1scene
『風竜王とチェス』


 なにもなくなってしまった。空を遮るものも無く、美しく広がる空は涙で青さが滲んでいた。

 一瞬だった。何が起こったのか、そもそもここがどこなのか、もうさっぱり分からない。

 分かるのは、一人になってしまった事だけ。

 誰も動かない。誰も泣いている彼女に声をかけない。だから、一人なんだと認識するしかなかった。それでも、彼女は泣く事しかできなかった。声が枯れるまで泣いて、誰かに見つけてもらわなければ。

 その声が届く――。

「・・・生存者」

 瓦礫の上に、彼はいた。空と同じ色の青い髪をなびかせた、はっとするほどの美しい青年。彼は、疲れ切った表情に安堵の光を燈し、彼女に手を伸ばした。

「おいで。僕が君を守ってあげる」

 それが、彼――イデルとの出会い。

 八年の歳月を経て、少女は口やかましいメイドに成長する。

 それは、どこかにあるかもしれない異世界の物語。

 郊外の屋敷に住む、ずぼらなご主人様とメイド達が織り成す、タペストリー。

 

 盤上に向かい、駒を動かす。なんでこんなことになってしまったのか――メイは、深い溜息をついた。

 メイは、今年で十四歳。赤い瞳は、少し勝気な色合いを帯びており、肩ほどまでのびた栗色の髪は、まっすぐで癖ッ毛はなかった。メイド組合が取り決めた黒色のメイド服を纏い、そして赤く細長い宝石を首から提げている。

 相手は、銀髪の美しい青年。豊かな知性を感じさせる青い瞳を細め、メイが打った一手に返す方法を悩んでいた。

「メイちゃん・・・」

「嫌です。二つ前、こっそりずるしたの見逃してあげました。だから、もうダメです」

「メイちゃんのケチ」

 子供のようにすねる彼が、かつてこの国を治めていたとは到底思えない。

 風竜王。

 厄介な客人の名前である。

 

 そもそも事の始まりは、風竜王がふらりと屋敷を訪れた事だった。まったくの不意打ちで、メイは思わず、一度開けた扉を全力で閉じたぐらいである。『メイちゃん、そりゃないですよ』との声で、失態に気付き、謝った。本当は謝りたくもなかったのだが。メイは、どうしてもこの風竜王という存在が、好きになれないのだ。

 急にやってきたのが、町の役員とか近所の人なら門前払いをするところなのだが、さすがに四竜の一柱である風竜王を彼らと同類に扱えない。

 仕方なく、昨日仕事から帰って来たばかりの主人を起こしに向かったのだが――。

「エレン! マスターを起こしてよ!」

 寝室の前に立ちふさがるは、無表情のエルフ。

 名は、エレン。種族は、エルフ。厳密に言えば、ハーフエルフ。人とエルフの子。しかし、わざわざハーフエルフなんていう呼び方はしない。なぜなら、純正のエルフはこの世界にたった一人しかないからだ。

 深い森を思わせるような濃緑の髪を、後頭部あたりでまとめている。いわゆる、西洋上げ巻と呼ばれる巻き方だ。すらりと背の高い彼女は、メイよりも頭一つぐらい大きい。必然、メイはエレンと話すときは見上げなければならない。

 エレンは、メイの言葉に耳を傾けることなく、きつく瞳を閉じ、沈黙を貫く。この性悪エルフは、いつもこうである。マスターである、イデル以外の言葉は受け入れず、イデルのためだけに動く。それがどんな相手であろうとも。そう、彼女にとっては風竜王であろうが近所の人だろうが、等しく同じなのだ。

