第二話『燃え上がれ! 体育祭』


 5月22日、体育祭当日。

 聡は、虹野印刷の社長やら社員から押し付けられた弁当作成という任務を早朝五時から永遠とやっていた。別に料理をすることは嫌いではない。だが、限度というものがある。

「とりあえず、十人前だ。そこんとこよろしく!」

 軽くそんなことを言った社長に、殺意が芽生えたのも仕方がない話である。しかしようやく得た就職先であり、恩もあるため無碍(むげ)に断ることもできない。快諾するしか、聡に道はなかった。

 六時頃からは、頼んでもいないのに琴菜が手伝ってくれた。そこでふと、聡は気付いた事があった。寝る前に仕込が必要な物は仕込んでおいたのだが、朝になると仕込んだ覚えがない物が何点か置いてあったのだ。聡は最初、仕込んでおいたけど忘れていただけかな? などと思っていたのだが、それらは琴菜が気を遣って仕込んでおいたものだった。なんだかんだ言いつつも、琴菜はいつも聡をフォローしてくれていた。

 あらかた準備が終わった頃には、八時半を回っていた。

「琴菜、お前も行くか?」

 全く下界に下りない琴菜を誘う。

「人が多いところは苦手だから」

 琴菜は、自分の部屋に戻っていってしまう。最初から期待はしていなかったので、落胆はない。やたらとある荷物を抱えて、聡は体育祭が催される櫻高校へと向かった。

 

 櫻高校のグランドは、大勢の人々で賑わっていた。

「あぁ、かったるい」

 今日は、生憎の曇り空でやや肌寒い。体を丸めて小泉由紀子(ゆきね)は、大きなため息を吐いた。文系で運動を大の苦手としている彼女としては、体育祭など憂鬱な一日でしかない。だが、憂鬱な人もいれば、水を得た魚のように飛び跳ねる者もいる。

「よく聞きなさい! 赤組を優勝させるのは私達よ! 優勝した暁には、肉々亭の焼肉を奢ってあげるわ! 肉が食いたいかぁ!?

『うおぉぉぉ!!

 妙な盛り上がりを見せている、由紀子のクラス。別に優勝した所で、所詮体育祭であるため、賞金とか出るはずもない。それでも焼肉を奢るという条件を掲げる、担任の坂田(いつき)。トトカルチョの噂は、本当のなのかもしれないと、由紀子はぼんやりと思った。

「元気ないね、ユッキー」

 水を得た魚、夏樹がやってくる。陸上部の期待のエースである彼女は、当然体育祭でも英雄扱いだ。実際、この学校で彼女より足の速い者はいない。

「元気なのは、体育系の人だけでしょ。妙に寒いし、早く帰りたい……」

 夏樹も由紀子との付き合いは古いため、『にゃははは』と相槌代わりに笑う。

「そうですね。私も体育祭は苦手です」

 隣に座っていた天野神華(しのか)も憂鬱そうである。二人揃って、どよ〜んとした空気。後ろの熱気も、彼女らには届かないようだ。

「もう二人揃って黄昏ちゃって。そろそろ集合だよ、行こう!」

「はぁ、行進とか大っ嫌い」

「歩くだけの行為に、なぜこれほど必死にならないといけないのでしょうか」

 元気よく手を出した夏樹であったが、二人はその手を見てもいなかった。

 体育祭が始まる。どんよりとした曇り空に、花火が数発打ち上げられた。由紀子と神華は、今からでも雨が降らないものかと、花火と同じく空を見上げる。しかし願いは届かない。曇っていても、空は高いし風も乾いている。雨の降る気配など、全くなかった。

 午前中は、学生メインの体育祭だ。夏樹は、短距離走でダントツ一位。由紀子は障害物競走で見事にずっこけて、最下位。神華も同じく障害物競走に出たが、彼女の場合順調に走ってもダントツで最下位だった。午前の競技の締めとして、部活動対抗リレーが行われる。道着を着て走る柔道部、完全武装で竹刀を振り回しながら走る剣道部など、いつも使っているユニフォームで走るこのリレーは、さながら仮装リレーである。結局、柔道部とか剣道部、卓球部など、走るのを得意にしていない部活は勝つことよりもウケを狙う。毎年上位を争うのは、陸上部、サッカー部、野球部だ。途中までサッカー部の独走であったが、アンカーである夏樹が、それを引っ繰り返してしまった。夏樹の速さは、他の追随を許さない。

