平成12年5月2日
お 葬 式
  二ヶ月ほど前ですが、悲しい事に神奈川県の親しい友人が亡くなられ、立派なキリスト教の教会でお葬式が行われました。以下は、当日の私の体験記ですが、今回は恐れ多くも宗教のお話しです。
  キリスト教の場合、お通夜も告別式も一通りの式が済むまでは、全員が大聖堂の中で追悼の義に最後まで参加しており、途中で退席する人は一人も居りません。故人を偲ぶのにふさわしいお付き合いです。
  まず、大聖堂で行われたお通夜は、神父さんのお話しと数人のご家族や近しい人達がお悔やみの言葉などの書いてある文書を読み、そのあとで、葬儀委員長と親族代表が挨拶をします。
  不謹慎な話しですが、私の場合には方々の葬儀に参列する事が多いので、その内、三分の一は、顔も知らない方が亡くなられた葬儀に義理で出席する事になりますので、失礼ながら悲しくない場合も多いのです。
  その日、葬儀委員長と親戚代表の挨拶が異常に長くなり、二人の話しは35分間も続いたのです。当然、列席者は席に座ったまま移動する事が出来ません。
  二人で35分も思い出の言葉を述べると、生い立ちから少年時代、修行時代から商売の過程、趣味から入院の経過までが、総てテープを聞いているように同じ話しになってしまうのですから、私のように親しい関係だった者はいいのですが『義理で参加する』方は長時間が辛かった事と思います。
  全員がお通夜の最後まで列席しているのですから、お通夜が終わるとお清めの席に皆が殺到する為、お清めの席に入りきれず、かなりの長時間に渡って寒い所で待っている事になります。これは、故人のご冥福を全員でお祈りするシステムの弱点でもあるように思いますが、失礼な見解でしょうか。
告 別 式
  告別式の日、車を連ねて葬儀場に向かう時に、霊柩車が交差点で立ち往生したのには驚きました。
  原因は車のバッテリーの故障だったのですが、『故人が焼かれるのを嫌がっているのかも・・』と隣席の方と話し合ったのです。高級な外車でしたから、滅多に使われなかった為のトラブルかも知れません。
  葬儀場の釜で焼かれた故人の遺骨が私たちの前に置かれ、長い箸を使って二人で一緒に骨を持って骨壷に入れる儀式がありますが、その時、私にとって予期せぬ出来事が発生しました。
  それは、神父さんが箸を持って日本人と同じように骨を運んだからです。まさか、神父さんが仏教の形式をするとは思わなかったのですが、その事を友人に話したら「外国だって、同じ習慣があるかも知れない」と彼が言うのです。ですから「外国では、ナイフとフォークで骨を運ぶに決まっている!」と私です。
納  骨
  故人と私は親しい間柄でしたから、納骨の式にも参加させていただきました。
  大聖堂で神父さんのお話しが終わって、キリスト教の人達は、直径28ミリ(推測です)程度の煎餅のような物を神父さんから頂いて、そっと食べるのですが、宗教の違う人達には食べさせてくれません。
  私は是非とも食べたかったのですが、宗教は苦手ですし入信を薦められたら困るので『欲しい』と言えませんでした。(後日、工場のキリスト教の信者のM君に聞いたら、煎餅は『聖体』と言うのだそうです)
  そのあとで、正面に据えられた遺影の前に、驚くべき事に、『お焼香のセット』が置かれたのです。ですから、私たちはキリスト教の大聖堂の中でお焼香を済ます事が出来ました。
  藤沢市の霊園で、神父さんに『お焼香の用意は以前からあったのですか?』とお聞きしたら、『仏教の方にも、故人のご冥福を心から願って欲しいため置いてある』との思い遣り溢れたお言葉でした。
  お正月に、神社・仏閣に初詣に行くと『真の神はイエスのみ、けがれた宗教に惑わされるなッ・・』等と大きく書いた看板を掲げるマイナスイメージも、今回の事でかなり印象が変わったように思います。 
  繁 盛 を
    イエスと釈迦に
       願 う 春


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