「ならば、実力行使! 言う必要はないかもだけど、この間合いなら、詠唱する時間なんてないからね。瞬殺! 滅殺!」

 なぜか空手の構えのようなものを取るメイ。まったく強くはなさそうであるが、それも当たり前。彼女は、武道に精通していない。にわか仕込みどころか、全くの素人である。

「野蛮人」

 きつく瞑られた瞳を、僅かばかり開く。神秘的な緑色の瞳が、メイを見下ろす。

「ご主人様がお疲れになっていらっしゃることは、あなたも分かっているはずです」

「分かっているけど、風竜王様に『帰れ!』とか言えないよ」

「待ってもらえばよろしいことはではありませんか? どうせ、人間に相手をしてもらえない、暇な竜です」

 メイは、その言葉にカチンときた。

 手を振り上げるメイ。エレンが反射的に身構える。だが、メイはエレンを叩けなかった。ギリギリのところで、抑制が効いたのだ。

「エレン! 今の言葉は・・・許さないよ! 誰のおかげで、この国にいられると思っているの!!」

「・・・ごめんなさい」

 エレンは、一転して怯えていた。そんな姿を見て、メイは何かを言えるような子ではない。深く、何度目か分からない溜息を零した。

「私だって、風竜王様は苦手だよ。でも、私やエレンがここにいられるのも、風竜王様のおかげなんだから。それを忘れてはいけないよ」

 優しく諭す。エレンは姿勢を正すと、また瞳を閉じて直立不動。まったく動じていない――というわけではないようだ。その証拠に、手が震えていた。

「・・・マスターに伝えて。風竜王様が来ていることを」

「できません。起こすなと言われております」

「そっか。でも、風竜王様はマスターの旧友だから。私たちに文句を言うのは筋違いだし、何か言われたら、私が言い返してあげる。だから、ね?」

 エレンが戸惑っているのが、分かった。もう一押しか――そんな事を思っていると、寝室の扉が開き、この屋敷の主人であるイデルが姿を現した。髪の毛ボサボサ、洋服もぐちゃぐちゃのだらしのない格好で、目の下に隈が出来ている。

 イデルの姿を認めると、エレンの動きは素早かった。すぐに道を開け、瞳をきつく閉じ、直立不動。元の石像に戻ってしまった。

「おはよう、メイ」

「おはようございます。お疲れの所、大変・・・」

「いいよ。メイが責任を感じる必要はない」

 優しくイデルは笑う。それから彼は、おどけたように『さすがに着替えた方がいいかな?』と聞いてきた。それがおかしくて、笑うメイ。

「はい。そのほうが宜しいかと。エレン、お願いしていいかしら?」

「はい」

 小さくお辞儀をする。すっかりいつもの彼女だ。さきほどの怯えたような顔は、なんだったのだろうか――メイは、このエレンというエルフのことが、いまいち理解できなかった。

「じゃ、メイ。風竜王様の相手を、少しの間、お願いするよ」

「はい、分かりました・・・って、えっ?! わ、私が!」

「退屈を嫌う人だから、構ってあげてほしい」

「・・・分かりました」

 いやいやメイは呟く。折角、逃げてきたのに――溜息をつきすぎて、魂が抜けてしまいそうな、そんな感じになっていた。

 

 そういうことで、メイは風竜王の暇つぶしに、チェスに付き合うことに。この風竜王、『英知の竜』として知られているが、平気で魔法を使ってイカサマをする。そういうのが嫌いなメイ。彼の相手をする――それは、チェスの相手をすること。そして、チェスの相手も嫌だが――。

