第十六話『悪夢の始まり』


「ただいま」

 家に帰ると、『(あい)』と母親が待っていたとばかりに姿を現した。いつもはこんな事をする人ではない。不思議に思っていると、『帰ってきたか』と父親まで出てきた。仕事はどうしたのか、そう聞きたくなったが、とりあえず空気を読んだ。

「お父さん、藍に」

「あぁ、分かっている」

 二人は、玄関に立ち尽くす藍の前で正座をする。

「今、本家の方からご連絡があった。藍、お前の出番だよ。小泉由紀子(ゆきね)に接触しなさい」

 『あぁ・・・そうか』と心の中で呟く。

 すっかり忘れていた。本来の目的というものを。

 ――忘れていたかっただけかもしれないが。

 しかし、時は来てしまった。断ることは出来ない。それが与えられた使命であり、今までの生活はそれを誤魔化すための演技だったのだから。

 そう――演技だったのだ。

 だが、彼女の表情はどこか苦虫を噛み潰したようなものになっていた。

 

 スーパーで買い物を終えた尼崎(あまがさき)月子(つきね)の手には、買い物袋が二つ。『っこらっしょ』と言って、持ち直す。後は、お肉を買って帰宅するだけ。

 ――おやつにコロッケも買おう。晃君が喜ぶから。

 歩き出した彼女であったが、前方から人が歩いてきている事にはまったく気付いていなかった。ゴンと、その人の胸に頭をぶつけてしまう月子。そこで時が止まったように固まっていた彼女は、慌てて三歩ほど後ろに下がった。

「あ、す、すいません! 考え事をしていたもので」

 相手は、体格のしっかりとした二十代の若い男性だった。人のいい笑みを浮かべて、『俺はいいけど、君は?』と逆に聞いてきた。しかし、月子にはその言葉は届いていなかった。

「あ・・・神山(かみやま)(さとし)・・・」

 それが失言だという事に気づいた月子は、慌てるが後の祭り。聡と呼ばれた若い男性は、不思議そうに月子を見ていた。

「俺の事、知っているのか? あれ・・・けど、その顔は・・・」

「えと、あの、もう随分昔の話ですから。ごめんなさい、こんな所で会うなんて思っていなくて」

 完全に舞い上がっている月子。それには色々な理由があり、本来ここで出会っても知らない振りをしておかなければならなかった。しかし、こうなっては仕方ない。出来るだけ話を早く切り上げることに努めるしかない。

「そうか。まぁ、ここで出会ったのも何かの縁だろう、きっと。悪いけど、名前を聞いていいか? 俺、物忘れが酷くてさ」

 物忘れが酷い――ではない。彼が記憶喪失である事を知ってはいるが、記憶喪失に関わらず彼には月子の記憶なんてものはそもそもない。あの時、彼は全てを忘れさせられたのだから。

「月子です。ごめんなさい!」

 結局、月子は全力で逃げた。彼と話していると、色々とボロが出そうだったからだ。

 お肉を買い忘れたことに気付いたのは、家に着いてからであった。

「後で・・・また買いに行かなきゃ」

 ため息を吐きつつ居間へと行くと、『おかえりなさい』と同居人の藤堂(あきら)の明るい声が迎えてくれた。『ただいま』と返す月子の表情を見て、晃は心配そうに『なにかあったの?』と尋ねた。

「ちょっとね」

 苦笑を浮かべる。晃に話しても、しょうがない話である。彼とのことを説明するわけにも行かない。

「でも・・・大きくなっていて、びっくりした。茜様が生きていたら、側にいたのかな」

「えっ?」

「ううん、なんでもない。ゴメンネ、晃君。お肉買い忘れてきちゃったから、ちょっとまた行って来るね」

 ありえない光景を胸に残したまま、月子は居間を出ようとする。

「あ、月子さん、僕も行きます」

 すると、晃も立ち上がりついてきた。断る理由もないし、彼には色々な事を教えなければならない。この方が都合がいい。

「晃君、頑張ろうね」

 運命に翻弄された晃に、思わず昔自分が仕えていた主君の姿を重ねてしまう。今度こそ、最後まで支えてあげたい。そんな事を思いながら、月子は晃の手を取るのであった。

 

