第十三話『覚醒予兆 前編』


 春の暖かい日差しの中、桜の花びらが一斉に舞い上がった。紺碧の空が、淡い桜色に染まる。

「お兄ちゃん! 見て見て、凄い! 凄いよ!」

 きらきらとした笑顔で、腕を一杯に広げ、桜の花びらと共に舞う妹の姿。彼女の笑いが、心に優しく響き渡っていく。

 それは、遥か遠く昔の――失われた幸せな世界の声。

 

 目が覚めると、そこはいつもの冷たい現実の世界だった。痛む頭を抱えて、リビングへ向かう。涙が止まらなかった。心が苦しくてたまらなかった。

 リビングに行くと、黒い髪の少女がソファーに座ってテレビを見ていた。落ち着きを払った瞳には、テレビという娯楽を前にしているにしてはあまりにも感情がなさ過ぎた。美しすぎるその容姿と相まって、西洋の人形を連想させるその彼女の姿に、彼は安堵の笑みをこぼした。

「久遠・・・」

 か細いその声に、少女――久遠は、感情の宿っていない瞳を動かした。彼の姿を認めると、今までのが嘘だったかのように、瞳が揺れ動き、感情を映し出す。

(あきら)・・・おはよう。また、怖い夢でも見たの?」

 久遠は、彼――晃の髪を優しく撫でる。晃はすがるように久遠の洋服の一部を掴んでいた。

「怖い夢じゃない。妹の・・・夢・・・妹の・・・夢・・・」

 晃の頭を抱きしめる久遠。晃はその温もりの中で、静かに涙を流した。

 それから数分もしない内に、晃は落ち着きを取り戻した。幸の薄い笑みを浮かべた彼は久遠に、『ごめんね。いつもありがとう』という言葉を贈った。久遠は、ただその言葉を微笑みで持って受け止める。

「そうだ。瑠璃(るり)()から美味しいジャム、もらったの。もう、とっても美味しいんだから」

 久遠は台所へと走って行き、ビンに入った苺ジャムを晃に見せた。

「主任から?」

 彼の暗かった表情も瞬時に明るくなる。

「うん。『後光』の調整で会う機会があって、久し振りだよね、瑠璃葉のジャム」

「うん。最近、任務ばかりだったから僕も会っていないんだ。主任、元気でした?」

「あの変態が元気でないとかありえないよ。変態は風邪を引かない、これ常識」

「そうなんだ。久遠は、物知りなんだね。でも、久遠が風邪を引いている所も、僕はほとんど見た事ないんだけど。久遠も、変態なの?」

 『うっ』と言葉を詰まらせる久遠。とんだ墓穴である。

「晃の知らない所で風邪ぐらい引いているわ」

「風邪は危険だから、気をつけてね」

 晃は、疑うという事を知らない。そういう風に教育、調整されている。さすがに悪い気がしてきたのか、久遠は『そ、そうだね。うん』と視線を逸らして誤魔化しつつ相槌を打っていた。

「す、すぐにパンを焼くから。座って待っていて。あ、確か(ごう)からコーヒーもらっていたような・・・」

「あ、僕・・・するよ」

「ううん、晃は座っていて。久遠に、お任せあれ」

 久遠が言い出すと頑固である事は、晃も知っている。大人しく彼女の言葉に従った。

「晃は、また仕事なんだよね? 今度はいつ帰って来れそう?」

 なんとか見つけ出したコーヒーの粉をコップに入れながら、聞いてくる久遠。話しながらしているせいか、はたまた性格なのか、やけにコーヒーの粉が周りに散乱している。しかし、晃は特に気にはしていない様子。いつものことなのだ。

「う〜ん・・・一週間程度の計画だったから、来週には戻ってこられると思うよ」

 久遠から焼けたパンを貰い、瑠璃葉から――晃の言葉を借りれば主任からもらった苺ジャムをこれでもかというぐらいに塗ったくる。パンは、元の色が分からなくなるほど赤く染まっていた。

「私も来週フリーなんだ。だから帰って来たら、海に行こうよ。またあの廃屋を改造してさ、花火もしたいかも、流しそうめんもやりたい」

「流しそうめんは、二人じゃ出来ないよ。でも・・・うん。海、行きたい」

「よし! 私、瑠璃葉とドクトルGの両方に調整はさ来週にするように釘を刺しておくから。また、うっかり記憶を吹き飛ばしたとかされると、いい迷惑だし。晃も、今は安定しているみたいだけど・・・」