「ところでメイちゃん。メイちゃん」

「はい、なんでしょう。それと、二回も呼ばなくても結構です」

「メイちゃんは、歌とかは歌わないのかな」

 彼が振ってくる話も、嫌いだった。

「学校で少し。今は、必要ないです」

「そうなんだ。歌えばいいのに。最近、巷で有名になっている、ジェルミーを知っているかい?」

「大人達が、年も考えずに騒いでいる人ですね。私、興味ありません」

 これには、風竜王が苦い顔。騒いでいる大人の一人だからである。

「結構、可愛いし歌も上手だよ。だから、メイちゃんも可愛いから、歌手になれば売れると思うんだ」

 話の飛躍具合に、ついにはメイも付いていけなくなった。

「私も専属の歌姫が欲しいと、最近思うようになってね。メイちゃんなら、大歓迎なんだけど」

「お断りします」

 きっぱり即答。

「いっぱい贅沢させてあげるのに」

「私は、今のままで十分幸せです」

「そうか。イデルのこと、そこまで好きでいてくれているのか。本当に、ありがたい話だよ」

「違いますっ!」

 メイは、テーブルを叩いて立ち上がっていた。その表情に翳るのは、不安と怒り。さすがに風竜王も、すまなさそうに頭を下げた。

「口が過ぎた。ゴメンな」

「・・・ごめんなさい。怒鳴ったりして。あっ、えと」

 思わず、地が出てしまった。しかし、風竜王はそれを咎めることはしなかった。

「今のは、私が悪い。だから、その・・・泣くのは許してくれないか?」

「・・・泣かないです。もう、涙なんてないです」

 実際、メイは泣いてはいなかった。ただ、物凄く辛そうな顔をしていた。彼女の中の憤りが、まだ完全に失われていないようであった。

「遅くなりました」

 そこで、助け舟。イデルがやってくる。メイは、チャンスだとばかりに一礼して、部屋を出た。

 そのまま彼女は台所へと向かい、カウンターの裏に隠れて座り込んだ。

「私の馬鹿・・・」

 感情的になる必要なんてなかった。それが分かってしまい、悔しくて恥ずかしかった。

 風竜王を相手にすると、必要のない感情の揺れを覚えてしまう。いつも抑圧しているものを見透かされているような、そして何かを失ってしまいそうな喪失感が、風竜王と会話をするたびに、心を苛む。

 メイは、分かっていた。メイは、知っていた。八年前のあの日。何が起きたのか。だが、彼女はその出来事を心の奥底に沈めて見ないようにしている。普段はそれで何の問題もないのだが、風竜王だけは――あの時、八年前にその場所にいた彼だけは――。

「思い出しちゃダメ・・・忘れるの。忘れなきゃ。イデルと一緒にいられない。忘れなきゃ・・・」

 呪詛のように繰り返していると、『メイ、いるの?』という声が聞こえてきた。エレンの声である。表情を取り繕い、カウンターの影から出る。エレンは、食堂の方にいた。相変わらずの無表情。何の用事だろうか――メイは、分からないなりにも、『なに?』と自然を装って返した。

「紅茶、淹れましょうか?」

「えっ?」

「いらない?」

「いる! エレンが、紅茶を淹れてくれるなんて・・・なに、明日は地震かな」

 メイがおどけて見せても、エレンは相手にしなかった。本当に何を考えているのか分からない彼女であったが、エレンの淹れてくれた紅茶は、温かく、メイの心を穏やかにしたのは確かであった。

 エレンと会話もなく、黙々と紅茶を飲み終わった後、気分を入れ替えてメイは庭の手入れをするために外へとでた。

 花壇の花々に水をあげながら、ふと応接室の方へと視線を向ける。何の話をしているのか。いつも気にはなるが、絶対に聞いてはいけないことなのも、分かっていた。あの二人が隠していることは、メイの生活を揺るがすこと。それを聞けば、もう元の生活には戻れないかもしれない。風竜王が家にやってくるのを嫌うのも、最終的にはその不安が最も大きい理由であった。

 庭の手入れを終えて、道具を片付けていると、風竜王が帰っていくのが見えた。軽くスカートの埃をはたき、玄関へ。見送りに出ていた、イデルのところに走り寄っていった。

「マスター」

「急いで、なにか用事?」

 そこでメイは、別にこれといった用事がないことに気付いてしまう。どうしたものかと考えをめぐらせて出た結果は――。

「チェス・・・勝ちました?」

 そんなどうでもいいことであった。

「負けたよ」

 あっさりと言い放つ。メイは、風竜王にチェスで負けたことがないが、逆にイデルは風竜王にチェスで勝ったことがない。イデルとメイでは、勝ったり負けたり。イデルが弱いわけではない。風竜王に負けるはずがないのだが――と不思議そうな顔をしているメイに、イデルは笑って見せた。

「上司は立てないとね」

 イデルの言葉の意味は、結局分からなかったが――。

 昔、まだこの屋敷に来たばかりの頃、よくイデルにチェスで勝っていたことを思い出した。つまりはそういうことなのだろうか――メイは、無理やり分かった振りをした。

「マスター、お疲れ様でした」

 そして、労った。

 イデルはいつものように笑う。少しだけ、疲れた顔で。

 

 END

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