミの量は川沿いから進路を変えた辺りと同等くらいに落ち着いていた。 この辺りまではあまり水が来なかったと思われる。

が、とある住宅地の角を曲がった途端、再び屋内一掃のごとく汚損家財が道路に出されていた。 開け放したドアからは、住人が床上の泥を掃き出している姿が見えた。
近くの建物のフェンスに枯れ草がこびりついていた。 ほぼ同じ、1m超の高さで数ヶ所。水没ラインと思われる。

確かにこの近くに川はある。しかし僕が下った川には及ばないサイズで、河口からもほど遠い。 それでもここまで水没するのだろうかと、どうにも信じられなかった。

後日談だが祖母の知り合いが前述の大きい川沿いに住んでおり、絶対家やられたなと思いつつ 先方の電話回線復旧後に聞いたところ、家屋への浸水すらなかったという (ただし指示により避難したら、避難先で車が水没したというオチがついた)。
安否を分けるのは本当に運だけなのかもしれない。


とここまで書いておいて何だが、 僕の駄文などより写真の1枚でもアップした方が遥かに分かりやすいだろう。

しかし写真はない。

僕は所詮部外者で、どう言い繕っても野次馬でしかない。被災者、関係者、救援作業者達の傍らで、 彼らを傷つけずに破壊された街の写真を撮る術があるとは思えなかった。
元々被災地域の写真は撮らないと決めていたのでカメラ自体持って行きもしなかったが、 もし持参していたとしてもその気持ちは変わらない。
惨状の画像はマスコミが報じた分で十分だろう。 またはネットで検索してみれば個人撮影の画像がヒットするかもしれない。 カメラを構えている人を何人か見かけたので、そういう誰かがアップしている可能性はある。

ただし画像で見る光景はすべてではない。
それらは所詮他者の目で選ばれた風景の一部に過ぎず、 100%の事実が写っていても、100%の現実を伝えることはできていない。
「百聞は一見にしかず」ではないが、実際現地を訪ねれば、テレビや新聞で散々見た画と似たような、 あるいは同じ光景だったにもかかわらず、目の当たりにしたら絶句してしまった僕の衝撃が分かるだろう。 多分。

ついでに誤解のないよう言っておくが、僕に被災地で撮影していた人を非難する気は毛頭ない。
もちろん面白半分で現地入りして復興活動の邪魔になった挙句、 被災者の神経を逆なでするような撮影や公表をするような輩は例外だが。僕が撮影できなかったのは、 単に僕がジャーナリスト向きではないチキンだっただけのことである。


営業再開したスーパーはどこも買い物客で混んでいた。 品揃えは我が町のスーパーよりむしろいいくらい。意気込みの差だろう。
立ち話中の女性客が、津波にさらわれて3時間くらい水につかった後救助されたと笑っていた。
まだ18日。命に関わる体験を笑いながら話せる強さに感服した。

覚悟していた向かい風はやはり強かった。
自転車の違い分まだ楽だったが、代わりのようにぱらりとにわか雨。 やはり天罰か。

3月29日(火)
友人から、隣市に行く弟が用があるなら一緒に乗せて行くと言ってるがどうか、とメールが届く。
目下、隣市における僕の用といったら職安くらいだ。
とはいえ給油が思う存分できない時勢において、この誘いは大変ありがたい。 現地で別行動を取ることにして、便乗させてもらった。ありがとうMさんとMさん弟。

前回24日とはうって変わって、職安に続く道路には車が並んでいた。
いつもの風景が戻ったと思いきや、列は職安をスルーして国道方面へ続いていた。 もしやこの行列はその先のガソリンスタンドか。
停車するスペースもないので、対向車線の切れ間を待つスキに後でおち合おうと華麗に飛び降りる。

相談窓口の待ち人が増えていたが、検索システムはガラガラだった。求人もガラガラだった。
まあまだ仕方ないといえば仕方ない。求職活動の証をもらい、失業給付ノルマクリア。