「うん、最近はいつもよりも調子がいいんだ。なんだか、ずっとかかっていた(もや)が少しずつ晴れていっているような・・・うん、なんだか清々しいんだ」

 そう言って笑う晃に、久遠は突然得体が知れない不安を感じた。それを振り払うようにして、久遠は笑う。

 きっと何もない。晃は、何事もなかったように涼しい顔で帰ってくる。そうに違いない。

 しかし、そう何度自分に言い聞かせても、不安が消え去る事は決してなかった。

 

 およそ十年前、(さくら)町に震撼(しんかん)が走った。『藤堂一家殺人事件』。一家四人が何者かによって皆殺しにされたという、おぞましい事件である。昔から、淀んだ事件が起こる櫻町であるが、この事件ばかりはさすがに町の雰囲気を暗くさせた。一時期、夜間に外を歩く人がいなくなるぐらいに。事件から二ヵ月後、犯人も逮捕され、死刑の判決が下り、すでに執行されている。しかし、それが表向きの作り話である事を知っているのは、ごく一部のものだけであった。

 除霊屋。彼らは基本的に、『理から外れしモノ達を調整する』のが仕事である。だが、仕事はそれだけではない。『理から外れたモノによって乱されたものを調整する』ことも仕事の一つ。(あやかし)の存在は、日本の霊的なものを管轄する日本神族会の命により、隠匿されている。除霊屋は、日本神族会の手足となり、闇から闇へ。莫大な情報と独自権限を使い、世の中を操作していく。『藤堂一家殺人事件』もその一つであった。その事件の生き残りが、ここ(たちばな)家にいた。

 朝六時。櫻は橘家の道場で、刀を振るっていた。彼女の毎日の日課は、両親を殺して行方をくらました兄を殺すための――研鑽(けんさん)である。一時間ほど振るった後、彼女は汗を流すために井戸へと向かった。冷たい水をくみ上げ、頭から被る。

 セミの声がけたたましい。空は抜けるように青く、今日一日がいつものように暑い日になることを教えてくれていた。

「櫻よ、朝から励んでおるな」

 母屋の廊下から、橘家の当主である勝彦が声をかけてきた。いつも厳しい表情の彼も、今はどこか柔らかく見える。

 櫻は、深く一礼する。書類上彼女の祖父にあたるが、祖父であろうとしているのは勝彦だけで、櫻にはとってはあくまで橘家の当主でしかない。櫻が自分で敢えて引いている、孤独の白線だ。だから、櫻の仰々しい礼は、勝彦の顔を曇らせる。

「今日は、外出する日だったな」

「はい、申し訳ありません」

「いや、たまには息抜きも必要だ。夕食も適当に見繕っておく。気にせずに行ってくるがいい」

「ありがとうございます」

 取り付く島もない。心を閉ざした彼女に、少しでも変化を――そう願わざるにはいられない勝彦だった。

 今日は、少し前からストーカーの如く付きまとっている二人組み、『櫻攻略同盟軍』の同盟長氷女沙夜と、参謀の鏑木(かぶらぎ)優子と、水族館に行く事となっている。なんでも鏑木家のご令嬢である優子が、無料チケットをもらったとか。今日行く水族館は、新しく出来たばかりの所。多分、鏑木グループも一枚噛んでいるのであろう。

 櫻としては、不本意である。果てしなく。行きたくはない。でも、彼女自身は実は沙夜の事をそこまで嫌いではなかった。彼女は、方向性は違うものの同種の人間である。己の信念に基づき、櫻と共にいる道を選んでいる。それを馬鹿にする権利は、誰にもない。しかし、優子の事は心底嫌いだった。それは今に始まった事ではない。初めて視線が交わったその時から、本能的に嫌いだったのだ。

 部屋に戻り、服を選ぶ。真剣に服を選ぼうとしている自分に気付き、苦笑。いつも通り、桜色のカッターシャツとジーパンを選び、彼女は出かけた。

 八月という事もあって、朝とはいえ日差しが厳しい。立っているだけで、汗がにじみ出てくる。

 陽炎が立ち上る中、櫻は駅前のコンビニの前までやってきた。待ち合わせ場所は、櫻駅の前なのだが、あそこは日影にはなっているものの、暑い。約束の時間まで十分ほどあるのだから、ギリギリまでコンビニで休んでおくのがベストである。

