第十七話『獣は笑う』
時期:2005年11月上旬
櫻高校の文化祭が晴天の中、催される。十一月とは思えぬ、汗ばむような暖かさ。聡は、浮かない顔で文化祭の派手なアーチを潜った。
立ち並ぶ露店に、大勢の人。
櫻高校の文化祭は、体育祭と同じく地域住民と合同で催される。学校と校庭の露店は学校側、運動場および学校周辺の露店は町側で運営されている。これは、町のイベントであるといっても過言ではない。実際、櫻町でもっとも多い集客数を誇る一大イベントであった。
そんなイベントの最中であるにも関わらず、聡の顔色が優れないのは何故か。
それは、一ヶ月と少し前の事を引きずっているからである。
『もう私に関わらないで!』
九月の終わり。公園で出会った由紀子から、聡はそう拒絶された。凄い剣幕であった。
聡には、彼女を怒らせた理由が皆目見当もつかなかった。
つい先週まで、彼女とは普通に話せていた。それが、一体何故――?
それからというもの、聡は常に浮かない顔をしていた。あまりにも落ち込んでいるため、職場の人間にも心配されてしまう始末である。
色々と悩んで、そして聡はこの文化祭へやってきた。
鎮座する学校が、異様に大きく見える。立ちはだかる。
由紀子は、クラスの出し物である喫茶店の隅で占いの館をやっていると、夏樹から聞いている。
迷いが断ち切れない。
聡は、結局学校内に立ち入る勇気を振り絞れず、校庭の方へと迂回した。
学生の露店が立ち並んでいる。ジャージ姿の学生が駆けずり回り、そんな姿を大人たちが見守っていた。あちらこちらで記念撮影。家族、友人、恋人の交流である。聡は、そのまま立ち止まらずに、校庭を通り越し、体育館の裏手へと回った。
記憶を喪失してはいるが、昔この学校の生徒だったと幼馴染から聞き及んでいる。脳のどこかに刻まれていたのだろう、聡は迷ってはいなかった。とりあえず、静かな所へと行きたかったのだ。
そこで聡は思わぬ人物を発見してしまった。
体育館の裏側の出入り口の階段に腰掛けている、一人の女性。疲れきった顔で、虚空を見つめている。幼馴染の、坂田斎である。教職員である彼女がここにいる理由。それを詮索するのは野暮というものである。
今は、斎と顔を合わせたくはない。聡は、慌てて逃げようとしたが、それよりも先に斎のほうが聡に気付いてしまった。
「あら、聡? 何してんの、こんな所で」
大きなため息を一つ。見つかってしまった以上、もう逃げ出せない。ここで走り去ろうものならば、地の果てまで追い掛け回される。そして、その後は凄烈な報復が待っていることだろう。逃げるのは、得策ではない。
「お前こそ、こんな所で何してんだよ。サボってないで、仕事しろ」
「サボってないし。休憩しているだけよ」
どう違うのか、聡にはよく分からなかった。
「はいはい。じゃ、仕事頑張れよ」
「ちょい待ち」
適当に切り上げて立ち去ろうとした所で、待ったをかけられてしまう。仕方なく、『ん?』と先を促すと、斎は聡を手招きしていた。そして、隣を指差す。どうやらここに座れと、ご命令のようだ。
あの場所に座れば、もう逃げる事はできない。ここから逃げた所で、上記の通り。聡は、諦めて彼女の横に腰掛けた。
体育館の裏手は、一段高い所にあるプールの壁に塞がれているため、とても暗く、ひんやりとしている。昔同じようにここで座っていたような感じがしていたが、それは気のせいではなく失われた過去の断片であろう。
「聡さ、なにを悩んでいるの?」
直球で来た。相変わらず、前振りというのが嫌いな人である。
「別に。悩んじゃいないぜ」
聡は、そっけなく返した。斎に今の悩みを悟られないようにしている聡であるが、それが逆効果であることに彼は気付いていない。幼馴染の眼光は、聡の心の底を射抜く。
「私に、聡の嘘は通じないから。話してよ。私、聡の力になりたい。聡のために何かしてあげたい。だって、いつも聡・・・私を頼らないでしょ? 寂しいんだよ。本当に本当に」
いつもよりもどこかしおらしい斎。その表情には、隠しても隠しきれない不安が深く影を落としていた。聡に頼ってもらえない、そんなに自分は頼りない存在なのか――斎の不安を、聡も感じ取る。だから、聡は斎にことの事情を明かした。
