牡 丹 の 精
 
  左府(道長)と帝の間を取り持っている蔵人の頭行成は、今日も朝早くから、帝への
  奏上の為に清涼殿へ参内していた。
  この後は、また左府へ赴(おもむ)かねばならない。
  左府からの急な用件と言うので、夜中に馬を飛ばして一条の道長邸へ行ってみれば
  またしても内覧返上の話だった。
  今まで何度も繰り返されてきた事。
  その度に肉体的にも精神的にも遣い回されるのは、この自分だ。
  蔵人の頭としての職務でもあるし、また
  邪霊の為せる業なら、仕様の無いこと。
  そう思ってはみても、政務で手一杯のこの忙しい時に、毎度毎度の下らない思いつき
  で呼出されてはたまらない。
  帝のお伝えを持っていっても、またいつもの様に、激昂されるのは目に見えている。
  あたり散らかされるのは自分。
  それはもう慣れっこだったからどうと言うこともなかったが、その間にも自分のなすべき
  大事な政務が遅れていくのかと思うと、気が重かった。
  面倒ないつもの”儀式”を早く片づけようと、急ぎ裾(きょ)を翻しながら歩くのであるが
  体が思うように言うことをきかない。
 
  ─風邪でも引いたか。
 
  足下が少しふらつく、熱もあるようだ。
  このところの激務のせいもあったが、体調を些(いささ)か壊しているところへもってきて
  無理をしたのだから、仕方ないことだ。
  柄にもなく、感情的なことをした。
  行成の瞳に優しい色が浮かぶ。
  ─不思議なことであった。
 
  それは昨日のことだ。
  宿直(とのい)(宮中の夜勤)から戻って、三条の屋敷で仮眠を取った後、久しぶりに
  徒歩(かち)で通りに出たのだった。
  内裏中での諸処の事務方への指示、それに伴う筆録、奏上、帝と左府、院(東三条院;
  一条帝の国母、道長の姉詮子)と左府、帝と院との往復で忙殺される毎日が続いていた。
  珍しく一人の時間が取れたこの日、気分転換も兼ねて三条大路から東洞院大路を北
  へと歩いてみた。
  いつもは、殆ど馬か牛車に乗っての移動なので、普段気にも掛けない僅かな季節の
  変化が感じ取られて新鮮だ。
  半時ほど歩くと、自邸から幾らも離れていない場所であるはずなのに見慣れない屋敷
  の前に出た。
 
  ─はて、この様な屋敷が我が近くに有ったか?
 
  そこは、二条大路と大炊御門大路の間にある屋敷であった。
  このあたりは有力貴族の豪奢な屋敷が多い。その中で珍しく門の荒れた屋敷である。
  不思議に思って、壊れた門の間から少しばかり中を覗き込むと、屋敷の侍女が庭の
  大きな松の木の上に向かって、何やら声を掛けていた。
  そこには、六、七歳の男の子が座っている。
 
  ─さては、悪戯でもして若い侍女を困らせているのだな。
  そう思った行成ではあったが、如何(いか)にも危ないので放っておくことも出来ず、余計
  なお世話と知りつつも中に入って行った。
  庭は外からちらっと見た感じほど、荒れてはいない。
  微かだが甘い香りもする。
  見れば白い牡丹の花が、そう大きくもない池の周りにぎっしり植えられている。
 
  ─あれは、亡き母上がお好きだった月宮殿。
 
  白い牡丹は、寂れた屋敷には不釣り合いなほど、美しく咲き乱れていた。
  初めは行成の訪問に気付かない二人であったが、さすがに松の木近くまで来ると
  屋敷の者ではない姿に驚き、緊張の面もちを見せる。
  彼らに警戒の色を感じ、突然侵入した無礼を詫びながら、子供を松の木から降ろす
  手助けをしましょうかと申し出る。
  すると以外にも、二人から同時に笑い声が上がった。
  「危険なのはどっち?」
  男の子が利発に問う。
  一瞬何を言っているのか解らない行成であったが、これが白居易と鳥彙道林(ちょうか
  どうりん)和尚の話を意味していることが解る。
  《鳥彙道林和尚が、木の上で座禅をする自分より、左遷、失脚、裏切り、寝返り、犠牲
  の有る貴方の世界の方がもっと危険なのだ、と教えるもの》
  それならと、行成も相手の期待に違わぬ返事をする。
  「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)こういう事でしょうか」
  《”諸悪はなすなかれ、衆善は奉行せよ”、上の話の後で和尚が白居易の求めに応じて
   答える仏法の大意》
  
