人生・終末期医療(前編)―マイノートからー  2014年11月10日 記

卒寿(数え年90歳)を
迎えた誕生日の写真
       元鹿児島県衛生部長
                  日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕

セピア色に褪せてしまった私の古いノートには、折に触れて書き留めて置いた「言葉」の数々が残されている。先賢の著書や講演の一端だったり、或いは私の想いだったりするが、忘れてしまうのには惜しい気がするので、特に脈絡もないまま整理しておきたい。

●医学とはすぐれて人間学でもあるが、人間学としての医学のあり方が最も厳しく問われるのが、終末期医療だ。

●この世に生まれた人間は、例外なくいつかは死を迎える。医学にとって死は敗北ではない。死を真正面から受け止め、死と共存する道を探ることが大事であろう。よりよい死の看取り、或いは支援に失敗したときこそ、その医療は敗北と言うべきだろう。

●終末期医療の追求は、とりもなおさず現代医学における人間性(ヒューマニテイ)の復権への窓を開く意味を持つ。

●心ある医療をしようとする医師や看護師は、よく「患者さんから学ぶ」という言葉を口にするようになった。特にターミナルケアに取り組んでいる現場では、「最大の教科書は患者さんである」という。

●患者は病院に合わせて、その中で管理される存在になっていく。しかし、それでは人間らしさが奪われてしまう。

●僕はクリスチャンではないし、敬虔な仏教徒でもない。これといった決まった宗教も持っていません。でも、日本人の心の中にも、小さいときから培われた漠然とした宗教心というのは絶対にあります。・・・・・・何か絶対的なものに自分たちは生かされているのだという感じ。

●「やわらかな告知、やわらかな非告知」

●私は、突然死よりガン死を選ぶ、というのを自分の人生観にしています。・・・心臓発作や脳卒中や事故で突然いのちが断たれたら、自分の人生を締めくくる貴重な時間を失ってしまう。これでは困るのです。・・・穏やかな老衰死が与えられるなら、それに越したことはありません。(柳田邦男)

●いざ死に直面したときに自分はどのように人生を締めくくるのかということを、健康な状態にあるうちに日常生活の中で考え・・・夫婦間で、或いは親子間で、常日頃から確認しあっておくことは、ガン死の問題だけでなく、植物状態や脳死状態になったときどうするかと言うことも含めて重要です。
 リビングウイルの確認の重要性。

●患者や家族にとって、最も大切であるべき患者の人世最後の時間を医療側が一方的に決定してしまうような縦の医師・患者関係からは、ターミナルケアで一番大切な基本的信頼関係は成立し得ないと考えています。(山崎章郎)

●病気を予防する第一の医学、病気を治療する第二の医学、第三の医学はリハビリテーション医学、次にもう一つ第四の医学がある。(日野原重明)

●今までの医学生は塾の勉強だけで、人世の経験はまるでない半人前の状態で教育されました。患者との接し方でも、たとえ患者が人間としてははるかに人生経験の豊かな先輩であっても、医学知識があるが故に自分の方が上だと思ってしまう。そのために、日本ではいまだに患者と医師との間に上下関係があって、患者は言いたいことが言えない。それができれば患者の苦悩の半分は解決されるのに。(日野原重明)

●医療者のイロハなのですが、ベッドサイドに座り、目の高さはいつも患者の目の高さに置いている。落ち着いた雰囲気で、目と顔をしっかり見て会話をし、相手の言うことに耳を傾けている。そして患者の手を握っている。言葉によらないコミュニケーションを非常に大事にしている・・・医師はベッドサイドに突っ立って、「私は五十人も患者を診ているので忙しい。あなたは五十分の一です」みたいな顔をしがちです。(日野原重明)

●・・・いざ臨終となると、巨大な医療機械がパッと病室に侵入してきて、親しい家族との最後の別れも、また、自分の人世の最後を見つめ、この世と今から行くべき世界との間に立つ大切な時間も、全く無視されてしまう。この大切な時の問題に、医療関係者が全く目を向けようとしない。・・・医療者は患者さんの肉体だけを扱う傾向が強くなり、患者・家族の精神的、社会的な問題に目を向けてそのケアをしようとしない。そういうニーズを感じ取ろうともしない。・・・(河野博臣)

●死に行く人へのケアの中で最も大切なことは、患者の傍に腰を下ろして話しを傾聴することです。聞くことなしには、コミュニケーションは出来ないし、信頼関係も生まれません。死に行く人に対して医師として何の治療も出来ない自分を知らされてはじめて、心と心の交わりを持つ謙虚さが生まれ、癒しの業が生まれてくるのです。(河野博臣)

●インフオームド・コンセントは簡単に「説明と同意」と訳されることが多いが、「丁寧な説明に基づく理解・納得・同意・選択」と言うべきだ。

●医療の場合、病院の現場感覚と在宅ケアの現場感覚とでは、ずいぶん違う。

●薬を注射するよりも、時間を注射することの大切さ。

●人世の総決算をしようとしている人を前にして、看取る者は自分もやがて同じ立場に立つべき存在であることを悟らねばならない。この意味では医師も患者も同一の平面にある。

●安らかな死を迎えた人には共通点がある。それは、「生かされている」という気持ちがあることである。

●問題になるのは、患者が自分の死後をどう考えているかということである。死後の世界を信じない人にとっては、死は全ての終わりである。それ故にそれは耐え難く、絶対化されやすい。死後の世界を信じる人にとっては、死は全ての終わりではない。それ故に相対化しやすくなる。すなわち、この世における可能性が少なくなったときに、死後の世界への可能性に向かって生きることができる。(柏木哲夫)

●人間の五感のうちで、聴覚が最後まで残ると言うことは案外知られていない。

●私と患者さんとの間には、「あなた死ぬ人、私生きる人」という関係ではなく、「あなた死ぬ人、私もやがて死ぬ人、少しずれるだけ」という感覚があった。(柏木哲夫)

●看護師の目は、患者の様子を見、患者と視線を合わせて訴えを読み取るためのものである。決して点滴のスピードを見るだけの目であってはならない。看護師の手は、物を運ぶための手ではない。患者に当てるための手、励ましのために患者の手を握るための手なのである。
 看護の看と言う字は、手と目から成り立っている、象徴なのだ、