「やっぱりはえぇな」

 十時頃から競技を見ていた聡。彼女の見事な走りに、素直に感嘆していた。

「私の娘だからな。当然だ」

 しかし美津子は、娘の健闘を喜んでばかりにはいられなかった。なにせ、午後からは地域と学生の対抗試合がメインだ。夏樹の俊足は、対抗リレーでの大きな障害となる。美津子も、複雑な心境である。

「しかし夏樹の話だと、お前の方が足が速いらしいじゃないか」

「そりゃ、性別の違いもあると思いますよ」

 昼休みの鐘がなる。『迎えに行ってきます』と言い残して、聡は午前の競技を終えてそれぞれ親の下に散っていく学生達に向かっていった。その途中、聡は人とぶつかった。

「あ、悪い」

 相手は自分よりも背が低い、黒髪の少女。鋭い刀のような視線で、こちらを見ている。それはこの間、大木公園で出会った(たちばな)椿(つばき)だった。思わず聡は、『お?!』と呟いていた。

「……神山聡。夏樹さんを探しているのですか?」

「そんなところだが……よく分かったな」

「……年の差カップルだと」

「誰がそんなデマを広げてやがるんだ!」

 椿の言葉は途中でかき消されてしまった。その事に気を悪くした様子もなく、椿は憎めない人だなと苦笑していた。その椿に背後から迫る黒い影――。

「つっかまえた」

「ひぃーーーー!」

 肩を固定され、首筋に熱い息を直接吹きかけられた椿は、驚きと気持ち悪さでつま先立ちして悲鳴をあげた。彼女の後ろにいたのは、とんでもなく髪の長い品のいい女性だった。

「な、なにをするんですか、透子さん!」

 椿が振り返って抗議。しかし女性はどこ吹く風よと、ころころと笑う。

「だってあまりにも熱中していて、隙だらけだったんですもの」

「隙だらけって……透子さんが本気で気配を消したら、私程度じゃ見つけられません」

「またまたご謙遜を」

「謙遜じゃありません。事実です……」

 女性の瞳が、聡を捉えた。

「あぁ、あなたが神山聡さん? 娘から話は聞いていますよ」

「へっ? 娘?」

 誰だろうか、と考えていると椿が教えてくれた。

「由紀子さんのお母様です」

「えっ!?

 どう見ても高校生の娘がいるような年には見えない。女性の年齢を見分けるのは、真に難しい。

「嬉しい反応ですわ。さてさて、もう皆集まっていますよ。あなたたちも一緒に」

「そうなんですか?」

 夏樹を呼びに来たのに、どこかですれ違ってしまったようだ。

「えぇ、夏樹さんも由紀子も、皆一緒ですよ。(しょう)()が手っ取り早く集めてくれましたから」

「章吾って誰だ?」

「由紀子さんのお兄さんです」

「兄?! マジかよ……じゃ、あの人一体いくつなんだ?」

「それ、本人に聞いたら生きて帰れませんよ」

「いや、そんな無謀な事はせん」

 透子に案内され、椿と聡は中庭へとやってきた。そして、一目瞭然だった。一箇所だけ、異様な人数が集まっていたからだ。

「……なんだあの人だかり」

 聡は思わずそう零していた。最初にいたメンバーは、虹野印刷の社長と社員合わせて四人。夏樹と由紀子を合わせても六人のはずだが、現在ざっと数えただけでも十人以上その場に集まっていた。