 一体、彼女は――。

 神山聡は、考え事をしながら道を歩いていた。月子と名乗る、年の頃はあまり変わらない感じの女性のことだ。昔からの知り合いは、幼馴染である坂田(いつき)から顔と名前を教えてもらっている。それに一致しないという事は、斎が知らない友人か、それともたまたま名前を覚えていただけの人か。しかし、月子の反応から後者は考えられない。名前を知っているだけの浅い関係の人間に、あれほど感情をあらわにする事は考えにくかった。

 ふと気付くと、大木公園の近くまで来ていた。青々とした草木が、風に揺られてさわさわと優しく揺れているさまを見ていると、一休みがしたくなったため、聡は大木公園へ入った。

 大木公園の中央に鎮座する『守り木』。今日も穏やかにその葉を揺らしている。その『守り木』の影になるベンチに、小泉由紀子(ゆきね)の姿があった。黒表紙で、やけに分厚い本を一心不乱に読んでいる様子。声をかけるのを少し迷ったが、ここで背を向けるのも変な話である。聡は、『よっ、由紀子』と声をかけた。

「あ・・・ども」

 本を閉じて、わざわざ立ち上がって一礼する由紀子。普段は大雑把であるが、妙な所で細かいようである。

「読書とは感心だな。また、黒魔術とかオカルト大百科とか、そんな系列の小難しい本に見えるが」

 聡の指摘に、由紀子は微笑み『あたりです』と答えた。

「全ての心霊現象は脳内の作用で説明が付く・・・みたいな内容です」

「それって、由紀子がいつもしていることに反しないか?」

 隣に座り、由紀子が持つ本を見る。分厚い。電話帳クラスの分厚さだ。その分厚さだけで、心が一杯になる。

「そうですね。でも、違う角度から物事を見ることで見えてくるものもあると思って。実際、面白いですよ。読みながら、『それは違う!』とか突っ込んだりできますし」

「由紀子は学者肌だな」

 由紀子は、オカルト系の話が大好きである。その知識は相当なものであるが、学校の勉強は得意な理数系以外はガタガタである。英語は、本人曰く『精一杯勉強しても赤点』とのこと。どうしようもない。

「そうだ、聞きたい事があったんです」

 珍しく由紀子の方から会話を切り出してきた。『ん?』と促すと、由紀子は『八月の事なんですが』と話を始めた。

「確か、十日あたりだったと思うんですけど、噂で聞いたんです。車が真っ二つになっていたとか、赤い光の柱が立っていたとか。私は、なぜか丁度その時寝ていて・・・あの、そういうの見ませんでした?」

「八月の十日ね・・・」

 三週間前ほどの話である。少し考え、そしてふと思い当たった。

「あれか。朝、出勤していたらやたら警察がいてさ。すぐそこだ、雑貨屋の前辺り。それから海岸の方でもざわざわやっていたな。あと、赤い光の柱は・・・」

 覚えている――という言い方はおかしいだろうか。胸騒ぎを感じて外に出たとき、闇夜を切り裂き空へと昇っていく赤い光の柱を確かに見た。しかし、それから先のことを覚えていない。ただ、とても懐かしくて、愛おしくて、苦しくて――泣きながら、誰かの名前を呼んでいたような気がする。

「俺も見た気がする。けど、そのときのことは俺もあまり覚えていないんだ。誰かを思い出しそうになった・・・そんな気はしていたんだが、気付いたらもう赤い光も何もなかった。気のせいというわけでもなかったのかもな」