近くの店で友人達と合流。どこかで飯を食おうと市内を走る。
内陸側ということもあってか、営業再開している飲食店は割と多かった。
しかし皆外食に飢えていたと見え、13時を過ぎているにもかかわらずどこも混んでいた。
ミスドすら駐輪場から自転車が溢れ、店内奥まで列をなしていた。 100円セール時だってここまでなったのは見たことがない。

中心部から離れたレストランに入る。
メニュー数が通常より少ないが致し方ない。 ランチセットが普通に提供されているだけありがたいことだ。
僕が頼んだこの日の日替わり、「イカと明太子のパスタ」といえば、 この店では大体クリーム仕立てで出てくるのだが、今日は汁気の少ないあっさり味になっていた。 乳製品が入手しにくい中の苦肉の策なんだろうなと勝手に思う。

久しぶりの外食はいつも以上に美味かった。
しかし1人前のパスタとサラダで満腹になるとは、いつの間にこんなに食が細ったのか。

3月30日(水)
5時に目が覚めたので、給油に行ってみることにする。

スタンドは遠目にも既に行列ができていた。前日からの場所取り駐車組もまだまだいたと思われる。
列は通行に影響の少ない脇道に作るルールがあり、並ぶには迂回しないと無理との友人情報を得ていたため、 地図で調べた迂回路を回って最後尾に着く。国道沿いのスタンドが見えなかった。

エンジンを切ってDSで英語トレーニングをしながら時間を潰す。ヒアリングはやはり苦手だ。

30分後、親から着信。
昨日、別のスタンドで朝6時半から整理券を配っていると店員に聞き、「自転車で整理券だけもらいに行って 後から並ばず給油作戦」を決行したのだが、当のスタンドが休みだったとのこと。
朝っぱらから徒労にもほどがある。なぜついでに翌日の営業を確認してこなかったのか。ツメが甘い。

並び始めてから2時間、見えている列の先頭が動き出す。
ふとドアミラーを見るといつの間にか自分の後ろにも長い列ができていた。 給油待ちはだいぶ短くなったと聞いていたが、一体今までどれだけの長さがあったのだろうか。

とろとろ進むこと1時間。やっと給油にこぎつける。
制限の20Lに限りなく近い19.8Lで満タンに。 やはり給油ランプの点滅直前だった。ひと安心を手に入れ帰宅。

それにしても報道では需要側の不満を多く見聞きするが、供給側の努力を汲んではやれないものか。
買う方も必死だろうが、売る方だって必死にやっているのに。

3月31日(木)
親の車を給油しに行く。
少し前に僕が並ぼうかと聞いた時は平気だと言っていたのだが、 昨日の失敗と腰痛の悪化により並ぶ気力はなくなったようだ。まあ身体を張るのは僕の担当だ。

目が覚めてしまった3時半に出発。
給油待ちの車が並ぶ脇道に街灯などというものは存在せず、何台並んでいるかまったく見えない。 念のため昨日と同じ迂回路をたどり、地味な枝分かれを見落とし、1周して国道に戻ってしまう。
暗いし昨日初めて通った道だし目印はないし、まあしょうがないよねと自分に言い訳。

列の長さは昨日の半分程度。最後尾に着き、昨日と同様に時間を潰す。
動き出すまで3時間、動き出してから30分で給油。
待ち時間は長くなったがアイドリング時間は短い。エコだ。

友人宅へ行く。
地震で崩れた漫画部屋の片づけの応援要請を受けたためだ。

片づけきれず空のままの本棚の前に、無造作な本の山。なるほど1人じゃ気が滅入る。
とりあえず棚に戻してから揃え直すことにする。
個人的に本はサイズ別に分けた上で、同じ作者の本は単巻も続巻ものも1ヶ所にまとめたいのだが、 そこまでするとキリがないので作品ごとに並べるにとどめておく。 というか本棚の容積超えてないだろうか。

3時間ほどかけて何とか収納。巻数も1巻から順にばっちり揃えた。

その2時間後に震度4。

ここは賽の河原か? 1つ積んでは崩されるのかっ?!

