東海道五拾三次・人馬継立(とうかいどうごじゅうさんつぎ・じんばつぎたて)

竪絵東海道保永堂版 安藤広重・東海道五拾三次 の中でも、「保永堂版」が一番の有名処。その中で藤枝は二拾三番目に、「人馬継立(図右側)」として描かれている。浮世絵の場所は、現在の上伝馬に相当する。ちなみに藤枝宿は、二拾二番目の宿場町にあたる。

 「継立」とは旅人の荷物を宿場から宿場へと、リレー方式で受け継ぐ際に、人馬を新しく換えることなのだそうだ。運送業は原則として、自分達の宿場のテリトリーの中でしか認められていなかったから、隣の宿場では必ず「継立」が必要になるのだ。
 東海道は江戸から京都の間に、五拾三の宿場が設けられていたから、五拾三回の「継立(次立?)」をすることになる。そのため「東海道五拾三次」と呼ばれるようになったんだね。

行書東海道 折角だからこの「人馬継立」の絵に隠された、不思議な話を取り上げようか? 東海道五拾三次の浮世絵の中には、幾つかの謎が存在するという噂があるが、この藤枝宿の絵にまつわる謎は、人の足の指が六本あるといわれている。。残念ながらオイラは、実物にお目に掛かったことは無いのだが、「私は見た!」という方がいらっしゃったら、是非ともどの人足の足であったのかレポートをお願いしたい・・・

 当時宿場では、百匹の馬と百人の伝馬人足の設置を義務づけられていたのだそうで、宿場町ならではの賑わいが想像出来るだろう。またこの辺りは田中の城下町としても栄えていた訳で、他地区には無い藤枝独特の横に長い宿場には、いっそう人の往来が激しかったに間違いない。

隷書東海道 「竪絵東海道(上位左)」と「行書東海道(中位)」「隷書東海道(下位)」には、瀬戸川が描かれている。藤枝宿は葉梨川を渡った東木戸口から始まり、約2キロメートルに渡る細長い宿場町で、瀬戸川は西端にあたる西木戸口に位置していたことになる。


 特に「隷書東海道」の藤枝はこのシリーズ中の傑作と呼ばれ、「思い思いの方法で雨をしのぐ人々の姿が印象的で、”雨の画家”広重の力量に感心させられる作品」と言われているのだそうだ。松並木の彼方に小さく描かれている田中城は、城を中心とした四重の堀の構造から、別名「亀城」とも呼ばれていた。徳川家康の死因は、この城で食した魚の天麩羅による食中毒だという噂だがぁ〜?


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