  言うは易いが、実行は困難な教理である。
  悟りの境地というべきか。
  今の自分には、”己の心”に正面切って立ち向かうそんな余裕はなかった。
 
  その時気付く。この忙しさにかまけて、己が一番守らねばならぬと心がけていた
  信条を忘れていたことを。
  こういう政(まつりごと)の世界にいると、とかく大勢に流されてしまう。
  ましてや、世は”一の人”道長の時代であり、自分はたかが一介の官吏に過ぎない。
  このところの忙しさのため、いや慣れにかまけて、自分を殺して如何に巧く立ち回る
  ことだけ考えていたかを。
  そう思った途端、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
  月宮殿の花の香りも、懐かしさ故、心地良さよりも一層行成を責めさいなむもの
  に変わっていった。
  その時、俄に空が暗くなり、先程までの青空が嘘のように黒雲で覆われていく。
  みるみるうちに大粒の雨が、ザーッと空からこぼれ落ちてきた。
  ふと見上げれば、先ほどの童も侍女もそこには居ない。
  取りあえず雨を避けるため、母屋の廂(ひさし)の下まで、一気に駈ける。
  それでも、かなり濡れてしまった。
  ”余計なお世話をするから、こんな事になるのさ”と、もう一人の自分の声がする。
 
  ─暫くここで待つしかないな。
 
  こんなところで、いったい何をしているのだろう。
  屋敷の家人に見られたら不味(まず)いな、まるで不審者だ。
  騒ぎになる前に、抜け出したいのだが、そんな行成の心も知らず、雨は無情にも
  激しさを増す。
  頼みは先ほどの侍女。
  なんとか助け船を出してはくれまいか。
  そんな思いでいると、奧から若い女の声がした。
  「そのようなところにいらっしゃらないで、遠慮せずに中へお上がり下さいませ」
  声の主に言いつけられて来たのであろう、いつ現れたものか年嵩(としかさ)の侍女が
  こちらへと、手を差し招く。
  安堵の思いと、声の清らかさに惹かれ、見えぬ姿を求めて傍(かたわ)らの階(きざはし)
  を上る。
  御簾(みす)の中から聞こえるのは先ほどと同じ女(ひと)のもの。
  「濡れておいでではないでしょうか?」
  張りのある美しい声。
  仄かに匂う甘い香り。
 
  ─この匂いはそこから・・・
  だがしかし、懐かしい思いのする先程来の匂いは、徐々に薄く大気に溶け込んで、捕ら
  えることが難しくなっていた。
  ─ああ、この匂い、今捕らえておかなければ消えてしまう。今でなければ・・・
 
  そう思った瞬間、体が御簾の前へと進んでいた。
  いつもは、冷静に判断してから行動する行成であったが、この時ばかりは急く気持ち
  が先で、思わず御簾に手を掛けてしまう。
  「いけませぬ」
  侍女の制止の声も、今の彼には届かない。
  自分でも驚くほどの素早さで、御簾を捲(めく)って、体を中へと滑り込ませた。
  「姫さま、中へ」そう言う声も聞こえたが、匂いの君はまだそこにいた。
  「この様な非礼お許し下さい」
  その場に跪(ひざまづ)いて、詫びの気持ちを形で現す。
  逃げて行かないように、手を取りたい気持ちを必死で押さえながら。
 