幸いにも本は崩れなかった。いつまで続くのかこの余震地獄。

4月1日(金)
給油も済んだのでタイヤ交換に行く。
いつもは4台ほど車が展示されているショールームに車の姿はなく、がらんとしていた。 てっきり地震で壊れたかと思いきや、そうではなく全部売れてしまったとのこと。
車屋的にはこの震災特需、手放しで喜べない複雑な心境か。

帰宅後近所のスーパーに行ったら、パンが通常の売りスペースの他和菓子コーナーをも占拠し、 ワゴン4台に山積み、さらには通常惣菜が並ぶ棚や平台までのさばっていた。
その上食パン98円、菓子パン68円という投げ売り価格。 確かに賞味期限は近いが、見切り品にしてもこれだけ残っているという光景はなかなかない。 並べた端から奪いあうように売れていったのは、つい先日のことだというのに。

勤務している友人曰く、本部がどっさり送ってよこすのだが皆パンに飽きてきたのか売れなくなり、 バックヤードにも大量の在庫を抱えているとのこと。
パンの栄枯盛衰に祇園精舎の鐘の音が聞こえる。

ちなみにそれでも売れ残ってしまった商品は廃棄になる。
この状況でなんてもったいない。賞味期限の1日2日過ぎたところで食えないわけじゃないのだから、 避難生活を強いられている地域に配ってみるとかしたらいいではないか。

という話を被災市内のスーパーで働く別の友人に言ったところ、その店では食パン50円でも 売れ残っているとの回答が。何だその価格破壊。
そこでは自宅避難者にも朝にパンが配給されているので(しかも余り気味に)、 わざわざ金を払って手に入れる必要がないらしい。

結局過剰供給を止めるのが一番ということか。

暖かい寝床作りも試行錯誤の末にマスターしかけていたが、今日から寝床を部屋に戻す。 座布団と違ってマットは柔らかいとしみじみ思う。

4月4日(月)
震災後、午前中、早ければ10時前には閉店してしまっていたガソリンスタンドが 午後になっても開いていた。
やっとガソリンの供給が安定したのかと、手近な店員をつかまえて聞いたところ、 まだタンクローリー次第なところもあるが、概ね落ち着いたらしい。

いや確かに早く普通に給油できるようになることを望んでいたが、 何も並んで給油した4日後に回復しなくてもいいじゃないか。
まあ並んでみたかったから別に構わないんだが。

今なら確実に給油できます、と店員に笑顔でつけ足されたが、スマン今は必要ない。

4月6日(水)
認定日につき職安へ。
給油はしたものの、天気がいいのでここは超機動I田1号で行く。 ガソリンの供給も落ち着いたことだし、これ以上の借りっぱなしはさすがに気が引ける。 これが僕と相棒のラストランだ。

職安前の道路は職安渋滞が起きていた。いつもの光景が戻った。

手続き後に検索システムを閲覧。 これはどうかなと思った求人は軒並み「緊急雇用対策で市内在住者限定」「障害者求人」「被災者専用」 であり、他町民で健常者で被災したとも言いがたい僕には応募資格がない。
大幅に妥協して手近な職に応募するか、だがそっちで決まった直後により良い話が出てこないとも限らない (今までのパターン的にその可能性極めて大)。
攻めるか時期を待つか。見極めは非常に難しい。

市内を回ってみると先日より営業再開した店が増えていた。震災発生当時にいたブックオフも然り。
まだ休業中の店も営業再開日を報せる張り紙があったりする。
大型店内のテナントの休業が続いてたり、品揃えは以前には及ばないところもあるが、 活気は震災前と変わらないくらいに戻っていた。

