下鴨神社(賀茂御祖神社;かもみおやじんじゃ)
ここに着いたときには、夏とはいえ既に日は西に沈もうとしていました。唯でさえ急いでいるというのに、なんと車を糺の森の向こう側に停めた友人。一目散に本殿を目指し、薄暗い森を駆け抜けたことは言うまでも有りません。が無常にも、すんでの所で閉門になってしまいました。(泣)(次回はここから始まるのか?・・・)
 下鴨神社の御祭神は、国宝の東本殿に玉依媛命を、同じく国宝の西本殿に賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を祀ります。賀茂建角身命は神武天皇御東遷のとき、八咫烏(やたがらす)になって天皇を導き、山城国に農耕を広め、正邪を糺した神です。そして、玉依媛命はその娘であり、上賀茂神社の神様の母親。これを見て、不自然に感じた方はいらっしゃらないでしょうか?そう、父親の存在が何処にも見られないのです。ここにあるのは、外祖父と母と子だけ。この関係は何を意味しているでしょう?ずばり、有力氏族が権力を支配するための構図です。葛城氏が襲津彦の代に葛城王朝の隆盛を極めたのも、藤原氏が平安朝で永く権力の座に君臨出来たのも、すべては天皇とのこの身内関係に依ります。藤原不比等が光明子を聖武天皇の皇后に立后させるために先例としたのは、葛城襲津彦の娘−磐之媛−が聖武天皇の皇后に立后したときのものです。藤原氏はどこまでも、武内宿禰を祖とする葛城氏の家柄・血統−血すじ−を継承したかったのでしょう。しかし、そこにある”血すじ”の良さとは、何でしょうか?それは、多くの者を犠牲にして高みを極めたということ。言い換えれば、血塗られた淘汰の歴史の上に君臨する氏族であるということに他なりません。藤原氏が権門として権力を恣にした平安期、葛城氏の血を引く葛野鴨氏の氏神を祀った両カモ神社の待遇が破格であるのは、藤原氏のこうした思惑を背景にしていると考えても、あながち間違ったものとは否定できないと思います。・・・な〜んて陰謀渦巻く裏話を語り出すと、キリがありませんし、旅の記録も堅苦しいものになってしまいますので、ここでは取りあえずこの辺で。

←楼門

平安時代には平安京の守護神として皇室の崇敬を受け、斎王が置かれ、21年ごとに神の住まいの改築をする式年遷宮が行われました。今も厄除け、縁結び、安産祈願の神とし信仰を集め、糺の森を含めて世界遺産に登録されています。(るるぶ)

 交通 ; 京都駅から市バス205系統下鴨神社前下車すぐ
 拝観時間;6〜18時(季節により変動有り)
 拝観料 ; 境内無料
       (大炊殿、御車舎、河合神社拝観は胸痛500円)
 駐車場 ; 100台 有料(時間制だったと思います)

 
 というわけで、やっと下鴨神社まで行き着けました。
既に旅行をした夏の日から、季節は完全に秋へと移り変わり、全然リアルタイムではございませんが・・・忍耐強く完結するのをお持ち下さいましたみなさまの篤きご声援有ればこそ(ホントか?!)此処に完結することが出来ました。最後までお付き合い下さいました貴重な読者さまに心よりお礼申し上げます。m(_ _)m  そして、次からは何気に”旅行記、書きま〜す”なんて間違っても言わないことを誓います。
(矛盾にこだわるへそ曲がりな人間には、気ままな紀行文は向きませんね・・・今更そんなこと言ってどうする(笑))
              

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 上賀茂神社(賀茂別雷神社 かもわけいかづちじんじゃ)
映像が暗いのは、夕方のせいです。上賀茂神社が暗いわけじゃありません。^^ こちらの神社を真剣に語ると、トンデモない深みに填るので、出来るだけあっさりやり過ごそうと思います。
 祭神は賀茂別雷大神です。この神様は、玉依姫が御手洗川(瀬見の小川禊の泉)で川遊びをしていたとき、流れてきた丹塗矢により懐妊して生んだ神様です。最初は、本殿の北北西にある神山にご降臨になっていらっしゃいましたが、天武天皇の御代(678)に現在の本殿に御鎮座になりました。このように神山でお祀りしていた神様を、里に迎えた事を表しているのが御阿礼神事です。御阿礼(みあれ)神事とは、元々は下枝を払って根こそぎにした二本の常緑樹、御蔭木(みあれぎ)に、神を依り憑かせ鴨川まで引いていき、神を川に移した上で、斎宮(いつきのみや)の身を川に浸し神の一夜妻にさせる、ということをあらわしたものです。今も5/12葵祭の前祭として行われ、御神霊をお迎えする神事として引き継がれています。古儀のまま深夜浄闇のなかで宮司以下が神事を行い、千年以上完全非公開の秘密儀式です。                        上賀茂神社は『延喜式』では名神大社に列し、のち山城国一ノ宮として尊崇され明治以後終戦まで官幣大社として伊勢神宮に次ぐ全国神社の筆頭に位置しました。文久三年(1863)の造替の本殿・権殿は東西に並び建ち、共に流れ造の典型として国宝に指定されています。祝詞舎、透廊など42棟の建物はおおむね寛永五年(1628)の再建で重要文化財にしていされています。又、境内全域は平成六年12月17日「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコが制定する人類共有の世界文化遺産に登録されました。
←この奥に国宝の本殿と権殿があります
                               
