水 中 の 月   樊 籠 鳥(はんろうのとり)篇                              
身体を合わせるのは、子を成す為であろうか?
子を成して、一族の繁栄を継続していく為? 
 一般的には、そういう理由も成り立つだろう。
 然し、其れは己が鬱し世(うつしよ;この俗世)に留まってこその話。
俗世にあって、子孫の後見をするので無ければ、子を残すことなど無意味だ。
却ってその行為の結果は、罪穢となるだけ。
 出家を志す自分にとっては、これ以上の罪を作ることなど以ての外。
其れでなくとも、十分に罪を積んでいるのに・・・
 
 ならば、子を成すことを心配しないで済む交わりは、まだしもマシな方だと

言うべきなのか。
(これがマシだって・・・) 
 そう反駁する自分が居ることは分かり切っていた。  
 
 切っ掛けは些細なことから。
ほんの一時でも全て忘れられるならばと、選んだ選択。
辛い選択も、行為と引き替えに忘我の境地が得られるならばそれで良かった。
 だが、現実はどんな行為も、罪悪感と背徳者の謗りを以て成信を責め苛んだ。
 自分の身を全て相手に明け渡しても、到底心まで移すことは出来無かったから。
其れがまた、余計に相手のプライドを刺激して、執拗な追求を受けることになる。
 言葉によって貶(おとし)めることで従わせようとする者もいれば、酷い仕打ちを
強制することで征服心を満足させる者もいた。
 その何れの場合でも、成信の気持ちが傾くことは無かったが、繰り返される行為に
気持ちとは関係なくますます敏感になっていく身体をどうすることも出来なかった。
 男の身であるのにこのように弄(もてあそ)ばれて、意志とは無関係に反応する自
分が堪らなく惨めであった。
 
 ならばこのような、穢行を全て清算してしまえば良いのであろうが、穢れた己が帰
るべき処など何処にも無いのだと痛感するにつけ、激しい虚無感に襲われて結局は手
近なものにすがりつくより他無かった。
 いつも同じ事の繰り返しだ。
 穢土を離れて、早く楽になりたかった。
 この身さえ無ければ、少なくともこのような穢行だけは繰り返さずに済む。
 その先は、衆合(しゅうごう)地獄に堕ちるのだろうか・・・
 身体は疲れているのに、頭だけが妙に冴えわたって、闇の中に凄まじい地獄の様相
を浮かび上がらせる。
 眠らなければと思えば思うほどに、胸が悪くなるような光景が迫る。
 このまま朝まで、己の罪業と向き合って過ごさなければならないのだろうか。
 
 行成がよく話してくれるように、称名念仏の道によってどんな人間も浄土に迎えて
貰えるのだというようなことは、およそ自分には信じ難いことだった。
行成だって、こんな自分の姿を知ったら仏心を語る事など無意味だと思うはず。
 神仏とはおよそ縁遠い処にいる自分が、出家願望を持つことは滑稽だった。
だが、こんな自分だからこそ、尚のこと俗世を離れて生きていく必要がある。
 行成は何と言うだろう?
 そのような、邪径のために出家の道を選ぶことを、許してくれはしないだろう。
 
 行成なら・・・行成・・・行成・・・
 この場に一番似つかわしくない人の名。
 そのリフレインが気怠い疲労に、眠りの波動を引き起こす。
 ・・・やっと眠りにつけるのか。
 
 その安らぎも長くは続かなかった。
 強い力でいきなり肩を引き寄せられて、現実の世界に引き戻される。
 眠れたのだろうか・・・
 部屋の中には、仄かに白い暁の光が差していた。
 それを見れば、いくらかは眠ることが出来たのだろう。
 
「何を考えていた」 
 突然の質問と共に伸びてきたその腕によって、身をしっかりと捕らえられる。
 そんなことをしなくとも、到底抗うことなど許されない己であるのに。
 最初から抗う意志が有るのなら、こんなところにじっしてなどいないのだ。
 