皆、前に進んでいる。

人間の強さと、同時にまったく前進していないどころか むしろ後退している自分に情けなさを感じる。

4月7日(木)
復興のムードに水さす震度6(おお五七五だ)。

23時32分。寝入りばなにシャレにならない揺れが来た。

あ、これ強くなるな。
うわわ、やべーってこれ。ゴゴゴどころか何かごわんごわん言ってるけど。かなり強いんじゃねーの?
起きた方がいいかな。いやでもMAXはここだ(注:例の素人判断)、大丈夫なはず。
またライフライン止まったりしてな。せっかく回復したっつのに。
8日営業再開って店結構あったけど、これでまた延期かな。
あ、電気止まったら今日買ってきたアイスが溶ける。新味のチェリオが。
そんでまた給油できなくなる? 今日自転車返した、このタイミングでか。
何か微妙に回ってるな。
つか揺れ長いわ。まだ強いし。
これじゃいい加減家崩れるかも。うーんやっぱ起きるべき?
また断水するかな。完全に止まるまで猶予があるから汲み置きはできるか。
ああこの揺れでまた水が濁る。風呂釜のサビも出なくなったのに。
何で1ヶ月って、色々元通りになってきたこのタイミングでこんな地震来るかな。
お、治まってきた治まってきた。
最近の余震の中では1番強いな。11日のもこれくらいか? 外にいたから比べようがないけど。
出かけようと思ってたけど、どこも片づけた店の中、またぐっちゃぐちゃになったんだろうな。
あ、友人の漫画部屋・・・。 
つかまだ余韻残すか。とっとと去れや。

益体ない思考を巡らせたこの間、 布団に寝たまま目すら開けないというダメっぷりである。
結果的に正しかった己の予測を信じたと言えばカッコいいが、自身そのつもりだった気が全然しない。
寝床の上の棚には納戸時代の名残のおでん鍋や扇風機やトレーニングアイテムやキーボードが乗っており、 落ちようものなら直撃必至でかなりのダメージを受けるというのに。
いつでも外に飛び出せるよう、未だに着衣のまま寝ている意味がない。

一応起き出て電灯の紐を引く。が点かない。ガチャガチャガチャと何度か引くが無反応。やはり停電した。
ペンライトを手に茶の間で寝起きを続ける親の安否確認。無事。
猫は外に飛び出て行ったらしい。震災時、我が家で最も正しい行動が取れているのは実は猫だ。
断水に備えて飲み水を汲み置きしておく。
ラジオでは震度6強〜弱の揺れだったことを報じていた。どこかで火事も起きているようだった。

不幸中の幸いは、今日の地震が2度目だったことだろう。
初回3月11日の体験があるからこそ、夜中に強震に見舞われてもそれほど焦りはなかった。 壊れる物は壊れて撤去済みだったので、破損物や落下物のよるケガもない。 僕はさておき冷静に素早い避難行動を取った人も多かったと思われる。

もし11日を経ずこの地震に遭っていたら、または11日の地震が夜中に起きていたら、 暗闇の中で茫然自失として動けなくなる人は少なくないだろうし、 ライトの照らす範囲まで近づかなければガレキや地割れにも気づけない。 状況把握も避難も誘導も救助もままならず、あの日以上の被害が出ていた可能性は高い。

だからといって、よかったというつもりはない。全然まったくこれっぽっちもない。 いいわけがない。地震なんて来ないにこしたことはないに決まってる。
つかもういい加減にしてくれ。

4月8日(金)
この状況で寝られるかと思ったが意外と眠れた。慣れってすごい。

一縷の望みを託してブレーカーを上げたが停電は解消されていなかった。
携帯はまたしても圏外となった。固定電話は一部、地域的な不通はあったが大体通じた。
水は出たが前回の断水が翌日からだった以上、まだ安心はできない。
JRも開通を目前にして再び全線休止になった。

しかし前回ほど長期化はせずに、停電だって2、3日中には復旧するだろうと根拠もなく楽観。
とりあえずチェリオの苺ヨーグルト味は片づけるべきだと朝からアイスを食す。 ソフトクリームほどに柔らかくなってしまっていたが、まだ「食べる」ことができた。 袋アイスを「飲む」のはなかなかに切ない。

