お つ か い   筆 の 巻
 
    
     深い森の中をどーっと進む風。
     季節は、晩春からまさに初夏に向かっていた。
     上空を吹く風はさらに強く、行く雲は次から次へとひとつになっていく。
     雲の合間から見える空は、どこまでも突き抜けるように碧い。
     都から幾らも離れていないのに、ここを訪れる人は滅多にいない。
     なんとなれば、ここは普通の人間は簡単に入ることの出来ないところだから。
     『魔界の森』─異次元空間に開けた森なのだ。
     ここの住民もまた、ただ者ではない。
     でも、ただ者ではない者だって、たまには外界に遊びに行く。
     今日は大事なお遣い。
     父上が筆をご所望だ。
     どんな筆がいいだろう?
     いや、誰の筆にしようかな?
 
           
     「まあ、かわいい女童(こ)。どちらのお邸にお仕え?」
     (見かけに釣られて手を出すと、痛い目にあうよ)
 
     「あら、どちらへ行きたいの?あなた都は未だ不慣れなのね」
     (不慣れ?あんたの生まれるうーんと昔からここに住んでるんだよ)
 
     「仕える邸が決まってないのか?何なら俺の家に来たっていいぞ」
     (誰がだよ!おやじの下心は見え見えだ)
  
      いやになっちゃう!あんた達につき合ってる時間は無いんだ。遅くなるとお目玉だ。
      それより、なかなか決まんないや。
      誰の筆にしよう・・・筆、筆、ふで・ふで・ふえ・・・ふえ・笛?
     違うってば・・・笛のおうちは”魚を見たおうち”じゃないか。
     魚はあとあと。でも、あーんな綺麗なお魚見たこと無いや。
     きっとすっごく美味しいんだよ。
 
      
     ほんのちょっと余所見をした隙だった。
     「いたいっ!」
      (何だよ、痛いじゃないか!僕にぶつかってくるなんてどこ見て歩いてるのさ)
     「あっ、申し訳ない。大丈夫?怪我はない?」
     ぶつかってきた失礼な男は、心配そうに僕の顔を覗き込むと、汗衫(かざみ)の裾を払っ
     てくれる。
     (なにすんだよ、気安く触んなよ!この、とんま)
     自分のことは棚に上げといて、ふくれる。
     (・・・んん、この気配・・・第六感?)
      見れば、なかなにいい男。
     (・・・いいかも。この男の所に行ってみようか)
 
       
     「えーん、えーん、痛いよー」
     「怪我でもしたのかな?どこが痛い?うちの邸で手当をしようか。幸いこの近くだから」
     優しく僕を抱き上げてくれる。
     ふんわり包み込むようにして。
     良い香り。上等の墨の匂いもする。間違いないや、この男にしよう。
     僕好みの澄んだ瞳も気に入った。
 
        
     楽ちん、楽ちん。女の子なんて泣いてさえいりゃ、務まるんだから。
     行きたいとこへは ドアtoドア。
     僕を抱いたまま歩いてくれる。
     たまにはこういういい目もなきゃ。
     スケベおやじの相手ばかりじゃウンザリしちゃう。
 
     一緒にいた連れに、行成と呼ばれたその男の邸に行くことにした。
 
     広い邸だ。庭の手入れも行き届いてる。
     結構上物を見つけたのかも。
 
          
     「この子を見てやってくれないか。怪我をしているようなのだ。
     大丈夫、怖がらなくてもいいから。落ち着いたら家の者に送らせよう」
     行成は、侍女にそう言って僕を託すと、奥に行ってしまった。
     何だかとっても忙しそうな男だ。
     (ふーん、僕を置いて行っちゃうんだ。それならいいさ。後で勝手に探しに行くから)
      後ろ姿を目で追いながら、フフンと鼻をならす。
 
      そこに、残ったのは年嵩の侍女と僕。
      僕の耳には、子供の声も聞こえてるんだけど。北の対にいるのかな。
     「どこが痛いの?冷やせば結構よくなるもんだよ。見せてご覧」
      いい人みたいなおばさんに適当に処置して貰う。
      その間に自慢の耳を使って、情報収集。
     (ふーん、この男ホントに忙しいんだ。それでも、ちゃんと子供の相手もする
     のか。
あんなに嬉しそうな声して。家族を大事にしてるんだな。
     この間行ったとこの男とは大違い)
 
