主役・脇役・いのち  
―日本尊厳死協会ながさき・平成23年度総会講演会―
(平成23年4月23日・長崎市立図書館)


日本尊厳死協会かごしま名誉会長 内山 裕

はじめに
日本尊厳死協会ながさきの会長、釘宮敏定先生から珍しく一通のメールが届いた。昨年師走のことである。「明年度の総会講師の件を役員会で話し合った結果、鹿児島から送られてくる会報・尊厳死かごしまでお馴染みの内山先生を招聘する事に内定したので、是非引き受けて欲しい」概要そんな依頼のメールだった。重荷なのでお断りしようと考えたが、釘宮会長の学者らしい風貌と、温容とが頭に浮かんできて、ご期待には添えないだろうが引き受けましょう、と応じたのだった。


竹馬の友の殉死
たびたび話したり書いたりしてはいるのだが、小学校・中学校と学ぶのも遊ぶのも共に過ごした竹馬の友、橋口君の最期だけは話しておきたかった。

海軍の道を選んだ彼は、先の大戦の末期、人間魚雷「回天」の隊長として敗戦の大詔を拝したのだった。幾多の部下や同僚を死に赴かせた彼には、最早生きる選択はあり得なかったのだろう。海軍大尉の正装を自らの血で赤く染めて、愛艇の中で従容として自決したのであった。

時に、昭和20年8月18日午前3時、齢ようやく21歳。 残された遺品・自啓録の中に血書の遺書がある。
 君が代のただ君が代の さきくませと祈り嘆きて 生きににしものを
 後れても後れても亦 卿達に誓いしことば われ忘れめや
戦後は終わったと言うが、私にとっては未だ戦後は終わっていない。友橋口の「いのち」は、今も私の中に生き続けているのだ。

地域保健活動の最前線と水俣病
私は友橋口の死に応えるためにも、人のため世のため、公のため、直接役立つ何事かを成し遂げたい、そんな想いから、公衆衛生医の道を選んだ。
昭和25年から、県下各地の保健所長など最前線、更に県庁課長・衛生部長などを歴任したが、その間、私が懸命に学んだものは果たして何だったのか。
離島・僻地・農山漁村の暮らしの中にこそ、公衆衛生の教科書が存在する事を教えられた私は、ハブ対策・フイラリア等風土病・食生活など生活改善・結核対策・・と情熱を注いだ。県民の暮らしから発想することの重みを感じていた。
そんな私は昭和45年、水俣病と出会うことになった。


水俣病患者宅訪問の衝撃は、後に公害の原点と呼ばれることになる悲劇が、それは公衆衛生医の背負わなければならない十字架であることを問いかけていた。私には「負の意識」があった。

皇后陛下と「でんでん虫の哀しみ」
医師は、とりわけ公衆衛生医としての私の命題は、弱い立場の人の痛みが分かるかどうかに懸かっていた。
天皇・皇后両陛下が、皇太子殿下・妃殿下の頃、鹿児島・指宿と随行して、気品のある優しさに直接触れる機会を持てた私は、今回の東日本大震災の被災者をお見舞いなさる両陛下のご様子に、皇后様の嘗てのご講演「子供時代の読書の思い出」の中で触れられた、新美南吉の童話「でんでん虫の哀しみ」を思い浮かべていた。

一匹の小さなでんでん虫が、ある日、自分の背中の殻に哀しみが一杯詰まっていることに気づくことから物語が始まる。そしてやがて、自分だけではないのだ、哀しみをこらえ、耐えて、生きていかなければならない事を知る。
皇后様の心に、「何度となく、思いがけないときに記憶に蘇って・・」と話されている。
生きている多くの人が、それぞれ自分の殻に哀しみを一杯持っていることに、私達は気づいて生きているのだろうか。

主役は誰なのか?
医療の本質は優しさにあるのではないか。気づきから生まれる他者への優しさ。
医療現場の主役は誰なのか。医療者と患者との関係は、主役は誰なのか、脇役は誰か。