新聞に大型スーパーの売り出しチラシが震災後初めて入っていた。
売り出しはおろか本日の開店だって停電中では難しいだろうに。 最悪なタイミングで折り込まれたものだ。

出がけにそのスーパー前を通りがかると、開店時刻は過ぎているのに営業している様子はなかった。 にもかかわらず入り口には客が大勢いた。どうも入店制限をしながら販売をしているようだ。
その他の店も臨時休業か、店頭販売での対応がやっとというところだった。
営業中のガソリンスタンドにもまた車が列をなしていた。
ガソリン不足は解消しただろうに、この内本当に給油する必要がある車は果たして何台だろうか。

昨夜の地震ですっかり数日前の光景に戻ってしまっていた。
不安に駆られるのは分からないでもないが、もう少し冷静に行動してもいいのではないかと思う。

またもや津波被災市を訪れる。
今回は親類の墓がどうなっているか確認してくるというお題目つきだ。
そこは過去に一度、法事に参加する親を送って行ったことがあった。 改めて確認したら、テレビで報道されたこともある津波に呑まれた地区だった。

どう考えてもアウトだ。

実際親類が行こうとした時は、時期が悪かったのかもしれないが車では到底立ち寄れず、 確認ができないほどの状態だったらしい。
そんなわけで僕は郊外の大型スーパーに失敬して駐車し、歩いて河口近くの寺へと向かった。

道路上のガレキは両サイドに積み上げられていて、車でも通行できるようにはなっていた。
歩道に半分乗り入れて停車した大型ダンプを災害復旧車両だと思ったら、 フロント部が外れかかり内部も泥で覆われた被災車両だった。
途中、住宅のあまりない道路には、川底をさらったようなというか、 大量の紙と布を泥で固めたようなゴミが道端に積み上げられていた。 この紙は工場から流出した物かと当の工場を見ると、車の墓場のようになっていた。

工場と丘陵に挟まれた地点を抜けると、そこは焦土だった。

道の両脇には道路から撤去されたらしきガレキの壁。
生活用品や家電や建材だった物と一緒に車も積み上げられていた。 どれも黒く焼け焦げ、茶色く錆び、すっかり潰れて元の車種も色も判別できない。
店や会社や住宅が立ち並んでいた地区は、まるで不法投棄所と化した山あいの元採土場といった風情で、 廃れた空き地になり果てていた。そこにぽつんと残った建物(無論もう使えはしないが)が、 何でこんな所に建っているのか却って不思議なくらいだった。

道路から住宅地を挟んで奥にあった学校は、1階まで見渡せるようになっていた。 外壁の半分以上が最上階まで黒く煤け、窓枠の向こうもただ黒く、 土とガレキの中で異様な存在感を持って佇んでいた。

以前橋から見た景色を戦後の焼け野原と思ったが、ここの方がよっぽどふさわしかった。

ここはどこだ。
何で自分はここにいるんだ。

何度かそう思った。

僕の見た町ではない。こんな風景、記憶のどこにもない。
何かの手違いで違う世界に紛れこんでしまったんではないか。

たった数百mの直線は、そう錯覚するほどに現実離れしていた。
だが僕のいる世界はただただ現実でしかない。
ガレキの中で何かを探していた男性にとっても。

寺と思しき建物はガレキに囲まれ、壊れつつも形を留めていたが、 墓地、というより墓地だったと思われる場所は予想通りめちゃくちゃだった。
墓石も法名碑もその他何もかもが倒れ、重なり、壊れ、埋もれ、失われ、 オープンになった骨堂には骨壷の代わりにゴミと化した雑多な物が納まっていた。 もうどこが誰の墓だったのか判別のしようがない。

寺を後にし、通りの端から少し北上すると住宅密集地が姿を残していた。
ガレキは山積みのまま、建物はどれも全壊半壊、無傷のものはただの1軒もない。 それでも町と思える現実感は携えていた。

戻ってこれた心地がした。

そう感じるあたり、自分はやはり部外者でしかないんだなと実感する。

4月9日(土)
早朝、電気が復旧する。

突然部屋の電話とエアコンが起動準備を始め、その音でびくっと目が覚めた。
やはり近所の温水器の音で通電に気づいた母がブレーカーを上げたらしい。早く復旧して何よりだが、 もう少し後にブレーカー上げて欲しかった。4時って、半端な時間に起こしてくれたねおっかさん。

