思うこと 第245話 2007年8月23日 記
平家落人・奄美統治の跡を訪ねて−その7(最終回)−
平家落人・奄美統治の跡を訪ねてのシリーズは、今回をもって、とりあえず一休みして、今後、時間をかけて、腰をすえて取り組み、新たな事が明らかになり次第、追記してゆく予定である。
今回は、大野照好博士が『かごしま戸口会誌』(平成15年11月発行)に寄稿された文(27ページから28ページまで)を全文紹介する。大野照好博士(下写真)は戸口出身の方で、
日本で初めて、小学校教師が理学博士になったことで40年前にマスコミに取り上げられた方である。博士の一生を出水沢藍子氏が著した本(下写真)が平成14年に高城書房から出版されている。私は、先生の生き様に感動しながら、一気に読ましていただいた。
大野照好博士はとても真摯な科学者で、その先生が書かれた文だけに、推測を排除した、極めて実証的な記載となっている。行盛居城跡のボーリング(トレンチ)調査の結果についても触れられている。
理解を高めるために城跡の図を再掲する。
では、その全文を紹介しよう。
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戸口城跡 理学博士 大野照好
平凡社1997年発行の日本歴史地名大系47(鹿児島の地名)によると、グスク跡。フーグスク(大城)という。大美川と戸口川の河口で、太平洋に続く戸口港を南に見る中戸口集落背後の標高25メートルを最高点とする台地先端を主として築かれた。北西から南東に延びる台地で、北側のみ地続きのためササントと呼ばれる野首に堀切があったが、今はない。
平坦面は南北200メートル、東西150メートルで、東の部分は聖地とされて森が残っていたが、今は耕地になっている。全域とも長年耕地として使用され曲輪の確認ができないが、石積みが残り、昭和44年(1969)に2本のトレンチを入れた調査で、柱穴、空堀跡、青磁片、白磁片、南蛮陶磁片、カムィヤキ壷片、木片、籾殻、洪武通宝などが出土した。青磁の変遷から12世紀に築かれ、13世紀半ばに大火があったがすぐに回復し、15世紀半ばに再度大火で放棄されたと推定される。なお、650メートル南東に松当城跡(まつんと城)、800メートル南に古見城跡、650メートル南西に屋勝城跡がある。当地はヒラキ山と呼ばれ、グスクのあと聖地となり、それが畑に造成されたとみられる。集落住民の避難先でもあったが、輸入陶磁器も多く、施設も立派で、有力な領主の存在が想定される。
戸口集落は、大美川と戸口川の合流域にあり、すぐ南東は河口となっている。南島雑話によれば、戸口村から名瀬勝村へ越える坂は難所であった。地名はト(海)クチ(口)であろうという。下戸口のヒラキ山遺跡では、7〜8世紀の中国の青磁、白磁や須恵器破片、11〜12世紀にかけての青磁、白磁の破片や琉球焼破片などが出土しており、中国または琉球との交流が想定される。
源平合戦に敗れた平家の落人が喜界島から大島に渡海したと伝え、平資盛は諸鈍を拠点に東間切、屋喜内間切、平有盛は浦上を拠点に名瀬間切、住用間切をおさえたという。行盛は当地に城を築き、不従のものを討ったと伝えられる。(安永二年「1773」平家没落由来記 奄美大島史)
行盛の廟所もまた当地にあり、その霊廟が行盛宮で、2月、8月の初丙の日にノロクメによって祭事が行われ、村中でミキをこしらえて家ごとに奉納してきた(大島私考)。正保琉球国絵図に『古見間切之内とくち村』と見え、ほぼ川沿いに諸村と結ぶ道が記され、当村の河口は船かかりは不便ながら湊の機能があったらしい。