肉体に、心に、何らかの傷を持った人の痛みを、自分の痛みとして分かるかどうか、強者の立場ではなく、弱者の視点で、考え、行動しているかが、問われている。
患者という字は、心に串が刺さった者と書く。心に刺さった串を抜いてあげるのが医療だ。
看とりの看の字は、手と目で成り立っている。看護師の手は、物を運ぶための手ではない、患者に当てるための手、励ましのために患者の手を握るための手なのだ。目は、患者の様子を見、患者と視線を合わせて訴えを読み取るためのもの、点滴のスピードをみるだけであってはならない。
「傾聴」と「受容」が重要であり、医学は果たして理系か文系か、立ち止まってみる必要があるのではないか。求められるのは全人的医療なのだから。

終幕の主役
人生の終幕で、死に直面している患者本人が主役を演じきっているのか?
医療監視下で、家族と話しも出来ない閉ざされた孤独死。患者や家族にとって、最も大切であるべき人生最後の時間を、医療者が一方的に独占して・・・。

最期の時には、家族こそが死に行く者とともにあるべきであって、病室から出て行くべきは医療スタッフではないのか。最善を尽くした、との考えは? 最善とは何か。
私の看取りの反省。安易な励ましではなく、弱音を吐きたい患者には、「あなた死ぬ人、私生きる人」ではなく、「あなた死ぬ人、私もやがて死ぬ人」と、共感と受容が求められていたのに。

超高齢社会は、キュアからケアへ
超高齢社会の到来に伴い疾病構造も変化してきている。平均寿命は、男79歳、女86歳。
主要死因は、悪性新生物(癌)、心疾患(心筋梗塞)、脳卒中(脳梗塞)。

今、病人が増えているのではなく、増えているのは加齢に伴う障害と考えるべきだろう。
基本的には、癌は遺伝子の老化、つまり障害として発生すると考えると、高齢者の癌は闘う相手と考えるのではなく、共存する相手と位置づけた方が適切ではないか。
心疾患、脳卒中は動脈硬化が原因だから、つまり血管の老化だし、多くの方が心配する認知症も脳の老化、つまり障害だ。

今問われているのは、病院で病気としてのキュア重点の医療よりも、障害を持っていても地域で生活できる医療、ケア中心の医療、介護重点の医療・在宅医療ではなかろうか。
終末期医療も、長寿を目指し延命措置を考える医療から、天寿を全うする医療・ケア、自然死・尊厳死を考える医療へと変革するべきではないだろうか。

「いのち」
安らかな死を迎えた人の共通点は、生かされている、何か絶対的なものに自分は生かされているという気持ち。

人間の躰は、約60兆個の細胞から成り立ている。60兆個の生命体の宿主が人間であり、その人間の宿主が地球であり、と考えていくと・・・最期の宿主はいったい何だろうか。宇宙万物の根源の世界、無限の生命力・・・人はそこに「浄土」「天国」をイメージした。
自分が宇宙万物の一部として生み出され、生かされていることを実感し、感謝する。
人間とは、「からだ」と「こころ」と「たましい」との三つからなる自然の一部分である。モノとしての人間が死んだことは、人間の全てが消滅したことではない。モノでない「いのち=たましい」はパートナーであった「からだ」と「こころ」と別れて、無限の万物生成の・・・或いは「千の風」となって・・・
アメリカの哲学者レオ・バスカーリア博士作「葉っぱのフレデイーいのちの旅―」が描く「いのち」の循環について考えて結びにしたい。

                      
追記
「日本尊厳死協会ながさき」の会長、釘宮敏定先生から、総会講演会終了後提出された参加者アンケートが送られてきた。約100名の参加者の76%から寄せられた意見・感想の中から、特に目立ったコメントを数点、次に書き留めておきたい。
1, 心にしみる深い話に感動した。2, 終幕の主役は誰なのか、改めて考えさせられた。
3, 生き方、死に方の心構えにヒントを頂いた。4, 肉体は終わっても「たましい」は生き続けるとのお話は素直に心にしみた。5, 患者さんが主役という考え方に感服した。6, 高齢者にとって病気は障害だとの視点に感銘した。7, 最期の「たましい」の話は考えさせられた。8, 私もみんなに有り難うと言って終わりたい。
                         (平成23年5月7日、記)