藤原行成 (ふじわらのゆきなり)  (972〜1027)
 
    父、一条摂政藤原伊尹(これただ)の息子義孝(よしたか)。
   母、醍醐源氏・中納言源保光の娘。
   生まれてすぐ伊尹の養子となるも、伊尹はその年の11月に49歳で没。
   父義孝も行成三歳の時に流行病にて21歳で没。
   以後は母と外祖父保光(やすみつ)に(通称)桃園邸にて養育される。
   若い頃はかなり官途に不遇で、出家を考えたこともある。
   源俊賢(みなもとのとしかた)が蔵人頭(くろうどのとう)の後任に
   推挙してくれたことで運が開け出世していく。(この時行成24歳)
   以後、一条天皇の側近として、左大臣藤原道長のブレインとしてその
   辣腕(らつわん)をいかんなく振るうことになる。
   最終官位は、正二位按察使権大納言。
   書の和様を大成した人として有名。(”世のてかき”と呼ばれた)
   平安の三蹟【他の二人は、藤原佐理(すけまさ・さり)・小野道風(とうふう)】
   の一人としてその名を広く知られる。
     
    ちなみに父義孝は、平安期を代表する絶世の美男子として、歌人として
     その名を知られる。また仏教にも深く帰依した。
     一番よく知られている和歌は、百人一首にある以下の歌であろう。

         君がため 惜しからざりし命さへ
               長くもがなと 思ひけるかな
      (今までは、あなたに逢うために惜しいとは思わなかった私の命も、
       逢うことのできた今は、長生きしたいなあとつくづく思うことです)

     義孝には兄挙賢(かたたか)がおり(共に少将)、兄弟そろって美麗で有名。    
     当時の社交界の花形青年貴族であった。
     それでも弟の並はずれた美しさに兄がグレたという逸話も残る。
     (それほどに、行成の父親は眉目秀麗であった)
     その血を引き継ぐ唯一の子供行成は(多分)端正であった・・・と思う。
     (行成の息子、行経(ゆきつね)はまた非常に美麗であったという。
      しかしながら、行成本人に関する容姿の詳細記事は無い)
     行成は公卿日記『権記』を付けており、その日記にも、また他の貴族の公卿日
     記にもその子煩悩ぶりが書かれるほどに、当時の貴族のなかでは一際子煩悩で
     有名だった。(滅茶苦茶忙しい政務にあって、子を七人もなした)
     道長の息子(長家)に娘を12歳で嫁がせるが、翌年病没。
     行成の身も世も有らぬほどの嘆きが『栄華物語』に詳しく書かれており、涙を
     誘う。行成の亡くなった日(1027.12.4)は、奇しくも道長の死んだ日と同年同
     月同日である。