電気の復旧に伴い携帯の電波も届いた。友人の漫画部屋はやはり崩れていた。

4月10日(日)
1ヶ月経ったということで総括です。というか書きそびれていた話題を拾っていくだけだったり。

■強奪
海外では日本人は災害にあっても秩序を守り、冷静だと報じている。 僕自身も震災翌日に町内のコンビニで入店待ちの列を見て冷静だと思ったが、 それは所詮ライフラインの停止程度で済んだ町だったからのようだ。
津波被害のひどかった地域では、 もはや暴徒と化した人々が倉庫や店に押し入り、中にある物をとにかく持っていったという。

窃盗は犯罪だ。

しかしその正論をこの極限状態で口にすることはできない。 皆そんなことは分かってやっている。
僕も同じ状況下に置かれたら、 積極的に入り口を破って侵入したり他者から横取りなどはチキンゆえしないと思うが、 既に入り口が破られていて、多数の人間が持ち出していたなら、おそらくその中に加わってしまう。
渇しても盗泉の水を飲まずの強靭さは僕には備わっていない。
経営者の方にはただただ気の毒だが、災害にでも遭ったと思って諦めていただくほかない。 ん、例えになってないぞこの場合。

とはいえ僕がそう思える範囲は、店や倉庫からの食料品と日用品と衣料品までである。 宝飾品や現金を盗った火事場泥棒はただの犯罪者だ。 無人の被災住宅および避難所での窃盗は品物を問わず然り。

もちろん僕の許す許さないに何の効力もありはしない。
この状況下での捜査は難しいだろうが、警察には是非とも頑張って欲しい。


■福島原発
「東京は原発ばかりを取り上げる」と憤っている宮城県民がいるが、それは仕方ないような気がする。
地震の被害は復興に向かって動き出しているが、原発は現在進行形で収束の見込みがない。 その上天候や出荷で運び出される放射能が気がかりなのだろうし、そっちの気持ちも分からないでもない。

ローカル局では未だにメインで取り上げていることだし、そんなに気にしなくてもいいのではないだろうか。 宮城県が地震で苦しんだように、原発で苦しんでいるのは福島県なのだから。


■風評被害
福島原発関連。
観光も特産品も、確かに危険地帯にかかるものもあるんだろうが基本的に気にしていない。
のに福島方面の観光ツアーは当面中止。福島、茨城あたりの食材もスーパーであまり見ない。 モノ自体が流通しなければ手の出しようがない。

ちなみに風評被害か(出荷制限品目でない)形が不揃いだからか本日の大特価品だったのかは分からないが、 約1kg100円で売っていた茨城産さつま芋は焼いたらしっとり甘くて美味かったです。


■義援金と支援金
最近になってこの似て非なる2つの違いが判明した。
義援金は大卸、中卸を経てやっと店頭に並ぶもので、支援金は生産者が直接店に卸す産直スタイルだと、 自分の中では野菜に例えて処理している。

前者は各セクションで一定の基準に基づく検査がなされ、時間がかかる分鮮度も落ち、 客のニーズに答え切れないケースも出る反面、一定水準の品質を安定して送り出すことができる。
一方後者はその逆で、収穫から購入までが短く、また自由性も高いのでニーズに合わせた対応が できる利点はあるものの、農家自身が卸し先の判断を誤れば適正な販売がされないというリスクがあり、 かつ品質のばらつきによる消費者の不公平感も否めない。

要するに一長一短、どちらがより優れているってことはないのである。

ちなみにこの余計に混乱する例え話は僕の得意技である。自分の中ではこんな感じというだけの話なので、 「そういうことか」などとは思わず、読み飛ばしていただきたい。


■伊達直人
新聞に載っている災害支援金の寄付者に、絶対いるだろうとを毎日探したがついぞ現れなかった
ランドセルが流されたとか文房具が不足していると報じられても、それらが届けられたという話も聞かない。
どうやらタイガーは児童養護施設が絡まないと動かないらしい。