斎は、由紀子の担任に当たる。しかし、由紀子と聡が友人であった事は知らなかった様子。そのため、聡は由紀子と出会った時の事から話し始め、そして由紀子に拒絶された事を話した。
「俺には分からない・・・怖い。俺は・・・また・・・一度じゃない気がする。ずっと俺は・・・恐れていた。怖い・・・」
うつむいて聡は、『怖い』と繰り返す。斎は知っていた。聡がトラウマを抱えていることを。彼自身は、記憶を失っているため覚えてはいない様子であるが、だからといってトラウマが消えるわけではない。そう、実際に彼は『異性からの拒絶』を極端に恐れていた。
「聡・・・聡は何も悪くない。何も悪くないから、怖がらないで」
聡の頭を、斎は優しく撫でた。それは聡の失われた記憶を刺激した。昔もこんな事があったような気がする――それは、やはり錯覚でもなんでもない。斎自身が、昔と同じように聡を慰めていたからだ。
「・・・まぁ、本当に聡は悪くないから」
最後の言葉が、聡を現実に呼び戻した。
「なにか知っているのか?」
「まぁ・・・ね」
斎は、曖昧に笑う。
「個人のことだから、あまりベラベラ喋る事でもないけど・・・う〜ん・・・」
「あぁ、別にいい。お前の立場もあるだろうから、言えないならそれでいい。ありがとう」
こんな状況でも、他人を気遣う聡の優しさ。それが、斎の迷いを断ち切った。今こそ、彼の優しさに報いる時だと。
「・・・あの子、由紀子はね、少し前にさ、誹謗中傷の類をどうやら黒板に書き上げられたみたいでね。まぁ、私は一回しか報告を受けていないけどさ、その中に援助交際がどうのとかいう話まであったらしいのよ。由紀子は、あぁ見えて他人に気を遣いすぎるところがあるから、それで極端なことに走ってしまった事は考えられるかな。あくまで、私の予想の範疇だけど・・・」
「・・・そっか」
聡は、どこか諦めたようにそう言った。
「高校生とおっさんがいれば、そう見えるか。全く、俺はいつもあれだな。変な所で気が利かないというか、無頓着というか」
「私は、そういうところに愛嬌を感じているんだけどね」
聡は、思わず苦笑を浮かべていた。
「ありがとう。後で、アイツにメールでも送っとくさ。嫌われたのでないならそれでいい」
「じゃ、迷いも晴れたところで、遊びに行くわよ、聡!」
斎は、早速とばかりに立ち上がって聡に手を差し伸べた。そんな彼女を、聡は呆れたような顔で見返した。
「お前、仕事は?」
「巡回するのも教師の務めってね。いいからいいから。相談料代わりに、たこ焼き、お好み焼き、焼き鳥、あとはコーヒーとケーキね!」
「ちょ、どんだけ食うつもりだよ。・・・太るぞ」
「ねぇ、聡。この体勢で全力で蹴っていい?」
殺気をみなぎらせる斎。座っている聡に、ローキックなり廻し蹴りなりを敢行する気満々の様子である。
「いや、俺が悪かった。蹴らないで下さい、斎様」
斎の蹴りの破壊力は身を持って知っている。正直受け切れない。両手打撲で仕事ができないなんてことになったら、職場でどんな扱いを受けるか。想像しただけで、ずっと先まで怖い。
結局聡は、斎と付き合って露店を回ることとなった。その表情は、もうすっかりいつもの彼のものに戻っていた。
櫻高校近くの雑居ビルの屋上。給水等の影で暑さをしのぎつつ、数馬はたこ焼きを頬張っていた。立場上、文化祭には顔を出せないので、今食べているたこ焼きや、側に積んであるお好み焼きは、章吾に買いに行かせた。ついでに、章吾には尖兵となってもらった。後は、彼から報告が来れば動けばいい。そのため、数馬は割りと時間を持て余していた。
ゆったりと流れる白い雲を眺めつつ、ぼんやりと過ごす。遠くから聞こえる文化祭の賑わいが、耳に心地よい。
しかし、平穏で穏やかな時は長くは続かなかった。扉が開く重い音がした。数馬はすぐに、小型のナイフを片手に身構えた。一見頼りのない普通のナイフであるが、彼が持つとそれは凶暴な武器へと変貌する。
影が確認できた。屋上に上がってきた人の数は、三。ビルの関係者ならいい。だが、そうでないのであれば――。
影が動く。それも素早い。数馬はナイフを投擲しようとしたその時――。
「バァーン!」
飛び出してきた人影が、手を銃に見立てて人差し指を差し向けてきた。中性的で美しい容姿であるが、少年だ。そう、数馬のよく知る――そして、今ここで出会うはずのない彼の名前を、驚きと共に口にした。
