人世・終末期医療(後編)―マイノートからー  2014年12月9日 記

卒寿(数え年90歳)を
迎えた誕生日の写真
       元鹿児島県衛生部長
                  日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕

前編に続けて、終末期医療に関してノートに書き留めた言葉を、先覚の著書や講演だったり、私の気付きや主張だったり、まちまちで整理もされてないままであるが,以下に書き連ねておきたい。

●「安らかな死」を実現させるには、死に逝く者にも、死を看取る者にもそれなりの覚悟が必要です。平和な社会で、「死」(望むべくは安楽な大往生)が達成されるには、逝く者と看取る者との息のあった共同作業が、為されなければなりません。

●延命技術の発展が、死という現象を家庭から遠ざけ、病院に囲い込み、人から切り離すことは、人世の根源的理解とそれに伴う情動の発動がないまま、人を肉体的にのみ成長させる危険を生みかねません。(大井 玄)

●介護者は、体重の減ってきた高齢者に、できるだけ多く食べて貰おうと過剰な努力をしているのではないか。次に、身体が欲しないのに食べさせられると、むせたり、誤嚥したりする機会が増えるのではないか。さらに、消化吸収機能が衰えているならば、心臓や腎臓など他の機能も、矢張り衰えているのではないか。(大井 玄)

●生まれたからには寿命があり、「老衰」とは寿命が尽きる前の自然の一過程であるとすれば、老衰と共にある病気を治す努力や、「生活の質」(QOL)の落ちた状態の延命努力よりも、むしろ心身の苦痛を除き、安心させることを心掛けるべきでしょう。(大井 玄)

●「食べさせる努力」から「誤嚥性肺炎を起こさない努力」へと方向転換。・・・高齢の末期患者が飲食しなくなった場合、生存期間は短く、余り苦しまずに死を迎える。

●私は進行癌の告知に対して反対するのではありません。ただ「自己決定」という倫理基準は、その個人の社会的責任、倫理意識、選択能力或いは家族関係などの要因に応じて柔軟に解釈すべきだ、と言うに過ぎません。・・・認知症という診断がつかなくとも・・・選択できない、或いはしたくない人に選択を迫るのなら、それはむしろ冷酷な行為ではないか。(大井 玄)

●何かをする医療と言うよりも,そこにいて患者や家族の不安をとり、安らぎを与え、結果として、しばしの元気を回復させる。つまり考え方を「する」医療から「いる」医療に切り替えて、それなりに喜ばれ,感謝されたのです。(大井 玄)

●看取り支援の三原則
 1,終末期の病者に苦痛があるときは苦痛を緩和させる。 2,その人がいやがることはしない。 3,介護者の負担を軽くするための支援をする(介護者の支援がどんなに複雑であるか、介護者各人が感じる不安の強さと性質が千差万別だから)。

●歳を加えると共に生きることが難しくなる感覚、面倒くささ、くたびれは、自分自身が年をとり、身体の故障と機能の低下を実感して、初めて「共感」できます。

●老年期がこんなに発見の多い、味わい深い、開放感に溢れた幸せな人世の段階だとは思いませんでした。勿論、体の故障は増えるばかりなのです。癌も患ったし、脳にいく血管が詰まったし、MRIが映す脳の萎縮や梗塞は、私が付き合う認知症の人達と大差はない(七十歳代で小さな梗塞のない人はまずいません)。
 言うまでもなく、歳を加える毎に、社会で競争し生き延びるのに必要な能力は衰えていきます。認知能力が落ちるのはその典型でしょうが、・・・周囲の人との優しいつながりを保ち、穏やかに呆けている人は、東京のような忙しい所でさえ大勢います。{大井 玄}

●結局、人世の終末・死に至る段階は、実態を知らないことが、恐怖心を煽る最も大きな原因であるようです。看取りの場にいて、大往生が可能であることは、確信できます。医療に関しては、死を病院医療に任せてしまったため、死に至る過程を在宅で看取り、死を実感・学習する機会を放棄してしまった。・・・伝統的精神文化の無反省な放棄があるように見えます。(大井 玄)

