第十五話『赤鬼発現が招く災厄の足音』


 『赤鬼(せっき)』発現より十二時間が経過した。夏の朝は早い。すでにじっとりと暑くなり始めている。そんな最中、眠り続けていた彼女――小泉由紀子(ゆきね)は、橘家の一室で目を覚ました。

「目を覚まされたか・・・」

 側に座っていた青い瞳、青い髪の少女――水及(みなの)が由紀子に語りかける。ツインテールを解き、メガネを外した由紀子はまるで別人のように美しかった。憂いをはらんだ表情で、顔の前にかかる髪を横に流す。黒く冷たい眼差しが、ゆっくりと水及へと向けられる。

「山神の(うた)巫女(みこ)・・・水及・・・なぜあなたがここに・・・?」

 いつもの彼女と、雰囲気も話し方も違う事に水及は気付き驚愕した。

「・・・あなたは誰だ?」

「私の顔をお忘れですか? 尼崎(あまがさき)(はじめ)の娘・・・(あかね)ございます

 次の瞬間、水及は茜の顔を右手で塞いでいた。

 それは、誰も知らない朝の出来事――。

 

 九月になった。櫻は、静かに橘家の自室で目を覚ました。彼女は、帰還した晃と一緒に暮らす道を選ばなかったのだ。橘家ですることがあるから、そう言って。

 本当は、晃の側に居てあげたかった。しかし、それは晃のためにならないのではないか、そう思えたから苦渋の選択をした。

 あの時の夜、晃に打ち明けられた彼の鬼神会――所属していた組織での話を思い返す。

 記憶操作。そして、薬と外科手術によって、体の半分以上がすでに人間とは呼べない代物になっていたという事実。鬼神皇に命じられるまま、人を危め続けた殺人マシーン。それが、藤堂晃の鬼神会での姿であった。

 同時に、そこに不自然さを感じた。

 晃は言っていた。鬼神会にいた頃は、いつも霞がかかったような感じであまり良く覚えていないと。それが、あの夜の少し前から少しずつはっきりしてきた――それは意図的に投与していた薬を減らしていた事にならないだろうか。

 薬には、常習性はなかったことが判明している。

 元々から、何らかの形で晃を返すつもりではなかったのか。鬼神皇の言葉をじかに聞いていた櫻は、強くそう思っていた。しかし、『なぜ』と問われると苦しい所があった。目的が分からない。晃を返して、戦力的なマイナスを招いてまで、鬼神皇が何を成そうとしていたのか。

 それは、一番近くにいた晃でも分からないとのこと。

 鬼神皇。間違いなく、最強のラスボスだ。

 何が何でも晃を守ってみせる。たった一人の家族を支え続けてみせる。

 櫻は強い決意とともに、今日も起きるのだった。

 

 かつて自分が住んでいた家。晃は、修復された実家で目を覚ました。鬼神会の一員であった彼であるが、元々の経緯が橘家にも知れていたため、彼は手厚い保護を受けた。橘家の当主である勝彦の話を思い出す。

 鬼神皇は、阿蛇螺を与えた佐助の生まれ変わりを探していた。橘家でも『橘家の椿』の転生を確認していたため、同年代の佐助の転生も考慮して、探し続けていたとの事。それがなぜか、鬼神皇に先回りされてしまい、あの事件が起きてしまった。もっと早く突き止めていれば、未然に防げたものを――と勝彦は、(こうべ)を垂れていた。勝彦の上司にもあたる、水及からも同じような事を言われた。

 あの事件が仕組まれたものである事は、(くつがえ)せぬ事実であることを、晃はその話を聞いて静かに受け止めていた。心の中にあった、鬼神皇が関わっていないという希望は、この時に切り捨てた。

 甘い考えでは、鬼神皇は打ち倒せない。

 鬼神皇が存在を開始してから、彼を打ち破ったとされる人物はたったの三人のみ。

 赤き瞳の巫女。

 山神の歌巫女、水及。

 橘家の椿。

 赤き瞳の巫女については、その名前しか伝承がないが、水及は生きる最強伝説であるし、橘家の椿は、有史以来最強の使い手とまで呼ばれている人である。

 四人目に名前を連ねる事がどれだけ難しい事か。晃は、鬼神皇の強さを傍で見ていたが故に、なおさらよく分かっていた。

 一つ溜息をついて、晃は壁にかけてあった櫻高校の制服を手に取った。今日から、新しい生活が始まる。とりあえずは、この世界に馴染まなければ。晃は、不慣れな動作で制服を身に纏った。