「十夜・・・なんで、お前が?」
「ども〜、クロ。久しぶりぃ〜!」
イエ〜イと絶好調振りをアピールする十夜。彼がここにいるということは――数馬の嫌な予感は的中した。
「・・・久し振り」
十夜によく似た少年が、不器用に笑いそう言った。十麻、十夜の双子の弟だ。もう一人は、数馬の知らない子であった。年の頃は、十夜たちとは変わらない。控えめに頭を下げていた。
「あぁ・・・元気そうだな、十麻」
数馬も曖昧な表情で答える。二人の間に流れる空気は、どこか落ち着かない感じであった。しかし、十夜にはまったく関係がない様子で、『いっただきぃ〜』と数馬が食べていたたこ焼きを横から掻っ攫っていく。
「あ・・・十夜! 欲しいなら、自分で買えばいいだろうが! まったく、その手癖の悪い野良猫みたいな性分は、まるで変わらないな!」
「クロがぼぉ〜としているからだよ。それに、クロがしでかした事に比べれば安いと思うけど・・・いかがなもんでしょ?」
「うっ・・・くそ! 勝手にしろ」
「あっ、いじけた。大人気ないなぁ」
「黙れ。煩い。死ね。くたばれ。あっち行け」
散々な言いように、見守っていた十麻と少女はくすくすと笑っていた。笑われていることに気付いた数馬は、恥ずかしそうに頬を掻く。そして、脇に置いてあったお好み焼きを手に取った。
「十麻」
名前だけ呼んで、差し出す。十麻は驚きつつ、自分を自分で指差す。それを俺にくれるのか? そう確認しているのだ。
「馬鹿兄に奪われるぐらいなら、十麻にやるよ。あの時の事は・・・いつか必ず」
十麻は、その必要はないと、ゆっくりと被り振る。
「俺は、あなたを恨んではいない。元気でいてくれた。それだけでいい」
数馬の気持ちを受け取る意味で、お好み焼きは受け取った。近くで見ると、ますます美しい顔である事を思い知らされる。
「・・・そう言ってくれるのは嬉しい。だが、俺の気がすまない。全てが終えたその時、必ず返す」
「分かった」
そこで十麻は、控えめに笑う。その笑いが、何を意味していたのか分からなかった数馬は、『ん?』と先を促した。
「相変わらずだな、そう思った」
「・・・そうだろう。自分でも驚くほど、代わり映えがないのさ」
心の突っかかりが、一つ消えたため、数馬はどこか晴れ晴れとした表情をしていた。今度は、兄である十夜が二人を見守る。その表情は、悪ふざけしていた彼とは別人と思えるほどの凛々しい横顔であった。
「ん? 待て。お前ら、なんで俺がここにいることが分かったんだ? まさか、今回の件に首を突っ込むつもりなのか?」
「それはNO。仕事の合間に、顔を出しただけだよ。身内のゴタゴタには興味ありませ〜ん」
「あなたの居場所は、マドモアゼルTから聞いた」
数馬は、途端に眉根を細めた。思わぬ名前が出てきたからだ。
「そうそう、もしかして居場所を知っているかなぁ〜と思って連絡を取ってみたら、ばっちし座標で教えてくれたよ。クロ、発信機か何かしかけられてんじゃないの?」
「あのババァ! くそ、発信機だと?! 冗談じゃない!」
服を叩いたり、財布の中を改めたり、慌てて色々なものを調べ始める数馬。そんな彼に、十夜は容赦なくトドメの一撃を放ってきた。
「本気で発信機を仕掛けられているなら、クロじゃ百年経っても見つけられないと思うけど」
「・・・まったく道理だな」
数馬は、すっぱりと諦めて背中を壁に預けた。GPSか何かを仕掛けられているのであれば、この大空の彼方から衛星が目を光らせているのだろう。なんのために仕掛けたのか。それは考えても仕方がないことである。マドモアゼルT。彼女は、目の前の十夜よりも何を考えているのか分からない御仁なのだ。
「クロ、一応二点ほど確認したいんだけど、いいかな?」
「別にいいぜ。答えられることには答えてやるよ」
「割と素直だね」
「お前に口で勝てるとは思ってないからな」
「十麻には愛を感じるのに、なんだか僕にはそっけないんだよね。これがいわゆるツンデレという奴?」
「知るか。用がないなら、帰れ帰れ。暇そうに見えて、これでも忙しいんだ」
「はいはい。非常警戒中だもんね。じゃ、早速。クロは、本当に英雄になるつもりなの?」
数馬は、すっと表情を引き締めた。体を起こして、十夜や十麻の方に顔を向けずに彼は答えた。
「あぁ。それが近道だと知ったからな」