●本来、年寄りは、どこか具合の悪いのが正常なのです。不具合の殆どは老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけはありません。昔の年寄りのように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。・・・あまり医療に依存しすぎず、「老いには寄り添い、病には連れ添う」これが年寄りの楽に生きる王道だと思います。(中村仁一)

●私の考える「医療の鉄則」を掲げます。
 1,死にゆく自然の過程を邪魔しない
 2,死にゆく人間に無用の苦痛を与えてはならない


●「自然死」の実態(中村仁一)
 「飢餓」―脳内にモルヒネ様物資が分泌される。
 「脱水」―意識レベルが下がる。
 「酸欠状態」―脳内にモルヒネ様物資が分泌される。
 「炭酸ガス貯留」―麻酔作用あり。

●点滴注射もせず、口から一滴の水も入らなくなった場合、亡くなるまでの日数がどれくらいか・・・7日から10日ぐらいまでが多い・・・

●フランスでは、「老人医療の基本は、本人が自力で食事を嚥下できなくなったら、医師の仕事はその時点で終わり、あとは牧師の仕事です」と言われているそうです。
 残される人間が、自分たちのつらさ軽減のため、或いは自己満足のために死にゆく人間に余計な負担を強い、無用な苦痛を味あわせてはなりません。・・・辛くても「死ぬべき時期」にきちんと死なせてやるのが「家族の愛情」というものでしょう。(中村仁一)

●天寿癌(北川知行)とは「さしたる苦痛もなく、恰も天寿を全うしたように、人を死に導く超高齢者の癌」・・・一応、男性が85歳以上、女性が90歳以上とされている。

●・・・500ml以上点滴すると,腹水や胸水、痰が増して苦痛の方が大きくなる・・・老衰における平穏死への戦略は、「最後まで食べることに拘り、胃瘻は造らない」「ご本人やご家族の希望に応じて、ときに少量の点滴をする事はある」「毎日の生活を楽しむ」の3点です。・・・「非癌の終末期医療や平穏死」が今後の大きな課題である。・・・認知症終末期における平穏死は、胃瘻を選択しないことだ。・・・一番大切な筈の「最後の時」が医療者にお任せになっている・・・(長尾和宏)

●自宅は世界最高の特別室。・・・最後まで好きなことができる「自由」こそが、人間の「尊厳」ではないでしょうか。
 動物は歳をとり口から食べられなくなったら、そのまま死を迎えるのが自然の摂理です。
 「生きるとは食べること」「人間は誤嚥しながら生きる動物」
 病院での終末期の不要な点滴が、セデーション需要を増やしているのでは。(長尾和宏)

●歳をとると言うことは、筋肉量が落ちることです。・・・転倒→骨折→入院。これを2回繰り返すと、ある程度の年齢の方なら必ずと言っていいほど認知症状が出てきます。手術は成功したが寝たきりになった。・・・廃用症候群・・・最近は「ロコモ」の時代です。運動器症候群の概念とロコモ対策としての運動「ロコトレ」の実践を勧めます。(開眼片脚立ち・スクワット)

●ガンも非ガンも脱水は友。胸水・腹水を安易に抜いてはいけない。自然な省エネモードを見守る勇気が必要です。
 ガンも非ガンも区別せず、「緩和」という大きな思想で包むことが、今後の日本の医療・介護ではないかと思います。・・・最近、3ヶ月以上続く痛みが「慢性疼痛」と定義され、やっと麻薬を使えるようになりました。・・・
 せん妄、意識レベル低下、下顎呼吸から呼吸停止。(長尾和宏)

●「千の風になって」(秋川雅史)
 私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 眠ってなんかいません
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

 秋には光になって 畑にふりそそぐ
 冬はダイヤのように きらめく雪になる
 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
 夜は星になって あなたを見守る

 私のお墓の前で 泣かないでください
 そこに私はいません 死んでなんかいません
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています