西郷隆盛と内山伊右衛門 平成22年8月・9月

 日本尊厳死協会かごしま 名誉会長  内山 裕



開運!なんでも鑑定団

(写真は、西郷隆盛直筆の書簡を手にした琉球王朝末裔の奥武泰子氏)

平成20年暮れのテレビ東京で放映された「開運!なんでも鑑定団」で、西郷隆盛(1827〜1877)直筆の書簡が第一級の新史料として鑑定され、しかもその書簡の宛名が、私の大伯父内山伊右衛門となっている事など、迂闊にも全く知らないままでいた私宛に、「伊右衛門の縁者ではあるまいか?」との手紙が舞い込んだのは、今年5月末の事だった。
テレビ放映当初、内山伊右衛門(1835〜1868)については詳細不明とされていたため、番組に鑑定を依頼された、琉球王朝の末裔奥武泰子氏が、伊右衛門の子孫の存在を、仙台市在住の郷土史研究家に依頼をされたという経緯のようだった。
そんな切っ掛けで、仙台の郷土史研究家の花房宏行氏、西郷隆盛の書簡所有者の奥武氏、鑑定をされた愛知文教大学の学長増田孝氏らとの交流が始まった。花房氏からは、番組のビデオ提供もあった。
「なんでも鑑定団」の概要は次のようであった。
琉球王朝の子孫(註・家系図も別途送付されてきている)奥武泰子氏によると、太平洋戦争当時、首里が焦土と化した時も、奥武家の夫人が帯に巻き付けて逃げるなどして守った家宝の書状。夫君が亡くなった今、果たしてどれだけの価値があるものか、心配にもなって、専門家の手による鑑定を思い立ったという。
付記写真のように、手紙は立派に表装されていて、縦18,5cm横181,8cmの巻物として大事に保管されてきた様子が伺える。
鑑定に当たった増田学長(日本書跡史学専攻)によると、西郷32歳の書で、激しい感情に裏打ちされた言葉を、きりきりと紙に揉み込む様な強い筆圧で書かれていて、その内容は「西郷隆盛全集」にも未収録のもの、つまり新発見だったという。僧月照(1813〜1858)との入水事件について、これほど具体的に西郷自身が語った手紙は他にはないのではないかと思われると言い、読む自分にとって電気ショックを与えるほどの強烈な史料の出現だったと、増田学長は話している。

西郷隆盛の書簡
増田孝著「書は語る、書と語る」の中に、西郷書簡の読み方が書かれてある。
「兼ねて御物語申し上げ候とおり、今に残念に思う事は、月照和尚の事にして、同人は僧の身分にも拘わらずして、大義を重んじ、勤王を唱へ、吉之助と相結合して、生死を同じうする事を相約し候へども、如何せん、同人は海中へ深く沈身したる為に、吉之助を見捨て、不帰の客と相成り申し候段、実に気の毒、残念の次第にござ候、しかしながら、同人の勤王の赤心はその時に躰に巻きなせしその中に、一首の歌を残ししは実に吉之助、今、目前に月照に相対応するが如く、頗る感情を相暖め申し候、ああ実に得難きものは月照にして、地下にて定めて吉之助を笑はんと存じ候、この月照を永く世に在らしめば、吉之助実に頼りに相成すべしとは存じ候へども、不幸、海底の客と相成り候儀、致し方なき事にござ候、月照の歌に
  大君の為と思へば何かせむ、薩摩の瀬戸に身は沈むとも
かくの如き義烈忠肝の人を空しく海底の魚腹に葬るとは、如何にも残念、落涙の外ござ無く候、先ず答返の事かたがた一筆記し奉り御達し候、頓首、

  二月十五日 西郷吉之助          内山伊右衛門 様          」

手紙には、共に入水しながら、自分一人だけが蘇生した事への痛恨の情が、余すところ無く吐露されており、宛先の内山伊右衛門への信頼と深い交流のほどが偲ばれる。尚、手紙は入水後間もない安政六年二月のものではないかとされている。

内山伊右衛門綱次
昭和43年(明治百年)、この年の6月、「南日本新聞」と「河北新報」は、幕末薩藩の密命を帯びて奥羽に入り、仙台藩士に暗殺された内山伊右衛門綱次の供養百年祭が、その墓碑のある宮城県鳴子町で計画され、故人の血縁者を捜すべく、八方手を尽くしている旨、報じていた。
この記事が切っ掛けになり、我が家の躾けの偶像でもあった祖父の兄伊右衛門の話を、幾人かの親切な郷土史の研究家の方から、改めて聞かされることになった。
伊右衛門は、剣は薬丸示現流の達人で、薩摩琵琶の名手としても知られており、薩英戦争の折り、西瓜売り決死隊員として参加しており、戊辰戦争に際しては、二番遊撃隊隊長として出軍しているが、その最期は、「慶応出軍戦状記」「鳴子町史」などによるとこのように伝えられている。
勤王、佐幕の激突のその頃、伊右衛門は、無益の戦いを避けるよう、西郷からの説得工作密命を受け、奥羽の諸藩に潜入中、商人に姿を変え、わずか二人の供を従え、鳴子温泉に一泊したのが、慶応4年4月21日のこととされている。幕府方の必死の探索に、その行動は察知されたらしく、翌22日、尿前の関を過ぎてまもない山中で、待ち伏せていた仙台藩えり抜きの剣の使い手多数に襲われ、その悲運な最期を遂げた。 時に伊右衛門34歳。

(写真は、昭和43年秋、鳴子に眠る伊右衛門の墓参、叔母と姉と同行)

終わりに
奥州路に散った薩摩の密使、内山伊右衛門綱次。太平洋戦争中は沖縄にあって、無事戦火を免れ、近年になって再び我々の前に姿を現した西郷の手紙。数奇な運命に翻弄された一通の書簡は、何を語るのだろうか。私は今、深い感動の中にいる。

(平成22年9月12日記)