■菅直人
震災後まもなく、ヘリで視察しようとして非難ゴーゴー。燃料不足だつってんのに。
そんな配慮すらできない人が「国をあげて支援する」と言ったところで説得力は皆無。 小学生の社会科見学じゃあるまいし、「つなみはこわいなあとおもいました」 レベルなら来ない方がよっぽどマシだと思う。

第一上から眺めることに見物以上の意味はない。
等身大の目線で見なければ本当のところは何も分からないと僕は知っている。


■専門家
3月11〜12日の深夜、ラジオで地震の研究者だか専門家だか何だかが、 「24時間以内にM7以上の余震が起こる確率が70%以上」と語っていた。 皆激震にあったばかりで警戒態勢は解いていないだろうから注意喚起の意味合いはなく、 不安に陥れるだけとしか思えないことを何度も言うなと思う。

その後それほどの地震は来ないまま24時間が過ぎると、

「3日以内に起こる確率が」
「1週間以内に」
「3ヶ月」
「半年」

言い続けてりゃいつかは当たるだろうよ。

結局4月7日、1ヶ月内に震度6強の地震が起こったわけだが、ほら起きたと得意満面になった専門家の姿を (勝手に)想像するだけで何か腹立たしい。


■有名人
寄付とか避難所を訪問したとか炊き出しだとか、皆さん忙しい中色々とありがたいことです。
しかしそれを報道する必要はあるのだろうか。
ニュースにすれば売名行為だとか偽善だとか、批判的な意見をする人必ずは出てくる。 そういう腹積もりの人がいないとは限らないが、多くは純粋な善意で行動している。いると信じたい。

寄付をして、やれ額が少ないだのやれしこたま稼いでいるくせにだの叩かれた人がいるようだ。
寄付はあくまでも任意の善意によるもので、金額は問題ではない。
そもそも(金額の問題ではないと言った直後に金額の話をするのもどうかと思うが) 少ないといっても何百万何千万という額だ。どこから見ても大金である。 縁もゆかりもない人にそれだけ私財を提供し、無意味な比較でけなされたのではまったく割に合わない。
ならば何もせずに財も減らさず株も下げない人の方が立派か? そんなはずがない。

また現地を訪れるにしても、有名人見たさに被災者でも何でもない人まで押し寄せ、 色々な活動の妨げにならないとも限らない。
さらにはうちの避難所には有名人が来ないなどと不満を抜かす避難者まで現れる始末だ。
お前は芸能人に会うために被災したのかと問いたい。

これすべて、報道されたがゆえの弊害である。

というわけでマスコミは有名人の支援活動を一切報道せず、また有名人も寄付は匿名、 現地入りは終始お忍びで行なうようにすれば売名狙いは現れず、批判で善意が踏みにじられることもないだろう。 これが有名人の正しい支援の仕方ではないかと思うのだがいかがだろうか。


■勘違い
町内の避難所では「被災したんだから。かわいそうなんだから。それくらいやってくれて当然でしょ」 と言わんばかりに食事の後片づけも掃除もしようともしない避難者がいたり、 そういうことを自分達でやらせようとした途端にいなくなり、3、4人しか残らなかったりしたようだ。

前項の勘違い発言者もそうだが、被災したということはVIP待遇を得たということではない。
また避難所はホテルでも旅館でもない(ホテルや旅館が避難所になっているケースもあるが)。
自治体の力の差か個人のモラルの問題かは定かでないが、運営や世話に尽力してくれている人はもちろん、 極力自分達のことは自分達でやろうとしている被災者達に対しても失礼なことだと思う。

まあ避難所はいずれはすべてたたまれる。
その時にそんな甘ったれ達がどうしていくのか、見ものである (社会復帰できそうにないという前提のもとに)。


■避難所
とある施設が津波に呑まれ、避難してきた住民が亡くなってしまった。
そこは津波が引いた後で避難生活を送るための施設であり、津波そのものから身を守るための施設ではなかったらしい。 何と言ったかは忘れてしまったが、厳密には避難所という名前でもない。