 

 八月十二日。それは、忘れる事のできない日である。

 藤堂家の居間から、庭を眺めていた黒い髪の女性は、外から吹き込んでくる朝の涼しい風に、穏やかな瞳を細めた。

 彼女の名は、尼崎(あまがさき)月子(つきね)。赤鬼の専属研究者である。そして、十年前の『尼崎家大崩壊』の数少ない生き残りの一人。

 小泉由紀子が赤鬼を発現させたことを受け、櫻町へと召還された彼女は、そのついでに藤堂晃の世話を橘勝彦に託されていた。

 不安が収まらない。これから何かとてつもない事が起こるのではないかという思いが、消えてくれない。何の根拠もないのに、心だけはざわつき続ける。

「・・・(あるじ)よ、あなたが教えてくれているのですか? それならば、私も早く突き止めなければ。赤鬼の正体を。そして、発現した際の対処法を」

 階段を下りてくる音が聞こえた。月子は、その不安をかき消すように笑みを取り繕い、

「晃君、おはよう」

 居間に入ってきた晃を出迎えた。

 

 (たちばな)椿(つばき)(さくら)高校制服を身に纏い、部屋から出た。新しい一日の始まり。強い日差しに目を細めつつ、居間へと向かう。

 八月十二日に起こった『赤鬼の発現』――小泉由紀子の中に封印されていた力の暴走から、全てが変わった。

「椿、明日から全ての任務を中断し、小泉由紀子の護衛にのみ専念せよ」

 祖父であり当主である勝彦から、そう告げられたのが『赤鬼の発現』から三日後の事だった。櫻高校へ通うのも任務のうちである。

 ずっと隠し通していたものが、表に出てしまった。大きな戦いの予感を感じつつ、居間へと向かう。

「おはよう、櫻」

 朝食の準備をしていた妹の櫻に声をかける。櫻は、作業を一旦中断して、『おはようございます』と頭を下げた。しかしそこには、昔あったような義務感のようなものはなかった。自然かというとまだぎこちなくはあるが、それでも今までから見ると普通の挨拶である。

「今日から学校ですね」

「えぇ、もう不安で仕方がありません」

 櫻と話しながら席へと付く。中学校を卒業してから、除霊屋家業に専念するために高校には行かなかった。そのため、一年と半年振りの学校である。しかも、二年生ではなく一年生。知り合いなどまったくいない。上手くやっていける自信は、実の所まったくなかった。

「でも、頑張らないと。(あきら)君だって、頑張っているんだから」

 晃の名前に、櫻が反応する。どことなく不安そうな横顔。『心配?』と尋ねると櫻は、複雑そうな表情で『不安ですね』と答えた。

「でも、兄はこれから自分の選んだ道を、自分の足で歩み続けないといけません。私が側にいれば・・・いえ、側にいたら兄を甘やかしてしまいます」

「櫻は、優しいのね」

「いえ、自分に甘いだけです。兄のことを思って自重するということが、兄の前では出来そうにないもので」

 苦笑して、櫻は頬を掻く。

 普段はつけない古びたブラウン管のテレビをつけ、テレビを見ながら二人で食事を摂る。静かに言葉を重ながら、本当の姉妹のように――。

 食事も半ば頃まで進んだ頃、居間に勝彦がやってきた。突然の来訪に、櫻と椿は驚く。基本、勝彦は居間には現れない。自室で過ごすか、自室にいないときは出張している時、という具合に極端なのだ。驚く二人に、彼は柔和な表情で、『孫娘たちの門出を見送りに来たのだ』と、言った。普段は厳格で、他者を寄せ付けない雰囲気の彼にしては、大変珍しい。

「はい、頑張ります」

 椿の言葉に頷くと、満足げに居間を後にした。

「・・・驚きました」

 結局、一言も言葉を紡げなかった櫻。椿は、嬉しそうに言う。

「変わろうとしている。全てが」

 赤鬼の発現後、暗い雰囲気が漂いつつある現在。しかし、橘家はその流れに反して、家族の結束を固めようとしていた。そのきっかけを作ってくれた櫻に、椿は『櫻、あなたのおかげです』と優しく声をかけた。