交通;京阪三条駅から市バス46系統、上賀茂神社下車すぐ または
   京都駅前から市バス9系統、上賀茂御薗橋下車、徒歩5分      拝観時間 ; 境内自由                          (但し桜門より内部は8〜16時、11〜3月は8時30分〜)
 拝観料 ; 境内無料                     
 駐車場 ; 有り(120台)                        確か・・・30分か一時間は無料(どちらだったかな〜)

←楼門                             本殿、権殿の前に建つ朱塗りの門と、御物忌川(おものいがわ)に架かる重要文化財 の玉橋

砂の上には松が立ててあり、向かって左が雄松、右が雌松。左が葉が三本の松、右が二本の松。葉が二本のはどこにでもある松ですが、三本の松は非常に珍しい松だそうです。この立砂も御蔭木も二つで”陰・陽”を表しています。ちなみに丹塗矢と鳥居などの丹色は魔除けを意味する色です。
←細殿と立砂
(月に二度ほど作り直され、ひとつ作るのに2時間掛かるそうです)

映像は無いのですが、境内にある渉渓園は4月に曲水の宴が催される、大変素敵なお庭です。有名な次の歌はここを流れる奈良の小川を詠んだものです。
 風そよぐ奈良の小川の夕暮れは みそぎぞ夏のしるしなりける 
                           家隆 
この辺りにならの木があったことから奈良の小川と呼ばれたそうです。

またまた、映像が無いのですが、ちょっと不思議なお話を。      境内摂社の沢田社(賀茂山口神社)の東に「二葉姫稲荷神社」というのがあります。この下に”晴池”と呼ばれた大きな池が有ったようです。この池の石を出してきて鍬(くわ)で叩くと雨が止み、近くの大田神社の”雨石”を叩くと雨が降ると言われていました。その後、池は埋められてしまったので、ここの竜神さんのためにこの上に社を建て、八嶋(やしま)竜神さんという名前でお祀りしているということです。
この場所は昼なお暗いところなのに、女一人で夕暮れのなか訪ねた自分ってかな〜り強者かも・・・
(ッテ言うか、馬鹿でしょう・・・案の定、宿へ帰ってきてから、不思議現象を体験することになります。怪奇現象の夜は、ここで拾ってきた何かなのか〜〜・・・未だに真相は闇のなかです。(冷汗))

 晴明神社
 
こちらは特に引くことも足すことも必要ないですね。^^
みなさま十分ご存じの”あの”晴明神社です。
京都駅から市バス9系統、一条戻り橋下車。徒歩一分。      拝観時間 9〜18時
拝観料無(当然)、駐車場無し。               車で来た場合は、各自考えて停めましょう。^^;;

 
 ここで「御紋菓」なる、お菓子のちらしを見かけたのですが、神社近くの老舗のお菓子屋さんでのみの限定販売です。”薄く延ばした、もなか種にさくら、黒豆、抹茶の三種類のあんをサンドした銘菓”とうたってあり、次回は是非食べてみようと思います。美味しそう・・・
←名古曾の滝址の碑と公任の和歌が書かれた立て札

滝壺の石組み?
      →  
 
 大覚寺
大覚寺の正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といいます。門跡寺院とは、天皇または皇族が住職に就かれた寺院のことで大覚寺は遠く平安の昔、嵯峨天皇の離宮として建立され、当時の嵯峨院と呼ばれ、弘法大師も幾度も立ち寄られました。その後、嵯峨天皇の皇女正子内親王が清和天皇に上奏して仏寺に改め、嵯峨天皇の孫にあたる恒寂法親王が初代の住職に就かれました。南北朝時代には南朝の御所となり、ここで争いに終止符を打つ講和会議が開かれました。

 
交通 ;  市・京都バス大覚寺下車すぐ。
 拝観時間; 9〜16:30(写経受付は15:30まで)
 拝観料 ; 500円 
 駐車場 ; 有り(たとえ拝観しても料金を取られます^^;)
 (心経写経の根本道場だけあって、こちらの御朱印は結構お奨め
  晴明神社の次ぎに行った上賀茂神社が酷すぎたのか・・・)

                      