「それは大変興味深いですね」

 由紀子が目を輝かせている。

「やっぱり前世の記憶と関係があったりするんでしょうか。あぁ、私も見たかった」

「でも、あれってそんなに遅い時間じゃなかったはずなんだが。夜行性の由紀子が寝ているなんて、よっぽど疲れていたのか?」

 由紀子は難しい顔をする。本人も実の所はよく分かっていない様子である。

「それが不思議なことなんですが、夕方沙夜ちゃんと一緒に帰っているところまでは記憶にあるんですが・・・気付いたら朝になっていて。夜何をしたのか、実は記憶にないんです」

 一瞬、由紀子は表情を翳らせた。しかし、すぐに『私も年でしょうか』と薄く笑ってごまかした。『何言ってんだよ』と聡は由紀子の頭を小突いた。

 最初こそ、不思議な出会いだった二人。

 二人で不思議な映像を垣間見て、聡は記憶喪失の事を由紀子にカミングアウトした。人見知りの激しい由紀子であるが、気付けば聡に懐いていた。聡も、由紀子の前だけでしか見せない表情がある。

 それは、会って半年程度で築き上げることができる信頼関係とは、また何か違うようにも思えた。

 ずっと連れ添ってきた恋人のように――。

 今の二人は、確かにそう見えた。

 二人に自覚はなくても、確かに――。

 

 十年前の惨劇が始まったとされる場所。そこに、(たちばな)家当主勝彦と、由紀子の兄小泉章吾の姿があった。

 森の中をくりぬいた様に出来た、小さな草原地帯。真ん中に、それなりに大きな石が静かに鎮座しており、その姿はまるで草原を支配する孤独の王様のようであった。

 勝彦はその石を静かに触れる。何も力を感じない。平凡な石だ。

「・・・やはり手がかりなんてものは今更何もないか」

 分からない事があれば、とりあえず原点に戻ってみる。そんな趣旨で、勝彦は章吾を連れてこの場所を訪れていた。しかし、十年前に調べた時と何も変わってはいなかった。

 風に揺らされ、静かに木々や草達が囁く。

「穏やかな所ですね」

「彼女がここによくいたという話を聞いた事がある。ここは確かに牢獄だったのかもしれないが、それでもここから見える世界が、彼女にとって全てだったのだろう」

 区切られた青い空。手を広げれば収まってしまいそうな小さな姿。あらゆる刺激から遠ざけられていた彼女が、なぜ十年前の惨劇を起こしてしまったのか。その謎は、今もって解明されていない。

「牢獄で飼われている鳥は、人と交わる事で簡単に鳴き方を変えてしまうものだ。一哉に五十鈴(いすず)殿が居てくれたように、彼女にもまた・・・」

 勝彦の息子一哉。特殊な体質であるため、その半生を離れで隔離され過ごしてきた。ここにいた彼女と、同じ境遇。勝彦は、だからこそそこに答えがあるのではないかと、常に考えていた。息子のことを思い出すと、心が痛む。だが、それは勝彦自身の罪である。逃げるわけには行かない。

「月子殿のほかに、接触していた方がいたと・・・勝彦様のお考えは変わらないのですね。しかし、何度も申しておりますが、ここの特殊な結界を突破して接触できるものが・・・命の危険を顧みず、彼女に接触するだけの理由が、まるで見えてきません」

「それは、私たちサイドから見た考え方であろう。同じ視線で考えていても、見えてくる景色に変わりはない。我らは、何かを見落としているのだよ。それも本当に些細な・・・」

 勝彦は、ふと森へと視線を向けた。

「章吾、この森を抜けた先はどこへと繋がる?」

「えっ? そちらは麓の町へと繋がっていますが、道はありません」

「子供の時に、冒険と称して森に入ったりはしなかったか?」

 章吾は無言であったが、どうやら勝彦が何を言いたいのか理解していない様子だった。

「章吾、麓の町に神山聡の親戚が居ないか、探ってみてくれ。もしかしたら・・・あの男に感じていた違和感、分かるかもしれん」

 十年前の真相を求めて、動き出す勝彦。

 今まで分からない事が多すぎて、放置されてきた案件であるが、由紀子の赤鬼の発現を確実に抑制するためには、些細な事も見逃してはならない。

 大切な娘の友達を守るためにも。

 そして、願いを託した友人のためにも。

 まずは、由紀子の記憶に居た神山聡が何者であるかを突き止めなければならない。

 そう――ある程度の事は把握しているが、神山聡については謎のまま。それが最大の不安要素だった。

 