 そう思ったのだが、あの天然が少し入った氷女沙夜のことである、十分も二十分も前から駅前で待機している可能性はある。彼女の要領の悪さは、類を見ない。

 櫻は、目がとってもいい。視力は、2.0を両眼共にキープしているし、きっと彼女の持っている潜在的な能力の影響も受けているのだろう。実際は、それ以上に見えている。故に、駅前のベンチまで200メートルほど離れてはいるが、ベンチに誰か座っていれば、その容姿を確実に捉える事ができるのだ。

「・・・いた」

 思わず、力が抜けた。駅前のベンチに、三つ網の少女を発見する。間違いなく、氷女沙夜である。うな垂れているのは、暑さのせいだろう。櫻は思わず嘆息を吐いていた。コンビニでお茶を買い、櫻は沙夜の元へ向かった。

「近くにコンビニがあるのだから、そこで待っていればいいのに」

「あ、おはようございます」

 いつも通りの元気な挨拶。しかし、暑さで少し弱っている感じではある。

「はい、お茶」

 沙夜は、目を白黒させて『えっ?』と呟く。櫻にだって気恥ずかしさはあるのだから、間を空けられると辛い。

「いらないならいいわよ」

 下げようとすると沙夜は面白いように慌てた。そんな様子がおかしかったが、笑うわけにもいかず、無表情を繕いつつお茶のペットボトルを彼女に投げ渡した。

「櫻さんから・・・」

 妙に嬉しそうである。お茶一つでこれだけ喜ばれると、櫻も扱いに困る。なので、少しでも話を逸らす事した。

「お嬢は?」

 お嬢とは、鏑木優子の事である。彼女の名前を口にする気は、さらさらない。

「まだ十分ほどあるから。いつも、時間きっかりなんですよ」

「五分前行動ていうものは、お嬢様の脳内にはないわけね」

「あはは・・・どうかな・・・」

 賛成するわけにもいかず、沙夜は曖昧に答えを(にご)らせる。

「そういえば、櫻さんは水族館に行ったことはありますか?」

「仕事でね。プライベートで行ったことはないわ」

「・・・私も、水族館は今日が初めてなんです」

 彼女の境遇からして、人が多い所にはいけないのは当然であるが、そこに意外性を感じてしまうのは、一重に付き合いが浅いため。櫻は、沙夜の能力の発動をまだ一度しか見ていない。学校でも、『鎮めの契り』のおかげで普通に暮らせている。ついつい彼女が特殊な能力者であることを忘れてしまいがちである。

「だから、とても楽しみなんです」

 沙夜は、はにかむ。彼女は、満面の笑みというのを浮かべない。今まで笑った事なんて、ほとんどなかったのだろう。櫻は気づいていた。こうやって素直に笑っているのは、自分の側にいるときだけだと。櫻や優子以外には、作り笑いを向けている。人に嫌われない演技だけなら、沙夜のほうが上なのかもしれない。

 待ち合わせ時間きっちり。沙夜のいう通り、鏑木優子が到着する。白い日傘はいいとして、フリル付のロングスカートのいでたちに、思わず眉根を細める櫻。だが、相手にしても疲れるだけなので、さりげなく無視を決める。沙夜のほうは、何度か一緒に出かけているためか、特に気にした様子はないようだ。

「おはようございます。本当にいいお天気で、なによりです」

「暑いだけじゃない。誰かさんのおかげで、日干し寸前よ」

「わ、私のせい・・・ですか?」

 泣きそうな顔で櫻を見つめてくる。この顔は、特別に苦手だった。

「時間きっかりにしか来ない、空気読めないお嬢様が悪いに決まっているじゃない」

「その忠告、肝に銘じておきますわ」

 まったく動じず、笑顔で切り返してくる。どう見ても作り笑顔だ。沙夜と違い、優子は沙夜と一緒にいるときもそのほとんどが作り笑いである。それを理解したうえで付き合っているのだから、沙夜は偉い。ちなみに櫻は、その作り笑いが嫌いな最大の理由でもある。

