回想「秋山房雄先生」  2014年7月20日 記

卒寿(数え年90歳)を
迎えた誕生日の写真
       元鹿児島県衛生部長
                  日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕

我が国の公衆衛生の今昔を語るのに、欠かせない先覚者に秋山房雄先生がある。元東大医学部教授、元女子栄養大教授、日循協名誉会員で、成人保健學の権威として、日本の公衆衛生行政に与えた影響は大きい。先生は平成17年8月22日に享年92歳で逝去されたが、先生の著書を思いつくまま拾ってみると、「成人保健管理」「保健学講座」「健康管理概論」「生活の保健學」「食生活論」など、正に今日的課題が犇めいているのに改めて驚く。

そんな先生が、平成2年4月1日発行の雑誌「母子保健」(財団法人母子衛生研究会)の巻頭言に、次のような一文を寄せておられる。題は「初めに行いありき」とある。
沖永良部の実態は、とりわけ記憶に鮮明である。役場での説明を受け、宿舎に着いてみると、婦人会の方など、地元の実態を訴えようと沢山の人が、私を待ち受けていた。切実な悩みを聴いて、その脚で訪れた余田地区の飲料水は、まさに私の予想を超えて惨めだった。田の水がそのまま、形だけの、およそ濾過の役目を果たしてくれるとはとても思えない井筒を通しただけで、生のまま飲料水として使用されているのだった。離島の宿命ではすまされない、そこには非人間的な暮らしがあった。案内してくれた土地の人に、私は心の中で、申し訳ないと頭を下げていた。
翌日訪れた暗川(くらごう)で、あれは地下何十メートルだったろうか、ランプの灯を頼りに湧水で米をとぎ、洗濯をすませ、体を洗い、そして最後に満杯にしたバケツを頭に載せて、地上に帰っていく主婦の暮らしを視た。思ってもみなかった、それは凄まじい離島の生き様だった。
訪れた島々の至る所で、飲料水に事欠く暮らしの実態を視た。帰任して早速取りかかった、所謂奄美復興予算の手直しには、私なりの使命感を込めたつもりでいる。

これは昨秋、鹿児島市で行われた第54回日本民族衛生学会総会のおり、特別講演として「鹿児島の保健と環境―ある足跡―」を述べられた内山裕元県衛生部長が、後日恵送下さった「素心随想」の中の一節である。先生が昭和31年4月、出水保健所長から名瀬保健所長として奄美大島に着任した当時の衛生状況である。
酷い戦災と、引き継いだ行政分離によって、奄美の島々の荒廃はその極にあり、占領8年余の空白は、県下で最も若い、31歳の内山所長の行政力を必要とされたが、先生はまさにそれに十二分に応えられたばかりでなく、結核予防、熱帯医学、無医村対策、そして現在では保健環境行政の第一線で活躍されているのである。
実は、本誌のような「母子保健」の広報誌に、このような題で拙文を綴ったのは、先生が淡々として語られた数々のご苦心を拝聴して、心から感動した為である。
その感動を一言にして言えば、「言葉の先に行いがあった」と言うことである。ゲーテは「フアウスト」第一幕のところで、新約ヨハネ伝を広げて、「初めに言葉ありき」の翻訳を始め、「言葉」を「意味」に、ついで「力」に代え、最後に「業(わざ)」に至って落着している。
日頃、家にあって、本ばかり読んでいる私にとって、内山先生のように行政官として、県民のため、広く日本のために働いてこられ、素晴らしいお仕事をしている方々のお話を聞いていると、自然に涙が出てきてしようがない。これは決して私の老化現象のためばかりではないと思われるし、母子保健にも無縁では無いのでは無かろうか。
それは言葉だけで子達を上手に育てようとしても、それは無理で、暖かい慈愛の心を奥に潜めながらも、無言のうちに日頃やってみせることの方が先であると思われるからである。
如何なものであろうか。 
   
人事院健康専門委員 秋山房雄

秋山房雄先生、鹿児島のあの日の内山を覚えておられましょうか