 貪るような口づけにもされるがままに身を露(さら)す。
 こんなことは珍しいことでもなかった。
 闇の中で求められ、また暁の光の中でも求められる。
相手の激しい情欲の波は、止まるところを知らないのだろうか。
酷い嫌悪感を抱きながらも、意志とは無関係に働く鋭敏な感覚は、相手を一層喜ばせ
ることになる。
 ただ触れられるだけで、鳥肌が立つほど敏感になっている自分の身体も、相手の容
赦ない責めも、吐き気するほど嫌だった。
 だが、そのどれも無感情な諦めの境地で、受け入れる。
 たとえ、押し殺すことに堪えきれず、苦しい息の間から思わず声が漏れたとしても。
 その後は、淫らな言葉に苛(せ)められて、自尊心も羞恥心も奪われていくのだが。
 
 ひたすらに、恍惚の時の中に埋没していくことだけを頼みにしながら堪えていた。
 罪悪感と身を貶(おとし)められる悔しさに、思わず血が滲むほど唇を噛む。
 それでもこんな逢瀬を断ち切れないのは、偏に己の心の弱さから。
 
 そんな心でも貴方は綺麗だと言ってくれるのだろうか・・・
 己の内で、先程の質問をぼんやり繰り返す。
『何を考えていた』・・・そんなこと言える訳がない・・・
 
 
 晩冬の夕方の日差が、南庭に長い影をおとしていた。
 長保二年も押し迫った旧暦師走(十二月)の内裏。
 この一年も慌ただしい時間の流れの内に、過ぎ去ろうとしていた。
 皇后定子が崩御されたのも、つい先頃のことである。
同じようにみえる日々の内裏の中にあっても、確実に一つの時代が幕を閉じていった。
人の世とは斯くも儚いものであるかとは、誰の胸にも去来するものであったろう。
 
 痛みに苛まれる身体を押して、平静を装い出仕する成信。
裾を捌くのも煩わしいほど、鉛のように身体が重い。
 こんな日に出仕しなければならないことが苦痛だった。
 何より、行成に会うのではないかと思うと気が重い。
だがそういうときに限って、どういう訳か会う羽目になる。
 
「成信」
 先を行く成信の耳に聞こえてきたのは、確かに行成の声。
 宣仁門を通り過ぎざま、後ろの方から声を掛けられた。
かち合わないよう、それを見越して随分早く出仕したというのに・・・
 
(よりによってこんな日に・・・どうしてこんなに間が悪いのだろう)
 聞こえなかったふりをして、行ってしまおうと決め込んだその時、足取りも軽やか
に追いつかれてしまう。
「成信、飯室にまた・・・どうした、顔色が良くないようだが」
 そう言うと、心配そうに成信の顔を覗き込む行成。
 澄んだ瞳が優しい色を宿していた。
 
(お願いだからそんな優しい目で見ないで・・・これ以上・・・)
 黙して一向に答えようとしない成信の肩に、行成の手が伸びる。
 まさに手が肩に触れる直前、条件反射のように思わず左手でその手を振り払ってし
まった。鈍い音が空気を揺らす。
「何でもない。構わないで頂きたい・・・」
 自分でもびっくりするようなきつい口調で言い放つ。
 
 まるで茶番だ。
 思う人の心遣いは無碍にはね除け、望まぬ者の汚れた行為は受け入れる。
 本当は誰よりも、貴方に・・・
 
 行成の顔を見ることも出来ぬまま、足早にその場を立ち去る。
 その日はずっと、五蘊盛苦で過ぎていった。
 
 それから二日ばかり経った午後、使いの者が届けた文は行成からのものだった。
 成房を訪ねに共に飯室に行かぬか、という内容である。
 苦しい胸のうちに過ぎたこの二日、行成にはあの日のことを謝らなければならない。
 ちょうど良い機会と言うべきなのだろうか・・・
 それにしても、何と切り出せば良いのか。
 
 
 眉よりも細い月が天空に懸かっている。
 牛車は、比叡の飯室に向かって進んでいた。
 車中のふたりの間に言葉は無くとも、互いを解っているはずだった。
少なくとも、行成はそう思っていた。
 先日の件も、成信の少ない言葉の内に、行成なりに諒解したところだ。
 その理解は、およそ成信の意図するところとは異なっていたのだが。
 
 揺れる簾に目を遣りながら、行成が穏やかに口を開く。
「仏道に、”滴水滴凍”という教えがあるけれども、世路にあってはそれはなかなか
にままならないことだね。凡そ清廉高潔とはかけ離れた、俗情深き己に日々煩悩する
ばかりだ・・・」
 多分、相手に同意を求めているであろうその言葉も、成信にとっては心の逍遙を教
える賢人の説話のようで、胸には響いてこなかった。
 