「ではでは、チケットを渡しておきますね。無くしても対処は出来ますが、出来るだけ無くさないようにお願いいたしますね」

「うん・・・わぁ、凄い『無料チケット』って書いてある」

 一般人には手に入れることが適わない特別なものに、沙夜は瞳を輝かせている。櫻の方は、受け取るなりため息一つ吐いていた。

「なんにでも手を出しているのね、鏑木グループは」

「えぇ、得になることであれば出資を惜しまないのが我がグループの方針です」

「うさんくさいわね、相変わらず」

 得になる事であれば、どんなことでもする。そうとも取れる発言に、櫻はズバリそう言った。しかし、優子は顔色一つ変えなかった。

「ではでは、あと二分ほどで列車が出ますから、急ぎましょう」

 『うん』と素直に頷き沙夜は、優子と共に駅へと向かっていく。櫻もそれに続こうとしたが、ふと視線を感じ、足を止めた。その様子に、沙夜が気付く。

「櫻さん・・・?」

「気にしないで」

 立ち止まってすぐに感じていた視線は嘘のように掻き消えた。動きを見ただけで、感づかれた事に気づくとなると、こちらを見ていた視線はプロのものかもしれない。だが、監視される理由が分からない。

「・・・なにもなければいいけど」

 嫌な感じが拭いきれない。晴れない顔で、沙夜たちを追いかけた。

 

 水族館は、オープンして間もない事と夏休みという事が相まって、凄まじい盛況振りだった。入場のチケットを買うのにも長蛇の列。しかし、沙夜たちは無料チケットを持っていたので、関係なしには入れたが――。

「・・・人の博物館か」

 と、櫻が呟くほどの、人、人、人・・・。魚達をろくに見ることも出来ない。結局、彼女たちがまともに見られたのは、一階から二階に渡って設置された強大な水槽ぐらいなもの。それもすぐに切り上げて、喫茶店へと逃げ出した。原因は、沙夜の人酔いである。

「・・・なんだか頭がクラクラします」

 喫茶店も凄い人の混みようであるが、辛うじて席は空いていた。頭を抱える沙夜を見て、優子が嘆息を吐く。

「失敗でしたわ。まさかこんなに人が多いなんて」

「一日貸切にすればよかったんじゃないか?」

「一体、一日でいくら稼いでいるとお思いですか? ありえませんわ」

 櫻の冗談にもきっちりと言い返す。

「・・・あ、夜に来ればよかったですね。閉店後なら、貸切ですわ」

「夜の水族館にはろくな思い出がない」

 その一言で、優子は櫻の苦々しい失敗談を思い出す。

「大水槽を叩き割ったのは、櫻さんのお姉さまでしたか。懐かしいですね」

「言わないで。気持ちが悪くなるから」

 除霊屋の仕事で、水槽は頑丈だから大丈夫だと豪語して水槽を強打、そして破壊した櫻の姉、椿。海水に飲み込まれ、気付けば駐車場に転がっていたという嫌な思い出でがある。今でも塩の匂いを嗅ぐと思い出してしまうから、タチが悪い。

 しかし、話は続かない。いつも興味津々と食いついてくる沙夜が、完全にグロッキー。楽しい話で盛り上げようと試みた優子も、諦めの白旗を上げるしかなかった。

「仕方ないですね。今回は明らかに私の失態でしたわ。ごめんなさい、沙夜さん」

「ううん、気にしないで。もう少し休んだら、動けるから」

 そうは言っているものの、明らかに限界の様子である。

「今日は帰りましょう。チャンスは、まだまだありますわ」

「・・・遠いけど大垣水族館なら空いているんじゃない? 近くに美味しい喫茶店もあるし」

「櫻さん・・・」

「不本意だけど、案内してあげるから。今日は、帰ろう」

 沙夜は、嬉しそうに『うん』と頷く。どうして自分から誘ってしまったのか分からなかったが、櫻は彼女が笑ってくれただけでもう満足だった。

 櫻町に戻ってくる。まだ太陽は高く昇っているが、沙夜の体調も考えて早々にお開きとなった。

「沙夜さん、また私にチャンスをくださいませんか? 今回の失敗を返上したいのです」

 沙夜は首を横に振り、そして告げる。

「また遊ぼう」

 それは単純な言葉であったが、優子の心に強く響いた。結局、優子は『案内の人』であり、一緒に出かけているという感覚ではなかったのだ。それを知った時、優子は苦笑し呟く。

