私の「敗戦忌」  2014年8月18日 記

元鹿児島県衛生部長
日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕


人間魚雷「回天」隊長、
海軍大尉橋口寛

昭和20年8月18日は私にとって忘れられない日である。私にとっての「敗戦忌」である。

私の小学1年の秋、満州事変が起き、中学1年の夏には廬溝橋事件が勃発して日中戦争が始まり、中学5年の冬、ハワイ攻撃で太平洋戦争が始まった。
戦いは苛烈を極めた。大陸に、大海原に、ジャングルに、孤島に、海に、空に、果てしもなく広がった戦火は、本土にも及んできた。

鹿児島の地も戦場であった。医学生だった私は枯渇していた医療陣の中にあって戦いに明け暮れた。私の左腕に今も残る傷跡はあの頃、県立病院への途次、グラマン戦闘機から放たれた機銃弾の残傷である。

そして、やがて、長かった戦いにも終焉の時がきた。見渡す限り瓦礫が続き、余燼が白く燻り、所々に水道の栓が白く水を噴き上げていたあの廃墟の中で、私は、還ってくるであろう竹馬の友・橋口 寛を待っていた。

そんな私の処へ届いたのは、悲痛な知らせだった。自らの拳銃で胸を撃ち、真っ赤に染まった海軍大尉の正装と、血と涙で綴られた手記とに接して、ご両親の前でただ声もなく泣いた。

悲愁の色濃い戦場にあって、唯ひたすらに祖国を守り抜こうとして、挽回の一縷の望みを託した彼は、自らを必死必殺の人間魚雷「回天」の隊長の責めにおいていたのだった。
その彼に、終戦の大詔は、何と哀しく、何と切なく拝されたことか。死に赴いた部下・同僚に涙し、敗戦の責めを謝した彼には、最早生への選択はあり得なかったのであろう。何より愛した祖国に、そして父母や弟妹に静かに決別し、遺書をしたためた彼は、
  君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを
  遅れても遅れても亦卿達に 誓いし言葉われ忘れめや
辞世の二首を遺して、愛艇の中で真っ白い軍装を赤く染めて、従容として自らの手でその命を絶った。
時に昭和20年8月18日午前3時、所は山口県平生の特攻基地。橋口寛、齢ようやく21歳。

自らの手で苛烈な死を選んだ君よ、あのまま青春を凝結させた君よ、君が信じ愛したこの風土の中に生きてきて、やがて私は満90歳を迎える。なぜか後ろめたさを消せぬまま、負い目のまま生きてきた。せめて君の死を耐えたままで生きてきた。

あれから程なく医師になった私が「公衆衛生医」の道を選択したのは、君が一番納得してくれそうに思えたからに違いなかったし、本土復帰直後の奄美群島を所管する保健所長を進んで引き受けたのも、農山漁村の僻地集落に検診車を走らせたり、夜な夜な幻灯機持参で衛生講話に没頭したのも、君が声援しているように信じられたからに違いない。

あれから時代はめまぐるしく変貌を遂げた。虚脱、混迷、復興、安定、そして繁栄と、経済成長の波は、公害・環境という未知の行政分野を余儀なくし、私はその責任を負うポストに就くことになった。水俣病と出会い、幾多の環境汚染に対応しながら、科学技術の発展は真に人の幸せをもたらすものなのか、自らに問い、君にも尋ねたね。君の答えは、東洋の古くからの哲学「足を知る」だったことは肝に銘じているよ。

医療行政を所菅してからも、終末期医療のボランテイア活動に拘わりながらも、医療の(と言うよりも人生の)主役・脇役を考えてきた。肉体に心に傷を持った人々の痛みを、自分の痛みとして受け止め行動しているのか。所謂弱者の視点を説いてきた。君の澄みきった眼に、暖かい視点をいつも感じていたからに違いない。

自分の生きた人生をそれなりに納得し、人のため世のために役立つ何かを為し遂げたと思えたときに、私の心に真の平安が訪れるに違いない。その時にようやく君への負い目が薄れてくれるに違いない。

君に会えるのも、そう遠い話しではあるまい。君は変わってもいないだろうが、俺には何か目印が要るだろうな・・。
俳句もどきを1句 「回天の友に負い目の敗戦忌」