09年5月号 沖縄平和行進に参加しよう


沖縄県と5月15日

 沖縄平和運動センターは今年も、5月14日から17日の日程で、5・15平和行進を開催します。読者の皆さんの中にも、参加される方がいらっしゃるでしょう。ところで皆さんは、沖縄県の人々にとって5月15日がどのような日か知っていますか。

 アジア太平洋戦争末期の1945年3月24日、米軍は慶良間諸島や座間味諸島への空襲を開始し、26日にはこの島々を占領しました。4月1日には米軍が沖縄本島へ上陸、日米両軍の死闘が各地で繰り広げられました。6月23日には、牛島満・沖縄守備軍司令官が自決し戦闘は終了します。その後、沖縄は本土に先んじて米軍に領下され、人々は収容所に送られました。

本土では広島や長崎に原爆が投下され、主要都市は空襲を受け、多くの市民が犠牲になりました。また8月15日の終戦後は、連合国の占領下に置かれました。しかし日米両軍による地上戦や、日本軍による県民殺害、軍の強要による集団死、戦闘終了後の収容所生活を経験したのは沖縄県だけです。沖縄戦では県民50万人のうち15万人が犠牲になりました。

1951年9月8日、日本は連合国とサンフランシスコ講和条約を結びました。同時に米国と締結した日米安保条約によって米軍駐留は続くことになりましたが、日本は独立を回復したのです。ところが、沖縄は日本から切り離され、引き続き米国の統治を受けることになりました。日本の法律は適用されず、米軍の土地接収も続き、米軍の拠点にされてしまったのです。朝鮮戦争やベトナム戦争では、米軍は沖縄から出撃していきました。米兵による性暴力、殺人、強盗も多発しましたが、米兵の罪を問うことはできませんでした。

こうした中で、沖縄では本土復帰運動が大きくなりました。日米政府は沖縄の闘いを止めることはできず、ついに1972年5月15日、沖縄は日本に復帰しました。沖縄県民が期待した本土復帰は、戦争を放棄した「平和憲法のもとへの復帰」でした。しかし本土復帰後も、米軍は沖縄駐留を続けました。接収された軍用地が、返還されることもありませんでした。米軍による事件・事故も無くなりませんでした。沖縄の現状は変わらなかったのです。沖縄県にとって5月15日とは、見せかけだけの本土復帰が行われ、米軍による新たな沖縄支配が始まった日なのです。

SACOと在日米軍再編

 日本に駐留する米兵の総数は、約50,000人です。このうち沖縄には約23,000人が駐留しています。また在日米軍基地面積の約75%が沖縄県に集中し、沖縄県面積の約10%を米軍基地が占めています。

 1995年、3人の海兵隊員が12歳の少女に性暴力をふるう事件が発生しました。県民の怒りは爆発し、10月には8万5,000人が参加した「県民総決起大会」が開催されました。県民の怒りが安保を脅かすことを恐れた日米政府は、SACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置して基地の整理・縮小を検討、96年12月には普天間基地の返還を含めた最終報告を発表しました。ところが普天間基地の返還は、同じ機能を持つ基地を県内に新設することが条件であり、その候補地が名護市辺野古とされたことから、辺野古現地では住民や市民団体、労組が一体となった反対運動が沸き起こりました。

 2007年5月、日米政府は在日米軍再編で合意しました。合意の中には、沖縄の基地負担軽減という言葉が何度も出てくるのですが、実際の内容は沖縄の米軍基地を固定化するものでした。


私たちの力で在沖米軍基地の撤去を

 昨年12月、米軍基地キャンプ・ハンセンに隣接する金武町で、車のナンバープレートに軍用銃弾が突き刺さっているのが発見されました。県警は米軍の銃弾と断定しましたが、米軍は否定しています。

 今年1月からは空軍嘉手納基地に最新鋭戦闘機のF22が一時配備され、国内をはじめアラスカや韓国から米軍機が飛来して空中戦訓練を行っています。

 4月3日には、米海軍艦船2隻が市長の拒否にもかかわらず、石垣島の港に強行入港しています。

 4月4日には那覇市内で、米兵によると思われるひき逃げ事件が起きました。

 国会では、普天間基地の辺野古への移設を米国に約束する、「海兵隊グアム移転協定」が承認されました。

サンフランシスコ講和条約に際して、日本は沖縄を切り捨てることで戦後の経済的繁栄を手に入れました。いままた日本は、沖縄を切り捨てることで米国との同盟関係を強化しようとしているのです。

 5・15平和行進に全国から参加し、沖縄の人々と連帯して、日米政府の進める沖縄米軍基地の固定化に反対し、基地の撤去を実現しましよう。


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