「まだまだですね。人並みというのがこんなに難しいとは思っておりませんでした」

「私が言うのも変だけど、お嬢は考えすぎなのよ」

「櫻さんから助言を頂くなんて、気が狂いそうですわ。ありえません」

「・・・食あたりにでもなって死んでしまえ」

「食あたりになるようなものは、口に入れませんからご安心ください。そちらこそ、拾い食いなんてしないように。世間様の目もありますから」

「してないわよ! 人聞きの悪い!」

 やっぱり口では勝てそうにない、と櫻は心の中で毒つく。どんな言葉でも切り返してくるのだから、優子の口の上手さには驚かされる。

「櫻さん。水族館、四日後の同じ日でいいの?」

「あ・・・あぁ。お嬢もどうせ来るんだろう?」

「大垣水族館に行くならば、足が必要ですわ。こちらで用意いたしますが、櫻さんは超人ですから走ったほうが早くつくかもしれませんね」

「ふざけるな。いくらなんでも車と同じ速度で走れるか」

 沙夜は、そんなやり取りを楽しそうに見守る。優子と櫻は、意外に気が合うのかもしれない。そんな事を口に出せば、二人同時に否定されそうではあるが。

「じゃ、櫻さん、優子さん、先に帰ります。今日はありがとうございました」

「またね」

 優子が微笑み手を振る。さすがに作りの笑みではない。

「気をつけて帰りなよ」

 心配してくれる櫻。その優しさが嬉しく、ちょっぴり泣きそうになる。

「うん、水族館楽しみ」

 沙夜は、二人に手を振って家路へと付く。残された優子と櫻。先に口を開いたのは、優子の方だった。

「今日は助かりましたわ。でも、負けませんから」

「・・・気まぐれだ。二度はない」

「それはどうでしょう。まさに、ありえませんわ」

 人を食ったような顔で話す優子に舌打ちをして、櫻も家路に付く。優子はその背中に、『悔しいのよ。とても』と呟いていた。

 

 三日後――。

 時刻は十九時を少し回った頃、沙夜は塾の夏期講習を終え、身支度をしていた。明日は、水族館だ。それも櫻の方から誘ってくれた。嬉しさを抑えきる事なんてできない。いつもはのんびりと支度をする彼女も、今日はバタバタと片付け誰よりも早く家路に着いた。

 沙夜が通う塾は、商店街の一角にある。塾から家までは、徒歩でおよそ四十分程度といったところか。夜の一人歩きは危険であるが、生憎迎えに来るような人もいない。祖母も、実は気が気ではないのであるが、意外に頑固な所がある沙夜を納得させる事はできなかった。

 帰り道は、裏道などを使わず、大きな県道を通って帰る。田舎の県道であるため、車の数は少ないが、明かりだけは煌々と燈っている。本当に怖いのは、この県道を逸れて自宅へ向かう細い道に入ったときである。ろくに外灯もない始末だ。そこを通る時は、いつも全速力だったりする。

 商店街を抜け、県道に合流する道の角、コンビニがあるのであるが、沙夜がその前を通ろうとした時、丁度コンビニからツインテールの少女が出てきた。思わず沙夜も、『あっ』と呟き、相手もそれで沙夜に気づく。

「あら、沙夜ちゃん。塾の帰り?」

 沙夜の友人である、小泉由紀子(ゆきね)である。ジーパンにTシャツと色気皆無のお姿だ。どうせ、夜食か何かを買いに来たのだろう。コンビニの袋の隙間から、カップラーメンの姿なんかが見える。

「こんばんは。今から帰るところだったんです」

「そりゃ奇遇だね。一緒に帰ろっか」

 由紀子は自転車の籠の中に荷物を押し込む。今日は、偶然にも由紀子に会えた。これで途中までだが心強い同行者ができ、安心する沙夜。由紀子に向ける安堵の笑みは、誰に対して向ける表情よりも柔らかかった。沙夜にとって、由紀子とはそういう人なのだ。

