思うこと 第312話   2016年12月26日 記

井形昭弘先生の合同葬


2016年10月26日に名古屋市内の覚王山・日泰寺で学校法人中西学園、名古屋学芸大学並びに名古屋学芸大学短期大学部による井形昭弘先生の合同葬が行われました。
喪主は井形先生のご長男の井形弘様と親戚ご一同様。


日泰寺の全景


告別式場案内板


祭壇に飾られた井形先生のお写真


友人代表の肩書で弔辞を読む私。

その弔辞の全文を下に示します。
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弔辞

井形先生、

 八月十四日に高徳院で行われました告別式におきまして、先生のお棺(ひつぎ)にお花を添えてお別れしました時、もう二度と先生のこのお顔にお会いできないのだ、と思って、涙が止まりませんでした。 

 45年前、先生に初めてお会し、弟子入りさせていただいてより、これまでずっと、先生は、私が困って先生に相談すると、いつも、にこやかな笑顔で迎えてくださいました。そして、『納君、それこうしたらいいんじゃないかな』とか、『そうね、私だったこうするけどね』とか、愛情あふれる言葉で、導いてくださいました。先生のお言葉を聞くと、私は、いつも、自信をもってその方向に進んで行くことが出来ました。先生は、私にとって、暖かい道しるべの太陽のような存在でした。先生は、もちろん、私だけでなく、先生と袖触れ合った全ての人に、分け隔てなく、愛情を注いでくださいました。これまで先生が歩んでこられたあらゆるところで、先生をお慕いする人々の輪が必ず出来てきたのは、とても自然な成り行きだったと思います。

 先生を慕う輪の中からとても多くの人材が輩出しました。先生は人育ての名人でありました。

 先生は、人育てだけでなく、世の中を変えることにも積極的で、火中の栗を拾う様な難しい課題であった水俣病の抜本的な解決のためにも、あるいは又、臓器移植の是非、介護保険制度の創設など社会的問題にも全力で取り組まれました。

 先生は、奥様と、弘さんと厚子さんという、すばらしい家族に囲まれておられました。そのすばらしい奥様を17年前に亡くされてより、一人暮らしを続けておられましたが、『納君、料理が大分うまくなったよ。コンビニにも自分で買い物に行くけど、結構楽しいものだよ。』と私に話してくださいましたね。

 先生は、私たち後進にとりましては生き方のモデルであり、困ったときの精神的支えでありましたので、今の私たちの虚脱感は言葉に表せないほど大きなものがあります。これからは、『先生だったら、こういう時はどうされるだろう?』、と考えながら歩んで行こうと思います。

先生、これまで、本当に有難うございました。

どうぞ、ごゆっくりお休みください。

平成28年10月29日  納 光弘
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この合同葬の後、名古屋国際空港に向かう途中、井形弘さんと柿沼厚子さん(長女)の案内で、高徳院に寄り、井形先生と奥様のお墓詣りをさせてもらっいました。

この高徳院のご住職の湯川博英様は井形先生とご親交が深く、お墓の後方に見える赤い塔は井形先生が塔の完成を喜ばれた経緯もあることから、この塔にはご住職様のご配慮で井形先生の分骨も収められていると井形弘様から伺いました。

また、この写真の桜も、ご住職様のご配慮で 『井形さくら』と命名される予定だとのお話も井形弘様から伺いました。

この桜が満開になる時期のお墓参りを、いつの日か実現したいと思うことでした。