Yumeiro 秋 風 

 
    真実とは何であろうか・・・
 
    時が流れても変わらぬものとは──

 
       ─────**──────*──────**─────

 
    不思議なことを言う童(わらし)であった。
   『あなたにとっての真実をひとつ見せてあげるから、代わりにあなたの
   ”素敵”を一日だけ貸してね』そう言うとにっこり笑って、あっという間に
   森へと続く小道の中に消えてしまった。
 
   ──真実・・・一体何を言い出すのか・・・
   あんな年端もいかぬ子どもに何がわかるというのだ・・・それとも今、巷で
   評判の妖しの類(たぐい)か・・・
 
                   *
 
    ここは恒徳公(為光)も愛した隠れ里。秘かに用意された別荘もある。思
   いを整理したいとき、思いに浸りたいとき、そして何もかも忘れ全ての雑念
   から解放されたいとき、斉信はここを訪れた。連れているのは少しばかりの
   従者。常に斉信に近侍する者ばかりである。
    季節最後の女郎花が咲き乱れる秋野。山の色も秋の錦へ移ろい行く頃。
    斉信の鬢を暮秋の風が揺らす。僅かに乱れた髪に仄かな色気が漂う。
 
      ”清琴(せいきん)風ふく處(ところ)に響く
       恰(あたか)も人の弾ずること有るが似(ごと)し”
        〔『菅家文草』巻第五 401「風中琴」より 〕
 
    秋風の吹く野に立てば、清らかな琴の響きが聞こえてくるようであった。
 
      ”誤つらくは雲の別鶴(べっかく)に驚かむかと
       疑ふらくは野の幽蘭を拂(はら)はむかと”
        〔『菅家文草』同 〕

      《琴の古曲「別鶴操」に似た響きの風に
       空行く雲も驚くかとあやしまれる。
       琴の古曲「幽蘭」に似た響きの風に
       野末の蘭も吹き払われるかとあやしまれる》
 
    雲の彼方から秋風に乗って斉信の許を訪れたのは、「別鶴操」にも似た儚
   い響き。
    あれからどれだけの歳月が過ぎたのだろうか・・・
    明けることも無いと思われた闇の日々。
   灼熱の夏が過ぎ秋が来て、初雪の声と共にそれも虚空の冬に変わり、また
   新しい春を迎え・・・それでも、その悲しみは癒えることが無かった。
    却って心躍る春の華やかさが一層斉信の気持ちを滅入らせることになった
   だけ。
 
      ”秋夜長し
       耿耿(こうこう)たる残燈の壁に背ける影
       蕭蕭(しょうしょう)たる暗雨の窓を打つ声
       春日遅し
       日遅くして独り坐すれば天暮れ難し
       宮に鶯百(たびたび)(さえず)るも、愁いて聞くを厭い
       梁(はり)に燕(つばめ)(なら)びて栖(す)むも、老いて妬むを休(や)む”
         〔『白氏文集』巻三「上陽白髪人」より〕
 
 
    あの日、実方と共に石清水臨時祭の一の舞を舞ったのは自分。
    そこで運命の導きによってあの女(ひと)に会った。本当に人を愛する意味
   を未だ知らなかった十代の終わり。若い斉信は初めて激しい恋に落ちた。
    自分に出来る全てを拙い言葉にのせ、文を送り、逢瀬を許され・・・
   そして、性急に求め・・・与えられる悦びを知った。
 
    どのようにしても”人は時の流れに逆らうことは出来ない”と理解出来
   る今になっても、あの日のことを思うと初な自分に胸が熱くなる。
    過去の美しい思い出というだけでは語り尽くせない苦しい記憶。
   それでもそこに戻りたいと思う自分が居た。
 
