和気閑谷学校 (わけしずたにがっこう)

 有名な楷の木の紅葉には早いのですが和気閑谷学校へ出かけました、
 此処は<銀>が幼い頃、よく祖父に連れられて来たところです。

 2003.10.18

 

   駐車場にポルたんを停め…駐車エリアが5ナンバーサイズらしく
 どう停めても左右ともにはみ出る(泣)…沿道を歩いていると
 妙なソフトクリームを売っている店がありました(笑)
 その名も「しょうゆぶっかけソフトクリーム」此処よりやや西の
 香登辺りは確かに県南有数の醤油・味噌の産地ではありますが…
 「美味しいのかなぁ」と
Rubyと話しながらも二人ともさほど
 欲しなかったので、そのまま閑谷学校石門へと向かいました。
 赤穂のパーキングでは[塩]ソフトクリームがありましたが
 どなたか試された方がいらっしゃいましたら味加減をお知らせ下さいね(笑)

 

 


閑谷学校は、備前藩主池田光政が庶民教育を目的として寛文8年(1668)以降
領内123カ所に建てた手習所(延宝3年に全て閑谷に統合される)の一つで
寛文10年(1670)に家臣の津田永忠に命じ和気郡木谷村の北端延原に
建設させたものです。
地は伊里村閑谷と改められ、さらに延宝2年(1674)に木谷村の内高 279石6斗5升8合を
藩領外とし、閑谷学問所領として自立経営が出来るように配慮されました。
(学校経営も光政の命により津田永忠が担いました)
この意思は次の綱政にも引き継がれ、元禄13年(1700)には学田21町7段1畝15歩、
畑7町6段1畝15歩、学校林71町2段7畝を定めて、これを耕作するために63戸の
民を移住させています。

現在の姿が整ったのは元禄14年(1701)のことで、
備前焼の瓦が美しい国宝の閑谷黌講堂をはじめ、敷地内の建築物の殆どが重要文化財で
現存する庶民教育の施設としては世界最古の学校です。

創立以来、儒教精神に基づく教育がなされ、他藩からの入学者、学者、文人の来遊も相次ぎました。
明治3年岡山藩学校に合併され明治10年に廃校となりましたが、明治17年から西薇山寺による閑谷學、
同36年私立閑谷中学校となり、後に旧制岡山県立閑谷中学校・新制岡山県立閑谷高校と変遷して、
現在は岡山県青少年教育センターが設置(昭和40年)されています。

建物の周囲に迫っている小山は半人工のもので 講堂などの諸施設の火災・類焼を防ぐための
「火除山」です、過去に学舎・学房は幾度か火災に遭ったにも拘わらず、
講堂をはじめ諸施設が残っているのはこの「火除山」のお蔭です。

閑谷学校へ足を運ばれる機会がありましたら、次の施設にもご注目下さいね

【鶴鳴門】 (重要文化財)
正面にある校門です。元禄14年(1701)に作られたもので、
扉を開閉するときの音が鶴の鳴き声に似ていることが名の由来です。
現在は通行できません、残念ながら観るだけです(泣)

【石塀】 (重要文化財)
幼い頃は登って遊んでました(笑)
学校の周囲を囲んでいる唐様・かまぼこ型の石積塀です。
石積みは精密を極め、内部には洗浄した割栗石が詰められて
雑草木が生えないように工夫されています。敷地を1周し、
渓流に沿い山腹をめぐって全長は765メートルに及びます。
完成は元禄14年(1701)で、300年経った今も端然とした姿をとどめています。

【講堂】 (国宝)
延宝元年(1673)に峻工され、元禄14年(1701)に改築・完成しました。
屋根瓦はすべて備前焼で、近くに窯を築き、伊部から陶工を呼んで特別に作らせたと伝えられます。
黒漆またはふき漆の仕上効果か講堂の床板などは現在でも鏡のように光っています。
また屋根の構造がこけら葺・流し板・瓦と三重に重ねてあったり、万一瓦の下に
雨漏りした時に水はけが出来るように軒先に備前焼のパイプが取り付けられていたりと
見ていて飽きない建築物です。
秋の火災予防訓練で、誤って放水を受け一部が破損しましたが修理可能とのことで
現在は修復されていることでしょう(笑)、桁行七間・梁間六間、剣道を習っていたせいか
座れば凛とし静寂の世界に誘われ(いざなわれ)る気がします。

【楷の木】
晩秋に格別の色合いを見せる「聖廟」前の一対の楷(かい)の木は中国原産ウルシ科の
落葉喬木で銀杏と同じく雌雄異株で、花は4〜5月に咲きます。
中国曲阜の孔子林の実をとって育て、この地に移植されたと伝えられています。
例年11月中旬が紅葉の見頃だそうです。

【巴瓦】
古い日本建築を観る折の楽しみでもありますが、ここでは講堂の巴瓦が6葉、孔子廟が無紋、
閑谷神社が揚羽蝶と云うふうに、それぞれの建造物に意味を持たせて作られています。

【椿山・紅葉亭・火除山】
椿山は俗に椿谷ともいい、学校創設者 池田光政の死後、その髭、髪、爪、歯などを納めて
霊地とした所で、彼を祭る閑谷神社の東に並んでいます。
一つ谷を離れて東に谷川を400mばかり上ると往時生徒が逍遥した紅葉亭があります。
また、光政・綱政の二代に仕え、閑谷学校の建設及び経営に心血を注ぎ、居を閑谷に構えた
津田永忠はと云えば学校と紅葉亭の中間の宅地の石垣に僅かにその名残を留めるばかりです。