←大沢の池
境内の東に位置し、嵯峨天皇の離宮・嵯峨院の庭池で周囲約一キロの日本最古の庭苑池です。中国の「洞庭湖」を模して造られたところから庭湖とも呼ばれ、池には天神島、菊ヶ島と庭湖石があり、この二島一石の配置は華道嵯峨御流の基本形に通じています。池の畔には茶室望雲亭、心経宝塔、石仏、名古曾の滝址があり、国指定の名勝地になっています。
嘗ての嵯峨院はこの池の北側にあったと考えられていますが、今は存在せず、この池のみが残っています。

 ひともとと思ひし菊を大沢の 池の底にも誰か植ゑけむ 友則




←↓ 名古曾の滝址
この池の北50メートルのところに「名古曾の滝址」の碑がありますが、滝らしきものは見当たりません。

滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ 
                           公任
 近世の歌人、烏丸光広も滝跡を訪ねた一人で
あだなれや絶えてひさしき滝つ瀬と 詠(なが)めし人も名こそ聞ゆれ   
という歌を残しています。
公任の風雅の心を思いながら滝跡を訪れると一層風情があるでしょう

   野の宮神社
 こちらは『源氏物語』”賢木の巻”に出てくる、野の宮神社の黒木の鳥居です。黒木の鳥居とは、木の皮を剥がずに原木のままで作った鳥居です。とにかく若い女の子たちや、カップルが多いですね。(老いも若きも^^;)末社の野宮大黒天が縁結びの神様として有名だからでしょうか?でも、源氏と六条の御息所との恋は破局に終わったのですけどね〜。

ちなみに、ちっちゃい神社なので駐車場無しの拝観料無しです。バスなら京都駅前から市バス28系統、京都バス71系統で野々宮下車。徒歩5分

 大方に秋の別れは悲しきを 鳴く音な添えそ野辺の鈴虫
←霊亀の滝
 
 
ややこしや〜、なので余り語りたくない話なのですが、少しだけ。
松尾大社は洛西で一番由緒ある神社です。延暦7年(788)に始まった名神(みょうじん)奉幣の16社のうちの一社でした。
『古事記』(和銅5年(712))に「大山咋神またの名は山末大主神,此神は近淡海国の日枝(ひえ)山に坐し、また葛野の松尾に坐す鳴鏑(なりかぶら)を用ふる神なり」とあります。”鳴鏑”とは矢の一種で飛ぶ時に風を切って音を出すようにしてあるものです。此が何を意味しているかというと、秦氏が愛宕(おたぎ)郡の鴨氏の神話を既に統合していることを示しています。鴨氏は「丹塗矢」神話をもっており、鴨氏から婿を取っていた秦氏はそれによって松尾の神の神話をつくったのです。『古事記』以前からあった「秦氏本系帳」に載る話では「丹塗矢」は松尾大明神となっています。そんなことから松尾大社は賀茂神社のお父さんを祀っていると言われたりするわけですが、実際はそう簡単な問題では無いでしょう。
いずれにしても、秦氏と賀茂氏は密接な関係がある事は明らかです。平安時代には「西の猛霊」として、東の賀茂の「厳神」と並び称され神階は正一位、勲一等、序列は伊勢・石清水・賀茂についで第四位となっています。(因みに松尾大社の例祭も、嘗ては葵祭と言っていました。賀茂神社と松尾大社、日吉大社の例祭が同時に行われていたと言うことです)
      【チェックポイント】
交通  ;京都駅から地下鉄烏丸線四条下車、阪急京都線
     梅田行き乗り換え→阪急松尾駅下車、徒歩2分
拝観時間; 9〜16時
     (日・祝日は16時30分)
拝観料 ; 境内無料
     (但し、宝物館・松風苑共通拝観料500円)
駐車場 ; 有り70台 無料
      何カ所か有り(少なくとも2カ所は有る)

個人的に各種の庭と”霊亀の滝”はお奨め。^^
   松尾大社
 京都最古の神社。太古この地方に住んでいた住民が松尾山の神霊を祀ったのが起源。
渡来人の秦氏がこの地に移住した際、松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、大宝元年(701)に山麓の現在地に社殿を造営した。
平安時代皇族の崇敬は極めて厚く、正一位の神階を受ける。
賀茂両社と並んで皇城鎮護の社とされる。
 社殿背後の松尾山を含む12万坪が境内。松尾山は別雷山とも称し、七谷に別れている。社務所の裏の渓流を御手洗川と称し、四時涸れることのない霊亀の滝がかかっている。滝の近くに亀の井という霊泉があり、酒造家はこの水を酒の元水として造り水に混和して用い、また延命長寿、よみがえりの水としても有名。この渓谷の北にある谷が大杉谷といわれ、その頂上近くに巨大な岩石がある。これが古代の磐座(いわくら)で、社殿祭祀以前に松尾の神を祀っていたところである。
         (以上松尾大社のパンフレットより)

     忘れかけた旅の記憶  松尾大社・野の宮神社・大覚寺・晴明神社・上賀茂神社