 食事も終え、櫻と椿は家を出た。橘家名物の長い石段を降りようとした椿は、視線に気付いて振り返った。視線の先には、社に隠れるようにして椿たちを見ていた母親の五十鈴(いすず)の姿が。椿が、もっとも認めたくない相手。きっと睨むと、すぐにその姿を完全に隠してしまった。

 口が挟めない櫻。彼女も、椿と五十鈴の間に何があったのかは知らない。櫻がこの家に来た時には、もうこの距離感は出来上がってしまっていた。

「・・・何をしに・・・いまさら」

 吐き捨てるように呟いた後、椿は石段を下りていく。

 石段を降りて東側に少し進むと、古い雑貨屋がある。登校時間の今は、シャッターが下りている。その前で櫻が、急に話を切り出した。

「椿・・・姉さん。ちょっと、あの」

「どうしたの?」

 言い淀む櫻。椿は、一旦歩みを止めて優しく続きを促す。

「・・・兄と顔を合わせると、また余計な事を言いそうで。私、違う道を通っていきます。ごめんなさい」

 頭を下げて、椿の言葉を待たず道路を渡り、その先の狭い路地へと姿を消した。椿は、軽くため息を吐いた後、そのまま道沿いに東を目指した。

 辿り着いたのは、藤堂家。櫻の生家である。今は、『赤鬼の発現』で保護された兄の晃が使っている。その晃は、家の外で壁に背を預け立っていた。約束の時間に遅れてしまったのかと、慌てて椿が走り寄る。それに気づいた晃が、『おはようございます』と頭を下げた。

「もしかして私、時間を間違えてしまいましたか?」

 焦る椿に、晃はいつもの優しい笑みを浮かべて首を横に振る。

「僕が落ち着かなくて勝手に外で待っていただけです。勘違い、させてしまってごめんなさい」

「そうですか。良かった」

 晃の視線がすっと椿から逸れた。何かを探しているかのようなその視線。椿にはその意味がすぐに分かった。

「ごめんなさい。櫻は・・・」

 それだけで十分彼には伝わったようだ。少し寂しげに『いいんです』と、深みのある声音で答えた。

「さぁ、由紀子さんを迎えに行きましょう」

 椿は晃を伴って、親友の家を目指した。

 

 十一年前、一緒にいたいと願った彼女は、『借りは返したからね』と囁き、わずか十五歳の人生に幕を下ろした。絶望して張り上げた自分の声が、今でも耳にこびりついている。

 『空音(そらね)音子(なりね)、安らかに眠れ』。

 碑にはそう記されている。誰が書いた言葉なのか、不愉快なので刀で袈裟(けさ)切りにした。重い音をたてて、碑が崩れ地面を穿(うが)つ。

「なにが安らかに眠れ、だ。自分達の手で、それを奪ったのだろうが」

 吐き捨てるように言う。彼は、くだらない弔いの碑から彼女が亡くなった場所へと視線を移す。今や、草達が好き勝手に生え雑然としているが、彼女の亡骸を受け止めた場所は、その程度では風化しない。寂しげにその場所を見つめ、彼は呟く。

「音子、俺は帰ってきた。君が望んだ、(くれない)の呪縛を打ち崩すために」

 気配を感じて、『誰だ?』と彼は問う。

 朽ちた門柱の向こうから、オレンジ色の髪をした少女が姿を現した。赤いチャイナ服を身に纏った彼女は、小さく彼の背中に頭を下げる。

「数馬様の姿をご拝見いたしましたので、勝手ながらこの場所でお待ちしておりました」

「・・・で?」

 数馬と呼ばれた彼は、いつでも斬りかかれるように体勢を整えた。背中を向けていようが関係ない。彼の実力なら、一呼吸で少女の首を()ねる事ができる。同時に彼は、隠しもせずに殺気をむき出しにしていた。しかし、その冷たくそれでいて凶暴な狂犬の牙のような殺気にも、少女はまったくといって(ひる)んではいなかった。

