年 | 年齢 | 官 職 (及び 出 来 事) | 行経周辺の出来事 |
長和元年(1012) 三条天皇 治安元年(1021)後一条 2年(1022) |
1歳 10 11 |
父、行成 母、源泰清女として出生 (但し最初の妻の妹) 12/21 元服(加冠は道長二男頼宗) |
3/19長家室(行経同母姉)没13 |
治安3年(1023) |
12 |
正月7 叙爵 2月 侍従 |
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治安4年(1024) (万寿元年) |
13 |
正月 右兵衛佐 4/13 斎院御禊に奉仕 |
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万寿2年(1025) |
14 |
正月26 右近衛少将 3/20 父行成、行経の病を理由に彰子の 上東門第における法華経の読経に 不参入 11/4 春日祭に源経頼宅より出立 右大将実資、行経の許に摺袴を送る 11/6 右少将として春日祭使を務める |
正月16 踏歌の節会における 斉信の失策を扇に書く 8/5 東宮妃嬉子薨去 |
万寿3年(1026) |
15 |
正月 従五位下(中宮御給) 2/7 兼美作権介 2/21 彰子の仏教供養に父行成、行経 の病により不参(「小右記」) 11/19 賀茂臨時祭に一舞を奉仕 |
正月4 公任出家 正月19 彰子落飾 (上東門院の院号宣下) |
4年(1027) |
16 |
正月7日 正五位下(中宮御給) 3/17 妍子所世の三条皇女内親王、東宮 敦良親王の許に参入前の吉日、東 宮より内親王に御使として遣わさ れる(この時の作法が見事であっ た事が「栄花物語」 に見られる) 7/22 相撲節の折に所労のため出居 に候じ難いことを父行成が報じる (「小右記」) |
12/4 父行成薨去 道長薨去 |
5年(1028) (長元元年) |
17 |
五位蔵人 |
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長元2年(1029) |
18 |
従四位下 4/1 孟夏旬に番奏を行う |
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3年(1030) | 19 | 4/12 斎院の御禊に奉仕 | |
4年(1031) |
20 |
3/23 頭中将源隆国と共に相撲の定 を行い、定文は行経が執筆 8/17 祈年穀奉幣の祇園使 12/16 馨子内親王に准三官宣下と 斎院卜定があったが隆国との コンビで前者の勅使は隆国、 後者の勅使は行経が務める |
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5年(1032) | 21 | 兼播磨権介 | |
6年(1033) | 22 | 左少将 | |
7年(1034) | 23 | 正月 従四位上 | |
長元8年(1035) |
24 |
院別当 3/27 上東門院法華八講に天皇の 捧物をもつ 5/16 頼通の高陽院で盛大な歌合が 行われ、右の読師を務める (行経と長家の親昵な関係に注目!) 5/21,22 八幡住吉への奉賽の折に一首 詠じる |
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9年(1036) 後朱雀 |
25 |
正四位下(上東門院御給) |
4/17 後一条天皇崩御29 9月 中宮威子薨去 |
10年(1037) (長暦元年) |
26 |
4/3 御禊のため大膳職に入った斎宮 の供奉人として左中将に代わ って左少将の行経が務める 4/27 兼播磨権守 |
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長暦2年(1038) |
27 |
6月 右近衛権中将 11/12 斎院における御神楽に参入の中 に、良経とともに名がある |
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3年(1039) |
28 |
11/7 頼通、行経宅から高倉第へ帰住 (この時、故中宮ゲン子の女一の宮も共に帰住→頼通と定子出生の敦康親王は極めて親密な間柄であることに注目!) 11/15,16 五節の間に行経が 首となって 能長(道長男、能信の子)・ 経家(公任男、定頼の子)・ 資仲(実資養子、資平の子、 行経ライバル資房弟)らが、童 の乙丸(乙犬丸;三井寺の稚児) を五節所に迎え入れ童女や陪従 を交えて乱交に及ぶ 12月 春宮権亮 (この時の東宮は道長女嬉子出生の親仁 親王、後の後冷泉天皇) (行経の背後に彰子や頼通の強い後援有) |
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長久元年(1040) | 29 | 4/23 斎院の侍所別当に補せられる | |
3年(1042) | 31 | 右中将から左中将 | |
4年(1043) | 32 | 9月 蔵人頭になる | |
寛徳2年(1045) 後冷泉 |
34 |
10月 参議となる(但し中将は解かれる) |
正月 後朱雀天皇崩御 後冷泉天皇の践祚なる |
永承元年(1046) | 35 | 2月 「前坊亮」の労で従三位に | |
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4年(1049) |
38 |
春日御幸の賞で資房、経長、能長 三人をこえて正三位 |
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5年(1050) |
39 |
2月 それまで兼官は備後権守のみ だったのが兵部卿を兼任 10月 上東門院への御幸の院司の賞で 従二位に昇叙 閏10/14 薨去 |