  見上げれば、白い牡丹重ねの袿(うちき)の上にたわわに広がる黒髪の女(ひと)。
  袖で口元を隠したその女(ひと)は、大きく澄んだ瞳でこちらを見ていた。
 
  ─何か言わなければ。 だが、なんと言う。
  少し落ち着いた途端、頭の中で非礼の口実が駆け巡る。
  ─あの匂い。匂いのせいなのだ。
 
  今も仄かに香る懐かしい匂い。
  これら全ての行動を、匂いのせいにするつもりか?
  やましい気持ちなど無かった、と言うつもりか?
  もう一人の己の声に、耳を閉ざして押し黙る。
  言葉に詰まる行成よりも先に、相手が優しく声を掛けた。
  「いつもその様に黙っておしまいなのですか?」
  降ろした袖から、笑顔がこぼれる。
  その笑顔をよく見れば、先ほど庭で見かけた女(ひと)のようだ。
  妖艶な姿に似合わず、純真な童のような笑顔。
  却(かえ)ってそれが心を惹き付ける。
  思わず、見とれる己がいた。
  そんな行成には構わず微笑む牡丹の君。
  「あら、やはり濡れておいででしたのね」
  そっと行成の衣に触れるその手は、透き通るように白い。
  「このままでは、体が冷えてしまいますわ。お着替えにならないと・・・」
  なんと返事をしたのであろうか、その女(ひと)が狩衣のとんぼ(掛緒)に手を掛け
  ると、思う間もなく肩から滑り落ちる二藍(ふたあゐ)の衣。
  牡丹の君は、行成の頬にそっと手をやって囁く。
  「冷たいこと」
  それまで君のされるがままに、立ち尽くしていた行成であったが、その手の温もり
  に、ふっと我に返った。
 
  ─今、この手を捕まえておかなければ、どこかへ行ってしまわれる・・・
  愛しい思いが募る。唯それだけで、慌てて君の手を取り、引き寄せる。
  ─この匂い。この匂いに酔ったのだ。
 
  引き寄せた体を、そっと抱きしめてそう思う。
  北の方以外の女性経験が無いわけでもないはずなのに、この女(ひと)を抱く己の
  気持ちは常ならぬものがあった。
  先ほどまで側近くに控えていた侍女たちは、いつしか姿を消している。
  そこには二人の空間があるばかり。
  「お許し下さい」
  掌(てのひら)で頬を挟むようにして、優しく唇(くち)づけする。
  壊れ物でも扱うように。
  そういう行成の気持ちを察してか、その女(ひと)は抗(あらが)うこともせず、
  萌黄の単にその身をすべて委ねてきた。
  豊かな黒髪を掻き上げて、首筋から肩へとゆっくり唇づけしていく。
  いつしか、床に広がる牡丹の袿。
 
  ─初めて会った女(ひと)なのに、こんなにも愛しい思いが募るのは何故?
  この女(ひと)も自分と同じような時間(とき)を過ごしてきたのだろうか?
  それとも過去の何処かで、同じ時間(とき)を共有していたのか?
 
  まるで、己の体の一部のように素直に応えてくれるその女(ひと)に、かつて無い
  一体感を感じながら、行成の心の中は複雑であった。
  この匂いの記憶を探すためだけに、この女(ひと)を抱いているのではないだろうか?
  自分の勝手な都合のために・・・
  だが、そう考えたところで、今の自分を止めることは出来なかった。
 
  二人が分かち合う時が、完全に外界の音を遮断する。
  この空間の中では、時は時間軸に向かって流れていた。
  未来から現在、現在から過去へ。
  始まりに向かって収束していく時間(とき)。
  記憶の中に、懐かしい匂いを探すための時間旅行。
  遡(さかのぼ)る時間の中に見えてくるのは、美しい思い出、それとも残酷な真実?
  ああ、あれは、幼い日の桃園第。
  この匂いはそこで・・・
 
  萌黄の単に顔を埋めていた牡丹の君が、突然思い詰めたように小さな声で呟く。
  「どうか、わたくしのすべてを・・・行成さま。
  この日が来るのを、ずっとお待ち申し上げておりました。お優しいそのお心はす
  べて存じております」
  意外な言葉に驚いて体を離す。
 
  ─今なんと? なぜこの女(ひと)は、私の名を知っている・・・
  記憶の中に垣間見た、桃園の邸(やしき)と関係あるのか?
 
  そんな思いで、牡丹の君の顔を見つめたとき、その大きな瞳からは銀の珠が
  零(こぼ)れていた。
  「どうして、わたくしの名をご存じなのですか。お泣きになるわけは、わたくしに
  あるのですね・・・」
 
  ─ああ、いったい自分に何が出来る?この儚い女(ひと)をこれ以上悲しませたく
  ないのに。
  儚い・・・
  あの日の花のように・・・
  あの日の・・・鮮明な映像が甦る。
  無惨にも庭に落ちた、白い牡丹の花。
  昨日まで、あんなに鮮やかに咲いて、皆を喜ばせてくれたのに。
  何物の仕業であろう。一夜ですべての牡丹の花を落としたのは。
  ただの嫌がらせなのか?
  それとも、もっと一条に深い恨みを持つ者の仕業か?
  お泣きになる母上を、どうして差し上げることも出来ず、ただ黙ってその髪を撫
  でているだけだった。
  まさかこの女(ひと)があの時の・・・牡丹の花だと・・・
  ここまで出掛かった言葉を飲み込む。
  この女(ひと)が例え何であったとしても、もうそんなことはどうでも良かった。
  己の目の前で、はらはらと銀の雫を落とすその女(ひと)を、しっかりと抱き留めて
  おきたかった。
  今度こそは、守って差し上げたかった。
  知らず、牡丹の君を抱く腕に力が籠もる。
 