「あら、賑やかですね」

 賑やかな場所が好きなのか、透子は嬉しそうだ。彼女は、由紀子を見つけてそちらの方へと行ってしまう。

「聡さ〜ん、そんな所で突っ立ってないで、こっちにおいでよ〜」

 夏樹が手招きしている。丁度社長との間に、聡が座るスペースが用意されていた。しかし聡は、なかなか踏み込めなかった。なぜなら、見事に女性ばかりだったからだ。困って下を見ると、丁度神華が聡の顔を見上げていた。由紀子のクラスメートである彼女もまた、誘われて席を一緒にしているのだろう。その隣には、メイド服姿の女性が一人。聡と目が合った瞬間、彼女は大きく目を見開いた。

「俺の顔に何かついているのか?」

 聡が問うと、彼女――神華の家でメイドをやっている鏑木(かぶらぎ)恵美子は、ついっと視線をらした。

「あ、ごめんなさい。知っている人に似ているような気がしたから……」

「おっ……?」

 まさか自分のことを知っているのか。期待が膨らみ聞いてみようとした時、横合いから彼を呼ぶ声が聞こえてきた。

「君が神山聡君か!」

 首筋で髪を結んだ美しい顔立ちの男が声をかけてきた。こちらも髪の長さが半端じゃない。背中の半ばほどまである。女性しかいないと聡が思い込んでいたのも、この髪のせいだった。

「由紀子の兄の章吾です。ささ、奥へとおいでなさいな」

「由紀子の兄……?!

 二度目の驚き。年の頃は、二十代前半といった所か。透子とはよく似ているが、どう見たって由紀子には似ていない。由紀子のほうを見ると、彼女は知らぬ顔でから揚げを食べていた。透子を見ると、彼女はニコニコしていた。疑うのも変な話なので、その奇妙な真実を聡は受け入れることにした。椿は、どうやらその章吾の横に座ったようだ。聡も抗えないので、仕方なく自分のために開けられた席に腰を落ち着かせた。

 

 体育祭の午後の部が始まった。それぞれの地区と学生達が、大人子供関係なく熾烈な戦いを繰り返す。聡はその中で興奮と喜び、それと懐かしさを感じていた。そして、最後の対抗リレーを迎える。現在の順位は、貴族と呼ばれていた平坂チームがやはり一位。その平坂に僅差で追いかける学生チーム。少し離れて商店街チームとなっている。商店街チームが優勝するには、一位を取り、なおかつ平坂チームが三位以下にならなければならない。状況は絶望的だ。商店街チームの誰もが今年の優勝を諦めていた。ただ一人、神山聡を除いて。

「こういうのが燃えるんじゃないか。やってやろうじゃん!」

 燃える男、神山聡起動。英雄の言葉は、チームを硬く結びつける。その様子をクラスの待機場所から見守る由紀子。

「……遂に神山さんと夏樹の対決か」

「でも、さすがに分が悪そうな感じですね」

「それでもなんとかしちゃいそうなのよね、あの人」

 由紀子の言葉が終わる頃、最後の種目、櫻町対抗リレーが始まった。

 聡はアンカー。勝負の行方をゆっくりと見据える。学生側のアンカーは、やはり夏樹だ。名実共に彼女が一番速いのだろう。平坂のアンカーはさすがに顔を見ても分からない。年齢は、聡と同じぐらいの女性だ。アンカーに据えられているぐらいだから、下手したら夏樹クラスかもしれない。

 たくさんの声援の中、リレーは思わぬ展開となる。なんと一位を走っているのが、学生チーム。ここ八年ほど優勝していなかった学生チームの健闘は、さらなる大きな声援を呼んだ。二位は、平坂。この状況は商店街チームには喜ばしいものであったが、現在商店街チームは四位であった。

 聡の前に走るのは、純子だ。もともと彼女がアンカーだったが、腕相撲で負け聡をアンカーに推薦して現在の状況となっている。

「私が平坂まで抜いてやる。だから、お前がお嬢を抜け」

 お嬢とは、夏樹のことだ。

「あぁ、任せとけ。お前こそ抜かるなよ」

 純子が、親指を立てて見せる。聡もそれに応えて親指を立てた。最後から二番目の選手が全員並ぶ。待機場所には、アンカーしか残っていない。夏樹のほうを見ると、彼女もその視線に気づいて顔を向ける。いつもの人懐っこい表情ではない。真剣そのものの顔だ。彼女は、勝ちに来る。同じタイミングで走れば、聡はまず負けない。それはあの時証明されている。だが、差が開けば分からない。聡に埋められる距離は、精一杯見ても大幅歩きでの五歩程度。今は、数えるのが面倒になるほど差が開いている。純子がそこまで縮めることが出来るのか。もはや信じるしかなかった。

