思うこと 第304話   2015年8月9日(日) 記

若者に伝えたいこと 
[その2]
 一期一会

 皆さんに伝えたい次のテーマは『一期一会(いちごいちえ)』です。
一期一会とは、茶道に由来する言葉で、茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味します。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切にしましょう」という意味でも使われています。

 出会えば良いのではなく、出会いの意義が分ることが大事なのです。このことを、私に教えて下さったのは山村雄一先生でした。

 山村先生に初めてお会いしたのは九州大学医学部に入学して間もない時でした。 山村先生は大阪の刀根山病院から若くして九州大学医学部生化学教室の教授として招聘された方です。箱崎の医学部キャンパスから遠く離れた六本松キャンパスに単身乗り込んで来られ、辻説法で医学進学過程の学生を集め、熱い講義をシリーズでしてくださったのです。私を含めその講義に感動した幾人かの学生達は山村先生の門をたたき、生化学の教えを請うたのです。残念ながら、それからすぐに先生は大阪大学第3内科の教授に招聘され、九大を去られましたが、その後、医学部学部長、そして学長として大阪大学に飛躍的発展をもたらしたのでした。山村先生は、1990年、72歳で惜しまれつつがんで亡くなられました。
 山村先生を慕う私たち教え子は定期的に先生をお呼びして、博多の料亭で「山村先生を囲む会」を開催していたのですが、逝去の3カ月前にもその宴があり、その時、忘れられない出来事が起こったのでした。 いつもは宴の最初から最後までニコニコと私たちの話を聞いて過ごされるのが常であった先生が、この夜は突然立ち上がり、直立不動でお話を始めました。『よく、“出会いの大切さ”について語る人がいるが、出会えばいいというものではない。私の人生にとって、赤堀四郎先生との出会いは私の人生を決める出会いであった。しかし、当時、毎日大勢の人が赤堀四郎先生に会っているわけで私だけが出会ったわけではない。いいかい、出会ったとき、この人との出会いがすばらしい出会いであると感じ、さらに深く飛び込んだ私も偉かったのであり、これこそが大事なんだ。いいか、肝に銘じてほしい』と、一気にお話になって座られました。私はその言葉に、雷(いかずち)に打たれた思いがしました。私が、人との出会いについて、おぼろげに感じていたことを明快に表現されたからです。そして、それが先生が私たちに最後に残そうとした言葉であったと後にわかり、感銘はひとしお大きくなったのです。


 日野原先生との出会いは、医学部を卒業して4年目の時でした。
もう九州大学には戻らないつもりでECFMG(米国レジデント留学資格)を取得して医局を飛び出した折に、8ヵ月の期限付きでシニアレジデントとして拾ってもらいました。下の写真は現在の聖路加病院ですが、当時の建物で今も残っているのは1970年と丸で囲ったチャペルだけです。

 私は、日野原先生の患者さんとの接し方や医療人を育てる教育のすばらしさにカルチャーショクともいえる感動で日々を過ごしました。日野原先生の一言一句を忘れないうちにメモに取り、そのメモ帳が4冊の膨大なものになりました。

日野原先生も、一途な私を気に入ってくださったのか、『今日、家に飯を食べにおいで』と声をかけていただき、奥様の手作りの料理を御馳走になったことも幾度かありました。

日野原先生とのお付き合いはその後も続き、私が65歳で定年退職の時には、退職記念市民公開講座に駆け付けてくださいました。
その講演会の時、5年後に100歳になった時には、鹿児島に来ますと話され、そして、お約束通りに駆け付けて下さったのです。

その時も、1時間の講演の間中、舞台で立ちっぱなしで熱く語ってくださいました。
先生は、今、103歳になられましたが、元気で世界中を飛び回っておられます。
私は、日野原先生から、人生をいかに生きてゆくべきかの教訓を学び続けてきました。
この、上の写真の座長を務めていただいたのが、これからお話する私の人生の最大の恩師の井形昭弘先生です。




先生に初めてお会いしたのは、昭和46年で、旧鹿児島大学病院(堀の向こうに写っている白い4階建てのビル:今は九州医療センターが建っている)に於いてでした。 井形先生は42歳の若さで、鹿児島大学第3内科の初代教授として東京大学神経内科から招聘されました。私は、思いもかけない縁で、御赴任直後の井形先生にお会いしました。新任の井形教授に用意されていた教室の全てが次の写真でお示しするプレハブの半分で、2階に教授室と医局、一階に実験室がありました。

私は井形先生にお会いして、お話を聞き、この方こそが私が身も心も捧げるべき方であることを直感し、その場で弟子入りをお願いしたのでした。

何より感動したのは、先生の次の言葉でした。

入局して間もない時、厚生省は井形先生が鹿児島に赴任された機会をとらえて、加治木にあった国立療養所南九州病院に筋ジストロフィー病棟(40床2病棟、計80床)の設置を決めたのでした。

井形先生の『誰か行くことを希望する人いませんか?』の問いかけに、真っ先に手を挙げ、そして、病棟主任件神経内科部長として赴任したのでした。

ここでの筋萎縮症の患者さん達との出会いが私のその後の運命を決める出会いとなりました。

当時はまだ原因も不明で、治療法も不十分でした。次第に全身の筋肉が委縮してゆく患者さん達を見守る中で、そしてまた、『私は生まれてから一度も走ったことがない、一度でいいから走ってみたい』という少年の切なる願い聞くにつれ、私は『神経難病の解明に一生取り組むことを決意し、その思いを抱き続けてその後の人生を過ごし、そして、73歳の今もその思いを持ち続けているのです。

その後の歩みは、次の[その3]以降でお話しします。