  いつから其処にあったのだろう。それとも、今まで気付かなかっただけなのか。
  几帳(きちょう)の後ろに、純白の褥(しとね)がのべてある。
  牡丹の君の華奢な体を軽々と抱き上げると、そっと褥に横たえる。
  御簾も壁代も降ろされ、ただでさえ暗い室内は、この雨で一層暗い。
  だが却(かえ)ってその暗さが、行成には好都合だった。
  現世(ここ)より他の、一時の幻影(まぼろし)に落ちていくために。
  すべてを知って尚かつ、その幻影(まぼろし)に身を委(まか)せていくために。
  御簾を潜(くぐ)るときに聞こえた、”いけませぬ”という侍女の声は、現実に止まる
  ように促す天の声だったのか?
  だが、もうどうにもならない。
  肩書きも、家柄も関係ない、ありのままの自分を求めてくれる女(ひと)。
  儚い逢瀬の中で、元結も解(ほど)けんばかりに、時間(とき)を惜しんで求め合う。
  乱れるに任せて、褥の海に広がったたわわな黒髪。
  行成の心を癒す至上の時。
  自分と思いを共にする者に初めて出会えた悦び。
  全てを忘れて、このまま白い海に溺れてしまいたかった。
  なんとか己の意識を繋ぎ止めておこうとする努力も、放恣な快楽の前では虚しい。
  恍惚とも、眠りとも解らぬ闇のなかに落ちて行く。
  どこまでも続く底なしの闇・・・
 
  ─いったい・・・ここは・・・
 
  暫(しばら)くそのままの姿勢で、朦朧(もうろう)とする記憶の糸を辿ってみた。
  自分はどこにいるのだろう。
  少しずつ明らかになる現実。
 
  ─ここは現世(うつしよ)なのか・・・
  この身はまだ現世(ここ)に存在するのか?
  ゆっくり体を起こしてみる。
  気だるい感じはするものの、着衣にも、髪にも乱れは無かった。
  ─では、あれはすべて夢だったのか?
  だが、それにしてもここは・・・
 
  その時、几帳の後ろから年嵩の女の声がする。
  「行成さま、お車をご用意致しました。お支度が宜しければ、どうぞこちらへ」
 
  ─私は、誰だか解らない方の屋敷に上がり込んで、寝てしまったというのか?
  幾ら疲れが溜まっていたからといって、とんでもないことを・・・
  それに、あの女(かた)はどこへ行かれたのだろう・・・
  最初から存在しなかったのか?
 
  纏(まと)まらない考えの中に、ばらばらの場面が次々と浮かび上がる。
  思わず赤面する自分がいた。
  ─とにかく、ここを出よう。
  片付けなけらばならない仕事もまだ残っている。
  と、立ち上がろうとしたとき、鈍い痛みが腰に走った。
  鉛のように重い体。心なしか足もふらふらする。
  その時になってようやく気付く。
  足下に広がる、無数の白い牡丹の花びら。
 
  車は屋敷を出ると、三条とは逆の方向である桃園邸に向かっていた。
  ─こんな気持ちで、どうして三条の邸(やしき)に戻れようか。
  桃園の邸に着いても家の者には殆ど会わず、さっさと局に案内させる。
  一人になると、緊張の糸が解けたのか、疲れが一気に押し寄せた。
  用意させた褥にそのまま倒れ込む。
  いつとも知れず眠っていた。そのまま食も取らず懇々と。
  そして、夜中に左府からの呼び出しを受けることになる。
  その帰り道、件(くだん)の屋敷を探してみるが、荒れた門などどこにもなかった。
  ─不思議なことよ
 
 
  さきほどの宮中である。
 
  一瞬目の前が真っ暗になった。
  ふらつく足で、やっと勾欄(こうらん)(宮殿の欄干)を掴むと、肩で息をする。
  ぼんやりした意識の中に、切れ切れに響く何かの呪文。
  そのまま、意識が遠ざかって行った。
  「行成殿、行成殿」
  自分を呼ぶ声に、何とか正気を取り戻す。
  「大丈夫ですか。」
  すぐ横に行成を抱え込むように、主計助(かずえのすけ)安倍晴明が立っていた。
 
  ─いつの間にここへ?
  こんな時に、一番会いたくない人物に・・・今の様子を見られたか?
 