 由紀子は、黒板の前で立ち尽くしていた。

 聡と話した翌朝の事、登校をした彼女を持っていたのは、黒板を埋めつく文字の羅列。その全てが、由紀子に対する『中傷』である事に気付いた時、由紀子はただでさえ細い瞳をさらに細めて溜息を吐いていた。

『小泉由紀子はサバトを開いている』

『小泉由紀子は呪われている』

 などなど。しかし、それらは今更湧いた噂ではない。由紀子が溜息を吐いたのは、『小泉由紀子は援助交際をしている』という一文のためであった。

 間違いなく、神山聡との事だ。男とつるんでいるのがよっぽど気に食わなかったのか、それとも本当にそう見えたのかは分からないが――由紀子は、その一文を一番最初に消した。

 自分を罵られるのはいい。慣れているから。だが――。

「手伝うよ、朝から暇な人もいるのね」

 由紀子の返事を待たずして、声をかけてきた少女は黒板の文字を消し始めた。由紀子はその少女の名前を知っていた。井上藍、由紀子の前の席に座っている子だ。今まで付き合いなんてものはまるで無かった彼女がどうして手伝ってくれるのか、分からなかった。でも、そんなこと由紀子にはどうでも良かった。

「ありがとう」

 その時、ふと由紀子は藍が消そうとしている一文に目を奪われた。

『小泉由紀子は、問題を起こしたために転校・・・』

 そこまで読んだ時、藍の黒板消しが文字をただの白い粉へと変えてしまった。

「もう、手が汚れる。いい迷惑」

 藍は、由紀子がぼぉとしていることに気付いて、『どうしたの?』と声をかけた。由紀子は、我に返り『なんでもない』と作業に戻る。

「転校・・・そんな話だったわね」

 ぼそりと他人事のように呟いた。

 

「犯人を探さない?! どうして!」

 ホームルームの後、朝の事で藍が騒いでいた。彼女は、犯人を見つけて吊るし上げたいらしい。彼女なりの正義感だろうか。しかし、由紀子はまったく興味が無かった。

「中学の時もあったし、別にどうでもいい」

「どうでもよくない! 根を潰さないと、いつまで続くか」

「過剰に反応しても面白がられるだけ。井上さん、必死になってくれるのは嬉しいけど、どうでもいいから」

 取り付く島を与えない。由紀子は冷めた表情で、次の授業の準備を始めていた。藍は、納得がいかないといった表情。そこに、助け舟が。

「どうしたの?」

 騒ぎを聞きつけてやってきたのは、虹野(こうの)夏樹だった。いつもよりも冷たい印象を抱く由紀子の様子に、夏樹も気付く。藍は、助かったといわんばかりに、夏樹に事情を話した。その事が、決定的に由紀子をイラつかせる事になる。

「うるさいわね! 私がいいと言っているんだから、それでいいじゃない! いい加減にしてよ! 鬱陶しい!」

 由紀子は、強い口調で吐き捨てて教室を出て行った。驚く藍は、そんな彼女の背中を見送る事しかできなかった。

「・・・私、考えなしだったかな」

 苦々しく呟く。

「井上さんは悪くないよ。どうしてあんなに意固地になっているのかちょっと分かんないけど、後で話してみるね」

「うん、ごめんね」

 その時、藍は気付いた。いつもムードメーカーで笑顔が取り得の彼女が、由紀子以上に冷たい表情をしていることに。機嫌でも悪いのか――ただ、それだけではない何かを、夏樹が隠し持っている、そんな気がしてならなかった。

 