「そっか。なら、クロ。今回の『赤鬼』の件、クロはどう干渉するつもりなの?」
十夜の質問は、挑戦的であった。そこに数馬は、静かな怒りがはらんでいる事に気づく。十夜は、弟の事を大切にしている。本当に恨んでいるとしたら、十麻ではない。十夜自身かもしれない。
「俺の目的は、ただ一つ。紅の呪縛を打ち崩す。だが・・・正直、今は様子を見ている。あの子は、まだ何も知らない。何も知らないなら、きっとその方がいい。知っていいことなんて、俺達側に来ていいことなんて、何一つとしてないからな。普通に学校に行って、進学して、就職して、結婚して、子供を生んで、老い、死んでいく。それは平凡で、ありふれた日常かもしれないが、幸せなんてものはきっとそんなところに落ちている。だから、このまま守りきれるなら、それでいい。やっぱり・・・そうなんだよ。守り抜くべきなんだ。あの子の日常を、理から外してはいけない。俺は戦う。あの子の日常を奪おうとするもの全てと」
ぐっと拳に力を入れ、決意する数馬。十夜は、その答えに満足したのか、嬉しそうに笑っていた。
「なんだかクロ、カッコイイね。僕、思わず胸キュンと来たよ。あぁ、これって恋の予感?」
「死ねばいい」
急にいつもの調子に戻った十夜を、数馬は冷たくあしらう。
「確かに、今のは格好良かった。俺もそう思う」
「私もそう思います」
十麻、さらに少女まで賛同してきた。数馬は、いつものむっつり顔をさらに尖らせた。
「むぅ・・・お前たち、俺をからかって遊んでいるだろう?」
こういう時に限って、十夜は何も言わない。ただ、笑って数馬を見下ろしている。その笑みが何を意味するのか、数馬には判別することができなかった。
「で、聞きたいことは終わりか?」
恥ずかしいので、話題を変える努力をする。今回は、すんなり十夜もそれに応じてくれた。
「もういっちょ。学校でさ、妹さんに会ったんだけど、クロはもう会ったの?」
「またそれか」
不思議そうな顔をしている十夜。数馬は、気にするなと右手を振る。
「会わない。会えない。今はその時じゃない」
「・・・シスコンなのに?」
「誰がだ! 椿のことは、大切だ。大切だから、今は会わないんだ。言われなくても、今回の一件が終われば、事情を話しに会うつもりだしな」
「そっか。分かった。僕からは以上だよ。お疲れさん」
「あぁ、まったくだ。帰れ帰れ」
しっしっと手で追い払う。
「十麻は、もういいの?」
「俺から聞くことは初めから何もない」
きっぱりと十麻は言った。
「じゃ、戻ろうか。またねクロ。今度からも、ピンポイントで襲撃するからよろしく〜」
「・・・あぁ、忌々しい! 発信機が忌々しい!」
どこにあるか分からない発信機に、数馬は悪態を吐いていた。
「今度は、チーズケーキ持ってくるから」
「楽しみだと言いたいが、馬鹿兄貴は海か・・・いや、藻が一杯の池か何かに沈めてから来て欲しいな。二度と出てこないように、こう足を藻に絡ませて、あと石でも抱かせとくとなお効果的だと思うんだが」
「死んだら、毎晩枕元でアニソン歌ってあげるね。萌え〜で、耳が腐りそうな電波な奴とか」
「あぁ、簀巻きにして森に転がしておくだけでもいいから、この煩いのは全力で同伴を拒否したい」
頭が痛いといわんばっかりに、被り振る数馬。それでも全力で嫌がっているわけではなさそうなので、これが数馬と十夜のコミュニケーションなのかもしれない。
「あ・・・っと、悪い君の名前を聞いてなかったな」
あまりにも十夜が煩くて、そして十麻に気を奪われすぎて、失念していた少女の名を今更尋ねる。だが、彼女は気を悪くした様子を見せなかった。
「白咲香那です。はじめまして」
「橘数馬だ。例を言う。ありがとう」
礼を言われる意味が分からず、戸惑う香那に数馬は敢えて説明はしなかった。
「これからも二人を支えてあげて欲しい。十夜は、普段しっかりしているくせに妙な所で、変なこだわりに振り回されがちだし、十麻はすぐに諦めがちだ。・・・まぁ、今更か。とにかく、二人を頼む」
「えっと・・・私なんかで支えられるか・・・う、違うかな、う〜ん・・・あの・・・どう言えばいいのか。あの、頑張ります! 精一杯!」
選手宣誓のような感じになってしまっていた。