    女郎花(おみなえし)の里に来れば、あの日の自分に何時でも戻れる気がする。
 
   「”秋風にかきなす琴の声にさえ はかなかく人の恋しかるらむ”」
                       (『古今集』巻十二586 壬生忠岑))
    美しい秋の景色に寄せて恋の歌を口ずさむ。
   ──凡そ私には相応しくないと言われるだろうか・・・
   あながちな恋に身を窶(やつ)す私には・・・
 
    自虐的な思いに駆られ、苦笑する。
    周りの人間が思うほどには器用でない斉信であった。だが人は彼を天下の
   プレイボーイのように言い放つ。特にかつての同僚行成などは・・・
 
   ──撫子の君への思い立ちきれず過ごす私なのに、この女郎花の花は何時でも
   優しく迎えてくれる。きっとこんな身勝手な私に呆れていらっしゃることで
   しょう。
 
    琴の響きかと思える秋風の声が、懐かしいあの女の奏でる琴のように聞こ
   えた。
    若さ故に無謀であった斉信を、優しく受け入れてくれた大人の女(ひと)
   女郎花の花の中に、慎ましやかな優しい面影を見つけて思わず胸が詰まる。
 
 
    その時響く麗美な声。
   「・・・聞いておりますわよ。どこぞの美しい女房と本気の恋におちたとか」
    不意に聞こえたその声にドキリとする。
    狙い澄ましたように、楽しそうな笑い声が上がった。
   「あら、顔色がお変わりになった。・・・嘘ですわ・・・
   そんなこと誰からも聞いておりません・・・でも・・・わたくしにはわかり
   ます。たまたまこちらへ花を見に来ただけなのに、こうして貴方様にお会い
   できるわたくしなのですから・・・」
    強気な言葉とは裏腹に、語尾には些か寂しさが漂う。
 
   「いつからいらっしゃったのですか・・・そうやって私を試すところはあの
   日と全く変わらないのですね」
    斉信は、このように秋の野でまたこの女(ひと)に会えたことが嬉しかった。
   ”そのように私はこの方を求めている”のだと、素直な自分を見つけること
   ができて・・・

   「わたくしのことなど、もうお忘れになっていらっしゃると思っておりまし
   たわ」
    澄んだ女性の瞳に意地悪な色が宿る。
   「何を仰います。あなたの方こそ、このように徒(あだ)な心の男のことなど
   少しも名残に思っては下さらないものを・・・」
    そう自嘲気味に語りはするが、その言葉が実際の自分を語るモノでないこ
   とは斉信が一番よく知っていた。”徒な心”であるならこの秋野に来たりは
   しない・・・
 
    そんな斉信の心の底まで知り尽くしたその女は、悪戯っぽい口調でそれに
   応える。
   「あら、そんなことありませんわ・・・
   現にこうして貴方様に会いに来たではありませんか・・・」
   「”逢いに来た”と?・・・。先程は”たまたま、こちらへ花を見に来た”
   のだと仰っいましたが・・・」
   「・・・そうでした?」
    テンポ良い会話が交わされた後、互いを見詰めて屈託のない笑顔になる。
   まるであの日のふたりのように・・・
 
   「そういう意地っ張りなところも昔と少しも変わらない。
   ・・・そして、その煌(きら)めくばかりの美しさも・・・」
    そう、あの日から全く時間が経っていないように美しい女郎花の君。
   「斉信様は誰にでもそう仰るのでしょう?
   そうやって女性が喜ぶ言葉を良くご存じでいらっしゃいます」
   「まさか・・・?! 本気でそのようにお考えではありませんよね?
   この言葉は斉信本心からとお信じ下さい」
    そう言うと、そっと女郎花の君の手を取って唇(くち)づけする。
 
   「相変わらずお優しいのですね・・・」
   「口が上手いと仰りたい?!・・・
   あなたは私の心が、たまにあなたのお側で彷徨(さまよ)っていることをご存
   じ無いでしょう・・・?」
   「あら・・・”たまに”ですのね。寂しいですわ」
    女郎花の君の咎めるような口調さえも愛おしいと思う斉信。