 無造作に開かれる教室の扉。何も言わずにまっしぐらに突進してきた彼女を、いつもの調子で『よっ』と左手を上げて出迎える。

「ちょっと聞いてよ、更紗(さらさ)!」

 挨拶も抜きに彼女――井上藍は、会話を切り出してきた。そんなことは日常茶飯事なので、更紗もまるで気にしていない。

「分かった。聞いちゃる。だけん、とりあえず座れ」

 藍は、素直に前の席にどかっと勢いよく座る。感情的になりやすい彼女であるが、ここまで怒っているのはさすがに珍しい事であった。

「納得がいかないのよ、どうしても」

 藍は、今朝あった小泉由紀子とのことを全て伝えた。黙って全てを聞いていた更紗は、『珍しい』と呟いた。

「アンタが、そこまで燃えるなんて」

「私は、イジメとかそういうの虫唾が走んのよ。なんというか、言いたいことがあるなら表に出てきやがれ! 度胸がないなら、隅で丸くなってろ! て思うのよ」

 藍らしい言い分に、更紗は薄く笑う。

「そうかい。でも、空回ったわけか」

「そうなのよ」

 どうして由紀子が、犯人を探そうとしないのか。腑に落ちない藍。あまり考えないようにしていたことを、友人の手前で気が緩んでいたのか、思わず口にしていた。

「もしかして小泉さん、犯人に心当たりがあるんじゃないのかな」

「なんとも言えないね」

 更紗の答えは当然である。彼女は、一連の騒動に関わっていなければ、小泉由紀子との接点もない。更紗に言えることは何もないのは当然だった。

「こうなれば、勝手に犯人を探すしかない。協力してくれるよね!」

 更紗は、そうなるのだろうなと思っていたため、突然話を振られても驚かなかった。ただ淡々と、『私は知らないからね』と忠告にもならないことを彼女に伝えるのみ。

「小泉さんに話すかどうかは、相手を見てから考えればいいし。いざとなれば、闇討ちして黙らせるべし。うん、最高の名案だね、これは」

 嬉々として危険なことを言っている、若干一名のお調子者。彼女が暴走し始めたら、とにかく放っておくのが無難である。見ている分には、彼女の暴走も楽しいからだ。しかし、更紗も色々と弁えている。行き過ぎそうになったら、手綱を()。それが出来るのは、唯一更紗だけであるが――それをよく見誤る更紗でもあった。

 翌朝、七時を少し回った頃。そんな朝早い時間に藍と更紗は、由紀子のクラスにいた。

「これでよし・・・と」

 更紗から借りたデジタルビデオカメラを教壇の反対側にある棚に設置する。ここに置いていれば、誰が黒板に落書きをしているのかが分かる――そういう案だった。隠す事もなくポンと無造作に置いてあるが、黒板に落書きをする人間が気付くのは難しいと判断しての事。ビデオカメラに気付いた別の学生が、高価な代物なので持ち去ってしまう可能性もあるため、藍と更紗は別のクラスで待機する事に。生徒達が登校する時間になって回収すれば、盗難のリスクは限りなく少なくなるだろう。

「こんなんで大丈夫かね」

 どう贔屓目に見ても、立派な策とは言いがたい。心配する更紗をよそに、藍は余裕綽々であった。

 しかし――。

 一日目何もなし。

 二日目何もなし。

 三日目、やっぱり何もなし。

 四日目何もなし。

 休みを挟んで、一週間。張り続けても、結局犯人と思われる人物は姿を現さなかった。当然、黒板の落書きも最初の一回だけである。由紀子は、こうなる事が分かっていて犯人は探さなくてもいいと言ったのか。それは何かが違う――藍は、釈然としない気持ちを抱えつつ、もう一週間更紗に頼んで張り込みを続けた。

 そして――。

 再び土曜と日曜を挟んで、月曜日の朝。

 いつものようにビデオカメラを設置して、藍と更紗は隣のクラスへ。椅子に座ると同時に、藍は溜息をついていた。

「ったく、なんで現れないのよ」

 一回落書きしただけで気が済んだとでもいうのだろうか。だが、それでは藍も困るのだ。せっかく準備していたシナリオが不意になってしまう。なんとしてもきっかけを得なければならなかった。