あれこれと言いつつ、三人は帰った。思わぬ、懐かしい人との出会いは確かに数馬の心を温かくした。その余韻があるからこそ、静かになった屋上で彼はどことなく寂しそうに座っていた。
壁に深く寄りかかり、完全にだらけきっていると、再び屋上のドアが開く音が聞こえた。今度は、咄嗟に身構えるような事はしなかった。
「忘れ物か?」
十夜たちが戻ってきたのではないかと、声をかけた。しかし、実際は違っていた。二十代の黒髪の女性の姿を認めたとき、数馬は目を見開き慌てて体を起こした。
「十太様・・・お久し振りでございます」
「ひ、さしぶり、だな・・・」
古い名を呼ばれた彼の驚きようは、十夜たちの時とは比べ物にならないほどであった。
「十夜の奴か・・・」
苦々しく数馬は呟いていた。
賑やかな喫茶店の隅に、不釣合いな看板が一つ。『占いの館』。汚い字でそう書いてあるが、普通に机が向かってくっつけられているだけで、それ以外にはなにもない。制服の上から、どこから仕入れてきたのか黒いマントを羽織った由紀子は、客もいないので無駄にタロットをくっていた。
占いの館自体は、ボチボチの人の流れである。喫茶店が賑わっていることで、相乗効果になっているようだ。
丁度、今は客がおらず忙しそうに駆けずり回っている友人達の姿をぼんやりと彼女は眺めていた。
「・・・やっぱり異様な光景だと思うんだけど」
ぼそりとこぼす。
由紀子のクラスの出し物は、仮装喫茶店。熊の格好をした奇抜な生徒から、この中では割と普通に見えるとメイド服まで、全員が何かしらの仮装を行っていた。由紀子の格好も、それを習ってのことである。
その中でも、もっとも売り上げに貢献していると思われるのが、学年トップクラスの人気を誇る天野神華のメイド姿であろう。もともと容姿が日本人離れしている彼女が、メイド服なんか着ているため、まるで映画のワンシーンを演出しているようであった。
華やかな神華――友人の姿を追いかけていると、急に前を塞がれてしまった。長身の男が、由紀子の前に立っていたのだ。音も気配もなかった。本当に、突然の事だったため、由紀子は声を失って男を見上げていた。そんな彼女に、男は少しだけ笑って見せた。明るいものではない。どこか陰気な笑みであった。
「占ってもらえますか?」
「あ、はい。あの、何を占えば?」
「そうですね、来年の運気でも」
由紀子はタロットを広げ、かき混ぜて、綺麗に集めなおすと半分に分けて、また元に戻す。それから上のほうを何枚か外した後に、カードを並べ始めた。
十二枚のカードで円を描き、真ん中に一枚カードを置く。大アルカナで占う、ホロスコープだ。
並び終えた後、丁寧に全てのカードを開いていく。最後に真ん中のカードをめくった時、由紀子は表情を少しだけゆがめた。
真ん中は、運気の方向性を示すものである。明るいカードであることが望ましい。だが、そこに眠っていたカードは、『The Hanged Man』の逆位置。何もかもが徒労に終わる。そのカードは、そう訴えていた。
「・・・ずっと積み重ねてきた事が、無駄になろうとしています。しかし他者に頼らずに、自分の運命を自分で切り開き、道を選択していく事ができれば、きっとカードに示された運命を変えることができると思います」
その言葉を聞いたときの男の顔の、なんとおぞましい事か。悪いことを言ってしまったのかと、由紀子は怯えた。しかし、一瞬で男は表情を改め、また下手な笑みを取り繕った。
「ありがとう。参考になりました。・・・またお会いしましょう、お嬢様」
男は、不思議な言葉を残して席を離れていく。
どこかで見たことがあるような気がする――由紀子はそんな事を思いながら、男の背を見送っていると、教室の出入り口付近で男は再び足を止めていた。男の前に立っていたのは、由紀子の兄であった。その表情の険しさは、離れた場所にいる由紀子にも確認できるほどのものであった。
いつも穏やかでひょうきんな兄のその表情を見て、由紀子はどこかで納得していた。
あぁ、兄はやっぱりいつも演技をしているだけなんだ――と。
いつも彼女は、黙って傍で微笑んでいた。どんなに怒鳴ろうとも、拒否しようとも、彼女は黙ってそれを受け止めた。若い頃の過ちというには、過ぎた思い出。ずっと心の奥底に残っていた茨の主が、今隣に座っている。
「・・・すまないと思っている。本当に」
「その言葉を頂けただけで、十分すぎます」