そんな微妙な区別を住民が知っているかという議論はここではさておき、別に被災後用の施設でも構わないが、 結局津波にさらされた施設など水浸し泥まみれですぐには使えないだろうと思うのは僕だけだろうか。


■言葉
「命が助かっただけでもよかったね」

当事者本人が言うならいいが、それより先に他人が口にするべき言葉ではないと思う。
もし僕が家や家族やわずかばかりの財産や仕事(元々現時点で無職だが)など、 自身以外のすべてを失っていたら何がよかったのかと思う。 基本的に精神薄弱なのできっと死にたくもなる。
他に慰めの言葉が見つからなかったにしても、言われた側がそうと気づけるのはずっと後だ。 ならば軽々しく「よかった」など言わない方がよっぽどマシだろう。

とはいえ僕とて友人知人親戚ら、何がしかのつながりがある方々が災害に巻きこまれたなら心配になるし、 無事を確認できたらやはりよかったと思う。そしてやはり何か一言、声をかけたくもなるだろう。
なのでその時は「(生きていて)よかった」ではなく「(生きていてくれて)ありがとう」と言おうと思う。 前者ほど軽くなく、親愛の情も伝わると思うのだがどうだろうか。

もちろんそんな場合でその言葉を使う日が来ないにこしたことはないのだが。


■命
なぜ自分だけが生き残ったのか。
自分が生きていていいのか。

その疑問に納得のいく答えを出せる人はきっといない。
だが生きることに意味や使命は必要不可欠なものではない。誰だって死ぬまで生きていていいと思う。


■気兼ね
何か言ったりしたりするたびに、被災地および被災者に対する申し訳なさが掠める人は被災地内外を問わず 結構いたと思う。というかいるらしい。

温かい食事を食べる、風呂に入る、布団で眠る、きれいに洗濯された服を着る―― そういう1つ1つに後ろめたさを覚え、また自分には何もできないと無力感に苛まれ、 思いつめてしまう。

その思いはとても尊い、きれいなものだと思う。だがそこに後ろめたさや罪悪感を感じる必要はない。
当たり前の日常を当たり前に送って、悪いことなど何一つない。
嬉しい時は喜び、悲しかったら泣き、腹が立てば怒り、楽しいなら笑う。 そんな普通の生活を皆が送るようにした方が、復興の日は早く訪れるように思う。


■自粛ムード
被災地やその周辺ならそれどころじゃないというのも分かる。
しかし遠く離れた西日本でまで祭りやイベントを中止するというのは、ちょっといき過ぎではないだろうか。

こぞって沈んでいては気分も景気も低迷する一方である。
東北でも秋田の角館は「祭り」の字を外し、青森の弘前城もライトアップは止めるものの 桜祭りは行なうことだし、開催に差し支えのないイベントは是非行なって欲しいと思う。
とてもそんな気分になれないという人まで無理に参加しろとは言わないが、 「こんな時に」だけでなく「こんな時だからこそ」という思いも必要ではないだろうか。


■張り紙
普段はパソコンで打ち出されている張り紙も震災中は手書きが多く、実に誤字のオンパレードであった。

「緊急物資」が「堅急物資」になっていたり、牛乳の販売は「終予」していた。
「進入禁止」の「禁」の上半分、「林」が「森」になっているのは、 確かに「絶対入ってくるな!」という心意気は感じられるが、残念ながらその漢字は存在しない。

誤字とはまた違うのだが、開店時間の目途が立たないことを報せる内容には、

「もう待てないというお客様は、もうしばらくお待ちください」

もはや意味不明。義務教育からやり直し願いたい。


■和菓子屋
店主は話好きのようで、30分はつきあう覚悟で買いに行かなければならない。
一度どれだけ話し続けるかとつきあってみたが、2時間半を超えて僕がギブアップ。
ずっと立ちっぱなしで、爺さん足腰丈夫だな。

和菓子と業界の知識がやたらに増えました。



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