思うこと 第302話   2015年1月14日(火) 記

島津義弘公が初陣で初勝利した岩剣城は、何と、蔵王岳であった!


 NHKの黒田官兵衛の大河ドラマの影響で、島津義弘公の伝記小説を読んだ。

 著者の徳永真一郎氏の見事な描写に圧倒され、一気に読み終えた。

 この本の初めの第1章は、島津義弘公が20歳(当時は島津又四郎忠平と呼ばれていた)の時、岩剣城を陥落させ勝利に導いた義弘公の初陣のことが書かれていた。岩剣城の当時の様子を下図に示すが、

城は標高150メートルの岩剣山の頂上にあり、東、西、北の3面は、刀身のように削られた断崖になっており、難攻不落と考えられていた。この岩剣城を攻めている島津勢に対して、祁答院と蒲生の連合軍約2千余騎の援軍が攻めてきたので、それを迎え撃つ戦いこそが、岩剣城攻めの最大の山場となった戦いである。これを迎え撃つ任務を帯びたのが1千騎にみたない手勢しか与えられていない又四郎の軍勢であった。又四郎はこの戦いで敵軍を殲滅させ、島津勢は岩剣城を陥落させたのであった。
戦いの後、総大将の島津貴久(又四郎の父)が『このたびの合戦は、又四郎が第一の功労者で会った』とほめたのに対し、『戦いに勝ったのは鳥銃(当時、鉄砲のことを鳥銃とよんでいた)があったからにございます。30丁の鳥銃が、1千の兵に相当します。』と答えたのであった。鉄砲使用の歴史では、織田信長が長篠の合戦で用いたのが、あまりに有名であるが、じっさいは、これより20年前に、島津義弘公が使っていたというわけである。この岩剣城合戦の勝利が、島津勢が薩摩と大隅全土を制圧する口火となったのである。

 ところで、私が岩剣城に関して最も感動したのは、私が天然岩絵具群青で初めて桜島夜景の日本画を書いた『蔵王岳と桜島夜景』(日本画第5作目)ならびに、『蔵王岳と雪の桜島』(日本画第8作目)の前景としてそびえたつ山である蔵王岳こそは岩剣城そのものであったことを、知ったからである。ちなみに、上記の絵との比較の為、後者の絵を下に示す。

なお、この蔵王岳は鹿児島空港から鹿児島に向かう際に、九州高速道が加治木インターで大きくカーブする角に見える目立つ山であり、その地図を示す。