 ただ、こう告げる。

「私は、茜様の飼い猫でございます」

 数馬の表情が驚きに包まれる。彼には覚えがあったのだ。

「・・・音子が話していた。(たう)・・・なのか?」

「音子様が・・・音子様が・・・」

 少女は嬉しそうにはにかむ。数馬も殺気を打ち消して、少女の方へ振り向いた。

「あ・・・ごめんなさい。私、橙です。今は、どこにも所属せずに独自に動いています」

「それは全てを知っている・・・からか?」

 何も語らない橙。それが答えである。

「こちらには切り札があります。手を貸していただけませんか?」

「・・・話を聞こう」

 そう口にした数馬の前で、橙は一枚のカードを取り出しその力を解放した。眩い光の中を舞うそれを見て驚く彼に、それは言った。

「あなたが数馬君ね。その瞳、彼に良く似ているわ」

 失われた尊きそれは、生前と変わらない優しい笑みを浮かべていた。

 

 長い絨毯が引き締められた西洋風の廊下。豪華な家具や絵などはなく、シンプルに――言い換えれば、冷たく静かな廊下だ。

 進行方向から、一人の少年の姿。周りに従者が控えているが、彼女にはそんなものは見えていない。少年をまっすぐに睨みつけ、歩いていく。少年もまた、道を譲る気はないらしく、まっすぐに歩いてきた。

 お互い、三歩ほどの間を置き対峙する。少年の方が背が高いため、見下ろす――いや、見下すように彼女を見ていた。

「・・・次期当主たる私に道を譲る、そんな気はないのか、(はじめ)

 一と呼ばれた少年は、にやりと不気味に笑う。

「赤き瞳を持つ穢れた妖が、次期当主とな? (くれない)様は、頭まで妖並みお見受け致す」

「兄上! 言葉が・・・」

仙児(せんじ)、下がりなさい」

 側に控えていた少年を御す。そして、不遜な態度の一をきっと睨み付けた。

「赤き瞳も持たないまま、妖の力のみを得て生まれた不完全な貴様には、当主という座よりも座敷牢の方が似つかわしかろう。そこをどけ、化け物が」

「お褒めの言葉、大変嬉しゅうございます。くっくっくっ・・・精々、頑張ってくださいまし。けれども、紅様が私に敗れるのは、この世の理です故、無駄なあがき・・・そう、蟻地獄から逃げようとする蟻の如くでございます」

 不気味な笑いを振りまきつつ、一は彼女を避けて歩いていった。その笑い声が、いつまでも耳にこびりついて、離れなかった。

 

 それは夢。誰かの記憶。砕かれた情報の断片。

 目が覚めるとそれは、手の平から水が零れ落ちていくかのごとく、幾ばくかの残滓(ざんし)を残して消えうせる。由紀子は、不快な気持ちに頭を抱えつつ、机の上に置いてあったメガネをかけた。

「・・・またか。最近、ちょっと多いな」

 昔から、不思議な夢は何度も見てきた。しかしそれは、大体同じ内容だったのだが、最近はヴァリエーションが増えてきた。記憶には残ってはいないものの、違う内容だったことはそれでも分かる。ただ、同じ事は一つだけ。

 どんな内容であろうとも、起きた時の気分は最悪だということ。

 目覚まし時計を確認する。まだ七時前――逆に唯一の利点といえば、寝坊しないこと。深いため息を吐き、由紀子は制服に着替えた。着替えを終えて、しばらく部屋でぼぉとしていると、誰かが戸を叩いた。