彼女――麻理亜は、あの頃と変わらぬ微笑を浮かべていた。その横顔を見ていると、罪悪感で胸が一杯になる。
誰も彼もが、彼を許す。裁いてくれたならば、恨んでくれていたならば、もっと楽だった。どうして彼ら、そして彼女は、切り捨てて去っていった彼を許すことが出来るのだろうか。数馬には、まるで分からなかった。
「十太様は、戦い続けていらっしゃるのですね。まだ・・・まだ、続きそうなのですか?」
「・・・終わりは見えてこないな。麻理亜は、今は何を?」
「私は、今天鈿女で戦っております」
「津鏡家を抜けたのか? それも、俺のせいなのか・・・」
驚き、悔やむ数馬の横で、それは違うと麻理亜が首を横に振る。
「私の意志で、津鏡家を抜けました。十太様のことで破門にされたわけではございません。私は、もっと外の世界を見てみたかったのです。津鏡家に所属していて見える世界は、津鏡家にとって都合のいいものでしかなく、しかし私はそれが全てだと思っておりました。けど、十太様と出会ったとき、まったく違う光景を写す瞳を目の当たりにして、私は己が蛙であることを知りました。十太様は、何のために戦い、何を思い、何を成そうとしているのか、津鏡家の中では絶対に知りえないと感じたから、私は天鈿女へ移籍いたしたのです。おかげで津鏡家では得られなかったものを、天鈿女で得る事ができました。今でなら、十太様のお心、少しですが察する事ができていると自負しております。だから、十太様。私は、十太様のことを恨んだりはしておりません。新しい世界を見せてくれた十太様のことを、本当に感謝しております。一緒にいられて、よかったと思っております。ただ、十太様の心を、最後まで察することができず、十分に支えきれなかった事だけが、私としても・・・」
「もう・・・いい」
数馬は、泣きそうな顔でそう呟いた。その表情に、麻理亜もはっとなる。
「俺は、麻理亜達が言うような、立派な奴でもなんでもない。恨んでくれていいんだ。罵ってくれていいんだ。俺は、お前たちを切り捨てた! 受け入れようとしてくれたお前たちを拒絶して、優しい言葉にも耳を貸さなかった! ただ、わがままだっただけなんだ! そんなに俺のことを、買いかぶらないでくれ! 俺は・・・俺は・・・!!」
「十太様・・・」
一気に心の内を吐露したことで、少しは落ち着いたのか数馬は唐突に苦笑を浮かべて見せた。愚痴をこぼしているうちに、気付いたのだ。どうしようもない事実に。
「違うな。これも、わがままだ。俺は、麻理亜や十夜、十麻達の事が羨ましい。あの時、アイツが目の前で死んでから、俺は一歩だって前に進めていない。ずっと同じ所を回り続けている。そして、この様だ。自己保身で必死すぎだな。笑ってくれていいぜ?」
「そんなことはありません。十太様は、しっかりと進んでいらっしゃいます。なぜなら、十太様は過去の己の事を十分自覚されているからです。前に進んだからこそ、後ろを見ることが出来るのです。十太様は、昔から真面目すぎるのでございますよ」
麻理亜は、人差し指で数馬の頬を突っついた。
「もっと、肩の力を抜いても宜しいんですよ? もっと、深呼吸しても宜しいのですよ? たまには、美味しいご飯を食べて、温泉につかって休んでもいいのですよ? 誰も、十太様の背中をがむしゃらに押しているわけではございません。最初から最後まで、全速力で走る事なんてどんな超人にも出来えません。だから、もっと肩の力を抜いてください」
麻理亜は、メモ紙に自分の携帯の電話番号とメールアドレスを書き、数馬に手渡した。
「お暇な時にご連絡を下さい。息抜きのお手伝いぐらい、私にも出来ますから」
「・・・アフターケアーまで万全っというわけか。最初から最後まで、俺は麻理亜に負けっぱなしだな」
泣きそうになるのを堪えつつも、数馬は嬉しそうにそう言った。そんな至福の時を打ち壊す、電話の着信音。相手は、尖兵として活動中の章吾からであった。
「なにかあったのか?」
『九琥津だ!』
慌てた様子の章吾。しかし、それだけではさすがに数馬も分からない。
「はっ? なんだ、何か起こっているのか?!」
『尼崎九琥津と接触した! 前当主の右腕の・・・アイツだよ、覚えているだろう?!』
顔色を変えて、数馬は慌てて立ち上がった。
