思うこと 第244話     2007年8月22日 記         

平家落人・奄美統治の跡を訪ねて−その6−

先回、『平家落人・奄美統治の跡を訪ねては−その5−』では、昇 曙夢氏著の『大奄美史』を通して、『平家没落由来書』の内容を紹介したが、今回は、文(かざり)英吉著の『奄美大島物語』の内容からその重要部分(55頁から79頁が平家に関する記載で、その中から抜粋)を紹介する。といっても、昇 曙夢氏著の『大奄美史』と同じく、記述の元になっているものは、薩南硫黄島の『旧記三所大権現鎮座本記』と、『平家没落由来書』の2つで、これに、口碑、伝説、遺跡等で補うという形であるので、昇 曙夢氏著の『大奄美史』とかなりの部分で重複している。ただ、文(かざり)英吉著の『奄美大島物語』では、島唄の内容や、口碑、伝説、遺跡の記載が実に細やかになされている。ここでは、重複部分は全て省略し、これまで紹介しなかった幾つかの余話にしぼって紹介する。
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余話−その1−
 行盛卿の若君と今井権太夫にまつわる一篇の哀話がある、それは遠見番の今井権太夫は徒然の余り、山より下りて安木屋場の海辺に石で垣を廻らして魚をあさることを工夫し、獲物の多いときは有盛、行盛の居城に贈ったりなどしてすごしていた。戸口の行盛に一曹司があったが度々これの見物に出かけた。ところが、戸口と安木屋場との中間に浦という部落があり、そこの一人の目ま美しい娘と知り合って深い恋に陥った。或日、今井権太夫の許に行っての帰りに「無事」の報告を託されたが、若君は浦に立ち寄って数日をすごし、報告を怠った。戸口の居城では、7日毎に滞りなく来た報告が途絶えたばかりでなく、若君の帰城もないので、てっきり敵が攻め入って、今井も若君も殺されたに相違ないと大騒動になった。これを聞いた今井権太夫は責任を感じて屠腹し、若君も罪は自分にあるとして父上へのお詫びに腹掻き切って果てた。一方娘は二人の愛の結晶である抱いて戸口の居城に面会に赴いたら思いがけなくも、愛人はすでにこの世の人ではなかった。事情を聞いて娘は慟哭した、事の起こりは自分にある、また、愛人を失って何の生き甲斐あろうと、かねて形見に貰ってあった短刀で無心に微笑んでいる嬰児を刺し殺し、自らは墓の近くの松の木に縊れて愛人と愛児の後を追った。この松は「戸口の平松」と称えて民謡にうたわれ、物語に語られて永く人々の涙を誘うている。

余話−その2−
 沖永良部方面の事跡を見るに、有盛の子孫に後蘭孫八なる者あり、武術に長じ特に築城に非凡の才を有したという。事あって沖永良部に下って同地の世の主に仕え、その子孫繁盛して大家役百戸の長(ヒヤー)等の重職に」ついたとの系図記録が存している。
 伝える所によれば、世の主は最初沖永良部の王城フバジョに館を構え、孫八は内城の要害に堅固な城を構えていたという。然るに世の主羨望の念禁ずるに能わず、しばしば譲渡方を要求したので、孫八、己が居城を世の主に献上し、自らは後蘭の地形に着目して、ここに築城して本拠を構えたという。
 筆者も、かって後蘭の城跡に足を運んで昔を偲んだことがあるが、同地の地形たる東西南北給料に囲まれたる盆地で、一面の沼地をなし中央を流るる川を堰き止むれば、東、西、北は満々たる塩水に満たされ、南西だけを防備すれば足るという難攻不落の自然の要害で、流石に築城専門家孫八の居城を選定する宜なりと思ったのであった。その後、明治以前までは、子孫代々その広壮なる居城後に住し、島の支配階級として重きをなしていたのである。
 それから、資盛の子孫は南大島瀬戸内方面に栄え、その末裔は旧家操家が著名である。

余話−その3−
 桓武天皇の出であり、最高の文化人である平家一族、資盛、有盛、行盛三卿他四百数十名が、この孤島に落ち延びて余生を送り、骨をこの地に埋めたということは、奄美大島史の上に特筆大書さるべき事件であらねばならなかった。まず、それらの人々によって血の交流が行われたことである。周囲と交渉の薄い孤島にありては、得て同族結婚が行われて民族素質の低下衰退をきたす恐れがあるが、それを調節救済した所謂優生学上の問題であり、次は文化的影響である。当時の絢爛たる大和文化(言語、和歌、文学等)が平家一門によって移入され培養され一新紀元を画したであろうことである。特に先にも述べた如く、和歌や音楽をよくした一門が昨日までの勢力争覇の夢から禅脱して身を清明の境地におき、純朴な島民を指導教化しつつ静かな余生を送ったであろうことは想像に難くない。
 奄美大島は、言葉の宝庫と言われ日本においてすでに死語となった古代和詞が多く日常語や、歌言葉に生きて使われており、特に平安期から鎌倉時代にかけての言葉が豊かに保存されている。
 この地の民謡は最も特色的なものの一つで、その形式内容から言って民謡と言うよりは和歌に近い。民謡歌詞の底を流るる人生感、曲の持つ哀調等など、総じて詠嘆的であるのも孤島と言う地理的環境もさることながら、平家の人生感の影響を受けたであろうことを吾々は信ぜずにはおれない。

余話−その4−
 重野安繹博士と西郷南洲先生の平家感について述べてみたい。博士は江戸において塾生の罪を買って死罪の判決を受けたのを死一等を減ぜられて、奄美大島に流罪の身となり八年間配所の月を眺められたのであった。
 ところが、その逆境を活用して平家南走の史跡を研究せられ、その動かすべからざる史実たることを確認して、天下に公表されたのであった。博士は抹殺博士の名あり、児島高徳の存在を初め多くの歴史を虚構なりとして抹殺されたので有名であるが、その博士が太鼓判を押して平家の南島落ちを証明されたのであるから、大いに信頼して可なりであろう。
 龍郷の西郷先生また深く平家を尊崇し、浦上部落を通過される際には、必ず馬を下りて恭しく有盛神社を礼拝されたという。これはかねて重野博士(当時孝之丞)の説を聞きそれを信じておられたればこそと思うものである。私共幼少の頃、有盛神社に菊之助の署名入りの素晴らしい馬の墨繪の篇額の掲げられてあるのを見た覚えがあるが、西郷先生の繪は他に例がないと聞いている。その一事によっても先生がいかに平家に傾倒しておられたかが察しられる。
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以上、文(かざり)英吉著の『奄美大島物語』の内容の一部を紹介した。次回、行盛居城跡のボーリング調査の結果を紹介したい。