「由紀子さん、起きていますか?」

 椿の声だ。その声が、由紀子の心に活力を呼び戻す。

「起きてるよ。おはよう、椿さん」

 戸を開けると、驚いた顔の椿がそこにいた。自力で由紀子が覚醒している事に驚いているのだ。

「お、おはようございます。珍しい事もあるんですね」

「そう、たまには起きてるわよ」

 『それよりも』と由紀子が続ける。

「今日から学校だけど、そこんとこ大丈夫なん? 緊張してない?」

 難しい顔の椿。それが全ての答え。

「かなりやばいです、実は。予約しておいていいですか?」

「予約?」

「緊急避難先の予約です」

 由紀子はそこで腹を抱えて笑った。気分を害した椿は、唇をとんがらせて『そんなに笑うことないじゃないですか』とぼやく。

「なんか椿さん、変わったね」

 笑いを堪えながら言っても効果はない。椿も不満そうにはしているが、内心は違っていた事に、由紀子が気づく事はなかった。

 居間に降りると、晃がお茶をご馳走になっていた。『おはよう』と由紀子は、気軽に声をかける。

「おはようございます、小泉先輩」

 晃は、少しだけ微笑み由紀子を迎える。

「晃君も緊張している?」

 食パンをトースターに投げ込みつつ由紀子が聞く。そして、晃の答えが返ってくる前に、椿に向かって。

「椿さんも、コーヒーでいいよね?」

 と含みのある表情で聞いていた。

「いいわけないじゃないですか!」

 と、椿の怒鳴り声が返ってくる。その後、晃が言葉を続けた。

「ドキドキしています。もう一杯一杯だったり」

 情けない顔の晃。彼は、今まで一度も学校に行ったことがないのだ。その事実は由紀子も把握している。ただ、その把握している内容は橘家がでっち上げた嘘の情報ではあるが、晃が学校に一度も行っていないことは本当である。

「もう、由紀子さんったら・・・コーヒーなんて、洒落になりませんよ」

「どうしてですか? コーヒー・・・毒物?」

「違う違う。椿さん、カフェインを摂取すると眠たくなるという不思議な生命体なのよ。本当、意味わかんないし」

「由紀子さんに不思議な生命体呼ばわりされるいわれはありません! ほら、私のために早く熱いお茶をお出しなさい!」

 テーブルを叩いて偉そうに催促。しかし、由紀子が気分を害することはない。

「はいはい、出しますよ、椿お嬢様」

 それは暖かな朝の光景であった。

 朝食を終え、いざ学校へと向かう。大通りに出て、大木公園を通り、住宅街を抜けて学校へ。他の生徒達に混じって、楽しく会話をしながら登校する。

 学校の門が見えた頃、その門の前に一台の車が止まっていた。古い白のカローラのワゴンだ。その車から降りてきたのは、由紀子の同級生であり、陸上部の期待の星だった(こう)()夏樹であった。左腕には、相変わらず古ぼけたリストバンドをつけている。

「夏樹!」

 由紀子は、彼女に駆け寄る。それと同時に、車は走って行った。

「あ、おはよう、ユッキー」

 杖をついて、立位を保つ夏樹。重心が杖を持っているほう、左側に傾いている事から事故で受けた傷は癒えていないのだろう。

「おはよう。てか、学校に来て大丈夫なん? まだリハビリ中だろう?」

「そうだけど、歩けるから。学校、サボってもいいことないし。ユッキーと一緒に補習を受けるなんて、真っ平ゴメンだよ」

 夏樹の表情には、いつもの明るさがあり、由紀子はほっと一安心していた。そうしている内に、椿と晃も追いつき、夏樹に挨拶をする。それに対しても、夏樹は明るく返事をしていた。

「二人とも、ファイト! だよ。何か困った事があれば、いつでも頼るといい。夏樹は、いつでも味方だよ。まさに、呉越同舟!」

「・・・珍しく間違えずに言っているところ悪いけど、それ意味違うから」

「へっ? そうなの?!」

「呉越同舟は、仲の悪い人が一緒に船に乗り合わせる、そんな意味合いですよ」

 晃が説明してくれる。由紀子は『バカは治らないか』と、こっそりと呟いていた。

 

 良く晴れている。まだ夏の暑さを残した太陽の光が、じりじりと大地を焼く。昼休みという事もあり、さまざまな人が通り過ぎ、または運動、または休んだりしている。

 日陰になったベンチの一つ。一人の冴えない男と、この季節に黒い帽子を目深く被った男が一緒に座っていた。冴えない男は、野菜ジュースを啜りながら話を切り出した。

「まさか、あなた様が生きていらっしゃったとは。驚きました。例のお話、もうお聞きになりましたか?」

「だからここにいる。お前達に協力してやる」

 冴えない男が不気味に微笑む。

「それは心強い。あなた様の力があれば、百人力でございます」

「だが、勘違いするな。俺に命令していいのは、主のみ。だから・・・俺に指図する事は許さん」

 殺気さえ含んだその言葉に、冴えない男の手が震えた。震える唇で、『わ、分かっております』と言うのが精一杯だった。

「まずは、仕掛けておいたものを動かす。とりあえずお前達は何もせず、じっと見ていればいい。邪魔をすれば殺す」

 そう言い残して、黒い帽子の男は去っていった。冴えない男は、その背中が見えなくなると、『狂犬めが・・・』と搾り出すように呟いていた。

 