「アイツ・・・! 死体が出ていないからもしやと思っていたが、生きていたのか!?」
『学校内で拘束しようとしたが、周りの学生を殺すと脅されて、手が出せない! 学校の外に出たところで、頭を抑えてくれ! アイツが生きているなら、前当主の生死の確認も取れる!』
学校が見渡せる位置へと動く。
「で、今どこだ?!」
『まっすぐ校門の方へ向かっている! 釈然としない。なぜ、わざわざ僕達の前に現れたんだ? 罠かもしれない。十分気をつけて!』
「あぁ、こっちは任せろ。章吾、お前は各方面へ連絡し、包囲を固めろ!」
『分かった。でも、数馬。無理はしないでくれ。アイツは・・・強い』
「知っているさ。だが、俺もあの頃とは違う・・・!」
電話を切り、屋上のフェンスを一気に乗り越える。そこで、彼は状況を見守っていた麻理亜のほうへと向き直った。
「麻理亜、今日はありがとう。君と会えてよかった。必ず、連絡する」
「はい。お待ちしております。頑張って」
数馬は深く頷くと、屋上から颯爽と何も付けずに飛び降りた。
ビルから飛び降りた後、校門へと向かった数馬は、校門から出て南側――商店街や駅がある方向へと歩いていく、男を目視した。
すっと背筋を伸ばして歩くその男。数馬は、それが尼崎九琥津だと瞬時に判断した。背格好に覚えはなかったが、歩き方と放つ気配が、一般人のそれとかけ離れすぎていたからだ。
まるで墓場をろ過して、溜まった暗い雰囲気だけを厳選して背負っているような、異質な何か。見るものが見たら、それだけで卒倒しかねないような、まさに地獄の住人である。
尼崎家で当主の右腕として、数多の人間を殺戮してきた男。殺してきた人間の数だけの死臭が漂っているのだ。
道路を渡り、住宅街の狭い路地へ入っていく。誘われているような気がしたが、迷っている暇はない。ここであの男を逃がすわけにはいかないのだ。
遅れて路地に入ると、すでに男の姿はなかった。しかし、死臭が残り香となって続いていた。それを追いかけて、二つ目の路地を曲がった所で、数馬は男と対面した。
「誰かが追いかけてくると思ったが・・・意外に若いな」
不気味に笑う。全身から殺気が迸っている。出会い頭で、いきなり臨戦状態であった。
「尼崎九琥津だな。貴様のような汚物がのうのうと生きているとは、正直この世界を憎みたくなるぜ」
「憎めばいいだろうが。いいぜ、憎むのは。まぁ、俺は憎まれるほうが好きだがな。・・・お前、そのムカツク面・・・どこかで覚えがあるな」
陰気に瞳を細める。
「ムカツク面ってのは、橘家の当主の顔か? 生憎だが、それはもう拝めないぜ。貴様は、俺にここで倒される。決定事項だ!」
腰に下げていた小太刀を抜き、踏み込み、斬りかかる。その一連の動作が、恐ろしく速く、よっぽど動体視力が優れていなければ、何をしたのかさえも理解できないそんな速さであった。しかし、男――九琥津は、驚くほど冷静に対応する。
いつから握っていたのか、白い槍で数馬の一撃をさばく。金属の擦れる音が、鼓膜を揺さぶる。
「あぁ、思い出した。お前、橘数馬だな」
「だったらどうした?」
その瞬間、九琥津の表情が豹変した。それは、怒りか。数馬でもぞっとするような表情を彼は浮かべていた。白槍がうねり、轟音を伴って耳元をかすめていく。避けられたのは、奇跡だと数馬も感じた。だが、目が覚めるような、強烈な一撃にひるむわけにはいかない。距離をとられれば、武器の間合いから考えて不利になるのは目に見えている。
「だったらどうしたか。決まっているだろう。お前だけは、この俺の手で殺す。あの時、そう決めていたんだ! 殺してやるよ。お前なんかのせいで、音子様は死んだんだからな!!」
その言葉が、衝撃となって数馬の心を揺さぶった。そのため、迫ってくる槍の柄に気付くのが遅れ、左頬を殴打されてしまう。一瞬、世界が暗闇に染まった。だが、意識までは手放すわけには行かないと、なんとか繋ぎとめつつ、さらに倒れてなるものかと踏ん張った。口角から血液が滴り落ちる。
「お前たちに・・・音子の死を語る権利はない!」
白槍をすり抜け、飛翔し、追撃を壁を蹴ってかわして背後に回る、
「もうお前たちに、誰の幸せも奪わせはしない! 報いを受けろ!」
「報い?! 橘家の人間がよく吠えたものだな! 呪いで苦しんで死ぬぐらいなら、ここで殺してやるから、さぁその胸を俺に突かせろ!」