     そうだな、僕もそろそろお仕事しなくちゃ。
     遅くなると家に入れてもらえない。 
     「お腹すいたの・・・」
     「あら、もう仕方ないわねえ。何か有ると思うからちょっと待ってて」
      侍女を行かせて、僕は行成を探す。
      と言っても、水滴(墨を擦るときの水入れ)の中に入ってるだけでいいのだけど。
 
      そうなんだ、あっちの方でさっきの墨と同じ匂いがしたんだよ。
      水さえ有れば、僕の身体は自由自在に変化する。
      僅かな水でも姿を変えて、移動することが出来るのさ。
 
       水滴は、思った通り行成の部屋へ。
      ちょっとここから出る間、あっちを向いててね。
      子供が呼んでる声に立ち上がる行成。
      (本当に子煩悩なんだね)
 
       
      こりゃいいや、素敵素敵!
      茶玉(茶色い猫の毛)を命毛に、白狸の毛を衣に巻いた仮名筆。
      特上品だ!
      軸はシンプルな黒染めの竹。
      このストイックな感じがたまんない。
      墨の匂いもいいし、色だって・・・
      うぁお、これっ!これ、行成が書いたの?
      凄いや、墨の色も紫がかって上品だけど、何て綺麗な手跡なの!!
      父上が見たら喜ぶだろうなあ。
      筆と一緒に貰っちゃおうかな?
 
 
      「あれっ、どうしてここにいるの?
      手当はして貰った?勝手にあちこち歩きまわるのは良くないよ」
       奥から戻って僕を見つけた行成は、ちょっと困った顔をする。
       こういう時はとにかく謝っておこう。
      「ごめんなさい。ちょっとお礼が言いたくて。ちゃんと手当して頂いたことに・・・」
      「そんなことは気にしなくても良いんだよ。もう痛くない?」
      にっこり笑って聞く行成は、童のように澄んだ瞳をしている。
       まるで、この墨の色みたいだ。
      こんな良い筆貰うんだから、うーんと、サービスしなくちゃ。
      まあ、貰うと言っても、ほんとは勝手に持っていくのだけど。
 
      
      いきなり行成の頸の後ろに手を回して、思いっきり抱き付いてあげる。
     赤ちゃんでも抱いてたのかな?乳の甘い匂いがしてる。こういうのもいいや。
     (いっただきまーす)
     耳元から、その白い首筋に沿って口づけした瞬間、
     行成の身体がビクンと反応して、僕をいきなり突き放す。
     (過敏症?それでもこれはひどいじゃないか!僕の面目丸つぶれだよ)
 
      
     「どこでそんなこと覚えたの?!子供がすることじゃないな。いけない子だね」
     幾分戸惑いながら、ちょっときつい口調でたしなめる。
     (こんな反応初めてだ。この間の爺さんなんて泣いて喜んでたのに。
     逝ちゃうんじゃないか
とこっちが心配したくらいさ)
 
     「お礼と言ってもこんな事くらいしか出来ないから・・・怒らないで」
      また泣いて見せた。
     (なんて、健気な僕!こんな事言わせたのあんたくらいじゃない?!)
      困った行成は、もう良いから、と言って許してくれた。
     女の子に化けてて良かった。
     でも斉信とか言う男の時は、男に化けててうまくいったんだけどな。
     人間も色々なんだね。ふーん。
 
 
     筆一本戴きます。 たくさんあるからいいよね。
 
 
      僕が琥珀池に戻って来たときは、お日様が山の端に沈む頃だった。
     この筆を見て、父上は思った通りとても喜ばれた。
     こんなに喜ぶ顔を見たのは久しぶりだ。
     良い物が手に入って良かった。
     こんな逸品を提供してくれてありがとう、行成。
      そう、ちゃんと代価は置いてきたよ。
     僕だって、良くしてくれた人にはそれなりのお礼をするのさ。
 
 
       行成の文机の上には、大きな金色の鯉。
     間違いでなければ、四条宮の池で見かけた公任自慢の一匹。
     間違いで有って欲しいと祈りつつ、その後数日間の触穢の身になったことは
     いうまでもない。
 
 
       僕が食べようと、がめてたんだけど、特別にプレゼントしたんだ。
     気に入ってくれると嬉しいな!!
 
       僕は琥珀池に住む龍神の子。
     この話おもしろかったら、もっと別のとこに行ったときのことも、お話するよ。
     斉信、公任、道長、実資・・・おじさんばっかだけど。
     たまには綺麗な女の人のとこにも行きたいな・・・