  努めて平静を装うと
  「心配ご無用です・・・何でもありません」
  とにかくそれだけ言って、その場を早く立ち去ろうとする。
  そんな行成の焦る気持ちを見逃す晴明ではなかった。
  長い睫毛が影つくる行成の澄んだ瞳を覗き込むようにして、平調(ひょうじょう)の
  声で言う。
  「何かに、心をお移しになられましたね」
  何もかも知っているような、晴明の言葉にぎくりとする。
  さらに耳元まで来て、意地悪く囁く。
  「儚いものと、御承知の上でお抱きになりましたね」
  そのことばに、瞬時に全身が凍りついた。
 
  「・・・何と仰る・・・何を知っておられると・・・」
  「あなた様の、お優しい心が、却ってご自分を追いつめることになられるのですよ」
  そう言う晴明の目には、慈愛の色が浮かんでいた。
  すべてお見通しの晴明に、言葉が出ない。
  「その純粋さは、今の都では得難きもの。だがしかし、それがまた邪神を惹き付
  けるものになるのです」
  自分のことを気遣ってくれる晴明の心も、今は荷が重い。
  「こちらの護符をお持ち下さい。つぎに、またそのような所にいらっしゃるとき
  は、この晴明も御一緒致しましょう。今日はあまりご無理をなさらず、充分お休
  み下さいませ」
  今の自分に一番難しい”充分な休養”を求める晴明が理解出来なかった。
 
  ─充分な休養など当分無理な相談なのに。それは、貴方が一番ご存じのこと。
 
  相手の真意を確かめようと、悪戯っぽく笑いながら
  「晴明殿は、左府と古くからのお知り合いとか。わたくしに休めと仰るのなら
  そのこと左府にお願いして頂けませんか。わたくしからでは、とても叶いません程に」
  わざと丁寧な物言いをする。
  それを受けて慇懃(いんぎん)な態度で応じる晴明。
  「そうですね。一度伺っておきましょう。でも、今回のこと、行成殿も少しは御自省
  頂けますでしょうか? 古人曰(いわ)く”忠信を主とし、己に如(し)かざる者を友と
  すること無かれ”とあります通り」
  相手の方が一枚上手だ。
  「少納言の君と同じ事を仰るのですね」
  肉体的にも精神的にも、限界に近い今の自分にとって、こういう会話は気分を楽に
  してくれた。
  《”忠信・・・”の続きは、”過(あやま)てば則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)ること
  勿(な)かれ”》
  気が付けば、先ほどまでの激しい疲労もかなり改善されている。
 
  ─晴明殿の術にはまったか。それもまた一興。
 
  「”世に處するは大夢の若し”であれば、このまま如何ともしがたい存在のわたくしを
  お許し下さい」
  《李白の詩 春日醉起言志より: 
  人生は大夢の如くであり、何か求むるところがあれば何れも皆労生のことばかりである。
  だから自分は、酒を飲みつつ”本然のままに”春の景色に身をまかせるのだ、という内容》
  本音を言えばかなり困急していたのだが、そんな様子は微塵も見せず涼しい顔で言い
  放つ。
  「左府がお待ちですので」 
  ─これで勘弁してもらえないか?
  「これは、これは、お引き留めして申し訳ございませんでした」
  畏(かしこ)まって言う晴明がおかしかった。
  ─心にもないことを。
  軽く会釈をして、やっと解放のお許しを得た。
  ─晴明だけは気を付けないと・・・心の闇を覗き込むあの目・・・
 
 
  一方晴明は、その姿を見送りながら
  ─我もこの漢(おとこ)の笑顔に捕らえられたか。
  そう思うのであった。
 
  行成は、この後も体の不調を堪(こら)えながら政務に励み、そのせいで暫(しばら)く
  寝込むことになるのであるが。
  それは、また次のおはなし。
 
        ありとあらゆる 我らの人生は すると儚き夢にすぎざるか
                             (L・キャロル)