 順調に一位でバトンを渡す学生チーム。バトンを渡すのに慣れていない。若干遅れる。平坂、櫻町北部、順調にバトンが渡っていく。差は若干縮まったか。だがあまり変わりはない。そして、純子にバトンが渡る。もぎ取るようにバトンを取った純子。その瞬発力は、目を見張るものがあった。

「ひゅ〜、あのダッシュ、俺よりも速いんじゃねぇのか」

 素人の走りであるが、十分速い。脚力に物を言わせている。

「いてまえ、純ちゃ〜〜〜〜ん!!

「無様な走りは、打ち首獄門だと推測されます」

「なんとしても差を詰めろ!! 給料減らすぞ!!

 虹野印刷の面々から、声援が飛ぶ。さすがにそれに手を振って応える余裕はない。トラック半周、純子が櫻町北部の選手を抜く。平坂は目の前だ。

 純子は頑張った。宣言通り平坂も抜き、聡にバトンを渡した。

「後は任せた」

 言葉にはならなかったが、純子はそう口を動かしていた。先にスタートした夏樹との差は、少なく見ても六歩以上先だ。やはり速い。まさに大地を駆ける女神だ。純子のバトン渡しは、あまり上手なものでなかったため、十分な加速は得られていない。一般人相手ならまだしも、夏樹相手では大きな痛手だ。

 放たれた大砲の玉のように加速する聡。声援が聞こえる。商店街の人たちの声、由紀子の声もする。夏樹を追い抜かなければならない。前を見る。夏樹の小さな背中は、大分差が縮まったがまだ三歩以上先だ。残りトラックは半周。

「上出来だ」

 聡が大地を蹴る。加速したことで、ゴオォと風の音が聞こえた。残りは半周。たったの半周。体力も体調も気にする必要はない。どうせこれで怪我をしても、大切な試合が控えているわけでもない。仕事も今はまだデスクワーク。足の一本動かなくても仕事はできる。何も考えずに全力が出せるというわけだ。

 夏樹の顔に焦りが出た。後ろから駆けてくる聡の足音のせいだ。あれだけ離していれば負けない、そう彼女は確信していた。いま、それが確実に揺らいでいる。大会のことが先にあるため、ある程度抑えて走っていたが、もうそんな悠長なことは言ってられなくなった。大会に出られなくてもいい。彼には負けたくない。夏樹の思いが、彼女を突き動かす。

 残りトラック四分の一周。差は、一歩。手を伸ばせば届く距離だ。いま奇跡が起きようとしている。その予感に、運動場はかつてない声援と熱気に包まれる。

 残りトラック八分の一周。差は、普通の歩幅一歩分。夏樹からでも、聡の姿が見える位置。お互い全力だった。がむしゃらだった。白いテープはもうすぐだ。夏樹との差がゼロへと近づいていく。そして――。

 凄まじい歓声が響き渡った。雷も渋い顔をするほどの声だ。校舎がビリビリと揺れるとまで言ったら、さすがに言い過ぎかもしれないが、それに匹敵するほどであったことは間違いない。校舎の中で残務を押し付けられていた夏樹たちの担任斎は、持っていたノートを机に放り投げて窓へと駆け寄った。途中まで学生チームが勝っていたのは知っていた。そのまま勝てるだろうと安心して仕事をしていたが、さきほどの歓声は彼女に何か嫌な予感を与えた。まず目に付いたのは、夏樹だった。運動場で大の字で寝ている。もう女を捨ててしまったかのような、だらしのない姿だ。周りの生徒は、彼女を労っている。それだけを見て分かった。あの負けなしの夏樹が負けたのだと。