「成信?・・・」
 上の空で聞いている成信に、訝しげに呼びかける行成。
 その声は、成信の反応の悪さを責めているわけではないけれど、成信には心苦しか
った。
「どうした?具合でも悪いのか? このところあまり顔色が良くないようだが・・・
わたしに何か出来ることは無いか? 少しでも楽になるなら話してはくれないか」
 その言葉を聞いて、思わず心臓が飛び出しそうになる。
 
(一体何を話せと・・・何がわかっているというのか・・・)
 たとえ懇願されたとしても、自身の気持ちを話せる筈など有りはしない。
 ただ力無く”ああ解った”と、言うしか無かった。
 
 
 弱々しい月明かりの中を行く牛車の運びは、心地よい微睡みの世界へと人を導く。
 先程まで、成信に世路難を語っていた行成も何時しか静かな寝息を立てて、夢の世
界に安らいでいた。
 
(行成・・・眠ってしまったのか)
 内裏では常に気を張り相手に対して滅多に心を許さぬ漢(おとこ)も、友のまえで
は童のように無防備であった。
 成信にとってこのひとときは、自分だけの行成を独占できる貴重な時間。
 どんなにじっと見詰めていても、今の行成なら問いつめられる心配もなかった。
その安らかな寝顔が成信の視線を惹き付けて放さない。
 
 どうしてこの漢はいつも他人(ひと)のことばかり気に懸けているのだろうか。
 他人の身体の心配をするより前に、自分の身体をもっと愛しむべきであろう。
このところ、政務以外の所用も立て込んでそれでなくても忙しいこの漢の身を一層忙
しくさせている。
 ”忙しいくらいが丁度良いのですよ”と誰かに語っていたらしいが、もう少し考え
てもよさそうなものだ。
 自分のことで手一杯の筈なのに、わたしのことなど何故構ってくるのか。
 取り留めなくそんな思いが行き過ぎる。
 
 肝心な己の本心には触れぬようにして・・・
 手を伸ばせばすぐそこに愛しい人がいた。
 だが、ほんの少し触れただけで儚い思いは虚しく砕けてしまいそうだ。
 触れてはいけない。 触れては・・・
 
 その思いとは裏腹に、身体の奥から突き上げるような思いが成信を誘惑する。
(どうしてこんな無防備な姿を露すのか・・・)
 行成のそばにいられるのは幸せであったが、苦痛でもあった
 己の浅ましさを突き付けられて、試されている自分を感ぜずにはいられない。
 今まで何度も凌いできたこの気持ち。
 何とかうまく隠しおおしてきた自分の心。
 だがもう限界だった。
 
 自分に与えられる苦痛の全てと引き替えにしても良い。
 どんな苦痛も甘んじて受けるから・・・
 地獄の責苦も厭わないから・・・
 み仏よ、どうか今暫く行成の目を覚まさせないで。
 唇が貴方の肌にほんの一瞬触れるまで。
 
 
 
 長保三年(1001) 旧暦如月(二月)四日
  権右中将源成信、左少将藤原重家 三井寺にて出家
夜空には上弦を過ぎた月が輝いていた。
 
  あの飯室の夜もこんなに明るかったならば、
  わたしは成信の心がもっと解ってやれたのだろうか?
  そう月に問う行成の姿があった。
 
 
     わが恋は ゆくへも知らず はてもなし
              逢ふを限りと おもふばかりぞ
                  凡河内彌躬恒 (古今集)
 
 
     鳥出樊籠翅不傷 ; 鳥は樊籠出でて翅(つばさ)し傷(やぶ)らず
     青山碧海任低昂 ; 青山碧海 任(ほしきまま)に低昂せり
            (菅家文草巻第四 二五六 『遊覧偶吟』より)
 

          
          樊籠  ; 鳥かご  
        滴水滴凍; 心に生まれた妄想をいつまでもくすぶらせることなく
             その都度解決せよと言う意味
       五蘊盛苦; 五体といわれるこの身体から盛んに苦しみが湧いて
            くる「苦」のこと