 放課後、沙夜は櫻に『帰ろう』と声をかけた。櫻は、少しだけ不思議そうな顔をしたものの、その誘いを断ることはなかった。校門を過ぎた頃、沙夜が大木公園に櫻を誘う。一緒に帰るといっても、櫻と沙夜の家は東と南で完全に別れている。同じルートは、校門までしかない。大木公園へ――それは、言い換えれば話がある、そういうこと。いつも一緒にくっついている鏑木(かぶらぎ)優子の姿がない所から見ると、話の内容はおのずと見えてくる。

 櫻は、沙夜の誘いを受け入れたものの、二人に会話はなかった。そのまま、大木公園の中央まで来た時、自販機を見つけた櫻がようやく口を開いた。

「なに飲む?」

「えっ・・・あの、私は・・・」

 思わずクセで断ろうとした沙夜であったが、思い留まり『お茶で』と返した。櫻は、二本お茶を買い、一本を沙夜に渡して近くのベンチに腰をかけた。沙夜もそれに倣う。

「で、何が聞きたいの?」

 沙夜がすっと表情を引き締めた。彼女がなにを聞きたいのか、櫻にはある程度予想が付いていた。その予想通り沙夜は、『由紀子さんの事についてです』と告げた。

「やっぱり、それか。で、あの人の何を知りたいの? 先に言っておくけど、あの人の生い立ちのことを知りたいというのであれば、私も答えられないから。それを語る権限は、私にはない」

 きっぱりと言い放つ。

「・・・知りたいのは、由紀子さんは大丈夫なのか、てことです」

 赤鬼の発現。封印したのは沙夜だった。だが、赤鬼自体がなんなのかは分からずじまい。橘家も教えてはくれなかった。次の日、由紀子はその日のことも覚えておらず、不思議そうにしている沙夜を笑っていた。

 もう全てが終わったのなら、それでいい。しかし、そう思える要因は今のところ一つもなかった。

「一応、水及様からお墨付きは出ているよ。赤鬼は、一種の自己防衛システムか、その暴走であることは間違いないらしくて、赤鬼の研究者である人も同意している。だから、あの人が生命の危機にでも瀕しない限りは、赤鬼の発現は死ぬまで封印し続けることができる・・・らしい」

 『でも問題は』と櫻は続けた。

「赤鬼の発現の際に、莫大な力の余波が遠くまで広がってしまった事」

「狙う人がいる・・・ということですか?」

「えぇ、間違いなく。でも、安心していい。狙ってくる奴らの特定は、現在着実に進められている。あの人を守るために、姉さんも全ての任務から外れてマークしているし、外側の守りも完璧。この状態で、手を出してくることはありえない。しばらくは緊張状態が続くと思うけど、そう遠くないうちに狙っている奴らも排除できるから、時間は必要だけどいつかは元の通りになるから」

 『そうですか』と安堵した表情で沙夜がこぼす。その後、沙夜は『ところで』と続けた。

「櫻さんは、由紀子さんのこと・・・その、苦手なんですか?」

 櫻はその質問に苦笑した。

「苦手というか・・・どうかな。分からない、というのが正直な所かな。私は、知らなくていいことまであの人のことを知っているから。余計に」

 気持ちを切り替えて、立ち上がる櫻。その表情は、話をする前に比べると憑き物が落ちたように清々しいものであった。

「じゃ、私、そろそろ買い物してから帰るから」

「あ、はい。今日は、ありがとうございました」

 沙夜も立ち上がり、丁寧に頭を下げる。櫻は、『いいって』と手を横に振る。

「私のほうこそ、話が出来てよかった。また、明日学校でね」

 『はい』と答える沙夜に手を振り、櫻は大木公園を後にした。

 

「小泉さん、お客さんだよ!」

 と、呼ばれたのは放課後の事。夏樹はリハビリに行き、帰り道がまったく違う神華は『また明日です』と言って先に帰っていったため、一人座っていた由紀子は、『誰だろう?』と首をかしげて廊下へと出た。そこにいたのは、半分涙目の椿だった。