「ところで、無事攻略できている?」

 由紀子が話しているのは、櫻の事である。沙夜は、明日のことを再度思い出し、笑う。

「うん、明日、櫻さんが水族館に誘ってくれたの」

「あの堅物がついにデレたか」

「もう嬉しくて、楽しみで」

「今日は寝られないかもしれないわね」

 『うん』と頷く沙夜。由紀子は本来、櫻と関わる事に対して反対派だった。櫻と由紀子は、別に何かあったわけではないが、とにかく相性が悪い。それは、優子と相性が悪いのと、また違うものだ。最初の頃こそ、櫻の話をしても渋い顔をして、心配事ばかりを口にしていた彼女も、ここ最近は素直に同調してくれる。櫻への認識を改めたというよりかは、沙夜に対する信頼が強くなったと考えるべきだろう。

 由紀子と楽しく談笑しながら家路を歩む。喧騒は遠くなり、静かな住宅街へと移っていく。古い雑貨屋の前を通り、冷たい光を燈す自販機の前を通り過ぎたその時である。

 何かが自販機の光を反射する。そして――。

「えっ・・・? あ・・・?」

 由紀子が戸惑いの呟きを残し、倒れていく。その様に気付いた直後、沙夜は何が起こったのか理解する間もなく、腹部に重たい痛みを感じつつ――意識を手放した。

 

 その頃、櫻は大木公園の入り口の茂みの中にいた。始まりは一通の手紙だった。夕食の買い物を終えて整理していると、白いA4用紙を折りたたんだものが混ざっている事に気づいた。

『七時十分過ぎ頃、自宅前で待つ』

 プリンターで印字された、明朝文字。味気のない手紙であったが、看過できぬに理由があった。

 櫻は、並の人間ではない。日本でも三本の指に入るといわれる剣豪、橘勝彦に師事している剣士だ。除霊屋として、幾度も修羅場を潜り抜けてきた彼女に、その手紙の主は気配を悟らせなかったのだ。相手は、気配を消す事に長けているか、それとも櫻よりも相当強いという事になる。

 ということで、二十分ほど前から橘家の前ではなく、ここ大木公園の入り口――道路を挟んで向こう側の一軒の家を監視できる場所に潜んでいた。明かりも燈っていないその家は、櫻の生家だ。『自宅前』という言葉を見たとき、櫻はとっさに橘家ではなくこちらを思いついた。根拠はない。ただ、『自宅前』というフレーズが彼女にとって橘家ではなく、こちらの『藤堂家』のほうがしっくりと来たのだ。

 変化は、指定の時刻から二分遅れ、七時十二分に起こった。一人の男が、ポケットに手を突っ込み歩いてくる。ボロボロのジーパンに白いTシャツ姿。ボサボサ頭のその男は、まるで野猿である。男は、道路――すなわち櫻に背を向けて立ち止まった。

 間違いない――。

 櫻は、その男こそが手紙の主だと確信する。刀に手をかけ、茂みから飛び出した直後。

「まぁ待て、藤堂櫻」

 男は振り返り、右手を出して静止を呼びかけてくる。最初から気配を感じ取られていたのだ。櫻は、急に声をかけられ、たたらを踏み結局道路の前で止まった。

 道路を挟んで男と対面する。男は構えているわけではないのだが、どこにも隙はなかった。相当の手練だと、推測できる。そして、この男は橘家の人間とそのほか一部しか知られていない、櫻の秘密を知っているようであった。『藤堂』。それは、橘家へ養子にもらわれる前の苗字。彼女の本当の苗字。油断ならない。

「何者だ、貴様は?!」

 櫻の声が、静かな夜の空気を震わす。

「俺が何者であろうが、関係はなかろう。確かなのは、今行かなければ、二度と氷女沙夜には会えなくなるという事実だ」

 男は、商店街の方角を指差す。

 この男、一体何を――。

 馬鹿げていると否定しかけたその時、三日前水族館で感じた嫌な視線を、櫻は思い出した。男の目的がなんなのか分からないが、彼の言うことには一理ある。

 男と対峙しているよりも、確認しに行った方が確実。櫻はそう判断して、商店街の方へと走り出した。

 嫌な思いがさらに募っていく。

 こんな思いは、初めてであった。

 

「さて、始めるとするか」

 男は、静かに呟いた。

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