 不自然な焦りを見せる藍。更紗も様子が変だということは気づいていた。これほど彼女が熱心なのは珍しいからだ。いつもは淡白な性格で、更紗という例外はいるが、基本は他人にもそっけない。しかし、それが分かっていても、かける言葉は見つからなかった。

 更紗は感じていた。藍は、いつも何かと戦っていて、それはきっと、更紗には想像もつかないものなのだということに。ただ、見守る事しかできない。それでいいと、更紗も思っている。きっと、藍は望んでいない。藍の事情、それを更紗が知るということを。

「意外に気付かれていたり」

「まさか。それは・・・」

 藍が言葉を途中で切って、静かに立ち上がった。更紗には何も聞こえなかったが、藍には聞こえたのだろう。空気を読んで、更紗も静かにする。すると、更紗にも聞こえた。廊下を上履きで歩く音が。

 音は、反対側から聞こえてきている。すなわち、この教室の前は通らない。藍はじっと立ったまま、音に耳を傾けている。いつになく真剣な面持ち。

 教室の戸を開ける音が聞こえた。

 重苦しい空気が漂う。

 十分ほど経過。廊下を再び歩き出した。やはり、藍たちがいる教室とは反対側へと歩いていく。

「・・・一旦学校を出て、登校しなおす腹だね、こりゃ」

 反対側は、階段だ。昇るのか降りるのかはここからでは分からないが、わざわざ昇るメリットはない。下に降りて一旦学校を出ると考えた方が無難である。

「さて、確認しなきゃね」

 廊下に誰もいないことを確認して、教室に入りカメラを回収する。液晶画面を展開して、再生を押そうとした時、藍は背後に気配を感じて慌てて振り向いた。

 背後には、確かに誰かがいた。だが、その顔を判別する間もなく、藍の視界は真紅に染め上がった。

 

「ありゃ・・・? なんで藍のクラスなんだ」

 更紗の呟きを聞いて、藍も我に返る。更紗が言うとおり、ここは隣のクラスではなく藍のクラス。そして、藍の手元には設置してあったはずの更紗のビデオカメラが納まっていた。試しに再生を押してみても、ひたすら同じ光景が写っているだけで、何の変化もない。

「藍・・・?」

 更紗は、藍が真剣な面持ちでビデオカメラを見ていることに気付く。声かけしても、藍は答えずじっと黙っている。

 藍は察した。わずかな時間であるが、記憶が消されてしまっているという事実を。なんの対策もされていない更紗やビデオカメラならともかく、対策済みの藍の記憶も漏らさず消し去っているという事実。

 黒板には、埋め尽くさんばかりの勢いで文字が描かれている。誰かがここにいて、しかも藍たちの存在に気付いたにも関わらず、わざわざ教室に招いて記憶を消去した。そういうことになる。

 黒板に落書きしたのは、間違いなく能力を有するものだ。それも、とびっきり強い能力の持ち主。藍が知る、この学校でそれだけの実力を持っている人物は、たった一人のみ。

 その名は、橘椿。小泉由紀子の親友である。

「更紗、消すの手伝って」

 もう少し見極めるのに時間が必要だと、藍は感じた。

 他の生徒が来る前に、黒板の文字は全て消すことが出来た。手を払って、更紗と分かれて、少し早いが席に着く。

 由紀子が登校してくる。彼女は、黒板をじっと見つめていた。うっすらと残る文字の後、多すぎるチョークの粉――また落書きがあった事に気づいて、由紀子は苦笑を浮かべた。

「ごめん、消して・・・くれたんだよね」

 由紀子にそう言われて、藍は一瞬戸惑った。しかし、気付いてしまったんだから仕方がない。『胸糞悪いからね』と、藍は返した。

「・・・もう二度とないから」

 そう断言した由紀子の表情は、どこか泣いているように見えた。

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