左肩を刺し貫かれて、苦痛に表情をゆがめる。だが、それはほんの一瞬だけ。数馬は笑う。取った、と。
右腕を一閃。放たれた小太刀が、狙い外さす額に突き刺さる。
「音子達が受けた苦しみを受けろ!」
深々と刺さった小太刀は、確実に脳を射抜いていた。そのはずだったのだが、九琥津は小太刀が刺さったまま不気味な笑みを浮かべた。
「忘れるな。お前は、俺が殺す。絶対にな!」
いぶかる数馬の前で、九琥津は霞のように消え去ってしまった。
「移し身だったのか。クソ!」
流血する左肩を抑えつつ、悪態を吐く。
その表情にかげる悲壮感。それは、傷のためではない。尼崎九琥津。あんな男が動いているという事実が、そうさせていた。
思った以上に厳しい戦いになる。
守りきれるだろうか。使命を果たす事ができるだろうか。
「やらないといけない。音子に託されたこの思い、絶対に・・・!」
音子と望んだ世界は、まだ遠い。
文化祭が終わって、疲れ切った由紀子は本の山を乗り越えてベッドに倒れ付した。横になると、疲れが一気に体を侵食していく。今日は、もうこのまま寝てしまおうか――そんなことを考えていた時、今日一日、一回も携帯電話の履歴を確認していない事に、なぜだか気付いてしまった。
滅多に電話もメールも来ないが、全くこないわけではない。たまには確認していないと、メールが届いていた事に四日も気付かない――なんてことも実際あったのだ。
「あ、メール・・・」
携帯を開くと、新着メッセージのアイコンが出ていた。差出人の名前を見たその時、由紀子は慌てて体を起こした。
「な・・・なんで?」
差出人は、神山聡だった。あの日、あの時、拒絶してもうそれっきりだと割り切っていた相手からの突然のメールに、由紀子は戸惑いを隠せなかった。
件名は、『ごめんな』と書いてある。
指が震えた。このメールを見るのが怖い。どんな事が書いてあるのか、想像するだけで恐ろしい。
しばらく考え込んだ。
静かに携帯を抱えたまま、三十分ほどが過ぎてから由紀子はようやく決心する。
下へ、下へ画面をスクロールさせていく。その内容が、由紀子を拒絶したり、蔑んだりするような内容ではなく、全く反対の性質を持っているものだと気付くと、由紀子は終わりを目指してスクロールを加速させていった。
『由紀子、またな』
そう締め切られたメール。携帯の液晶に由紀子の涙が落ち、その文字が歪む。言葉にならない感動が、由紀子の心を揺さぶっていた。
ただただ、携帯を大事に抱きしめる。
気付くと朝になっていて、メールの返信を打たなければと慌てる由紀子。彼女が、メールに返信できたのは、さらにそれから三時間も経った後のことだった。
暗い室内に集まる者たち。その中の一人が、口を開く。
「九琥津様、敵地のど真ん中に単身で乗り込まれるなんて・・・無茶が過ぎます」
小柄の中年の男。九琥津と最初に接触した男である。怯えた瞳で、九琥津の顔色を伺ったそのとき、彼は九琥津の顔を見ることが出来なかった。
九琥津の右手が男の頬を掴み、片手でやすやすとそのまま持ち上げる。九琥津の瞳には、暗い殺意が燈っていた。
「言わなかったか? 俺に指図していいのは、ご当主のみだと。死にたいのか?」
「もう・・・しわけ・・・」
ぐぎっという鈍い音がして、男さらに苦しむ。その様を嬉しそうに見つめていた九琥津であったが、急に我に返ったのか、表情を改めて男を床に転がした。喘ぐ男に、一瞥もくれず、九琥津は近くの椅子に腰をかけた。
「今は、まだ動けないが、チャンスは巡ってくる。その時、まず最初に襲撃する者の名を伝えておく。神山聡だ。あの男だけは、最初に黙らせておく。下らぬ所で、邪魔をされても困るしな」
文化祭で一度だけすれ違った聡の顔を思い浮かべる九琥津。それだけで、強い怒りが心に広がっていく。
「九琥津様、その男、何者なのか、聞いても宜しいですか?」
まだ十代半ばの少年、砕が恐る恐る尋ねる。その問いに対する九琥津の表情、それを見て砕は死を覚悟した。しかし、九琥津は何もしなかった。
「十年前、そいつが赤鬼に接触したがために、あの事件は起きた。全てが狂ってしまったんだよ、そいつのせいで。橘数馬と同じだ。生かしてはおけない。必ず殺す」
九琥津が暗い笑いを零す。
それは、死神の嘲笑のようであった。
十七話 END
|