「……夏樹!」

 斎は走った。残務など知ったことか。学校の外に出ると、ヘロヘロになった夏樹が同じ部活の子に支えられながら歩いてきていた。斎に気づき、だらしなく笑う。

「あ、先生。ごめんなさい、負けちゃいました」

 全然、落ち込んでいるようには見えなかった。おかげで斎は、どっと疲れが出てその場にへたり込みそうになったほどだった。

「よかった……落ち込んでいるのかと心配したわよ」

「ちょっぴり悔しいけど、負けたのこれが初めてじゃないし。やっぱり凄いなて、思い知りました」

「初めてじゃない……? まぁいいわ、保健室に行ってゆっくり休みなさい」

 同じ部活の子に支えられ、校舎の中へと入っていく。

「あの子に勝つなんて、何者かしら」

 まだ興奮冷めやらずの運動場を見下ろし、斎は呟いた。

 

 お祭りのような騒ぎになっているグラウンドを、呆れたような顔で見ながら離れていく、平坂のアンカー。

「姉さん、ナイスファイト!」

 トラックを出た所で、少年にそう声をかけられる。

「ハル姉が、ダントツでトップだと思ってたんだけど、さすがに虹野先輩は速いわ」

 少年の隣にいる少女が、ピョコピョコと跳ねている。平坂のアンカー沢村遙は、そんな二人に苦笑して見せた。

「ガチでやれば負ける気はしないんだけど、さすがにあれだけ離れてたら、やる気も無くすわよ。それにしても……」

 遙は気になることがあって、再びトラックの方へと視線を寄こした。彼女が気になっているのは、商店街のアンカーである。どこかで見た覚えがあるような、ないような――。

「姉さん?」

「……なんでもない」

 遙は、背を向けて歩き出した。沢村遙と神山聡が再会するのは、まだ先の話である。

 

 対抗リレーは、聡の活躍で一位となった。そのため、逆転で櫻町商店街が八年ぶりに優勝をその手にした。一躍英雄となった聡は、虹野印刷を含めた商店街の人たちにタコ殴りにされた。興奮しているせいで、軽い気持ちでやっているそのパンチがやたらと痛い。喜びよりか、このまま殴り殺されないかと聡が怯えたほどであった。

 夏樹の様子を見に行くと、一方的に告げ聡はその場から逃げた。このまま祝賀会にも参加せず、ログハウスに逃げ込むほうがいいかもしれないな、と思いつつ校舎の中に。ひんやりとしていて静かな廊下は、火照った体を程よく冷やしてくれる。保健室の場所は、なんとなく分かった。もともとこの学校の生徒だったのかもしれない――聡は、そんな事を思う。

 靴箱から左に曲がる。もうすぐ閉会式だろう。生徒達が戻ってくるよりも早く、済ませてしまわなければならない。廊下の先、一番奥に保健室の札が見える。保健室から誰かが出てきた。夏樹の担任の坂田斎だ。彼女は聡に気づいて、聡の前に立ち塞がった。

「申し訳ありません、保護者の方はご遠慮してもらって……?」

 丁寧な口調で言っていた斎が、言葉を最後まで言えなかった。しばらく二人は石像のように固まって見つめあう。

「聡……?」

「斎……?」

 二人の声が重なる。その瞬間、聡は頭部に激しい痛みを覚えた。頭が割れそうに痛い。両手で頭を支えてみるが、まるで意味がない。脂汗も出てきた。彼の尋常ではない様子に、斎も焦る。

「どうしたの?! ねぇ、大丈夫?!

 その声は、聡には届いていなかった。色々な風景が浮かんでは消えていく。走馬灯というのは、こういうのを言うのだろう。風景の中に必ずいる少女。間違いなく斎の若い頃の姿だ。この頃から、片方の髪が長いという髪形は変わっていない。どんどんと姿は若くなっていく。高校の制服から、中学校の制服。ランドセルを背負い、そして最後に浮かんだのは――。

『聡……怪我……してない?』

「うわぁぁぁぁーーーー!!

 血まみれで微笑む斎の姿だった。