   「あ、いえ・・・どうして私が困るようなことを仰るのでしょうね。
   そう・・・許されることなら、いつでも私の心はあなたの許に・・・」
    その言葉と同時に、斉信の手が女郎花の君を優しく抱き寄せる。
    蘇芳色をうつす直衣がフウワリそよいで、艶めかしくも懐かしい侍従の香
   りが匂い立つと、過去の記憶は瞬く内に斉信をあの日の熱情に駆り立てた。
    愛しい人を抱く腕には、知らず知らずのうちに力が籠もる。
 
   「だめ・・・ダメですわ。嘘は・・・
   貴方様のお心は、今は撫子の君のもとにございますのに」
    斉信の胸でそっと囁く女郎花の君。その声は寂静(じゃくじょう)として、斉
   信を底なしの闇へと引きずり込もうとする誘惑から救おうとしているかのよ
   うであった。
 
   「・・・何故そのように私を遠ざけておしまいになるのです・・・
   結局、私はいつまで経っても大人のあなたに近づけない・・・」
    女郎花の君のたわわな黒髪を愛おしむように掻き撫でながら、その白い首
   筋に唇を寄せる斉信。甘い吐息とともに、女郎花の君の深い歎声が聞こえた
   気
がした。
 
   ”いいえ、今でもわたくしの心は貴方様をお慕い申し上げております”と。
 
    それは、あの日の別れ際に聞いたものと同じ響き。
   『わたくしの心は斉信様だけのもの・・・』
    そう言って次の逢瀬を堅く誓い合ったのに・・・
 
    突然の疫癘(えきれい;流行病)の嵐は、愛するふたりを残酷にも引き裂いた。
    あの深い闇の日からどれだけの日々が過ぎたのか・・・
 
      ”春往き秋来たりて年を記せず
       唯だ深宮に向かって明月を望む”
         〔白居易『白氏文集』巻三”上陽白髪人”より〕
 
   ──こうして私だけが年を重ねていくのですね・・・
 
      ”少(わか)きも亦た苦しみ
       老ゆるも亦た苦しみ”
         〔同上〕
 
    望月の輝きは世々を経て変わらぬものと言うけれど、果たして本当にそう
   なのだろうか? 満ちれば欠け、欠ければまた満ちる無限の繰り返し。だが、
   再び満ちた月が前の月と同じものだとどうして言える?そして同じように、
   また満ち欠けを繰り返すと・・・
    この世の中に永劫に変わらぬものなど存在するのか・・・
 
   無常の世に身を置く斉信にとって、ふたりを隔てる時間は余りに大きかった。
 
    それでも猶これだけは伝えておきたい・・・苦しい胸の内を言葉にする。
   「この場にあなたと一緒にいるときはあなたのことだけを思って・・・」
    斉信はそう言ったきり、言葉に詰まってしまう。
    今をあの日に帰すことが叶うなら、もっともっとこの女を大切にすること
   が出来るのに・・・
    ただ若さに委せて情熱をぶつけるだけではなく、優しさと思いやりを持っ
   て相手をいたわってあげられるのに・・・
 
    女郎花の君の澄んだ眼差しは、そんな斉信の心を見透かすよう。
    大きな瞳を伏せて唇に載せた言葉には切々たる思いが籠もる。
   「本気でお困りになって・・・わたくしだけのために・・・」
    かつては終(つい)ぞ聞いたことのない可愛い我が儘であった。
 
    それを聞く斉信の面に一筋の銀糸が光る。
    玉を結んで女郎花の君の黒髪に零れ落ちる様は、秋風が散らす白露のよう
   に美しい。
   「私の心がいつまでもあなたの許を離れられないのを知って、そのようなこ
   とを・・・」
    斉信の声が涼秋の風に震えた。