「由紀子さん・・・」

 いつも勝気の彼女の椿の情けない声に、由紀子は苦笑していた。

「結局、ダメだったん?」

 教室に椿を招き話を振ると、椿は深いため息を吐いた。

「・・・もう完全に舞い上がってしまいまして。どうして昔は出来たのに、今はできないのでしょう」

「そりゃ椿さんが、それだけ真剣だって事」

「私が真剣?」

 由紀子は昔を思い出し苦い顔をする。

 椿とは小学校、中学校とずっと同じクラスだった。その時の椿は、他人に興味はなく、誰とも話さず、誰かに話しかけられても最低限のことしか話さない、それは面白味のない子だった。由紀子と夏樹に知り合い、少しずつ変わっていた椿ではあるが、それでも二人以外とはほとんど話をしていなかった。

「そう、昔の椿さんは周りのことなんて基本どうでもいいって感じだったけど、今は違う。周りのことをしっかり気にしている。それでいいんだと、私は思うよ」

「・・・あんまり実感が湧きませんが、私は変われているんですね」

 少し嬉しそうにはにかむ椿を由紀子は優しく見守る。

「私、頑張ってみます」

「ほどほどにね」

 それは、椿が望んでいた穏やかな日常。左胸を抑えつつ、『きっと守り通して見せます』と彼女は心の中で誓っていた。

 

 二十一時を少し回った頃、櫻町の西側――櫻駅の裏側の堤防に由紀子の兄である章吾の姿があった。息を切らせて走っていくそのゴールには、一人の青年の姿。鋭い瞳の持つ主で、無駄のない体つきをしているその青年は、章吾の姿を確認すると、『よっ』と気軽に声をかけた。

「久し振りだな、章吾」

 しかし、章吾の反応は青年とはまるで違っていた。

「よく言う!」

 吐き捨てるように言い、青年を睨み付けた。青年は、そんな章吾を淡々と見つめている。

「勝手にいなくなって、勝手に帰ってくる・・・何をしに戻ってきた?!」

「赤鬼の戒めを打ち破るためさ。それが、アイツの思いだからな」

「尼崎音子か・・・それなら、椿ちゃんの気持ちはどうなる。君が死んだと知って、彼女は変わってしまった。何の罪もない母親を憎み、己の命を投げ打って不毛な戦いを続けている・・・それもこれもお前の身勝手のせいだぞ!」

 静かな波間に、章吾の怒声が響き渡る。

「知っているさ。だが、俺は不器用な人間だからな。一つずつしか出来ない」

「なら、先に椿ちゃんに全てを打ちあけてやれよ!」

「章吾、お前にそんな汚い言葉は似合わないぜ」

「誤魔化すな!」

 章吾は、青年の襟首を掴み締めた。強い怒りを燈す瞳。それを受け止める青年の瞳は、静かで冷たくそして暗かった。

「あの時、君と音子君を助けられなかったのは僕達にも確かに責任がある!」

「それはない。あれは、俺の未熟さゆえの事件だ」

「その未熟さをカバーするのが、我ら小泉家、そして水無月家の使命なんだ! 君を一方的に責める事は出来ない・・・だが! 君にはせめて椿ちゃんには全てを話す責務がある! 橘家の絆をばらばらにしたのは、最終的には君の下した判断のせいである事には代わりがない!」

「・・・・・・」

 青年はしばらく無言で章吾を見つめていた。夜風が二人の髪を静かに揺らす。薄い月明かりの下、章吾は待つ。彼の答えを。

 それは、長い時間のように感じられた。だが、実際は一分も経ってはいない。青年は、『わかった』と小さく呟いた。

「赤鬼の一件が片付いた後に、椿には全てを打ち明ける。だから・・・章吾、お前の力を貸してほしい」

「信じていいのですね?」

「信じて欲しい」

 章吾は襟首から手を離すと、汗ばんだ手をぶらぶらと揺らし、夜風に晒す。

「で・・・私になんのようです?」

「『天岩戸(あまのいわと)』を使う。結界石を用意して欲しい」

 章吾の表情が一気に強張った。

「そんなものをなんに使うんだ?」

「保険さ。赤鬼が再度発現した際の」

「・・・生憎、その言葉は信じられない。でも、椿ちゃんに全てを話すと約束してくれたから、用意はする。それだけです」

 この時になって青年も少しだけ渋い顔をした。

「赤鬼は発現させない。それはすでに決定事項です。それだけは忘れるな」

 章吾は、そう強く告げて堤防を後にした。残された青年は、その背中を見送りつつ深いため息を吐いていた。

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