回想のチェルノブイリ原発事故  平成23年10月20日 記

日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕

旧ソ連ウクライナ共和国キエフ市北方約130キロメートルにあるチェルノブイリ原子力発電所の事故発生を知ったのは、鹿児島県衛生部長のポストから新設間もない鹿児島県環境センターの所長へ転じた翌年の、昭和61年4月29日の天皇誕生日の祝日のことだった。
突然のけたたましい自宅の電話が、一瞬にして、私を厳しい緊張の中に引きずり込んだ。忘れることの出来ない、チェルノブイリ原子力発電所事故の第一報だった。

私達鹿児島環境センターには、放射能対策について二つの大きな役割があった。ひとつは、薩摩川内市に立地している原子力発電所に係わる環境放射線監視であり、もうひとつは、核爆発実験等に起因する放射性降下物等の調査、いわば地球規模の放射能汚染に係わる全国観測網の拠点としての機能であった。
センターに駆けつけた私に、刻々もたらせられる情報は、いすれも、事態は容易ならざるものであることを告げていた。およそ7年前のアメリカスリーマイルアイランド原子力発電所の事故を想い出し、私には不吉な予感があった。環境センター放射線部の職員からの報告を受けながら、私は、次第に昂ぶってくる緊張感を抑えきれずにいた。そのまま私達環境センターは、緊急非常監視体制に入った。

8千キロメートル以上離れた日本へは、直接の影響はまずあるまいとの大方の予想に反して、事故発生の4月26日から数えて8日目の5月3日には関東地方で、そして同じく5日には私達環境センターでも、ヨウ素131が検出された。まさに地球規模の放射能汚染の確認であった。
以来続けられた監視調査の基本的な考え方は、県民の健康と安全確保の上で、何らかの特別な対策が必要かどうか、判断するに足る放射能レベルを確認することにあった。
チェルノブイリ原発事故の影響として、県内で引き続き検出された人工放射線核種は、ヨウ素131の他、セシウム137、ルテニウム103、テルル132、セシウム134、セシウム136、ルテニウム106、バリウム140等多種類に及んだ。
調査内容の詳細は記述を避けるが、測定・分析の項目だけを挙げると次のようになる。
1, 空間放射線量の測定 
2  放射性核種分析(大気浮遊じん・降下物・雨水・陸水・牛乳・陸上植物{野菜・茶・松葉・牧草}・海産生物)

膨大な測定・分析結果等の被曝線量評価に基づくと、チェルノブイリ原発事故による放射能の鹿児島県への影響は、5月5日から出始め、8日から9日にかけてピークに達し、やがてその影響は減衰し始め、5月末には直接的な影響は無くなったと考えられた。
半減期の長い核種は、なおも環境中に存在はしていたものの、チェルノブイリ原発事故による被曝線量が、人の健康に影響を与えるようなレベルに至らなかったことで、ようやく愁眉を開いたのは、炎天と降灰の中、鹿児島の街に赤い夾竹桃の花が目立ち始めた頃だった。

不安と恐怖が、音もなくソ連の国外に流れ出し、8千キロメートル以上も離れた日本にも放射能汚染の影響が及んだチェルノブイリ原発事故は、多くの貴重な教訓を残した。長く深刻な後遺症はいつ果てるのか。巨大な技術システムにおける人災は、忘れた頃にやってくる。そんな想いが棘のように心のひだに突き刺さったままだった。

そんな中で、「チェルノブイリ」の語源を調べてみた。
「チェルノブイリ」というロシア語は、新約聖書のヨハネ黙示録に出てくる植物の「苦(にが)ヨモギ」のことだという。ヨハネ黙示録は、この世の終末のまがまがしい様相を描いて、次のように書いている。
「たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源の上に落ちた。この星の名は「苦ヨモギ」と言い、水の三分の一が「苦ヨモギ」のように苦くなった。水が苦くなったので、その為に多くの人が死んだ。」
ヨハネの黙示は、暗示と言うよりも明示とでも言うべきであろうか。

あれから25年、夢想だにしない未曾有の地震・津波、そして福島原発事故が我が国を襲った。国中を戦慄が走り、その惨状に国民斉しく心を痛めた。危険なものだと言う前提で、リスクを充分織り込み、理解した上で、原発は立地されるべきだったのだが・・・。
さる7月27日、衆議院厚生労働委員会に参考人として呼ばれた東京大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦教授の、火を吐くような気迫の発言に委員会室は静まりかえったという。教授の試算は衝撃的だった。福島第一原発の事故で漏出した放射性物質は広島原爆の約二十個分。一年後の残存量は原爆の場合、千分の一に減るが、原発から出た放射性物質は十分の一程度にしかならないという。

私達は、今、人間の知識や進歩のはかなさと、自然の脅威の底知れなさに震え上がっている。人間はいつの間にか思い上がり、自然の力を見くびり続けてきたのではあるまいか。
いま提言されるべき「原発ゼロ社会」の実現に向けて、風力や太陽光を始めとする自然エネルギーに、せめてもの希望の星を見出したい。そんな想いに明け暮れている。
「放射能が降っています。静かな夜です」。福島在住の詩人和合さんの詩が心にしみてくる。
(鹿児島県医師会報平成23年10月号より転載)