   「・・・お泣きにならないで・・・
   そう仰って頂けただけで、わたくしは幸せです。わたくしたちに必要だった
   のは重ねた時間の長さではなく、深さ。 情熱に流されて思いやる気持ちに
   欠けたのはわたくしとて同じこと・・・せめてこの時は、わたくしだけの斉
   信様でいて下さいまし。それ以上には望むことはございません・・・」
 
    自分の胸に頽(くずお)れるその華奢な身体を掻き抱きながら、斉信はあの
   童の言葉を思い出した。
 
   『あなたにとっての真実をひとつ見せてあげる・・・』
    私にとって今も変わらぬ真実とは──
 
    時は無常に流れ去るが、その中で変わずにあるもの・・・
    それは他人(ひと)から見れば、ほんの些細なものかも知れない。
   だが、その大きさは問題ではないのだ。
   大事なのは、それを受け入れる己を持つこと・・・
 
   ──今でもこの女のことを思う気持ちに嘘偽りはない。
 
 
    残酷であると同時に限りなく耽美な時の潮流の中に身を置くふたり。
    秋風の儚い衣を纏ったふたりの思いは、今遙かな時を渡って幽玄の中にあ
   った。
 
 
                   *

 
    気付けばそこは夕暮れ迫る秋の原──
    いつから降り出したのか、細かい秋雨が斉信の直衣を微かに濡らしていた。
    既に琴の風は止み、女郎花の君の姿はない。
 
   ──この雨はあなたが降らせたのですか・・・
    女郎花の花を見詰めながら尽きせぬ思いに独り佇む斉信。
 
       あかずして別るる袖の白玉を 
           君が形見とつつみてぞ行く  
                           〔『古今』巻八400 よみびと知らず〕
 
 
    この世は所詮儚き夢──
    かつて、斉信にそう言った女郎花の君の言葉が蘇る。
 
   ──そうなのかもしれない・・・うつつと見えているものは、すべて仮の姿。
   とうにあなたの歳を追い抜いてしまったというのに、いつまで経ってもあな
   たの方が大人なのですね・・・
    斉信の視線は遙遙の彼方にあった。
 
       寝るが内に見るをのみやは夢と言はむ
           はかなき世をもうつつとは見ず 
                     〔『古今』巻十六 835  壬生忠岑〕
 
 
       ─────**──────*──────**─────

 
    後日の話である──
    童の言った通り”今も変わらぬ真実”をひとつ見せられた斉信は、代わり
   に童の言う”素敵”を一日だけ貸すことになる。

 
 
   「後宮の女房たちが心配しておりましたよ。
   ”その素敵な”お声が、二度と再び聞けなくなったら、泣き暮らすところだ
   ったと。もう、大丈夫なのですか?」
   「何やら急にお声がでなくなったとか・・・大事ございませんでしたか?」
    どこへ顔を出してもそのことばかりを聞かれる。
   既に同じ返事を何度したことか・・・
   「ええ、もうすっかり。ご心配なく」
 
   ──それにしても不思議なことよ・・・
   どんなにしても全く出なかった声が、僅か一日で元に戻るとは。
    左近陣座に坐して、昨日のことをふと考える斉信。
 
   ──やはりあの日の妖しの仕業だったのか・・・
   それとも・・・我が思う故のことか・・・
 
    端整な斉信の面に何時にない憂いが浮かんだ。
    手元の紙屋紙から庭へと視線を移す。
   その目に映るのは色づき始めた庭の錦。だが斉信の心は遙か秋の野にあった。
 
       女郎花秋の野風にうちなびき
           心ひとつを誰によすらむ   
                          〔『古今』巻四 230  (左大臣)藤原時平)
 
    藤原斉信──参議になった初めての秋である。
 
    ここにもまた、一条帝の御代を彩る美しい公達の物語があった。
    夢物語のつづきは、また次のおはなしのなかで・・・

 
 
      人の世はすべて夢のなか──
           夢かうつつか ねてかさめてか・・・
                     〔『古今』巻十三 645 読み人知らず〕 



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